ブラック企業が退職代行を違法と突っぱねる口実を与えてしまった
“モームリ報道”が開いたパンドラの箱——非弁行為報道と退職自由の逆説
退職代行のパイオニア「モームリ」が非弁行為の疑いで家宅捜索を受けた。
この報道は、単なる一企業や一法的事件の問題にとどまらない。むしろ、労働者と企業、自由と支配、そして法と倫理の境界線を問い直す鏡として現代社会を映し出している。制度と個人、法と情動、その緊張関係がここに露わになった。
核心はこうだ。「非弁」と「非正当化」の混同。この混同こそが、労働の自由を再び制度の檻に閉じ込めようとする力の根源である。
「非弁行為」とは、弁護士でない者が報酬を得て法律事務を行うことを禁じたものであり、法律的代理や交渉行為を担うことがその範囲に含まれる。つまり、退職代行業者が“代理交渉”を行えば弁護士法違反の疑いが生じ得る。しかし、ここで見落としてはならないのは、その行為の「違法性」と、労働者本人の「退職意思の有効性」は全く別の概念であるという点だ。法的構造の中でこの二つを意図的に結びつけようとする動きが、いま社会的に進行している。
報道を受け、多くの企業担当者が退職代行からの通知を“無効”とみなす風潮が生まれそうだ。あるいは、そう「装う」ことで、退職を拒絶する口実を得ようとする。
すなわち、「退職代行が違法である=退職が成立しない」という誤った論理。法的リテラシーの欠如というよりも、むしろ意図的な制度利用による支配の温存である。これこそが日本社会の根深い構造的問題だ。
ここに現れるのは、モラルの反転構造である。違法性を指摘する側こそが、倫理的には非難されるべき支配を続けているという逆説。形式的な合法の言葉が、現実の不正義を覆い隠す。この国では、制度の側に立つ者が「正義」を名乗り、声を上げる者が「違法」とされる。モームリ報道は、その構図を見事に照射している。
ブラック体質の企業ほど、このニュースを「防波堤」として利用するだろう。「我々は違法行為を容認しない」と言いながら、実際には「辞めたい」という個人の声を封じる。その瞬間、法は倫理から切り離され、支配の正当化ツールへと転化する。これが日本型法治の最大の危機である。法秩序の本旨は、弱者を守ることにあったはずだ。だが、合法/非合法の線引きが目的化したとき、秩序は逆に抑圧の装置に変貌する。
退職代行という仕組みは、単なる“代行サービス”ではなかった。それは、声を上げられない労働者の代弁であり、沈黙の中で紡がれた抵抗の形式である。退職代行の利用者の多くは、暴力や恫喝、精神的圧迫といった環境下にいる。彼らは「辞めます」と言う自由さえ奪われているのだ。その声を代理する機構が“非弁”として排除されるならば、社会は再び沈黙を選ぶだろう。それは法治ではなく、服従を強いる形式主義社会の到来に他ならない。
モームリ報道が社会に与えた衝撃は、単なる一事件の枠を超えている。退職代行業界全体が「法の名のもとに存在できるか」を問われると同時に、労働者の自由が「どのように定義されるか」を再考させているのだ。つまり問われているのは、「非弁行為の有無」ではなく、“労働者の退職自由を、誰が、どの名義で制限するのか”という根源的な問いだ。
司法、報道、企業、労働者。この四者がそれぞれの言葉を持たずに反応的に振る舞う限り、問題は繰り返されるだろう。退職自由の概念を奪う者は、明示的な暴力ではなく、制度的沈黙を武器にする。社会は今、法の正義と倫理の正義、そのいずれを取るのかという選択を迫られている。
モームリ報道が投げた石は、小さな波紋では終わらない。労働の尊厳をめぐる社会的議論の転換点として記憶されるだろう。もし社会がこの事件を“非弁の問題”としてのみ消費するなら、それは再び声を失った人々の上に秩序を築く行為に等しい。だがもし、この波紋を通して“退職の自由”という根源的価値が再確認されるならば、そこに初めて日本社会の成熟が見える。
問いは続く。誰のための法なのか。何のための秩序なのか。「もう無理」と言える自由を守ることこそが、真の法治国家の姿である。
