ぼくと彼女はノー・バウンダリーズ展へ行く
ぼくと彼女は『ノー・バウンダリーズ』展へ行く。先日、ぼくと由梨は、国立国際美術館の特別展『ノー・バウンダリーズ』へ行ってきた。関東在住のぼくらがどうして大阪の美術館の展覧会へ行っているのかというと、1泊2日で大阪旅行に行ったからである。まあ、卒業旅行的なやつですね。……念のため言っておくと、「卒業」というのはぼくらの交際関係が終わるという意味でなく、ぼくらの大学生活が終わるという意味です(卒業おめでとう)(ありがとう)
大阪旅行全体の話をするとどう考えても猟奇的な長文になるので、この記事では『ノー・バウンダリーズ』展の話だけ書くことにします。ぼくは自制を知る男です。
国立国際美術館の『ノー・バウンダリーズ』展へ行こうと言ったのはもちろん由梨のほうだ。由梨から話を聞かされるまで、ぼくは国立国際美術館という美術館がこの世に存在することさえ知らなかった(関係者のみなさんごめんなさい)。それで、せっかく大阪へ行くなら泊まっちゃおうということになった。つまり、今回の大阪旅行は『ノー・バウンダリーズ』展ありきの旅行だったのだ。
由梨がどうして『ノー・バウンダリーズ』展とやらに行こうと思ったのかというと、きっかけはフェリックス・ゴンザレス=トレスだった。大学の放送サークルで映像アニメを作っていた由梨は、アート系の調べ物をしていた時にフェリックス・ゴンザレス=トレスというキューバのアーティストのことを知ってファンになったらしい。それで、2025年の2月から大阪の国立国際美術館で『フェリックス・ゴンザレス=トレス』展というのが開催されることを知って、一緒に行く相手を探していたってわけである。
だが、去年の秋、『フェリックス・ゴンザレス=トレス展』の開催中止が発表された。理由はよく知らない。もしぼくだったら「開催中止かあ。残念だなあ。じゃあ行くのやめよう」となるところだけど、由梨は違う。『フェリックス・ゴンザレス=トレス展』の代わりに開催されることになった『ノー・バウンダリーズ』展へ行くことを決めたのだ。由梨は気持ちの切り替えが早いんだよな。予定の変更に強いっていうか。
まあ、『ノー・バウンダリーズ』展には国立国際美術館が所蔵するフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品も一つだけだけど展示されるということだったので、「それならそれで観に行く価値がある」となったっていうのが真相でしょうけどね。もし『フェリックス・ゴンザレス=トレス展』の代わりに開催されるのが『コムドット展』や『東海オンエア展』だったら、さすがの由梨も行くのを中止していたと思う。
さて、最初に宣言した通り、新横浜駅から東海道新幹線のぞみに乗ってどうたらみたいな話を始めたらド長文になってしまうので(もうすでにここまでで1,000文字超えているわけだし)、いきなり大阪府大阪市北区中之島4丁目へ飛ぶことにします。書きたいエピソードは色々あるんですけど、ここは涙を呑んで割愛します。
国立国際美術館はまず外観がすごくかっこいい美術館だ。SF小説に出てくる近未来の宇宙都市施設(なにそれ)って感じ。表の玄関のところに守衛さんが立っていたので、ぼくらが「こんにちは」と挨拶させていただくと、守衛さんは「ようこそ! いらっしゃいませ!」と力強く挨拶を返してくれた。さすが大阪。守衛さんもエネルギッシュだなあ。ぼくは国立国際美術館にいきなり好印象を持った。


エスカレーターを降りて地下1階へ。国立国際美術館は地下に広がる美術館であり、地下1階がチケット売場になっている。だけど暗い雰囲気ではなくて、空から光が差していてむしろ明るい雰囲気である。
チケット売場で大阪メトロの1日乗車券「エンジョイエコカード」を見せて、二人ともチケット料金を割引してもらう。これを見せると大学生料金が100円割引されるのだ。ぼくらが提示した学生証は東京の大学の学生証なので、受付の職員さんは「えっ? 関東からわざわざ来たの?」みたいな感じで一瞬びっくりした顔になっていた(あとで由梨にこのことを言ったら「気のせいだ」「国立国際美術館には全国からお客さんが来ているから職員さんはいちいちびっくりしない」とツッコまれた)。
チケットを受け取ったあと、100円払わなきゃいけないけどあとで100円返ってくるロッカーに荷物を預ける。このタイプのロッカーは全国どこの美術館にもあるんだなあ。そうして再び下りのエスカレーターに乗って、地下2階へ行って、さらにそこからまた下りのエスカレーターに乗って地下3階へ行くと、特別展『ノー・バウンダリーズ』の展示室入口である。


地下3階というとめちゃくちゃ暗くて空気が淀んでいる印象だが、国立国際美術館の館内は地下3階でもやっぱり明るい雰囲気だった。展示室の中に足を踏み入れると、さすがにそこはちょっと暗めでしたけどね。ただ、これは落ち着いた照明のせいである。
特別展『ノー・バウンダリーズ』は色んな現代アーティストの色んな現代アートを一堂に展示する展覧会である。意地悪な言い方をすれば、「寄せ集めの展覧会」といったところですかね。お客さんはまあまあいたかな……。でも決して「混雑している」わけではなくて、展示室が広かったせいもあってか、かなりゆとりをもって鑑賞できる感じだった。春休みだからか、学生っぽいひともチラホラいた(イケメンもいた)。
ぼくらをまず出迎えてくれたのは、森村泰昌というひとの自撮り写真だった。ぼくは美術に疎い人間なので、最初は普通に航空操縦士か何かの肖像画かと思ったけど、由梨から「ゴッホの肖像画のセルフポートレートだよ」と教えられて真相を理解した。森村泰昌というひとがゴッホの姿に扮し、有名なゴッホの自画像のパロディをやっているのだ。パロディというのは元ネタを知っているのと知らないのとでは楽しみ方が全然変わってくる。これがパロディだと分かった途端、ぼくは作者の遊び心に惹かれてこの写真に愛着を持った。まあ、ゴッホに扮装して自画像を撮るのはさすがに自意識過剰な気がしますがね! でも、自意識過剰なぐらいじゃないと現代アートなんて作れないのかもな……

その隣にあったのはシンディ・シャーマンというひとの写真だ。この写真に写っている女性自体がシンディ・シャーマンなのかは不明だが、もしそうだとしたらこれまた自撮り作品ってことになる。ぼくがこの写真を見ながら由梨に小声で「由梨もたまにこの顔やるよね」と言うと、由梨は「したことない! こんな風に睨みつけたことなんてない!」と言い返してきたけど、その時の由梨の顔は完全にこの顔でした。

さらにその隣には、やなぎみわというひとの写真作品があった。《マイ・グランドマザーズ》というシリーズ企画の一部らしい。一般のひとたちに「あなたの50年後の姿を想像して文章を書いてください」と公募で募って、文章を書いてくれたひとと対話を繰り返しながら、50年後の姿のイメージ写真を一緒に撮るっていう企画らしい。コンセプトからして現代アートって感じだな。アメリカの高速道路をバイクで滑走している写真は「理想の姿」として分かりやすいけど、近所の子どもたちに対して偉そうに接しているおばあさんの写真のほうは「理想の姿」とは思えなくて、ちょっと闇を感じる。


ぼくが気になったのは田島美加というひとの作品だ。柔らかい素材(由梨いわく「たぶん綿」)に水色・赤色・クリーム色の点がポチポチと塗られ、額に入れられてタペストリーみたいになっている。離れて見ると世界地図のようでもあるし、人体の骨と筋肉のようでもある。ぼくはこの作品(絵?)を見ながら、思わず「うわぁ」と吐息を漏らしてしまった。感動したっていうか、この作品いいなあと思ったのである。隣を見ると、ぼくの吐息に気付いた由梨がなぜかうれしそうな顔をしていた。もしかしたら由梨は吐息フェチなのかもしれない。

くぼんだ位置にある別室へ進むと、ミン・ウォンというひとの映像作品が上映されていた。シンガポールのアート作家らしい。映像ドラマが2つのスクリーン(というか壁)に映写されていて、最初は同じ映像が上映されているのかと思ったけど、よく見ると出演者が違う。台詞は同じだし、セットも同じだし、構図もカメラワークも同じだけど、出演者だけが違う。


解説パネルを読んでみると、1959年のアメリカ映画『イミテーション・オブ・ライフ(邦題『悲しみは空の彼方に』)』のオリジナル版と、それを完全コピーしたミン・ウォンさんのリメイク版を並べて上映しているってことらしい。でも、この同時上映の狙いはもっと深いところにある。「オリジナル版」を映すスクリーンと「リメイク版」を映すスクリーンを数秒おきに切り替え、どっちが「オリジナル版」でどっちが「リメイク版」か分からなくなるようにあえてごっちゃにしているのだ。しかも、ミン・ウォンさんのリメイク版のほうは俳優が演じる役柄もカットごとに入れ替わったりしていて(女性Aを演じていた出演者が次のカットでは女性Bを演じ、女性Bを演じていた出演者が次のカットでは女性Aを演じていたりする)、もはや視聴者の認識はごっちゃごちゃのぐっちゃぐちゃ、どれが「オリジナル」でどれが「リメイク」なのか、どれが「本物」でどれが「偽物」なのか、どれが「本人」でどれが「代理人」なのか分からなくなってくる。
ぼくは「この手があったか」と思った。「すげえアイディアを思いついたもんだな」と嫉妬した。いや、ぼくは放送研究会で音声ドラマを作ってきた人間ですからね。こういう実験的な表現をもっと早く思いついて、もっと早く番組発表会で上演しておけばよかったなと思ったのである。これからぼくがインカレの放送サークルでこれと似た表現をやってもそれは「二番煎じ」というか「パクリ」になってしまうわけで、仮に観客は気付かなくてもぼく自身が居心地の悪さを感じてしまうわけで、だからぼくはミン・ウォンさんのこの「虚構」と「現実」をあえてごっちゃにする系のアート、「虚構を二重・三重にすることで逆に現実を浮き彫りにしてみました」的な仕掛けを目の当たりにして、少しジェラシーを感じたのである。
まあ、それはそれとして、『ノー・バウンダリーズ』展はまだまだ続く。エヴェリン・タオチェン・ワンというひとの絵画《トルコ人女性たちのブラックベリー》では、トルコの伝統的衣装を着た女性たちと、スマートフォンを触っている現代的な男性が同じ絵の中に収まっていて、エキゾチックな感じがしてすごくよかった。もう一枚、《有機的な一日》という絵も展示されていたんだけど、絵の上のほうにチューブ状のオブジェが貼られていることをぼくは由梨から教えられて初めて気付いた。ぼくはアートをちゃんと鑑賞できてないなあ……

『スーパーマン』の故郷の惑星・クリプトンをイメージしたオブジェもよかったな。オブジェっていうかジオラマっていうか。マイク・ケリーというひとが作ったやつだ。しかも白色バージョン、カラフルバージョン、ラズベリーケーキっぽいバージョン、木工細工っぽいバージョンの4種類がある。『スーパーマン』ファンにはたまらない現代アートだと思う。由梨は『スーパーマン』シリーズを観たことがないからあんまりピンときていなかったけど、これを見て「楽しい気分になる」とは言っていた。ふふふ。世の中には由梨が知らなくてぼくが知っていることが一つぐらいはあるのだ。

カリン・ザンダーというひとの作品は……「作品」っていうか、実際にはただのカンバスだ。カリン・ザンダーは市販されているカンバスをそのまま美術館に郵送して、「作品」として展示させているらしい。ただ、カンバスは輸送時にスタンプを貼られたり汚れがついたりする。買った時のカンバスと同じカンバスではない。これぞ偶然が生んだ唯一無二の芸術なのだ。……まあ、手抜きといえば手抜きだし、インチキっぽいといえばインチキっぽいけど、このアイディアそのものが現代アートではある。逆に言うと、どんな物事も考え方ひとつで芸術に変換できるってことだ。この考え方は人生を楽にする考え方かもしれない。

この先の部屋では、これまたミン・ウォンの映像作品が上映されていた。さっきの《ライフ・オブ・イミテーション》とは別の《テールズ・フロム・ザ・バンブー・スペースシップ》っていう作品である。これまた前衛的で嫉妬しちゃうような作品だったなあ。前半では「中国の京劇」と「中国の宇宙開発」を二画面並行で見せていく。京劇の役者がロマンチックな歌を歌っている隣で、THE テクノロジーな映像が流れているのがシュールである。

後半では、中国の昔のアクション映画の映像を再利用したドラマが展開されていく。いわゆる「MADムービー」である。たぶんでっち上げの嘘八百だと思うんだけど、「中国では昔、柔術家とオペラ歌手は弾圧されていた。そこで柔術家とオペラ歌手は当局の悪いやつらをやっつけるために手を組んで立ち上がった」という設定で、アクション活劇が繰り広げられる。ぼくは「この設定ならもっと面白い脚本にできそうなのにな」と思いながら見ていたが、「BE WATER」という透明な文字が画面にずっと大写しされていて、その透明な文字の中に映像が流れるというデザイン(説明伝わってますか? 伝わってませんね……)は映像アーティストならではのアイディアって感じで惹かれた。なんかどっかでこういうの見たことある気もするけど。

そのあとは、ヴォルフガング・ティルマンスというひとの写真だとか、松井智恵というひとのパフォーマンス映像だとか、アリン・ルンジャーンというひとの映像作品だとかを見て、お隣の展示室へ。この展示室は照明が落とされてかなり暗くなっている。クリスチャン・ボルタンスキーというひとの《モニュメント》という作品では、ユダヤ人の子どもたちの白黒の顔写真が小さなフレームに入れられ、電球に囲まれる形で展示されていた。この子どもたちがどういう背景を持った子どもたちなのかは分からないが、なんとなく「アウシュビッツ」とか「強制収容所」とか「犠牲者」とかいうワードを連想してしまう展示の仕方である。

そしてお待ちかね、由梨が見たがっていたフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品である。由梨がわざわざ新幹線に乗って見に行きたいと思ったぐらいだから、フェリックス・ゴンザレス=トレスの作品ってのはどんな作品なのかとぼくも気になっていたのだが……実際に目にして驚いた。いや、拍子抜けした。
合わせ鏡の前に電球が24個吊るされている。これが「作品」なのである。いや、正確には24個じゃなく23個か25個かもしれないし、吊るされているのではなくポールに括りつけられているということなのかもしれないが、そこら辺はこの際どうでもいい。筆を使って絵を描いたとか、カメラを使って写真を撮ったとか、ハンマーを使って板金を加工したとか、そういうことではない「概念」。「レイアウト」。これがフェリックス・ゴンザレス=トレスの「作品」なのであった。

もちろん、そこには何か哲学的な意味があるのだろう。合わせ鏡の中で電球が出会っている……人間はその鏡を見る(=自らと向き合う)ことで光の無限性を知る……とかナントカカントカ……。まあ、解釈は多様である。ぼくはこれまで由梨に連れられて現代アートってやつをいくつか見てきたが、ここまで「ひとを食った」現代アートを見るのは初めてだ。フェリックス・ゴンザレス=トレスは奇妙な芸術家だなと思ったし、こんな芸術家を好きになる由梨はやっぱりヤベえやつだなと思った。
でもまあ、そういうことなんだよな。これが「ノー・バウンダリーズ」ってことなんだ。ぼくは自分の脳みその中につまらない境界線を引いていた。だから、自分が思いつかなかったアイディアに嫉妬したり、自分が知らなかった形式を「なんだこれは」と思ったりした。でも、そんな風に感じたり思ったりする必要なんてない。アイディアは色々。アートは様々。ぼくは既存の境界線の内側に自分の感性を閉じ込めなくていい。境界線が揺れ動くことを怖がらないでいいんだ。
ぼくと彼女は『ノー・バウンダリーズ』展へ行く。今回のnoteもまた長文になってしまったけど、実はここで紹介したのは展示作品のごく一部にすぎない。『ノー・バウンダリーズ』展は6月1日まで開催中らしいので、もしあなたがこのnoteを読んでいるのが2025年の春季で、もしあなたが関西圏に住んでいるひとなら行ってみるといいかもしれません。……いや、面白いと思うかどうかについてぼくは何の責任も持ちませんけどね。いざ行ってみたら「全然つまんねえじゃん」って思われるかもしれないし。でも、ぼくにとっては「もしぼくが大阪に住んでいたら期間中にもう一度行きたいな」と思うぐらい面白かったし、楽しかったし、刺激を受けた展覧会だった。由梨さん連れて行ってくれてガチありがとうって感じ。
……なんてことを書いていたら、うーん、本当にもう一回行きたくなってきちゃったなあ……。数日後に香川(学科の友人)と京都旅行に行くから、ワンチャンその帰りに大阪へ寄って……っていやいや、そんなことは考えちゃダメだ。自制するんだ自分。足るを知れ自分。もう十分鑑賞したし写真も撮ったじゃないか自分。そもそもそんな経済的余裕どこにもないだろ自分。ここはきっちり自分の脳みそに境界線を引かせていただきます。はい、ぼくは「行く/行かない」の境界線の内側に閉じこもる。楽しい経験は一度で十分だ。上書きする必要はない。

