育種と進化─《選択》は進化を説明できているか
ダーウィンは育種の手技が非常に厳格であること、また、その効果が絶大であることに注目しました。そして、育種と同様に進化においても《選択》がもっとも重要なはたらきをしていると結論づけました。
ダーウィンは『種の起源』の中で育種と選択について次のように述べています。
選択のこの原理が大きな力をもつことは、仮説的なものではない。多くの優秀な育種家たちは、自分一代のあいだだけでウシやヒツジのいろいろな品種を大はばに変化させた。かれらの仕事を十分に理解するためには、この問題をとりあつかった多くの報告のうちからいくつかをよみ、動物をよくしらべてみることが必要であるといってよい。育種家たちは、動物の体制がなにかまったく可塑的なもので、ほとんど思うとおりにこねあげられるかのようにいうのが、ふつうである。もしもここに紙面の余裕があれば、きわめて有能な著者たちのかいた、この効果についての文章をかず多く示すことができる。おそらく他のたいていの者より農業家の著作によくつうじており、また自分自身ひじょうにすぐれた動物鑑定者であったユーアット(Youatt)は、選定の原理についてつぎのようにのべている。すなわち、それは「農業家をして家畜の形質を変改させられるだけでなく、完全に変えてしまうようにさせることができる。これは、のぞみどおりの形や型に生命を吹きこむことのできる魔法の杖である。」ロード・サマヴィル(Somerville)は、育種家たちがヒツジでおこなった仕事について、「それは壁に白墨で完成した形をえがき、つぎにそれを実物に化するかのようである」と、のべている。もっとも熱練した育種家であるサー・ジョン・セブライトは、ハトにかんして、いつもつぎのようにいっていた。「どんな羽も、三年あればつくりだせる。しかし、頭や口ばしでは、六年かかる。」
生物における変異はランダムに発生することが観察されています。しかし、変異がランダムであるにもかかわらず進化には法則性があります。ダーウィンは、いかにすればこの偶然・ランダムから法則を導くことができるのか頭をひねりました。そうしてこしらえたのが自然淘汰です。偶然の変異に自然が《ふるい》をかけることで進化が起きるのだ、と。
この自然淘汰説を考案する際、育種の研究が大きな役割を果たしました。人間程度が《選択》することで新しい品種が形成されるのだから、自然界ではもっと大規模な《選択》が行われているはずだと考えたのです。
しかし、わたしは考えます。育種が示唆することは本当に《選択》なのかと。
そこで、次のような考察を行います。
ジャイアンが毎日、おやつを独り占めしているとしましょう。そこにしずかちゃんが現れ、「おやつは平等に分けましょうよ」と提案します。この日からしずかちゃんは毎日おやつタイムに参加するようになり、以後おやつは平等に分配されることになりました───
これを育種や進化と同様な過程と見なしましょう。
おやつが平等に分配されるためにはおやつタイムにしずかちゃんが現れることが必須です。つまり必ず外部からの介入が必要だということです。
ダーウィンは育種の選定が極めて厳格であることを見て、進化の法則は《選択》だと考えました。
しかし、育種の本質は“選定が厳格である”ことなのでしょうか?
おやつの分配はしずかちゃんがくりかえし現れることが保証されていれば平等に行われます。その際、大切なことはしずかちゃんが《くりかえし》現れることであって、しずかちゃんを参加させることが難しいかどうかではありません。
同様に、育種の本質も、選定の技法が厳格であることではなく、人間の手が《くりかえし》加えられるということなのではないでしょうか。選定に非常に神経をつかうといったことは第二義的なことだと私は思います。
育種が示唆することは、《選択》が進化の法則である、ということではなくて、法則が成立するためには《くりかえし》がなくてはならないということなのです。
《そこに法則が見られる》ということは、くりかえし恒常的に現れる関係があるということです。育種の法則性もくりかえされるからこそ現れます。《選択》ではなく、《くりかえし》が育種の本質です。
ところで、育種においても、進化においてもくりかえしが重要であることは共通なのですが、両者には決定的な違いがあります。それは、育種のくりかえしは《外部からの介入》によってなされるのに対し、進化のくりかえしは進化自体に《内属》しているということです。
《内属》するとはどういうことか考えてみましょう。
資本主義的生産の1サイクルが終わったとき、そこには自分の労働力を売るしか生きていくすべがない労働者の一群を見いだすことができます。この状態は資本主義的生産自身がつくったものです。こうなっていると、資本家は、望めば次の資本主義的生産のサイクルを再び始めることができます。つまり、資本主義的生産はくりかえし行われます。資本主義的生産は自分の前提を自分でつくったのです。資本主義的生産は資本主義的生産のくりかえしを《内属》しているのです。
現実の世界に恒常的に存在するものは《くりかえしを内属》しています。くりかえしを内属していないような事物は一時的にしか存在し得ない、《すべからく消えていくべきもの》です。
アブラムシは甘露を分泌し、アリはそれを栄養源として摂取する見返りに、アブラムシを外敵から守るという共生関係にあります。最初、アブラムシにとって甘露は排泄物に過ぎなかったでしょう。甘露を分泌するアブラムシも、しない(排泄物が甘くない)アブラムシもいたはずです。ここで、自然淘汰説なら、ふるいがかかったことで《結果的に》甘露を分泌する個体が生き残ったのだと説明するでしょう。しかし、そうではないと私は考えます。アブラムシが甘露を分泌するということと、アリがアブラムシを守るということのあいだに《くりかえしが成立》し、くりかえすことにより、甘露を分泌するアブラムシは《方向性を帯びて》生き残り、分泌しないアブラムシは死に絶えるしかなかったのです。甘露を分泌するアブラムシは、自己の内部に甘露を分泌するという能力、また、子孫に甘露を分泌する能力を伝えるという能力、を《内属》していたのです。それにより、くりかえし現れる関係が成立したのです。そうしてアブラムシは甘露を分泌する種という地位を確立したのです。
《ふるいにかけられた結果そうなった》という受動的なはたらきが進化をもたらしたのではなく、《自らくりかえしを成立》させたのです。そうでなくては進化に法則性は現れません。《結果的にそうなった》という説明では進化の理論を述べたことにはならないのです。
資本主義の1サイクルが終わったとき、もし、労働者たちが働かなくても暮らしていけるだけの財産を有していたら、資本家は次のサイクルを始めるためにどこかから働き手を探してこなくてはいけません。こんなことでは資本主義的生産はすぐに萎んでしまうでしょう。
同様に生物が、その進化において、くりかえしを内属しておらず、毎回外部からの介入を要するとしたら、その生物が進化して生き残ることはできないでしょう。《自然淘汰とはそういう外部からの介入に相当します》。自然淘汰が進化の理論だとしたら、アブラムシは甘露を分泌する種としての地位を獲得するに至らなかったはずです。
《ふるい(選択)》自体にはふるいがくりかえすということは含まれていません。もし、ふるいが進化の理論であるとしたら、進化は全面的に外部に依存する、はなはだ動揺的なものになってしまうでしょう。そういうものには法則性はありません。したがって《選択》は進化の法則たる資格がないのです。
このように生物の進化において《くりかえしの内属》が必須です。
結論として、ダーウィンが育種に見た《選択》は、進化の法則に採用されていません。「外部からの介入」すなわち《選択》が進化を推進するのではありません。生物はくりかえしを成立させる能力を《内属》しているのです。
