脅迫されたら、17歳の私が届いた
「100万円用意しろ。でないと、声に出して読み上げるぞ」
それは、私の恥ずかしくかけがえのない日々を人質にとった、まぎれもない脅迫だった。
小学3年生の頃から書き始めた日記は、今も大切に実家に保管してある。
日記を書く習慣は、大学受験が始まる高校3年生までしっかりと続いた。なんてことのない私の人生だが、日記を処分して、あの日々をなかったことにすることは到底できない。
その日記が、当時好きだった人と私を120%美化した状態のイラスト付きで、さもハッピーエンドが待っているかのようなポエムまで書き込まれているものだとしても、だ。当然ながら、初恋の彼とは結ばれることはなかった。ポエムまで書いたのに。いや、ポエムまで書いてしまったからなのかもしれない。まあいわゆる黒歴史というやつで、もし今読み返すのであれば、心の臓を削り取る覚悟で挑まなくてはならないだろう。
同じくらいずっとずっと続けていたことがある。手紙だ。
なにかにつけては家族や友人にあてて手紙を書いていた。小学生から今も交流している幼馴染とは、交換日記もやっていたし授業中にこっそりと手紙も送りあっていた。毎日会っていたんだから、話をすれば終わりなのに。だけど書きたかった。いつだってかわいい文字に憧れて、どんな風に文字を書いたら自分もついでにかわいくなれるのかを考えていた。
そんな風に、日記を書いて、交換日記も書いて、手紙を書いて、たまにポエムしたためちゃって、書いて書いて日々を過ごしていた私は、大人になってみたらびっくりした。
日記が書けなくなっていたのである。
いい感じのノートを見つけては、1ページだけ「ノートを買った」「日記をまた書こう」とつづる。
その次のページはまっさらなまま、忘れ去られていく。毎日がなにもないわけじゃない。でも、文字に残すことができなくなった。多分理由なんてない。大人の私には日記が必要なくなったんだろう。そう結論づけるしかなかった。
けれど、数年前。私は気づいた。
誰かの目についてしまうこのnoteという場においては、私は日記や手紙として、日々をつづることを恐れないのだ。誰かの目に届かせる可能性があるものを「日記」といっていいのか、ずっと疑問だった。だけど今の自分が思うのは「誰かに届くものだからこそ書けるのかもしれない」ということだ。
そう思うに至った出来事がある。それが件の、義兄からのLINE(脅し)だった。

義実家の片づけを泊まり込みでしていた義兄からの、あまりにも急な脅迫。その通知を同時に見た私と夫は吹き出した。
「やばい。全部持ってきていたはずだったのに……」
脅迫を前に、夫は焦っているようだった。しかしもう手遅れだ。人質は相手の手中にある。その数はあまりにも多すぎた。
高校1年生から付き合っている夫。そこからもう、20年が過ぎた。彼女だったときも、婚約者だったときも、妻になったときも、母になってからも。私たちが数えきれないほどのラブレターを交わしてきたことは言うまでもないだろう。
ひとまず、その場は「おいしいお酒で手を打ってほしい」と申し出て、示談が成立。
「とんでもない数あるぞ」とあきれる義兄に対し、「我が家には、その倍以上の手紙が保管してありますよ」と愛ゆえに脅しにも屈しない私は言い放った。義兄は「オーマイガー」と言わんばかりの絵文字をひとつ、送ってきた。まあ、義兄は韓国人なんですけど。
かくして、無事に私と夫のかわいい人質は義母の手によって救出され、涙の再会を果たした。

その大量の手紙を前に、私は恥ずかしさでもう死の淵に追いやられつつあった。夫が仕事で不在のときに部屋にこもって、数枚ちらっと覗いてみるが、心理的血反吐を吐くことは避けられない。夫は義兄に「死にますよ(恥ずかしくて)」なんて言ったが、どう考えても死ぬのは義兄でも夫でもない、この私しかいないだろう。幸い、かわいい子どもたちがいるからこそ、ぎりぎりのところで生き延びた。さすがに、青山テルマの代表曲「そばにいるね」のアンサーソング「ここにいるよ~SoulJa feat.青山テルマ~」の歌詞だけをしたためた手紙が出てきたときには、もういよいよ破り捨てて山奥に篭ろうかと思ったが、なんとか踏みとどまった。車で15分の距離に住んでいたくせに、なぜ遠距離恋愛の切なさを歌った歌詞をしたためているんだ私よ。あとなんでSoulJaの方なんだ。テルマの方でいいだろ。
とまあ、当時の自分がいかに夫にぞっこんだったのかを思い知るさなかで。ふと、やたら分厚いひとつの封筒が目についた。
それはどうやら。手紙を装った、日記であるらしかった。

名古屋と宮崎。この土地名を見て、すぐにピンときた。
名古屋は父の実家。宮崎は、父の家系代々のお墓がある土地。ここを渡り歩いたということはつまり、あの日のことをつづっているんだろう。
高校2年生の秋。
父を亡くした年の、納骨までの旅路。
一瞬だけためらったのちに、私はこれをそっと開けてみることにした。
あの日の私が、いったい彼に向けて何をつづったのか。それを今、改めて見届けてみようと思った。

まずは、自らの懐かしい文字列に、懐かしさと恥ずかしさで胸がきゅんとしてしまう。「ちょこ②寝てた」とか、文字を連続するときに確かに「②」を使っていた。ガラケーでもわざわざ、そうやって打ち込んでいたよなあ、と、当時の謎の努力を思い返す。そして、やたらと書き込まれている顔文字や絵文字、ふいに織り交ぜられるカタカナ。基本ツールがガラケーになっていた時代だったからこそ、メールを打ち込むかのような手紙(日記)だなあと感じる。
肝心な内容は、なんとも空元気な日記だなあという印象だ。まず、幼い従姉妹についに会えたという感動。父の生前に生まれたその姪っ子に、父も会いたい会いたいとずっと言っていた。だけどそれはついに叶わなかった。
小さなトタン屋根の古い家で、私たちはいつも身を寄せ合うようにして眠った。その横で、長兄とオカン、ばあちゃんじいちゃんが話す声が聞えていた。
「長兄ががんばってくれてよかった」
「次兄も、バイトを増やしてあいつなりにやろうとしてる」
「しいもも一時、大学行かないとかバイトするって言ってた。(しなくて)いいって言ったんだけど」
みんなが支えあうようにささやきあう声は、あまりに小さなその家では筒抜けだった。私は、畳の上に零れ落ちていく涙もふかずに、眠ったフリを続けていた。あの夕方のしっとりとした畳の匂いが、紙の向こうから立ち昇ってくる気配がする。
失ったものの大きさに気づかないよう、家族がいかに必死だったのか。それを思い知らせる明るさを伴った日記。
これを受け取った当時の彼は、どう思ったろうか。きっとコメントに困ったことと思う。こんな空元気な17歳のムスメ、今の私だって、いったいどうしてあげたらいいのかわからない。

名古屋で先にじいちゃんばあちゃんと合流したのちに、いっしょに宮崎に移動して、納骨を執り行った。宮崎には、ずいぶんと父をかわいがっていた祖父方の大伯母がひとりで住んでいた。結婚はせずに子を持たなかった人だったが、甥っ子である父をたいそう大事に想っていたそうだ。近くには他にも多くの親戚が住んでいて、みんなが漁業を営んでいた。
とくに、長とでもいうべき一番年長のじいちゃんに、私はたいそう気に入られた。愉快なじいちゃんで、「歌う船長」という二つ名を掲げており、自慢の漁船からちょこんと顔を出すその写真を使って名刺も作っていた。後にも先にも、こんなキュートな名刺はまるで見たことがなかった。
海と共に暮らす愉快な親戚に囲まれ、慌ただしいスケジュールの中で、私は「泣かなかったよ」とつづっている。そうだったっけ。思い返すと、この前日、お坊さんが大伯母の家に来てくれてお経をあげていたときには、告別式の当日並みにわんわん泣いていた記憶だ。だけど、その日の日記は、残っていなかった。つまり、そういうことだろう。
お父さんがこうならなければ、この人たちとはずっと会うこともなかったかもって思った。だから、お父さんとはお別れでも、新しい出会いはそれ以上にあったよ。それはよかったのかもしれない。
失っていくばかりじゃないってわかったから、来てよかったって、思えたよ。
17歳のムスメがよお。バカ言ってんじゃないよ。
今の私なら。そう言ってあげられるのに。でも、どこかの別の物語の中にいるような気がしていたのは、本当だ。海を前にすると不思議と心は透明になって。「ああ。いなくなってしまったんだ」と、ただそこに現実が海と共にたたずんでいるだけだった。
だって、もう泣いても怒っても問いかけても戻ってこない。煙になって空に舞い上がり、骨になって先祖とともにあの丘の上の墓に入ってしまったし。泣こうと思えばいつでも泣ける。でも泣いても仕方ない。もうここにもどこにも、いないんだもの。
そう考えている頃に、みんなが私を探しにやってきたんだった。私がいつか、海に身を投げるのではと思っていたのかもしれない。意外と頭はクリアだったけれど、危なっかしい状態だったんだろうなと思う。
最後の日付の日記には、みんなと笑顔でバイバイした日のことが書かれていて、締めには「早くあなたに会いたいな」という高校生の素直な感情がつづられていた。
───あの日。
平成のギャル文字を装った明るさの奥で、本当は死にそうなくらい寂しかった私が。手紙ではなくてこうして、あの日のことを日記として彼に向けてつづったのは、どうしてだったんだろう。
空港でノートでも買って、自分の寂しさを誰にも見せずにさらけ出せれば、もっと素直に泣いていたのかもしれないのに。でも、そうはできなかった。まだ続いていた自分の日記も、その頃は書けなかった。
だけど。この日のこの気持ちを。
失うことはいつかは訪れることを。
家族の寂しさとあたたかさを。
誰か、忘れないで。
と、強く強く願っていたのだ。
きっと、18歳の青年は、これを読まされて、眉毛を下げてほほ笑むしかなかったろう。誠実な人だから、しっかり読んでくれたとは思うけれど。読んでもらった当時の記憶はない。書いて自分で満足してしまったんだろうなって思う。読み返すことも特段ない、その瞬間を切り取って文字にしたためたものが、日記だから。
だけど。私には届いた。
17歳の少女の空元気が、36歳の私のもとに、届いたよ。
あのときの私へ。
がんばってくれてありがとう。
それまで以上に「いい子でいよう」と決意したあなた。あれから、塾に頼らずに大学受験を乗り越えて都内の大学に合格し。アルバイトを掛け持ちしながら、勉強をがんばって特待生になって。その後、就職して初めての給料で買ったエビスビールを、オカンに渡したあなた。
いい子でばっかりいると。あなたの夫は、父と同じように大変心配するみたいなので、もう少しゆっくりと生きてほしいです。
もう少しだけ。
わがままに、がむしゃらに、思うままに、自分の好きなように。日々をこの場所でつづりながら、過ごしていくのも悪くないよ。
この場所でつづる私の日記は、またどこかの誰かに届くのかもしれない。あの日の私と今の私が、思いがけずつながったように。
こうして懲りずに私はまた、明日も書いてしまうだろう。
いつか誰かに、届いてしまう日記を。
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