重力と引力 #37 |回廊Ⅳ 引力6:捨てる勇気と、戦友の誕生
「……本当に、消していいんですね」
若手リーダーの声は、最終確認というより、私の覚悟の底を覗き込んでいるようだった。 「これを消せば、本部長の手柄どころの話じゃなくなりますよ。社長肝いりのプロジェクトを勝手に消去したとなれば、あなたは確実に首が飛ぶ」
「構わない。消せ」 私は一秒の逡巡もなく答えた。
「誰も使っていない見栄えだけのグラフに、システムの心臓を明け渡す義理はない。我々の限られたリソースは、今動かさなければならないコアの安定だけに集中させる」
波風を立てまいと、すべての要件を真面目に満たそうとするのは、単なる思考停止に過ぎない。無菌室の住人たちの顔色を窺い、不要な過去の遺産まで背負い込んで共倒れするくらいなら、最も価値のある一点を守るために、他を冷酷に切り捨てる。
「……了解しました」 若手リーダーの口元に、ふっと微かな笑みが浮かんだ。 それは、理不尽な重力に押し潰されていた被害者の顔ではない。自らの手で不要なものを破壊し、システムをあるべき姿へと組み直そうとする、誇り高き当事者の顔だった。
彼はターミナルに向き直り、躊躇なく削除コマンドを打ち込んだ。
ターン。
乾いたエンターキーの音が、ひっそりとした昼のフロアに響き渡る。 画面上のプログレスバーが走り、上層部が数年をかけて愛玩してきた巨大なレガシー機能が、跡形もなくシステムから削ぎ落とされていく。
数秒の空白の後、限界を突破していたメモリ使用率のグラフが急激に降下した。真っ赤に明滅していた監視ウィンドウに、安定を示す緑色の波形が静かに、そして力強く刻まれ始める。
「旧モジュールのパージ、完了。……デッドロック解除。コアのバイパス処理、完全に安定しました」 若手エンジニアの掠れた声に、隠しきれない熱が混じっていた。
私は小さく息を吐き、締め付けられていたネクタイを少し緩めた。 これで、言い逃れのできない明確な反逆のトリガーを引いてしまった。数時間後、あるいは数十分後には、この「切断」に気づいた上層部からの凄まじい報復(重力)が私たちを襲うだろう。
だが、不思議と恐怖はなかった。 胃の奥にあるのは、かつてのような鉛の重さではなく、自分たちが信じる仮説を貫き、システムの息の根を繋いだという、確かな熱量だけだ。
「ここから先は時間との勝負だ。彼らがこの異変に気づいて怒鳴り込んでくる前に、この緑の波形を盤石に固定しろ」 「はい!」
二人の声が重なる。 猛烈な速度で打鍵を再開した彼らの背中に、もう私に対する不信や諦めは微塵もない。 理不尽な組織の重力に抗い、痛みを伴う決断を共有したこの瞬間、私たちは同じ泥沼の底で背中を預け合う、本当の戦友になっていた。
(引力7へ続く)
