ぼくは彼女の弟に回らないお寿司を奢る
春は別れと出会いの季節である。この春、ぼくと由梨(彼女)が大学を卒業するのと入れ替わりに、由梨の弟の孝彦くんが大学に入学する。ぼくと由梨が同い年で、孝彦くんはぼくらの4歳年下なのだから、それ自体は別におかしなことではない。でも、なんとなく不思議な感じがする。ぼくと由梨が「大学生」でなく「社会人」になって、孝彦くんが「高校生」でなく「大学生」になる。この変化がぼくには不思議な感じがする。
孝彦くんの進学先が決まったのは先月下旬のことだった。由梨から「たぁくん、○○大学受かったよ!」というLINEが来たのだ。孝彦くんが第一志望にしていた大学は2つあって、先月中旬に発表があったほうは不合格だった。さあ、そうなると残る本命は一つだけ。ぼくは部外者ながらドキドキしていたのだが、孝彦くんは見事合格を勝ち取ったというわけだ。
やったな、たぁくん! 由梨からLINEを受け取ったあと、ぼくは孝彦くんに「合格おめでとう! 春からキャンパスライフ始まっちゃうね。グフフ」というメッセージを送信した。なかなかのキモメッセージである。孝彦くんからは「ありがとうございます! よかったです!」という普段よりテンション高めの返信が(しかも動くスタンプ付きで)送られてきて、こっちまでうれしくなっちゃったぼくは、「今度お祝いパーティーやろう!」と送り返した。これがまずかった。
10秒後、孝彦くんから「じゃあ回らない寿司奢ってください」というメッセージが届いた。……回らない寿司……だと……? ……奢れ……だと……?
ぼくは一瞬、孝彦くんのLINEをブロックしてやろうかと思ったが、「お祝いパ-ティーやろう!」と提案したのはぼくのほうである。ここは22歳新社会人一歩手前学生としての意地を見せてやらねばならぬ。「おう! べらぼうめ!」という否定とも肯定とも受け取れるメッセージを返したあと、「回らないお寿司」でGoogle検索した。
「回らない寿司」という文字を見て、ぼくはてっきり銀座とか六本木の料亭的な感じのところをイメージしていたのだが、Googleの検索結果に「すしざんまい」という固有名詞が出てきたので気が楽になった。そうだよな。すしざんまいも「回らない寿司」だよな。全額奢るかどうかは別として、すしざんまいならぼくでもギリギリ行けそうだ。
といっても、ぼくは実はすしざんまいに行ったことがない。実際のところどれぐらいお金がかかるのか分からない。マグロ一貫500円ぐらいするのかな……いちばん安いセットでも3,000円はするだろうか……いや、5,000円かもしれないな……と思って、すしざんまい公式サイトの「グランドメニュー」のページを見て見ると、やっぱりそれぐらいの値段はするようだった。
スーパーでお寿司のパックを買って公園のベンチで食べても「回らない寿司」ってことになるかな、それで誤魔化せたりしないだろうか、などと一休さんのとんち的なことを考えながら、とりあえずすしざんまい公式サイトの「店舗検索」ページを見てみる。試しに横浜西口店のページを開くと、おや、「ランチメニュー」という項目がある。さっきの「グランドメニュー」のページにはなかったぞ。

……お? 「1,078円」? 「1,628円」? これなら普通に注文できそうだ。いや、普段の昼食で考えるともちろん高額だけど、由梨と行った横浜赤レンガ倉庫のレストランのチキンライス(2,000円)、由梨と行った大阪のサンドウィッチ屋さんのチーズバーガーサンド(1,300円)と比べるとリーズナブルに感じる。これなら奢れそうだな。「2,530円」のセットもあるけど……まあ、もし孝彦くんがどうしてもこれを食べたいと言ってきたら奢ってあげましょう。っていうか、ここまで来たら4,000円でも5,000円でも出してやらあ! 合格祝いだ、お祝いだあ! ぼくの孝彦くんへの愛情舐めんな!
数日後。ぼくはてっきり孝彦くんとサシですしざんまいへ行くことを想定したのだが、由梨に相談しながら話を進めたせいか、気が付いたら由梨も一緒に行くことになっていた。それを孝彦くんも嫌がらないんだから、この姉弟は仲がいいよな。ぼくは一人っ子だから分からないけど、世間の成人済み姉弟ってこんなに仲がいいもんなんですかね。誰か教えてください。
ぼくらが行くことにしたのはすしざんまい有楽町店だ。別に横浜西口店でも川崎店でもいいけど、なぜ有楽町店にしたのかっていうと、ホームページで写真を見た感じ、有楽町店は他の店舗より内装がちょっとお洒落っぽい気がしたからだ。あとは、有楽町のお店なら通学定期の関係でぼくの交通費が浮くからっていう事情もある。……どうせぼくが孝彦くんの分を奢るのだからこれぐらいのケチは許してくれ!
3月中旬の午前11時半。孝彦くんの高校の卒業式から1週間後のこと。ぼくと由梨と孝彦くんの3人はJR蒲田駅のホーム(大宮方面)で待ち合わせた。由梨と孝彦くんは同じ家(実家)に住んでいるのに別々にやってきた。結局この姉弟が仲がいいのか悪いのか、ぼくにはよく分かりません。
ぼくが蒲田駅のホームへ行くとすでに由梨が到着していた。いつもの通り遅刻を謝罪したあと、ぼくが「もしすしざんまい有楽町店が混みすぎていたら別のお店に行くことにしよう」と言うと、由梨は「有楽町ならお店いっぱいあるもんね。ミッドタウンまで歩いてもいいし」などと提案してきた。明らかに「有楽町に行くならすしざんまいに行く必要ない」って思ってやがる。由梨さんはよく分かってねえみたいだな。孝彦くんがぼくに「寿司を食べたい」とオーダーしてきたということを……
7~8分後、孝彦くんがやってきた。ぼくにとっては今年初の生孝彦だ。なぜかニヤニヤしていやがる。ぼくが孝彦くんに「昨日は眠れた? 寝不足じゃない?」と声をかけると、孝彦くんは「普通はそこは『合格おめでとう』でしょ。なんで第一声が『寝不足』なんですか」とツッコんできた。ぼくとしてはそのツッコミは納得がいかなかったが、孝彦くん的には「まずは『合格おめでとう』と言われるだろう」と期待していたってことなのかな。だとしたら案外かわいいところがある。
JR京浜東北線に乗って新橋駅へ。すしざんまい有楽町店は「有楽町店」とか言っておきながら実際には新橋駅のほうが最寄駅なのだ。「別に見なくていい」と孝彦くんが言っているにもかかわらず、西口SL広場に出てSLを見せたあと、線路沿いを歩いていく。この風景なら有楽町駅から行ったほうがよかったかな……。徒歩5~6分。すしざんまい有楽町店はガード下にあった。自分でお店を選んでおいてなんだが、桜木町エリアからわざわざお越しいただく感じの外観ではない(失礼)。
お昼時だから大混雑を予想していたけど、意外にも並ばずに入ることができて、窓際の4人席に案内された。店内はインバウンドのお客さんが多かったな。由梨と孝彦くんも実は今日が人生初すしざんまいだったようで、「お店の中きれいだね」(由梨)とか「カウンター席のほうがよかった」(孝彦くん)とか言いつつワクワクした表情だった。
4人席ではぼくと孝彦くんが並んで座り、向かい側に由梨が1人で座った。彼女はいるがゲイな男としては、すぐ隣の席に18歳の美少年が座っているというのはうれしいもので、これだけでぼくはすしざんまい有楽町店に来てよかったと感じた。ありがとうすしざんまい有楽町店。
タブレット端末のメニューを見ながらお寿司を1貫ずつ注文しようと考えている孝彦くんの意識をやんわりと揉み消し、「せっかくだからランチメニューにする?」と誘導する。ぼく的にはここはリーズナブルなランチメニューでいかせていただきたい。孝彦くんが「『極上まぐろざんまい』(5,478円)にしようかな」などと言い出したのでヒヤッとしたが、ぼくの懐事情を知っている由梨が気を利かせて「『つぼみ 1人前』(1,078円)か『かすみ 1.5人前』(1,628円)を頼んで、気になるネタはあとから追加で注文すればいいんじゃない?」と提案してくれたので助かった。由梨はコミュニケーションの達人である。
「この3人はどういう関係だと思われてるんだろうね?」などと言い合いつつ、まずはなぜかウクライナの話題になった。これは孝彦くんが政治に関心があって、進学先が政治学科のせいである。アメリカ大統領とウクライナ大統領の会談の話になって、国際情勢に疎いぼくは聞き役に回った。いや、ぼくだって国際情勢に完全に無知ってわけじゃありませんけどね(必死)。由梨に勧められて『ぼくの村は壁で囲まれた』っていうパレスチナ関連の本も読みましたし(読まされましたし)。まったく、この姉弟はそっち方面の意識が高すぎるんだよな。それは立派なことではあるんだけど。
ただ、由梨も孝彦くんもただの国際派インテリ(?)ってわけじゃない。特にこの日、ぼくはすしざんまいのお寿司を食べながら、孝彦くんの意外な一面を色々と知ることができた。
例えば、孝彦くんは「テンパズル」が得意である。「テンパズル」というのは、4つの数字を四則演算(足し算・引き算・掛け算・割り算)を使って「=10」にするというゲームで、例えば「1+2+3+4=10」とか「8+(5-3)×1=10」とかいう風に「=10」を暗算で導き出す。ぼくが適当に「じゃあ『1』『4』『7』『9』で」とか言うと、孝彦くんはこの4つの数字を足したり掛けたりして高速で「=10」にする。ねづっちの謎かけみたいだ。ぼくはこの日までこんな遊びがこの世に存在することさえ知らなかった。もっとも、ぼくは孝彦くんから解答を示されても、それが合っているのかどうか分からなかったんですけどね。ぼくは簡単な暗算すら苦手な男ですから。「100+200は?」と問われたら「300!」と即答できるけど、「117+279は?」と問われたら「ちょっと待って」と30秒間停止する。……って、なんだかぼくがものすごいバカみたいになっちゃってますけど大丈夫ですか!
それから、孝彦くんは『5分間ミステリー』という謎解きシリーズ本の愛読者である。まあ、実際には「愛読者」ってほどではないんだろうけど、高校の図書室で読んだことがあって、本人いわく「全部ノーヒントで解けた」らしい(すまし顔でそう言っていた)。ただ、長編のミステリー小説は読んだことがないそうだ。そこでぼくが「『十角館の殺人』は最高に面白かったよ!」と熱弁を振るうと、由梨からは「それ今年に入ってからずっと言ってるよね」とツッコまれたけど、孝彦くんは興味を持ったらしくて「今度読んでみようかな」と言っていた。ぜひ読んでもらいたい。

あと、これはこの日いちばんの意外だったが、孝彦くんは結構ダジャレを言う。しょうもないダジャレを言う。あまりにもしょうもなさすぎたので覚えていないが、「このイカはイカれてる」とか「このイカはイカしてる」とかいう類のダジャレである。……いや、「イカはイカがですか」だったかもしれない。まあとにかく、いちいちツッコむ必要性を感じないダジャレを孝彦くんは定期的に発していて、ぼくは孝彦くんにはこんなふざけた一面もあるのかとうれしくなった。
もちろん、孝彦くんの受験の話も話題に上がった。記事の冒頭にも書いたように、孝彦くんは第一志望の大学が2つあった。片方は合格だったけど、もう片方は不合格だった。ぼくは「不合格のほうの大学が本当は孝彦くんの真の第一志望だったのではないか」と疑っていたので、孝彦くんが内心落ち込んでいないかと心配だった。
だから、ぼくはこの日、「孝彦くんが進学することになった大学は素晴らしい大学なんだよ」ということを伝えたかった。というのも、その大学のことをぼくは少しばかり知っているからである。まず、ぼくは放送研究会の渉外としてその大学には何度か行ったことがある。都市っぽさと緑っぽさが調和していて、めちゃくちゃお洒落できれいなキャンパスだった。そこの放送サークルのみなさんも、まじめで優しくて明るいひとばかりだった。
それから、孝彦くんが進学するそこの政治学科は名門である。以前、ぼくは丸善ラゾーナ川崎店へ行った時に、そこの政治学科がちくま新書から「政治学入門」的な新書を出しているのを見つけたことがある。大学の学科が大手出版社から新書を出しているって珍しい。立ち読みしてみたらこれが読み応えのある内容で(つまりぼくにとって難しい内容で)、「ああ、ここの政治学科は優秀なんだな」とすぐに分かった。孝彦くんはまさにこの名門政治学科に入学し、エリート政治学徒の道を歩むことになるわけだ。
さらに、これは本来なら真っ先に書かなくちゃいけなかったような驚くべき真実なのだが、その大学は吉祥寺エリアにある。noteの過去記事を読んでもらえると分かるけど、ぼくと由梨は吉祥寺には深い縁がある。由梨の大学が吉祥寺の近くにある関係で、ぼくらは付き合った当初からよく吉祥寺で会っているし、そもそもぼくが由梨に告白した場所も井の頭公園だった。それにしても、横浜に住んでいる姉弟がどっちも吉祥寺エリアの大学に進学するってすごいよな。孝彦くんいわく偶然らしいけど(政治学の名門を受験先に選んだらたまたまそうなったということだろう)、日本中に大学がたくさんあること、しかし吉祥寺エリアには少ししか大学がないことを考えると、これはかなりレアな偶然だと思う。
……ってそれはともかく、ジュンク堂書店吉祥寺店。ぼくと由梨がそのお店に寄ると、いつも「○○大学(孝彦くんの進学先)の学生のおすすめ本コーナー」が設置されてある。学生たちが手書きのポップでおすすめ本を紹介するコーナーだ。地域密着型書店として地域の学生とコラボしているのだ。先日、ぼくらがそのコーナーへ寄った時には、文学部の学生が『ノット・ライク・ディス トランスジェンダーと身体の哲学』という本をおすすめ本に挙げていて、手書きのポップには「SNSで氾濫するトランスジェンダー排除の言論に惑わされないために」と書いてあった。
ぼくは『ノット・ライク・ディス トランスジェンダーと身体の哲学』はまだ読んでいない。だが、その本がトランスジェンダー差別の言論に抵抗する本だということは知っている。だから、この本が肯定的に紹介されているとうれしい。トランスジェンダーへのヘイトに乗っかってしまうひとが多くいる中で、それに抵抗する書籍を学術的に読み解き、そして地元の大きな書店で紹介してくれる学生がいる。そんな大学が悪い大学のはずはない。

……というようなことを、ぼくはお寿司を食べながら孝彦くんに伝えた。まあ、途中で話が脱線しちゃったし、最後の『ノット・ライク・ディス トランスジェンダーと身体の哲学』のくだりはややこしいので「吉祥寺のジュンク堂書店では○○大学の学生がおすすめ本を紹介するコーナーがある。そこで紹介されている本はどれも素晴らしい」程度に割愛したんだけど。
そうしたら、孝彦くんは小馬鹿にした感じで「そんなプレゼン必要ないですよ。おれはもうそこに入学するのが決まってるんだから」とぼくに言ってきた。結構ドヤ顔だったな。ぼくが勝手に心配していただけで、どうやら孝彦くんはその吉祥寺の大学に進学することを心の底から誇らしがっているみたい。まあ、そうだよな。「第1志望を2つ設定する」っていうのはたぶんそこまでおかしなことではない。ぼくは勝手に「本当はあっちのほうが……」なんて疑っていたけど、「不合格」のほうに注目して、悪い方向に目を向けてしまうのぼくの悪い癖です。
さて、肝心のお寿司ですが、孝彦くんは「普通に美味い」と言いながらパクパク頬張っていて、ぼく自身もネタの新鮮さ……あと、海苔の温かさに感激した。回らないお寿司もいいもんだな。すしざんまい有楽町店。「回らないお寿司」とはいえお値段はそこまで高くないし、店内は無駄に緊張する雰囲気じゃないし、ぼくはいいお店を見つけたかもしれない。まあ、孝彦くんが追加で注文した個別のにぎりは結構お高めでしたが……
お会計の時には、ぼくと由梨で「たぁくんの分はぼくが払う」「わたしも半分払う」と言い合って少し揉めた。孝彦くんからは「どっちでもいいからさっさと会計してくれ」と言われてしまったけど、ここで「おれの分はおれが払う」と言い出さないところが孝彦くんの立派なところだ。あくまでも他人に奢ってもらうつもりでいて、しかも偉そうでいる。この図々しさをぼくも見習いたいものである。
すしざんまい有楽町店を出たあとは、結局日比谷ミッドタウンに行って、日比谷公園に行ったら日比谷図書文化館で『実録 桜田門外の変』という企画展がやっていたので入って、皇居のリアル桜田門も見に行ったんですけど、どう考えてもその話は長くなるのでやめます。結論としては、ぼくら3人は充実した平日午後のひとときを過ごしたっていうことです。

ぼくは彼女の弟に回らないお寿司を奢る。由梨からは「たぁくんに吉祥寺のおすすめスポット教えてあげる? わたしたちがよく行くお店とか」と提案されたけど、ぼくは「それはたぁくんが自分で見つけたほうがいいんじゃない?」と答えておいた。孝彦くんが誰と出会い、どこで何をするかは孝彦くんの人生だ。孝彦くんが自分で決めたり迷い込んだりすればいい。たぁくんの人生はたぁくんにおまかせしますよ。ぼくが孝彦くんにしてやれることといえば、そうね、回らないお寿司を奢ることぐらいかな?
