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『ニセモノは本物(80歳・女性)』

銀座の路地を少し入ったところに、
小さなバーがある。

そこでは毎晩、
誰かの人生が一杯に注がれている。

嬉しかった日も、
うまくいかなかった日も、
誰にも言えなかった想いも。

人は皆、
少しだけ何かを忘れに来る。

そしてまた、
自分に戻るために飲む夜がある。

(今日は最後に、何を飲もうかしら)

私はこのバーの常連客だ。

近くに事務所を構えていた頃、
ふらりと立ち寄ったのが始まりだった。

それ以来、店の落ち着いた空気と、
マスターの清潔感ある距離感が心地よく、
気づけば通い続けている。

思えば私も、
女性が今ほど働きやすくなかった時代に、
第一線で仕事をしてきた。

「鬼の鉄人」
「鋼の姉さん」

そんなあだ名をつける部下もいた。

激務と責任。
終わりの見えないプレッシャー。

私をほどいてくれたのは、
夜のバーで飲む一杯だった。

若い頃は、
部下たちを連れて飲み歩き、
浴びるほど酒を飲んだ。

酔いつぶれた男の部下が
甘えてくることもあった。

そのたびに尻を叩き、
部屋まで担いで送り届けたものだ。

現役を引退するまで、
無我夢中で働く姿勢は変わらなかった。

時間もエネルギーも、
すべて仕事に注ぎ込んできた。

時代は移ろい、
トレンドは何度も塗り替えられた。

それでも私は、
新しいものを生み出し続けてきたつもりだ。

今では、
悩みを抱えた女性たちの相談が絶えない。

年齢のせいもあるのだろう。

彼女たちは、
私の言葉を黙って受け取っていく。

女性が活躍しやすい時代にはなった。

それでも、差別は静かに残っている。

それはそうと――

「マスター。
私、今日最後に何を飲んだらいいかしら?」

マスターは迷わず、
ペルノーのストレートと水を私の前に置いた。

以前、同じような夜に私が選んだのを
覚えていたらしい。

ペルノーはフランスの薬草系リキュール。

パスティスと呼ばれる酒だ。

「ありがとう。いただくわ。」

味は好き。
けれど、名前は嫌い。

パスティス――
フランス語で「ニセモノ」「まがいもの」。

それを好んで飲む私自身が、
そう呼ばれているような気がするのだ。

「マスター。
このお酒の意味が“ニセモノ”だなんて、
少し不快な響きね。」

マスターは静かに言った。

「このお酒は、
禁酒となったアブサンを真似て生まれました。

変わりゆく時代に、
ついていこうとした人々の努力の結晶です。

新しいものを生み出すという、
強い信念が感じられる酒だと
私は思います。」

――そうか。
必ず変わる時代。

その中で、
何度でも形を変えながら進む意志。

ニセモノではない。

受け継ぎ、変え、残していく。

それこそが、
本物なのかもしれない。

このお酒は――
まるで私の人生そのものだ。

グラスを傾ける。

やわらかな香りが、
ゆっくりと広がっていく。

「マスター、ありがとう。
また来るわね。」

そう言って静かに立ち上がる。

そのグラスの余韻は、
私の中で揺るぎなく生きていた。

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