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「いい人」ほど、「鬱」になる。


私は、いわゆる「いい人」だった。

「大丈夫」「はい、やります」が口癖の人

私は、いわゆる「いい人」であった。
デザイナーとして、サービスを使ってくださる方々を想像し、あるべき姿を考え、形にする。利用してくれる人々が一番優先であるからして、お客様や上司に何を言われようが、全身全霊で対応してきたのである。

自分の感情など後回しであった。

使ってくださる人々が幸せになるのであれば、困っていることが解決されるのであれば、それが私の生きる喜びであると本気で信じていたのだ。

ただ、いい人であった。

でも、30代で倒れた。何も頑張れなくなったのである。

カウンセラーさんに「あなたは『いい人』をやめられなかったんですね」と言われた時、涙が零れた。

やめたかったのである。しかし、やめ方がわからなかった。いや、やめてはいけないものだと思い込んでいたのかもしれない。

では、「いい人」は、なぜ鬱になるのだろうか。

「誰かのため」という名の擬態

私の場合は「ユーザーのため」という大義名分であった。

しかし振り返ってみると、それは見事なまでの「擬態」であったのである。

本当は断りたい修正依頼、本当は無理だと思う納期、本当は違うと思う仕様――これらすべてを、「ユーザーのため」という魔法の言葉さえあれば飲み込むことができたのだ。

自分の感情より、使ってくださる人々の幸せ。それが正しい。それこそがデザイナーのあるべき姿である。そう信じて疑わなかったのである。

同僚が「それ、自分を消してるだけだよ」と指摘してくれた時、私は何も言い返せなかった。

消していたのである。いや、消さないとこの仕事ができない気がしていた。

いい人とは不思議なもので、相手のために生きているように見えて、実際のところは自分の存在理由を「誰かの役に立つこと」でしか証明できない哀れな生き物なのかもしれない。

私は誰かの役に立っていたのではなく、役に立つことで自分の価値を必死に証明しようとしていただけなのではないだろうか。

HPゲージが見えない構造的欠陥

知らぬ間にHPが0に

いい人が鬱になるのは、自分の感情にHPゲージが存在することに気づかないからである――いや、気づかないふりをしているからである、と言った方が正確かもしれない。

他人の頼みを引き受けるたびにHPは削られる。会議で意見を飲み込むたびに削られる。本当は嫌なのに笑顔を作るたびに削られる。

ところが、いい人はこの明白な「消耗」を消耗として認識しないのである。

「これくらい当たり前」「みんなやっている」「私だけ文句を言えない」――こうした思考が、自分のHPゲージを不可視化する呪文として機能するのだ。

職場の先輩も同僚もみんな頑張っている。だから自分だけが弱音を吐けない。自分だけが休めない。自分だけが逃げられない。

そうして、気づいた時にはHPがゼロになっているのである。

ある日突然、起き上がれなくなる。涙が止まらなくなる。何もやる気が起きなくなる。

それが鬱であった。

担当医が「あなたのHPゲージは、ずっと赤だったんですよ」と教えてくれた。

赤信号が点滅しているにもかかわらず、私は走り続けていたのである。倒れるその瞬間まで。

なんと愚かしいことであろうか。

「いい人」という呪縛装置

では、なぜいい人はHPが削られていることに気づかない――いや、気づかないふりをするのだろうか。

それは「いい人であること」が唯一の承認装置として機能していたからである。

頼られること。感謝されること。「あなたがいてくれて助かる」と言われること。

これらが自分の価値であった。

だから断れない。休めない。逃げられない。

断ったら価値がなくなる。休んだら必要とされなくなる。逃げたら見捨てられる――そんな恐怖が私を縛りつけていたのである。

カウンセラーさんが「いい人をやめても、あなたの価値は消えませんよ」と言ってくれた時、私は信じられなかった。

いや、信じたくなかったのかもしれない。なぜなら「いい人」という鎧を脱いだ後の自分など、想像したこともなかったからである。

しかし少しずつわかってきた。

いい人であることは呪いであった。その呪いを解くには、自分で「いい人をやめる」と決断するしかなかったのだ。

誰かが許可を出してくれるわけではないのである。

いい人廃業のススメ

いい人の辞表を出そう

いい人をやめることは、冷たい人間になることではない。

それは自分の感情を最優先にすることである。

断りたい時は断る。休みたい時は休む。逃げたい時は逃げる。

シンプルな話である。

そうすると当然、人は離れていく。「期待外れ」と言われるだろう。「冷たくなった」と評価されるだろう。

しかしそれでいいのである。

先輩が「合わない人が離れると、合う人が集まるよ」と言ってくれた。最初は信じられなかった。しかし本当であった。

いい人を廃業したら、驚くほど楽になったのである。

「誰かのため」という呪文で自分を犠牲にしなくなった。無理な頼みには「できません」と堂々と言えるようになった。自分のHPゲージを守れるようになった。

そして気づいたのである――本当に誰かを助けられるのは、自分が壊れていない状態でしか実現できないのだと。

皮肉な話である。「誰かのため」に自分を削り続けた結果、誰の役にも立てなくなるのだから。

充分ラインは自分で引くべきである

いい人は他人の期待に応え続ける。そしてそのラインがどこまでも上がっていくのである。

上司が期待する。同僚が期待する。お客様が期待する。そして社会が期待する。

しかし本当は、充分ラインとは自分で引いていいものなのだ。

「ここまでやれば充分」「これ以上は無理」「今日はこのくらいでいい」――このラインを、上司にも同僚にも、ましてや「会社のため」「お客様のため」という錦の御旗にも、決して決めさせてはいけないのである。

私は今、自分の充分ラインを守っている。

朝、起きられなかったら休む。仕事を引き受けすぎたら断る。疲れたら理由を言わずに休む。

それで離れる人は離れていい。それで評価が下がるなら下がっていい。

自分を壊してまで誰かの役に立つ必要など、どこにもないのである。

結び――いい人廃業宣言

いい人ほど鬱になる。

これは統計的事実であるかどうかは知らないが、少なくとも私の観測範囲では真実である。

それは「いい人が悪い」からではない。「誰かのため」という言葉が、自分を消す免罪符として機能していたからである。

誰かのことを考えるのは大切である。しかし自分のことを考えないまま誰かを幸せにすることなど、原理的に不可能なのだ。

いい人をやめる許可は、誰かにもらうものではない。自分で自分に与えるものである。

あなたはもう充分にやってきた。

これ以上自分を削る必要などない。

いい人を廃業して、生きていいのである。

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渋谷 綴 最後まで読んでくださり、ありがとうございます! よければコンビニおにぎり一個分の応援、いただけたら泣いて喜びます...。 あなたの気持ちが、次の記事を書く力になります🍙🙏