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その思い込みを解体せよ:トリスタン・ツァラ、ダダイストの生涯【文章版】


チューリッヒ・ダダ(DADAの誕生)

翻訳するとこんな感じ。

吼えろほえろ吼えろほえろと、読まれるためではなく実際に聴衆へ向け、吠えるために書かれた宣言文の一部です。今回はかくの如く表現形式を破りに破いて破きまくった史上最大の「反芸術」運動、DADAについて見ていきます。

DADAとは何とも強烈な響きですが、一体いつどこでどのように生まれたのか。ひとまず第一次世界大戦中の1916年2月、ドイツの反戦詩人フーゴ・バルが、スイスのチューリッヒにおいて「キャバレー・ヴォルテール」をオープンしたところから話を始めましょう(宣言集p233-234他)。

ちなみにキャバレーとはもともと舞台のある酒場を意味したらしく、お客さんは飲み食いしながら音楽や寸劇などのショーを楽しんだのだそうです。歴史上最も有名なキャバレーはパリの「ムーラン・ルージュ」でしょうね。画家のロートレックがここに通い詰め、ポスターを含む数々の名作を遺しています。

戦時下に話を戻しますと、スイスは永世中立国ですから、合法的に兵役を免れられるため、当時のチューリッヒにはヨーロッパ中から雑多な人たちが集まっていました。例えば後にロシア革命を先導するレーニンや、後に『ユリシーズ』を書き上げるジェイムズ・ジョイスなどですね。フーゴ・バル夫妻による「キャバレー・ヴォルテール」のオープンには様々な境遇の芸術家が関わり、そのグループの中には母国ルーマニアのブカレスト大学からチューリッヒ大学に通い直すためやって来た、トリスタン・ツァラという弱冠二十歳の若者も含まれていました(宣言集p228-234)。今回の主役、DADAの名付け親にして実践者です。

「キャバレー・ヴォルテール」がオープンした三日後――1916年2月8日、トリスタン・ツァラは川沿いにあった「テラス」というカフェにて、フランス出身の画家であり彫刻家のジャン・アルプと、ドイツ出身の医者であり詩人のリヒャルト・ヒュルゼンベックと談笑中、ペーパーナイフを徒にフランス語辞書に差し込み「DADA」という単語を見付けます。「玩具の木馬」や「お気に入りの話題」を意味するこの言葉を彼は気に入り、連日連夜の乱痴気騒ぎの名前にしようと提案した、というのが定説になっているのですが。

ツァラの宣言集を翻訳された塚原史さんは色んなところでこのエピソードを紹介しつつも、実際は違うのではないかと本書の解説にておっしゃっています。ルーマニア語で「ダー」は肯定の意――英語の「YES」に該当するのだそうで、つまるところ「DADA」は「そうそう」という二重肯定になる。ツァラはこの言葉をあらかじめ選んでおいて、この選択に箔を付けるため辞書を用いたのではないか。

実際、最初期のパフォーマンスにおいて「DADA」という言葉は使用されていないのだそうです。フーゴ・バルがキャバレーを開いた3箇月後に1号だけ刊行した、店と同じ名前の雑誌があり、ここに掲載された同時進行詩「ダダ――御者とひばりの対話」にて初めて「DADA」という言葉が登場するのだとか(宣言集p234‐236)。

さらに数箇月後――1916年7月14日にはキャバレーにおける催し物の名前が「ダダの夕べ」となり、ツァラは「ムッシュー・アンチピリンの宣言」などを朗読します(宣言集p238)。「ムッシュー」は英語でいうところの「ミスター」、アンチピリンはツァラが常用していた頭痛薬「アスピリン」のことなのだとか。別に頭の具合についてどうこう宣言しているわけではありません。DADAとは詩や絵画である以前に舞台から客席へ向けて行われるパフォーマンスだったのであり、ツァラはここで自分たちのことを「サーカスの団長」に喩えています(宣言集p17-19)。戦時下の鬱憤を爆発させるサーカスですね。

一九一〇年代から二〇年代にかけて、ヨーロッパとアメリカを中心にしてダダ、未来派、表現主義、構成主義などのさまざまな運動がほとんど同時的に進行したという状況は、現在のわれわれをとりまく状況よりずっと活気にあふれていた。これらの運動は、われわれが想像するよりもはるかに根源的なカタストロフィーの予感として、またみずからを育んだヨーロッパ文明そのものに対するいらだちや拒否として、同一の感情に根ざしているといえるだろう。

塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫 p59)

未来派については、稲垣足穂を動画にした際に触れました。茂田真理子さんの『タルホ/未来派』に詳しいのですが、1909年2月、パリの『フィガロ』紙に掲載されたイタリアの詩人・マリネッティの「未来派創立宣言」を嚆矢とする芸術運動で、機械文明を肯定し、「速度・闘争・騒音」に美を見出すその基本理念は絵画や音楽など、ジャンルを超えて浸透していきます。ひとりでに浸透していったわけではなく、マリネッティが資産を投じて運動のグローバル化に努めたそうで、その一環として催されたイベント「未来派の夕べ」は交流の場として大いに機能し、ここで披露されたパフォーマンスは様々な都市で歓声と怒号をもって迎えられていきました(茂田p30―37)。

しかし第一次世界大戦が始まると、マリネッティは戦争と芸術を直結させ、ファシズムに急接近していきます(茂田p42-47/塚原p46-50)。ムーブメントが収束していったのは言うまでもありませんが、そのプロモーション活動やパフォーマンスを含めて、未来派が後進に与えた影響は決して小さなものではありません。

ツァラなどは宣言文でたびたび否定しながらもモロに当てられた口で、「ダダの夕べ」の初回を成功させた直後には『ムッシュー・アンチピリンの最初の天上冒険』を高校時代の同級生であるマルセル・ヤンコの版画付きで刊行し、二十歳にしてチューリッヒ・ダダの中心的存在に成りおおせます(宣言集p238-239/塚原p60)。

バルは一九一七年五月にチューリッヒを去り、私たちの主人公は「ダダ運動」(MOUVEMENT DADA)の代表者として、ヨーロッパ各国の新聞雑誌、詩人やアーティストに精力的に手紙を書いて、ダダの存在をグローバル化していく。(…中略…)ダダをメディア化することで、ツァラはアートが「作品」から「情報」に変貌する最初の企てを、すでに実践していたのだ。塚原史「解説」(塚原史訳 トリスタン・ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』光文社古典新訳文庫 所収 p243‐244)

塚原史「解説」(塚原史訳 トリスタン・ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』光文社古典新訳文庫 所収 p243‐244)

ツァラは「ダダの夕べ」だけでなく、それ以外のイベントをも次々に催しながら、1917年7月に雑誌『DADA』を創刊します。チューリッヒ・ダダが最高潮を迎えるのは1918年7月23日にマイゼ・ホールで開かれた「トリスタン・ツァラの夕べ」で、ツァラはこのとき代表作ともいえる「ダダ宣言1918」を朗読し、12月にはこれを雑誌『DADA3』(『DADA』3号)に収めて、いよいよ国際的な評価を高めていきます。

☞DADAは何も意味しない

トリスタン・ツァラ「ダダ宣言1918」(塚原史訳 光文社古典新訳文庫『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』所収 p25)

というデカデカとした太字の一文が絵文字入りで登場する宣言で、塚原さんはこの一節をDADAの最も重要なメッセージと位置付けています。DADAを自己規定するのではなく、宣言という行為そのものの意義を問い直し、無効化しようとするパフォーマンス――謂わば「反・宣言」だった点で他の文学運動とは一線を画すというんですね(塚原p52‐55、p180‐186他)。言葉の意味作用そのものへの根源的な挑戦は、デュシャンの「泉」――かの有名な便器のコンセプトなどにも派生します(塚原p88/宣言集p217)。

ただ、チューリッヒでの勢いはここまででした。2年余り似たようなことを反復していたわけですから、そのインパクトはすっかり薄れてしまったんですね。ツァラはこの時期、フランス出身の画家フランシス・ピカビアに接近し、雑誌の共同編集などを経て、手紙でパリ来訪の催促を受けるようになります(塚原p62-76)。

もう一人、ツァラのパリ来訪を熱烈に希う文学者がいました。アンドレ・ブルトンです。ブルトンに関しては別の動画で詳しく読み込んでいますので、まだの方は是非ともチェックしてみてください。彼はピカビア経由で入手した『DADA3』を読んで衝撃を受け、ついには阿片によって変死した友人――ジャック・ヴァシェの存在をツァラに重ねるようになります。ツァラへの手紙の中でヴァシェの死に触れているんですね(塚原p68-71)。

ツァラは釣れない態度を取り続けながらも、ブルトン主催の雑誌『文学(リテラチュール)』へ不定期的に寄稿するようになり、パリでの評判を上げていきます。そうこうしながら1919年5月にピカビアとの共同編集で刊行した『DADA4-5』にはブルトンやスーポーだけでなく、あのコクトーやラディゲまでもが寄稿しているというから驚きです(塚原p73-75/宣言集p247-248)。

結果的にはこれがチューリッヒ・ダダの総決算になったので、雑誌を刊行したらあとは何も思い残すことなくパリに行けたはずなんですけど、如何せん先立つもの――お金がなかったそうなんですね。

パリ・ダダ

ピカビアに手紙で経済的な援助を申し出られ、ツァラがパリを訪れるのは翌1920年1月17日のことでした。ピカビアの子どもを産んだばかりの愛人宅へ突然、現れたのだそうです。(塚原p76‐85他)。

 ツァラ到着の数時間後に、ブルトン、スーポー、アラゴン、エリュアールの四人が早速エミール・オージェ通りのアパルトマンに駆けつけた。チューリッヒ・ダダの伝説的リーダーと『文学』グループとの出会いが実現したのである。だが、あれほど到着を待たれていたツァラの現実の姿は、彼らを失望させた。ルーマニアなまりのぎこちないフランス語をしゃべる、おかしな小男――これがダダの英雄について彼らの抱いた第一印象だった。

塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫 p83)

彼等はしかし、間も無くしてパリ・ダダ旋風を巻き起こします。ツァラのセルフプロデュースの才が遺憾なく発揮されたんですね。彼はチューリッヒから持ち込んだ計画通り、矢継ぎ早にイベントを開催し、雑誌『DADA』の続編を6号7号と刊行します(宣言集p249-251)。

フェスティバル・ダダ プログラム

こちらは1920年5月26日にクラシック音楽のコンサートホールとして有名なサル・ガヴォーで開かれた「フェスティヴァル・ダダ」のプログラムです。この夜は或る意味、大盛況でした。

 ダダイストたちの挑発にまんまと乗せられた観客は、舞台からあふれでるナンセンスな言葉の洪水に腹を立てて、生卵やトマトや腐りかけたオレンジをダダイストめがけて投げつけたり、有名な女優のマルト・シュナル(ピカビアと一緒に見物に来ていた)にフランスの国歌のラ・マルセイエーズを歌えとけしかけたりした。第一次世界大戦直後だったこともあって「愛国者」だった彼らは、外国人(ツァラはまだルーマニア国籍だった)に馬鹿にされたと思ったのである。こうして「フェスティヴァル」は大混乱のうちに幕切れとなった。

塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫 p105)

満員の観客席にはアンドレ・ジッドやポール・ヴァレリーの他、当時のフランスを代表する画家や編集者の姿が見られたそうです(塚原p102/宣言集p251-252)。著名人たちの反感を買ったとはいえ、それこそがダダイストの望む反応でもありました。舞城王太郎さんが『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞を受賞した際、審査員の島田雅彦さんが本作について「ブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品」と評しているのですが。ツァラはまさしくこの論理により、24歳にしてパリの有名人になったのでした。

ただパフォーマンス自体はチューリッヒ・ダダの焼き直しであり、戦後の平穏さも手伝って娯楽化するのも速かった。ツァラはブルトンと仲違いし、終生くっ付いたり離れたりを繰り返すライバルのようになっていきます。

塚原さんによりますと1920年7月にブルトンたちの雑誌『文学』に発表した「かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する」という宣言文――動画冒頭で紹介した「吠えろ」を275回繰り返すくだりとともに収められた「作詩法」が悪名を高めるきっかけになったとのことです(宣言集p253)。切り取った新聞記事をバラバラにして袋に入れ、くじ引きよろしく、取り出した順に言葉を並べて一丁上がりという方法を実例付きで提示し、ピカビアの展覧会のオープニングで朗読したというんですね。塚原さんはこの作品を、以下のように評しております。

なるほど、「帽子のなかの言葉」の例としてツァラがあげた新聞記事の切りぬきの寄せ集めはたしかに「読むに耐えない」。しかしこの作詩法はひとつのマニュフェストであって、意味を生産する行為としての言語活動をダダが軽蔑していることを示しさえすればよかったのである。だから、ツァラが本当に新聞とハサミで詩をつくって人びとに読ませようとしたなどと想像してはならない。アラゴンもいうように「これは詩を読むひとに対する挑戦ではなく、詩をつくるひとに対する挑戦」だったのだ。

塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫 p93)

ツァラとブルトンの諍いでとりわけ重要なのは1923年7月6日に開催された「髭の生えた心臓の夕べ」です(塚原p118-125/宣言集p256-257)。ツァラ独自の人脈を駆使したイベントだったのですが、ブルトンたちに押しかけられて劇の上演を妨害されてしまうんですね。巖谷國士さんによりますと、舞台上のピエール・ド・マッソという出演者がステッキで殴られて骨折したのだそうです(『ナジャ』註釈p21‐1)。ツァラはたまらず警察に通報し、それでも退去させられなかったエリュアールに関しては起訴しました。パリ・ダダはここで終わりを告げ、シュルレアリスムに取って代わられることとなります。

 考えてみれば、「何も意味しない」ダダの無意味の祝祭が長続きするはずはなかった。ヨーロッパ中が巨大な墓場と化した大戦争が終わって、戦後社会が(戦勝国では)秩序と安定をめざし始め、あるいは(敗戦国では)新秩序の樹立を標榜する全体主義者の集団が力を増していく過程で、人びとは意識的にせよ無意識的にせよ「意味あるもの」への回帰を求めるようになったといえるだろう。そんな変化を反映するかのように、一九二四年一〇月、ブルトンはパリで『シュルレアリスム宣言』を発表し、自動記述や夢のイメージ化による無意識の探求をめざす新たな運動の公然たる開始を強調したのだった。

塚原史「解説」(塚原史訳 トリスタン・ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』光文社古典新訳文庫 所収 p257‐258)

ブルトンは1928年に上梓した『ナジャ』において、ツァラが警察に通報した日のことを書き付けます。めちゃくちゃ簡単にまとめると「だっせえことしやがって」という内容なのですが、何か思うところがあったのでしょう、ツァラが亡くなった1963年には全面改訂版を発行して該当箇所を削除しております。大人げない態度をとり続けながらも、ツァラの才能と功績の大きさを認めてはいたのでしょう。

DADAの現代性/ツァラの晩年

思考とは哲学にとってご立派なものだが、とても相対的なものだ。精神分析は危険な病気で、人間の反=現実的な傾向を眠りこませ、ブルジョワジーを型にはめてしまう。最終的な真理など存在しないのだ。(…中略…)人びとが観察する時は、多くの視点のひとつから見ているのだが、その視点は、現存する何百万もの視点から選び取られたものだ。経験もまた、偶然と個人的資質の結果である。(…中略…)おれはシステムに反対する。いちばん受け入れられるシステムは、原則としてどんなシステムももたないシステムだ。

トリスタン・ツァラ「ダダ宣言1918」(塚原史訳 光文社古典新訳文庫『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』所収 p34‐35)

ツァラは生命や現実――宇宙的な多様性と本人は言っているのですが(宣言集p113-116、p162)、これを論理や法則によって型に嵌め、単純化することにチューリッヒ・ダダの頃から反対していました。「DADAとはこういうものだ」と定義付けられることをも拒むわけです。自ずとその主張ないしパフォーマンスは天に唾する行為というか、自爆テロの様相を呈するようになる。

ダダはカメレオン 利にさとくすばやく変身する。
ダダは未来に反対する。
ダダは死んだ。ダダは白痴だ。ダダ万歳。
ダダは文学の一派ではない、吠えろ。

トリスタン・ツァラ「かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する」の一節(塚原史訳 光文社古典新訳文庫『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』所収 p85‐86)

カメレオンのように環境に適応していくのかと思いきや、「死んだ」と来てその直後には論理や定義の通用しない白痴としての在り方を自己肯定する。ブルトンがこの破れかぶれな詩情にシンパシーや憧れを抱いていたことは言うまでもなく、『シュルレアリスム宣言』や『ナジャ』にはツァラに通ずる反文学的な主張が少なからず盛り込まれています。ただ先の引用文にもあった通り、ブルトンは解体の連鎖に耐えられないんですね。反文学を標榜しながらも、発表する作品はあくまでも建設的な文学でなくてはならなかった。

ツァラはこの点、明らかに違いました。

時間的には、ダダのあとからシュルレアリスムがやって来たわけだが、ダダの問題提起は、シュルレアリスムのそれを越えた、より現代的な価値を含んでいた。シュルレアリスムが《愛=自由=詩》の図式を信じた「ホットな情熱」だったとすれば、ダダは、うわべの過熱した興奮にもかかわらず、実は(澁澤龍彦の言葉を借りるなら)「ニヒルな冷たい熱狂」だった。そして、この「クールな熱狂」を全身で表現していたのが、ツァラだったのである。

塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』(ちくま学芸文庫 p195‐196)

ロラン・バルトを紹介した動画にて、ジャック・デリダの提唱した脱構築とは優劣の二項対立を解体して再構築するという内容なので、一見して建設的な印象を受けるけれども、煎じ詰めればひろゆきさんの「それって、あなたの感想ですよね」になると話させていただきました。どれだけ議論を重ねても横滑りしていくばかりで、進化していく手応えはないけれど、その代わり絶対的に正しい意見というのはなくなる。どんな意見であっても、その人の中では真実で、優劣がなくなるわけだから、よく言えば平等であると。

塚原さんはこれをDADAに結び付けます。対立する意見が唯一絶対の真理に収束していくのではなく、対立する意見の数だけ真理があるという考え方を相対主義といいますが、ツァラのダダイズムはこれを先取りしていた(塚原p26、54/宣言集p306他)。規制の美意識や伝統的な価値観を解体し、むしろその後の空白を探究するものだったのだと(塚原p87-89他)。これだけでは終わりません。ツァラのパフォーマンスは、ジョルジュ・バタイユの説いた供儀に相当したというから面白いんですね(塚原p114、151他)。

この点、パリ・ダダ終焉以降の展開を追いながら確認していきましょう。ツァラはパリ・ダダが終わると、それまで構築してきた人脈を頼って文壇の名士になっていき、1930年代半ば以降はフランス共産党に接近して生涯関係を保ち続けます(塚原p143‐152/宣言集p258‐270他)。ブルトンとの諍いにも当然、政治が絡んでくる。二人とも左翼なのですが、マニアックな話をすると、ツァラはスターリンを支持する主流派で、ブルトンはトロツキーを支持する反主派でした。

塚原さんは当時のツァラの様子を伝える作品として、横光利一の「厨房日記」に言及なさっています。横光は2・26事件の直前――1936年2月20日に東京日日新聞と大阪毎日新聞の特派員として日本を発ち、6月にはパリに滞在していた岡本太郎の紹介でツァラの自宅を訪問しているんですね。帰国直後にその夜を振り返ったのが「厨房日記」で、トリスツァン・ツァラアはDADAではなく「シュールリアリスト」とされています。

この文章を読んで私が興味深く感じたのは、客室や書斎に飾られていたというアフリカ先住民の彫像や仮面のコレクションです。塚原さんによりますと、ツァラはチューリッヒに移住する前のブカレスト大学時代に『黒人詩集』なるものを出版しようと計画し、結局実現しなかったのですが、収録予定作は有名な学術誌に発表されたアフリカやオセアニア先住民の歌謡を、無断転載しようとするものだったそうなんですね(宣言集p227‐228他)。

キャバレー・ヴォルテールにおける最初の「ダダの夕べ」でも「ムッシュー・アンチピリンの宣言」とともに「黒人詩篇」を朗読したり、その直後に刊行した著書に「黒人芸術」への言及があったりすることから、塚原さんはDADAの起源に先住民文化を位置付けています(宣言集p274‐276他)。なるほど確かに、チューリッヒ時代に発表した評論にも、黒人芸術に言及している箇所をいくつか確認できるんですね。

何が言いたいかというと。ツァラは生命や現実を論理や法則によって型に嵌め、単純化することに反対したと前述しましたが、型に嵌められる前の宇宙的な多様性を表現したものとして黒人芸術を位置付けていたということです(塚原p109-110他)。バタイユはこの宇宙的な多様性を連続性としました。理性的な生活を成り立たせる法律やしきたりを暴力によって乗り越えたときの、あの何とも言えない胸糞悪い感覚を宇宙的な連続性に踏み込んだ合図としたんですね。原始宗教の儀式において生贄が供されるのも、祝祭のときに浪費や違反が奨励されるのも、眩暈や吐気を伴うあのクラクラした感覚を呼び覚ますためのものとされ、ツァラによるダダ・サーカスはまさしくそのような効果を狙ったスペクタクル(見世物)だったと塚原さんは指摘なさっているわけです。

パリ・ダダ以降、名士になったり政治に関わったりするようになっても、ツァラには詩がありました(塚原p143-148)。しかしダダイストとしては明らかに変節した生き方をしながら、詩だけで果たして、宇宙的な多様性を求めていたかつての精神が慰められていたかどうか。それは本人のみぞ知るところです。

サーカスの中心に
誰もが待っている
上のほうから垂れるロープ
音楽
あれがサーカスの団長だ
団長は自分の満足を見せようとしない
彼は正しい

トリスタン・ツァラ「サーカス」の一節(塚原史訳 光文社古典新訳文庫『ムッシュー・アンチピリンの宣言――ダダ宣言集』所収 p204)

第二次世界大戦の後に再刊された、若きダダ時代の代表作『詩篇25』に収められている詩の一節です。ツァラはフランス共産党との関係を亡くなるまで保ちつつも、単純な政治宣伝としての詩は書かなかったのだそうです(塚原p146‐147)。

といったところで、今回は締め括らせていただきます。お疲れ様でした。この動画はリメイク版でして、元の動画をUPしてから数年間ずーっと直したい直したいと思い続けて、ようやく実現できました。ウィイリアム・バロウズなど、DADAの影響下にある作家作品もそのうちやりたいです。最後まで御覧下さった視聴者様、誠にありがとうございました。失礼致します。

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