蛙の鳴く夜に
やっぱりあれは雨蛙だろうか。静かな夜をそっと、さりげなく盛り上げてくれる蛙たちの鳴き声。僕は、君たちのおかげで落ち着いて眠ることができるのだ。もしも僕が、蛙語をはなせるなら、今からでもこの窓を放ち、大声で叫ぶのに。きっと人と蛙の間には、見えない境界線があるのだろ。パントマイムの見えない障壁のように。君たちのさりげなく上げる手は、僕に僅かな期待を持たせて間もなく、肉球が張る。
一度止まっては鳴き出す君たちは、鈴虫のように規則性があるようにも感じる。誰かが鳴いたら誰かが鳴いて、誰かが鳴き止むとまた誰かも鳴き止む。そうしてはお互いの顔をじっと見合ってにんまり微笑み、頷きあうのかもしれない。しかしその非言語的コミュニケーションは僕には全く通じないのだ。悲しきことに君たちとの文化圏は違う。雨露に輝く花さえ美しいと思うが、僕自体はそんなに長いこと雨にあたっていたくはないし、その後の服の始末を考えたらどこか軒下で雨宿りをしてやり過ごしたい。君たちは、君たちはその潤う気のない皮膚にくるまれて何を思う?そのうちかえる。それが君たちの答えなら尚相容れないが、うらやましくは思うのだ。
僕はこうして思考にかまけて思考に入り浸っては幸せを感じる。体言止めはきらいだし、仮定しか受け付けない。けれど君は「かえる」(田舎の蛙は「けぇる」)きっぱりと自分の時間を生きることに迷わない。蛙様、どうすれば僕もそうなれますか?「げこ」
いや、…酒は断てない。
そうするともう蛙は背を向けて傘をさす。ネクタイを触ってくいくいっと上げてはお会計を払い振り向くことなく帰路につく。僕はその背中を見ながら「また来てくださいね、きっと、きっとですよ」と伝えることしかできない。蛙は帰って眠るのだろう。そこにはなんの抵抗とてないのだ、私は蛙、蛙の中の一蛙だ、それ以上でなければそれ以下でもない。蛙を全うする、私の思う、蛙を全うする。逆にそうしない意味が分からない。どこかの蛙が夜中鳴こうが私はしらない。私は寝る。朝が来たら起きる。雨が降れば鳴く。そこに意味はない。しかし充実感はある。
僕は思う。僕は人間だ、お酒が好きで夜は嫌い。けれど蛙様が鳴いてくれるから眠りにつくことができる。夢の中でもあなたはいますが、いつも背を向けて酒を飲んでいる。口を開くのはマスターに声をかけるときだけ。お決まりの曲をかけてはハミングする。僕が気を引こうとふざけて輪唱しても我関せずを通す。しかし僕が声をかければ彼は振り向き、その会話を続けてくれる。「私は会話は好きだ」蛙様はいう。けれど今までで一度も、蛙様の方から僕に声をかけてくれたことはない。それに対して勇気をもって問いかけたことがあった。すると彼は即答した「規則でね、輪唱しかできない」それではあなた、人間の主観に沿っているだけではないですか?と僕はここぞとばかりに問い返すが、蛙様はきっぱり「反論は受け付けない」と答えて、またマスターの方を向いてしまう。「モヒートを頼む」
僕はまだたくさん質問したいことがあった。蛙様はいつもモヒートしか飲まない、その理由も知りたいし、カウンターが半分以上埋まっている時はドアを開けて確認しただけで去って行ってしまう理由も知りたい。そのことをマスターから聞いてしまおうかと試みたこともあった。もちろん蛙様がいないときに。
「ねぇマスター、なんでtu0tq0qo-はモヒートしか頼まないの?」
マスターは僕の方をちらっとみては意味深に笑う。そして「それは、内緒だ」とだけ答える。内緒か。ということはマスターはきっとその理由を知っているのだろうな、と分かる。いや、もしかしたら僕が知らないだけで、僕以外の常連はみんなその秘密を知っているのかもしれない。いつも金曜日の夜9時3分きっかりにくる通称くみちゃんもそういえば、この間意味深なことを言っていた。
「ケロちゃんはね、優しいんだよ」
そういいながらくみちゃんは、自慢の長い髪をなでている。時々ちらっとこちらを見る視線はやはりマスターと同じで、何か隠していることがはっきりと見て取れた。そして
「いつかわかるよ」
そういうと会計をして帰って行った。このバーに通う人はみんながみんな個人の時間を大切にしていた。例え偶然顔なじみの客が鉢合せ、話が弾んでも、みんないつもの自分が帰る時間になると「じゃぁ」といって去っていく。僕がカウンター越しにマスターに「こういう時ぐらい、みんなで遅くまで飲んでもいいのにねぇ」と少し愚痴っぽく言うと、やっぱり「それは、内緒だ」としか答えない。若干会話もかみ合ってないことを薄々感じながらもそれが故意かもしれないと思うと怖くて、それ以上聞く気にはなれなかった。
「マスター。お会計。」
「はい」
夏の深夜の飲み屋街は、どこからともなくもやっとした独特の匂いが漂った。僕自身もエアコンの効いたバーから出た途端、じわっと汗が流れたのが分かった。かえってシャワーを浴びて寝よう。明日も仕事だ。そういいながら心地のいい酔いに任せ鼻歌を歌いながら帰路についた。
蛙様は今頃布団の中でぐっすりかな?なんて想像しながら帰路につく。少し町を外れると広い田園がたちまち夜を埋め尽くす。反射した星が地上を埋め尽くす。今夜も蛙が鳴いている。
僕はスキップしながら、家に帰る。
