重力と引力 #41(完結) |回廊Ⅳ 引力10:未来への逃避と、ありたい自分
私は自席のPCを開き、明日の役員会に提出するための進捗報告書を開いた。 そして、マウスを握る指先の微かな震えを意志で押さえ込みながら、すべてのステータスを「順調」を示す鮮やかな緑色で塗りつぶしていく。
カチッ、カチッ。
無機質なクリック音が、誰もいないフロアに響く。かつての私が、波風を立てないためだけに塗っていた「嘘の緑」ではない。これは、彼らが明日もノイズに邪魔されず、自分たちの信じるコードに没頭するための結界を維持し、無菌室からの重力を弾き返すための「武器としての緑」だ。
だが、その一色を塗るごとに、胃の奥が焼けるような酸に浸される感覚がある。正しさを切り捨て、泥沼の底で「共犯」を選んだ代償が、鈍い痛みとなって身体の内側を蝕んでいた。
ファイルを保存し、システムの電源を落とす。 小さな電子音とともに画面の光が消えた瞬間、漆黒のガラス面に一人の男の顔が浮かび上がった。
徹夜の疲労で肌はくすみ、目の下には濃い隈が張り付いている。 そこに映っているのは、組織の理不尽にすり減った「可哀想な被害者」の顔ではない。
それは、かつての私が「あんな大人にはなりたくない」と唾を吐きかけた、あの管理職の顔そのものだった。
目的のために嘘を重ね、裏で手を回し、清濁併せ呑んで盤面を動かす。かつて自分が最も軽蔑し、憎んでいたはずの姿に、私は今、最も近づいている。 喉の奥には、昨夜から消えない鉄の味がこびりついている。白と黒の境界を捨て、グレーの領域に踏みとどまることは、これほどまでに息苦しく、醜いものだったのか。
だが、私はその鏡像から目を逸らさなかった。この醜さこそが、現場に「呼吸ができる空間」を確保したことの、何よりの証左なのだから。
「……お先に失礼します」
フロアの奥から、残務を終えた二人のエンジニアが声をかけてきた。
ザッ、ザッ、と。 静まり返ったオフィスに、カーペットを踏みしめる彼らの足音が響く。 それは、数日前までの床を力なく引きずるような幽霊の足音ではない。自らの手で重いコードを切り裂き、システムに命を吹き込んだ、力強い生身の人間の足音だった。
私が汚濁を飲み込み、この場の淀んだ空気を無理やり書き換えた代償に、彼らの奥底に眠っていた熱が、今、確かな鼓動となってフロアを震わせている。この力強い足音こそが、私がついた嘘を真実へと変えていく、彼ら自身の答えだった。
私は彼らに向かって「よく守ってやった」などという安い感傷は一切抱かない。ただ、小さく手を挙げてそれに応えた。私たちは、泥沼の底で手を結んだ共犯者なのだ。
静寂が戻ったフロアで、私は、この暗いモニターの向こう側にいる「あなた」のことを考える。 序章で、善良な顔をして部下を殺しているのではないかと問われた、あなただ。
「いつか自分が偉くなったら、誰も苦しまない、みんなで成功できる理想のチームを作ろう」
あなたは今、日々の理不尽に耐えながら、そんなふうに自分を慰めていないだろうか。 もしそうなら、その甘く残酷な「未来への逃避」を、今すぐ捨てるべきだ。
会社という巨大なシステムが放つ重力は、永遠に変わらない。 あなたが課長になろうが、部長になろうが、無菌室からの理不尽な要求や、部署間のエゴの衝突は、形を変えて明日の朝も必ず降り注いでくる。完璧な環境など、どこまで昇っても用意されてはいない。
だからこそ、綺麗な計画書で自分を守るのをやめろ。 組織のせいにして、自己犠牲の涙に酔うのをやめろ。
今すぐ、あなた自身が泥の中に飛び込め。 相手の虚栄心でも予算でも、使える手札はすべて使い倒し、矛盾の海で血の通った意思決定をしろ。「全体最適」という名の、強引で高潔なワガママを貫き通せ。
組織は変わらない。だが、あなたが圧倒的な当事者意識で世界をスライドさせたとき、その純粋な熱は必ず周囲に伝播し、現場の景色を変える。
未来を待つな。 ありたい自分に、今なれ。
(了)
