私のルーツをたどる旅 ~島津家とともにあった、名もなき家の物語~
はじめに|なぜ今、家のルーツを書き残すのか
私はこれまで、自分のルーツについて深く考えることはあまりありませんでした。
しかし、大好きな祖母が大切に残してくれた家系譜を読み解くうちに、これは単なる「先祖の記録」ではなく、
時代に翻弄されながらも懸命に生きた人々の
語り継ぐべき物語だなと思うようになりました。
この物語を私の内に留めるのではなく、
これから生きる私たちの子や孫や、たまたまこの記事を読んでくださった方が、
「私の先祖が力強く生きた証」や「命の連鎖の尊さ」
を感じ取ってもらえたら嬉しいです。

導入|戦国時代の島津家
家系譜は戦国時代から始まります。
先祖の歴史を紐解くために、薩摩の地を約800年に渡って統治してきた島津家の歴史の理解が欠かせません。
戦国時代の島津家で欠かせない人物が、
島津宗家第15代当主・島津貴久 [1514〜1571年]です。
貴久には、のちに「島津四兄弟」と呼ばれる四人の息子がいました。
島津義久(長男) [1533〜1611年] 第16代当主
島津義弘(次男) [1535〜1619年] 第17代当主
島津歳久(三男) [1537〜1592年]
島津家久(四男) [1547〜1587年]
この四兄弟は、それぞれが武将として非凡な才を発揮し、兄弟が一体となって薩摩・大隅・日向(※現在の宮崎県)を制圧し、戦国時代に島津家の名を全国に轟かせました。
のちに関ヶ原の戦い[1600年]で
次男・義弘が島津軍総大将として西軍に参戦。
四男・家久の子で、義弘の甥である豊久 [1570〜1600年]は、総崩れした西軍から義弘を逃すべく、東軍の敵中突破を敢行し捨て身の戦略で命を賭けて島津家を存続させたという壮絶な話も、
私のルーツを語る上で欠くことのできない物語の一部です。
私の先祖は、そんな四男・家久とその息子・豊久に代々仕え、忠誠を誓った譜代騎馬役の家臣でした。

島津家久、そして家臣たちの物語へ
島津家久は、
第15代島津宗家当主・島津貴久の四男であり、
義久・義弘・歳久と並んで「島津四兄弟」と称された戦国武将の一人です。
家久は、勇猛さで知られる兄たちとはやや異なり、
柔軟な発想と行動力を備えた人物でした。
海外事情や新しい文化にも関心を示し、
同時に、家臣一人ひとりの働きをよく見ていた主君でもあったと伝えられています。
高城の戦い(※重要な戦として後述)をはじめとする実戦の中で、
武功を挙げた家臣に対してはその功績を正当に評価し、
名字を与えるなど、家中での立場を明確にする采配も行いました。
家久のもとで仕えた家臣たちは、
単なる兵ではなく、「主とともに戦う存在」として遇されていたのです。
その中の一人が、
家久に仕え、高城の戦いなどで武功を挙げた家臣であり、私のご先祖である
永山大炊右衛門盛信(ながやま・おおいのうえもん・もりのぶ)です。
高城の戦いと肥後家の誕生
高城の戦いは、一般的に「耳川の戦い」とも呼ばれ、
天正6年(1578年)、日向国の高城(現在の宮崎県新富町)で行われた合戦です。
高城をめぐり大友宗麟氏(現在の大分県を拠点とした戦国大名)と攻防し、その後の耳川での大友氏の敗走を含めた一連の戦いを指します。
この戦いは、島津家の命運を大きく左右した、極めて重要な一戦でした。

(出典:https://ameblo.jp/mrekitan/entry-12856414111.html)
当時、九州では北部を勢力下に置く大友氏が強大な軍事力を誇っており、
その当主であった大友宗麟は、
数万ともいわれる大軍を率いて日向へ侵攻します。
その狙いが、高城でした。
これに対し迎え撃ったのが、
島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟です。
島津家にとって高城は、
日向防衛の要であると同時に、
九州南部の支配を左右する戦略拠点でした。
島津軍は、数で大きく劣りながらも、
地形を活かした戦術と統率の取れた動きで大友軍を迎え撃ち、
結果としてこの大軍を打ち破ることに成功します。
この勝利によって、
島津四兄弟の名は九州一円に知れ渡り、
島津家は一躍、九州最強の戦国大名として認識されるようになりました。
島津家は、その後わずか10年足らずの間に九州各地へ勢力を拡大。
特に、沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信氏を討つなど、九州統一を目前にまで迫りました。

(出典:https://h-voyage.net/archives/dosetsu16.html)
先の高城の戦いや沖田畷の戦いにおいて、
主君・島津家久に従い、前線で戦った家臣の一人が、
私の先祖である永山大炊右衛門盛信(ながやま・おおいのうえもん・もりのぶ)です。
盛信は、激戦の中で勇敢に戦い、
敵陣に忍び込んで強敵を討ち取るなど、
目覚ましい働きを見せたと伝えられています。
家系譜には高城の戦いについて、以下のように書かれています。
相良善兵衛と大炊右衛門、その他3人が話し合いをして、夜中に敵陣に忍び込み、翌朝強敵2名を討ち取った。このうち1名は大炊右衛門が一人で討ち取った。この場所は谷底であったため、味方の陣からよく見え、家久も大炊右衛門の活躍をご覧になっていた。その後、敵陣を退いてから褒美をもらった。この時、肥後の名字を名乗るよう家久から命じられた。
高城の戦いが終わり、陣を引いた後、
家久は盛信(もりのぶ)の武功を高く評価しました。
そして、単なる褒美にとどまらず、
「肥後」の姓を名乗ることを許すという、
特別な処遇を与えられたのです。
戦国時代において、
名字を与えられる、ということは、
主君から「家を興す資格」を認められたことを意味します。
それは、一代限りの功績ではなく、
その家が子孫にわたって存続することを許された証でもありました。
このとき授けられた「肥後」の姓は、
盛信一代で終わるものではなく、
その息子、肥後十内・勘内の兄弟へと受け継がれ、肥後家の物語は
朝鮮出兵や関ヶ原の戦いへと続いていきます。
豊臣秀吉の来襲〜九州平定〜
島津氏は「残すは大友氏」と言わんばかりに、九州統一をめざして北上します。
九州統一ほぼ目前のところまで突き進んでいたのです。

(出典:https://ameblo.jp/mrekitan/entry-12856414111.html)
これに困ったのが大友宗麟。
もはや単体で島津軍の勢いを止めることができないと判断し、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉を頼ることを決意します。
これに対し、
秀吉は天正13年(1585年)10月、
島津氏と大友氏に停戦を命じます。
同年7月に関白に就任していた秀吉は、
朝廷の権威を利用して九州での戦を止めようとしたのでした。
これに対し、大友宗麟はもちろん従いますが、
戦の上で優位にあった島津義久は命令に従わず、
秀吉に「大友氏が攻めてきたから攻め返したまで」と弁明。
島津義久はその後の交渉も拒否し、
大友氏への攻撃を再開しました。
秀吉は、停戦命令に背いたとして
島津討伐を決定。
これがいわゆる
豊臣秀吉の九州平定と呼ばれています。
島津軍は、
毛利軍(中国地方の武将)からなる第一陣を退陣に追い込み、
毛利軍に加え長宗我部軍・仙石軍(四国地方の武将)が加わった第二陣も撃退。
遂に、天正15年(1587年)
豊臣秀吉自ら出陣し、全国から約20万の軍勢とともに九州に進軍します。

(出典:https://articles.mapple.net/bk/21193/?pg=2)
島津軍は各地で抗戦しながらも次第に劣勢となり、
最終的には秀吉に臣従する道を選びます。
この決断によって島津家は滅亡を免れ、新たに勝ち取った領地を没収されたものの、
薩摩・大隅・日向の地は安堵されることになります。
戦国の世を生き抜くために、
力で押し切る術だけでなく、
時代の流れを受け入れる選択をした瞬間でした。
以後、島津家は豊臣政権下の大名として、
全国的な政局と深く関わっていくことになります。
そしてその流れの中で、
島津家久の子である島津豊久、
さらにそのもとで仕えた肥後十内・勘内もまた、
豊臣秀吉の命による朝鮮出兵 へと向かい、
やがて関ヶ原の戦いという
新たな歴史の大舞台に立つことになるのです。
島津豊久のもとで ― 朝鮮出兵と関ヶ原を戦った十内・勘内
文禄元年(1592年)、
豊臣秀吉の命により始まった 朝鮮出兵 において、
義弘率いる島津軍として豊久も渡海し前線で戦いました。
十内はその供として従軍し、
弟の勘内もまた、やがて豊久の近くに仕えるようになります。
豊久は比類なき武勇を示し、
そのもとで十内・勘内も敵と刃を交え、
実戦の中で鍛えられていきます。
特に勘内は戦場での働きを豊久から認められ、
近侍(きんじ)として最後まで仕え続けたと伝えられています。

(出典:https://mitsusima.jugem.jp/?eid=1450#gsc.tab=0)
朝鮮出兵から帰国後も、
兄弟は引き続き豊久に従い、
島津家のために戦い続けました。
そして慶長5年(1600年)、
時代の行方を決定づける
関ヶ原の戦い が起こります。
島津軍は西軍として参戦。
総大将は島津義弘。
その甥である豊久もまた前線に立ちました。
十内と勘内は、この関ヶ原の地においても豊久に従い、鉄砲が飛び交う混乱の中で命を懸けて戦います。
やがて戦況は不利となり、
島津軍は退却を余儀なくされました。
その際、豊久は叔父であり総大将の義弘を薩摩へ帰すため、
自らが 敵中突破のしんがりを務め、後方部隊が全滅するまで敵をくい止める【捨て奸(すてがまり)】戦法で、命を賭けて義弘を救ったのです。
この壮絶な撤退戦は、のちに
『島津の退き口(のきぐち)』として多くの武将の記憶に刻まれ、長く語り継がれることになります。

(出典:https://busho.fun/person/yoshihiro-shimadzu)
※島津豊久は31歳の若さで壮絶な最期を遂げ、忠義と潔さのある勇猛な武将として知られ、漫画の主人公やゲームのキャラクターとしても人気です。

十内と勘内は混乱の中を生き延びましたが、
霧深くなった戦場で豊久を見失い、
その後、豊久が関ヶ原の地で戦死した ことを知ります。
朝鮮の地から関ヶ原まで、
常に最前線で仕えた主君を失った悲しみは、
計り知れないものだったはずです。
それでも兄弟は、
生き残った者として家名を守り、次の世代へとつないでいく道を選びました。
朝鮮出兵と関ヶ原という2つの大戦をくぐり抜けた経験は、大きな精神的支えとなっていったのだと思います。
関ヶ原の戦い後、佐土原から永吉へ
関ヶ原の戦いの後、
島津家は西軍として参戦した立場だったために、
家名存続をかけた重要な局面を迎えました。
このとき、島津家当主であった 義久、
関ヶ原を生き延びた総大将・義弘、
そして義弘の息子(三男)で、のちに第18代当主となる島津忠恒 らが中心となり、
徳川政権下での処遇を固めるために尽力しました。
その結果、島津家は改易(領地没収)を免れ、
本領安堵が約束されることとなります。
これは、島津家が戦国の世から江戸の世へと移行するための、極めて重要な転換点でした。
肥後十内・勘内は、関ヶ原を生き延びた後、
まず一度、かつて家久・豊久 が治めていた
日向・佐土原(現宮崎市北部)へと帰還します。

(出典:https://4travel.jp/travelogue/10822538)
家久と豊久が拠点とした佐土原は、
単なる領地ではなく、
彼らと家臣たちが長年にわたって
政治と軍事の両面を支えてきた大切な土地でした。
しかし、関ヶ原の戦いから2〜5年のうちに、
島津家中では家臣団の再編と配置替えが本格化していきました。
家久・豊久に仕えた家臣たちは薩摩本国である日置郡永吉(現鹿児島県日置市吹上町永吉)の地へと移り永吉島津家として再興することになります。
十内と勘内もまたその一員として永吉へ移ります。

江戸から明治へ、西郷隆盛と肥後清一郎
佐土原から薩摩本国・日置郡永吉へと移った十内・勘内の家は、
以後この地に根を下ろし、永吉島津家の家臣として奉公を続けていきました。
戦国の最前線で命を懸けた時代は終わり、
家を守り、次の世代へ渡すことが、
新たな時代の使命となっていきました。
やがて幕末から明治へと時代が移る中で、
肥後家から現れたのが 肥後清一郎 [1859〜1936年]です。
(私の祖母・肥後恭子の祖父にあたる人物)
清一郎は 西郷隆盛 に共鳴し、
西南戦争(1877年)の際、西郷に加担した罪として除族の上、懲役2年刑を受けることになります。
東京監獄に服役し、東京帝国大学建設の整地や紙漉(かみすき)などの労務を行ったそうです。
刑を終えて永吉へ戻ると、
やがて 旧永吉村(現鹿児島県日置市吹上町永吉)の村長に推され、5期17年 に渡って村長を歴任します。
植林や産業振興など、村の基盤づくりに力を尽くします。
戦国を生き延び、譜代騎馬役として家を守り続けた十内・勘内から、
時代の激変を背負いながら村を導いた清一郎へ、
肥後家の命が繋がってきました。
(肥後清一郎は、のちに肥後十内と名を改めている)
私のばあちゃん・肥後恭子
大正8年[1919年]に
私の母方の祖母・肥後恭子が生まれます。
今回の物語が書かれた家系譜を、
誰よりも大切に守ってきたのが
私の母方の祖母・肥後恭子です。
私は幼い頃から、
祖母にとても可愛がってもらいました。
とにかく優しく、芯の強い人でした。
80代になっても自転車を乗りこなし、
いつもアイスクリームと絵本を買ってきてくれた孫思いの祖母のことが、私は今でも大好きです。

戦争を生き延びた祖母の強さ
祖母は太平洋戦争を経験しています。
戦時中、祖母は
満州・奉天(現在の中国・瀋陽)にあった
日満商事という会社で働いていました。

(出典:https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/warmuseum/10/)

(出典:https://withnews.jp/article/f0210924001qq000000000000000W0h710101qq000023631A)
終戦間近、偶然の巡り合わせで鹿児島に帰ってきており、満州から帰国できない事態は免れました。
しかし鹿児島では、幾度となく空襲に遭っています。
空襲警報が鳴り「外へ出るな」と言われたビルが空爆に遭ったとき、
祖母は直感で咄嗟に建物を抜け出し、命拾いをしました。
また、防空壕に逃げ込もうとした際、
2つの防空壕は満杯で入れず、
ようやく3つ目に入ることができたそうです。
入れなかった2つの防空壕は空襲で焼かれ、
中にいた人は皆亡くなったと聞いています。

(出典:https://x.com/hwtnv/status/1008090631544008704)
祖母は"絶対に戦争はしちゃいかんよ"と何度も話してくれました。
命こそ救われたものの、
家族や友人、多くの大切なものを失った悲しみは計り知れないものだったと思います。
思い出したくないこともあったとは思いますが、平和が続くことを願い、私たちに戦争の悲惨さを伝えてくれました。
24歳で終戦を迎えた祖母は、
長男・耕を出産。
29歳になった1949年12月に
私の母・みずえ(旧姓:一万田)を出産し、
その後次男・泰司を出産し、
3人の子を育てました。
満州から運良く帰郷し、
鹿児島大空襲の火の海を必死に生き抜き、
母を産み命のバトンを繋いでくれた祖母に、
心から感謝します。
そして、
新地家の三男として私を生んでくれた父と母に、
切磋琢磨しいつも支えてくれる2人の兄に、
日々懸命に苦楽を共にしてくれる妻と息子に、
心から感謝します。
本当にありがとう。

最期まで「もっと生きたい」と言った祖母
祖母の命日は2017年12月30日、
98歳まで力強く生きました。
私はちょうど東京から帰省していたタイミングで、
私は祖母の手を握りしめながら、最期を看取ることができました。
最期まで強く握り返してくれていた感触は今でも覚えています。
「もっと生きたい」と語っていた祖母の強さを
その手に感じることができました。
お通夜・告別式には家族みんな参列することができました。
祖母は、年末の家族の帰りを辛抱強く待ってくれていたのかもしれません。
最期まで祖母は、
本当に、強く優しい人でした。

いまの時代を、どう生きるか
こうして家系譜をたどり、
ご先祖の人生を振り返ってみると、
改めて思います。
私たちは、多くの偶然と、数えきれない選択の積み重ねの上に、いまを生きているのだと。
戦国の世を生き延びた盛信と十内・勘内。
江戸から明治の混乱の中で一度はすべてを失いながら、再び立ち上がり、村を導いた清一郎。
そして、戦争の火の海を生き抜き、
命のバトンを私たちへつないでくれた祖母・恭子。
彼らは皆、
その時代その時代で、
「どう生きるか」を必死に考え、
進むべき道を選び続けてきた人たちでした。
その道は、
多くの犠牲になった命や
その先の生まれてくるはずだった命の上に成り立ってきた道であることもまた忘れてはならないと思っています。
祖母はよく言っていました。
「絶対に戦争はしちゃいかんよ」と。
それは単なる過去の体験談ではなく、
命の重さを知る人の、切実な願いだったのだと思います。
便利で、豊かで、
一見すると平和に見えるこの時代でも、
私たちは日々、選択を迫られています。
誰かを思いやるか、
見て見ぬふりをするか。
短期的な利益を取るか、
次の世代に何を残すか。
家系譜をここまで整理し、
書き残そうと思ったのは、
ご先祖がそれぞれの時代を懸命に生きた事実を、
「いま、自分がどう生きるか」を考える軸として、
受け取りたかったからなのかもしれません。
祖母が大切に守ってきたこの家系譜は、
血のつながり以上に、
生き方のつながりを私に教えてくれました。
これから先、
どんな時代が訪れるのかは分かりませんが、
命をつなぎ、人を大切にし、
次の世代に何かを手渡すのか、
その生き方をこれからも繋いでいきたい思います。
最後までお読み頂き、
ありがとうございました。

