見出し画像

「見て見ぬふりをする社会」から「だれもがリーダー」へ|2026年6月14日 第7回公開シンポジウム「新学問のすゝめ」と私―

――『新学問のすゝめ』と私

2026年6月14日、慶應義塾大学三田キャンパスで、第7回「新学問のすゝめ」公開シンポジウムが開かれました。今回のテーマは「『新学問のすゝめ』と私」。福沢諭吉が説いた「学問」の精神が、時代を超えて、わたしたち一人ひとりの暮らしや仕事、そして思索とどのようにつながっているのか――そうした問いを、それぞれの立場から語り合う場でした。

シンポジウムには参加できませんでしたが、このnoteで発表する機会をいただきました。

今回のシンポジウムの問いに、2001年に書いた一本の論文から、いま開発を続けている「自分アジェンダ®」というプログラムまで、自分のささやかな歩みをもってお応えしたいと思います。その歩みは、ずっと福沢の『学問のすゝめ』と同じ方向を向いていたのかもしれない――そんなふうに感じているからです。

専門的な話ではありません。一人の人間が、なぜこんなことを四半世紀も続けてきたのか。その「見えない動機」のようなものを、お話ししてみたいと思います。


2001年、「企業家とクレディビリティ」――何も持たなくても、価値は創れる

わたしが大学院で取り組んだ研究のひとつに、「企業家とクレディビリティ」(慶應経営論集 第18巻第2号、2001年)という論文があります。テーマは、「なぜ、ある企業家は成功するのか」というシンプルな問いでした。

シリコンバレーの投資家たちは、口をそろえてこう言います。「結局は、企業家の人間的魅力に賭ける」。どんなに立派な事業計画があっても、それだけでは「絵に描いた餅」にすぎません。その夢を現実に変えられると信じさせる「何か」――それをわたしは「クレディビリティ」と呼び、研究の中心に据えました。

クレディビリティとは、すこし噛みくだいて言えば、「この人になら、資源を預けてもいい」と周囲に感じさせる信頼の力のことです。お金や人材や情報を提供する側(資源提供者)が、見返りに「何を、どれだけ、どのくらいの確率で得られるか」を判断するときの、いちばん奥にある基準。それがクレディビリティだと考えました。

この研究を通じて、わたしがいちばん希望を感じたのは、

クレディビリティのある人は、たとえ何の資源を持っていなくても、自分自身だけを資源にして価値を創り出し、社会の資源を引き寄せることができる――。お金も、肩書きも、後ろ盾もない。それでも、その人「だけ」のもの、たとえば誠実さや専門性や、人とのつながりが、新しい価値を生む起点になりうる、

という発見です。

そしてクレディビリティが高い人ほど、より多くの資源を引き寄せ、それがさらにクレディビリティを高めていく。そんな「好循環」が生まれることも見えてきました。これは企業家に限った話ではなく、もしかしたら、すべての人に当てはまる普遍的な仕組みなのではないか。当時、そう考え始めていました。


エンロン事件と「見て見ぬふりをする社会」――なにかがおかしい

ところが、ちょうどこの研究をまとめていた2001年、世界では大きな事件が起きていました。エンロン事件です。巨大企業が、巧妙な会計操作によって「信頼」を演出し、多くの人々を欺いていたことが明るみに出ました。

わたしは、複雑な気持ちになりました。わたしが「希望」として描いたクレディビリティの力は、使い方を誤れば、人を欺いたり傷つけたりする道具にもなりうる。信頼を「演出」して資源を集め、その内実が空っぽだったとしたら――。クレディビリティという力は、いったい「何のために」「どこに向かって」使われるべきなのか。その問いが、研究のあとも、ずっと残りました。

それから10年ほどのち、マーガレット・ヘファーナンの『見て見ぬふりをする社会』(仁木めぐみ訳、河出書房新社、2011年)という本に出会いました。タイトルを見た瞬間、あ、これが漠然と感じていたことだ、と思いました。

現代社会では、「数字」がやたらと重視されます。他より多く稼ぎ、他社より大きくなり、他人よりいい学校へ――。いつも他と比べ、勝つか負けるかを意識する。社会全体が苦しくなると、奪い合いになり、うそをついてでも、他をだましてでも、自分さえよければいい、自分さえ生きられればいい、という空気が広がります。そして、おかしいと気づいていながら、だれもが口をつぐむ。「見て見ぬふり」をする社会です。

「なにかがおかしい……」。その感覚は、おそらく多くの方が、いまも日々感じていらっしゃるのではないでしょうか。バスや電車の広告には、不眠やうつ、心の不調を扱うクリニックの宣伝が目立つようになりました。元気のない人が、確かに増えているように思うのです。


「存在層の欲求」として書いた自分アジェンダ®

わたしは、自分の研究で見つけたクレディビリティの「希望」の部分を、なんとか「善き方向」へ向けられないか、と考えるようになりました。これは、頭で「やるべきだ」と判断したというより、もっと深いところから湧いてくる衝動でした。

人が何かに取り組むとき、その意欲には深さの層があると考えています。目に見えてやっている「行動層」、損得で合理的に判断する「判断層」、好きだからやる「感情層」、そして、理由はうまく言葉にできないけれど、内から湧き上がり、自分の存在がそれを求めている「存在層」。いちばん深いこの存在層の欲求こそ、困難があっても続けられる本当の燃料になります。

クレディビリティの研究を「善き目標」へとつなぎ直したい――それは、わたしにとって、まさに存在層から「やらずにはいられない」と突き動かされることでした。そうして辿り着いたのが、「自分アジェンダ®」という考え方です。

21世紀は、「見えない時代」だと感じています。20世紀の右肩上がりの時代には、目標は上から与えられ、指示に従っていれば、そこそこ生きていかれました。けれど今は、人間社会も自然も異常事態が続き、何をどうすればいいのか、だれも導いてはくれません。だからこそ、一人ひとりが、はっきりした目標ではなくとも、自分が信じる「善き未来」としての漠然とした方向性――「アジェンダ」――を掲げ、小さくても「動き」を創り出していく必要があるのではないか。そう考えています。

その出発点になるのが、「限定的な自分」から「内包的な自分」への意識の転換です。自分と他を切り離し、「利益は外から奪うもの」と考えるのが「限定的な自分」。一方、他人や環境の痛みを自分の痛みとして感じ、「他に役立つことは、巡り巡って自分の幸せにつながる」と考えるのが「内包的な自分」です。後者の意識に立つと、奪い合うよりも分け合うほうが、結局は自分も満たされる、という景色が見えてきます。

そして、自分アジェンダ®には、困った状況を自力で解いていくための、実践的な4つのステップがあります。①「わたしが○○である状態」という方向性イメージを思い描く、②周囲360度から支援を探す、③相手が「ほしい」と感じる自分の資源(パワー)を選んで使う、④効果がなければ別の方法を試す試行錯誤を繰り返す(リーダーシップを繰り返す)。この繰り返しそのものが、「あきらめない」ということになります。

クレディビリティの研究が「企業家は、自分だけを資源に価値を創れる」と示したのなら、自分アジェンダ®は、それを「だれもが」できることとして、ふつうに生きる一人ひとりに開いていく試みだと言えるかもしれません。


福沢諭吉とわたし――「外の壁」から「内の壁」へ

ここで、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に立ち返ってみたいと思います。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。あまりにも有名なこの一節に続けて、福沢は、それでも現実には人に賢愚や貧富の差が生まれる、その違いは「学ぶか学ばないか」によるのだ、と説きました。福沢が重んじたのは、日々の暮らしに役立つ「実学」です。学ぶことによって人は「独立自尊」を得る。そして「一身独立して一国独立す」――一人ひとりが独立してこそ、国も独立する、と。

福沢の生きた明治の時代、人々の独立を阻んでいた壁は、多くが「外」にありました。生まれによって人生が決まってしまう門閥制度、貧しさ、学ぶ機会そのものの乏しさ。学問は、こうした「外の壁」から人々を解き放つ力でした。

では、21世紀のわたしたちはどうでしょうか。福沢の時代に比べれば、外の壁はずいぶん低くなりました。けれど、その代わりのように、新しい種類の不自由が立ち現れているように思うのです。それは、「内の壁」です。

「どう評価されるか」「結果はどうなるか」ばかりを気にして萎縮してしまう。「自分なんて」「どうせ無理だ」と、自分で自分の可能性を狭めてしまう。これを、自分アジェンダ®では「限定的な自分」という罠と呼んでいます。外の壁が見えにくくなった分、わたしたちは、自分の内側にある思い込みの壁に、いつのまにか閉じ込められているのではないでしょうか。

だとすれば、いま必要な「学問」とは、この「内の壁」から人を解き放つ実学なのかもしれません。一人ひとりが、評価や他人の目に縛られず、自分の存在層から「善き目標」を掲げ、小さな動きを起こせる主体になっていく。それは、福沢のいう「独立自尊」を、現代のかたちで言い直したものではないかと思うのです。わたしが自分アジェンダ®に込めたかったのは、そういう願いでした。これが、わたしなりの、ささやかな「新・学問のすゝめ」なのかもしれません。


この40年、SL理論®とともに

もうひとつ、お話ししておきたいことがあります。わたしは40年近く、「状況対応リーダーシップ®(SL理論®)」という、行動科学にもとづくリーダーシップの考え方を仕事としてきました。

SL理論®の核心は、相手のタスクごとの能力と意欲(レディネス=準備状態)を見極め、それに応じて関わり方を変える、という点にあります。そして大切にしているのが、「成功するリーダーシップ」と「効果的なリーダーシップ」の違いです。強制によって人を動かしても、それは成功しているように見えて、効果的ではありません。相手が自分から動くようになって、はじめて効果的だと言えるのです。

この考え方と、自分アジェンダ®は、深いところでつながっていると感じています。自分アジェンダ®が、内側から湧く「善き目標」と動機の深さ(存在層)を見つける手助けをするのなら、SL理論®は、その目標へ向かって、自分や周囲の人をどう支え、励ましていくか――その具体的な方法を与えてくれます。さらに、当事者が自分の状況に責任をもって支援を引き出していく「SLテイキングチャージ」という考え方は、まさに「自分が動くことで状況を変える」という自分アジェンダ®の精神そのものです。

いまわたしは、この40年のSL理論®の蓄積の上に、自分アジェンダ®のプログラムを少しずつ開発し、社会のなかで実践的に活用していこうとしています。理屈だけでは人は動きません。日々の困りごと――職場での行き違い、世代間のすれ違い、なぜ優秀な人ほど辞めていくのか――そうした切実な場面で、ほんの少しでも役に立つ「実学」にしたい。それが、いまのわたしの取り組みです。


たったひとりの、小さな動き

ここまでお話ししてきたわたしの取り組みは、世界から見れば、たったひとりの、ごく小さな動きにすぎません。

けれど、自分アジェンダ®という考え方そのものが、こう教えてくれます。小さくてもいいから「動き」を創り出すこと。そして、他に役立つことをすれば、それはすぐにではなくとも、巡り巡って自分に返ってくること。福沢もまた、「一身の独立」という、一人の足元から始めました。

一人ひとりが、内側の壁から自分を解き放ち、それぞれの「善き目標」を小さく掲げて動き始めたら。「見て見ぬふりをする社会」は、少しずつ、「だれもがリーダー」の社会へと変わっていけるのではないでしょうか。だれかが弱っているときには、別のだれかがそっとフォローする。いつもだれかがアイディアを出し、だれかが率先して動く。そんな、力強くて明るい社会へ。

このnoteを書くことも、わたしにとっては、ひとつの「動き」であり、試行錯誤の途中です。これが、わたし自身の「自分アジェンダ®」であり、わたしなりの『新・学問のすゝめ』への応答なのだと思っています。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。


※SL理論®および状況対応リーダーシップ®はCLS (Center for Leadership Studies) 社の登録商標です。自分アジェンダ®はリーダーシップ研究アカデミーが管理する登録商標です。

#新学問のすゝめ #学問のすゝめ #福沢諭吉 #慶應義塾大学 #シンポジウム #自分アジェンダ #状況対応リーダーシップ #SL理論 #リーダーシップ #クレディビリティ #見えない時代 #だれもがリーダー #内包的な自分 #生涯学習


いいなと思ったら応援しよう!

新学問のすゝめ推進会議 よろしければサポートをお願いします。いただいたサポート費は、今後の活動に使わせていただきます。 よろしくお願いします。