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イマーシブフォート東京とハイパーリアリティ

清水真木の著書『新・風景論 ― 哲学的考察』を読み進める傍ら、ふと、ある現代的な光景が脳裏をかすめる。それは「イマーシブ・フォート東京」というテーマパークの存在だ。

清水はこの本の中で、風景とは「地平(ホライズン)であったもの」であると定義する。意識が主題として把握していない背景領域が、突然、前景に浮かび上がる瞬間こそが「風景に出会う」ことだという。翻って、記号として整備された「和風テーマパーク」のような環境を、彼は真の風景体験を閉ざす「閉じた庭」として批判する。その批判の射程は、旧ヴィーナスフォートの廃骸に中世ヨーロッパの記号を纏わせたイマーシブ・フォート東京にも、容赦なく届く。

しかし、一歩引いてこの世界を眺めたとき、私たちはさらに奇妙な事実に突き当たる。この世界そのものが、すでにイマーシブ・フォート東京を凌駕する、圧倒的な「ハイパーリアリティ(超現実)」の舞台と化しているのではないか、ということだ。

ウクライナ、ロシア、中東、そして超大国による紛争。それらは今やSNSのフィードを通じてリアルタイムで流れ込む。しかし、それらは編集され、字幕を付けられ、感情的な音楽とともに届く「コンテンツ」だ。現実の出来事がコンテンツとして精製される瞬間、ボードリヤールが喝破した通り、モデルが現実に先行する時代が完成する。

街を歩けば、無数のスマートフォンという名の監視カメラがこちらを向いている。フーコーのパノプティコン(一望監視施設)は少数が多数を監視したが、今は誰もが誰もを監視し、審判にかける「シノプティコン」の時代だ。

撮影され、切り取られ、晒される不確実性こそが、最も強力な規律の装置として機能している。炎上の脚本、SNSの連帯、これらはすべてイマーシブ・シアターの演者と同じ論理で動いている。ただし、そこには退場ボタンがない。

これはマトリョーシカのような、果てしない入れ子構造である。地球規模の巨大な劇場の中に、私たちはわざわざ金を払い、管理された小さな劇場を建てる。自宅の中に小さな人形の家を作って遊ぶ子供のように、私たちは現実という耐えがたい「超・没入型」の舞台から逃れるために、より安全で安価な「没入」を求めているに過ぎない。

ここで映画『トゥルーマン・ショー』の予言を思い出す。主人公トゥルーマンは生まれた瞬間から巨大なドームの中で生かされていたが、彼を縛っていたのは鎖ではなく「恐怖の設計」と「演出された日常」だった。私たちの状況もまた、これと重なる。SNSの使用やニュースの消費を強制されてはいないが、アルゴリズムは人類が数万年かけて進化させた本能(怒りや不安)を精密にハックし、私たちをこの劇場に繋ぎ止めている。

清水真木の言葉に戻れば、すべてがあらかじめ主題化(コンテンツ化)された世界では、背景として静かに機能する「地平」は消滅する。戦争も、隣人も、自分自身も、すべてがカメラ越しの撮影対象となったとき、人間はどこに存在の根拠を持てるのか。

映画のクライマックスでトゥルーマンが放った別れの挨拶――「おはよう、こんにちは、おやすみなさい」――とともにドアを開けて出ていったあの行為の重量を、私たちはまだ受け取れていない。

出口は「扉」という物理的な形ではなく、「まなざし」として存在するのではないか。システムへの完全な脱出が不可能だとしても、劇場の中で、この劇場を「劇場」として相対化するまなざしを持ったとき、人間はある種の自由を手にする。

イマーシブ・フォート東京は2026年2月をもって閉館した。しかし、私たちが生きるこの巨大な劇場に閉館時間はなく、チケットの有効期限もない。生きている限り、私たちはこの「超現実」に参加し続ける。

だとすれば、問いはこう変わる。「どう脱出するか」ではなく「この劇場の中で、いかにして自らの地平を持ち続けるか」。

現実は小説より奇なり、という言葉はもう古い。現実が小説(システム)の論理で動くようになってしまった時代において、私たちは、地平線の向こう側に描かれた偽の空を見上げながら、それでもなお「風景」と呼べる真実の欠片を、自らの身体感覚を通して手繰り寄せなければならないのだ。

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