追い越せない ── ミラノの女王は、FIAT500に乗っている

車を運転していて、前の一台が、どうしても追い越せない。 道は狭いし、対向車は来るし、脇には車がびっしり停まっている。 後ろには、じりじりと車列。心の中で「頼む、どいてくれ……」とつぶやく。 ——この感覚、運転する方なら、うんうん、と頷いてもらえるはず。
ミラノでも、僕は何度も、その状況に置かれた。 ただ、日本と少し違ったのは、僕の前をゆく一台の、正体だった。
FIAT500(チンクエチェント)。 手のひらに乗りそうなくらい小さくて、まるっこくて、プップッと軽い音を立てて走る、あの国民的な名車だ。
そのハンドルを握っていたのは、白髪の老婆だった。 座席から、髪のてっぺんだけが、ちょこんと覗いている。 両手でしっかりハンドルを握り、まわりの喧噪など、どこ吹く風。 自分のペースで、堂々と、道のど真ん中を進んでいく。
後ろで何台がクラクションを鳴らそうと、動じない。 そもそも、追い越させる気が、まったくない。 狭い石畳の道に、追い越せる隙間なんて、はなから存在しないのだ。
僕はあきらめて、彼女の後ろ姿について行くことにした。 不思議なもので、しばらくすると、イライラがすうっと消えていった。
そうか。 この街では、急ぐ方が、負けなのだ。 小さな名車に乗った小さな老婆が、大の男が運転する車を、堂々と従えている。 その姿は、なんだか、王さまの行列みたいだった。しかも小回りすぎて自分のアルファ(ロメオ)では抜くに抜けない。
いまでも思い出す。 ミラノの狭い路地の、本当の主(ぬし)は、あの白髪の老婆と、彼女の愛したFIAT500だったのかもしれない。
明日は、スーパーのレジで「日本には、こんな機械ないでしょ?」と、自慢げに話す店員の話を。
