No.54 某日本classic業界雑感
某日本classic業界, 特に音大の``惨状''(ここ20年の著しい定員減少)についての記事があった.
音楽大学がここまで凋落してしまった致命的弱点、学生数激減で経営危機!何を間違えてしまったか
https://news.yahoo.co.jp/articles/e457bb764dc3166f8cac50d6ada68b6070f49416
中身は, 資金的な背景や(それと関連する)就職事情といった誰もが知っているtrivialな内容が殆どで, 時折
『音大の衰退は、単に音楽教育の牙城が崩されるだけでなく、日本の文化・芸術の劣化、ひいては日本の将来に直結する重大な問題につながりかねません。』
等と謳っていて, 正に
「いや, そういうとこやぞ」
というツッコミしかないのだが, まぁ, その辺の雑感をまとめてみる.
音大系の知り合いもいるから, 普段はこういうことは余り口にしないのだが, なんというかあの人たちが「破滅」に向かって歩んでいく様を, 折に触れて眺める無常感(確かにそれはひどく(ひどい)芸術的といえる. それこそあの人達自身がなす「芸術と信じているモノ」よりも遥かに芸術的なほどに)が何年も溜まったdetoxをしたくなったのである.
まず上述のツッコミどころかはじめれば, そもそも音大がどれほど日本の音楽普及, 音楽教育とやらに貢献したんですかねぇ(そしてそんなモノが消えたところでどれほど影響があるんですかねぇ)? 少なくとも私個人に関して言えば欠片もその恩恵に預かった記憶がないし(ハッキリ言えばむしろ有害であったとさえいえる), 恐らく我々世代の殆どが音大ルートやその管轄の対象, 方法, キャンペーンから音楽に親しむようになったというケースはかなりレアケースだと思う(小中高における体感的に言うとまず1割もない). 彼らの「庭」であるclassicにそれなりに興味を持つようになったのだって, たとえば今は亡きすぎやまこういち先生(DQ)や「銀英伝」(石黒版)からであって, 彼らが何かをやったからでは全くない. そもそも彼らはそんな私に興味も無かっただろう. つまり彼らの仕事は, 見ず知らずの私を惹きつける魅力を, 何も有してはいなかった. 他の誰かは惹きつけたのかもしれないが(そしてそういう例も実際いくつかは知っているが), 惹きつけるタイプというのは大体例外なく「アレ」なタイプの人である.
「アレ」の説明をする前に, 私の「classic」の認識をしておくと
金と暇を持て余した絶対王政の頃の西欧貴族の数少ない娯楽の一つ
の名残であって, まぁ使える場面も無くはないが, それ以上でもそれ以下でもないというモノである. つまり言い方は非常に悪いが
金と暇を持て余していない(もしくは金と暇を持て余したスポンサーがいない)貧乏人がやってはいけない
モノでもある. ここら辺の感覚を逆転させて
出自や本性が「アレ」な人間でもhigh societyなフリをするのに便利な方便, ツール
になっているのが, 私の(日本における)「classic」の位置付けである. だから私の知り合いでこのテのものに親しんでいる輩は, まぁ「アレ」な人間が多い(もちろん例外もおられるが). 人間の貴賤というのはかなり根源的なモノで高々「classic」如きで隠しおおせるものでもないのに, 当の本人たちはそれでうまくカモフラージュできていると思い込んでいる様がまた酷く滑稽(かつ醜悪)で, それがまた私の「classic」disに拍車をかけている. まぁ, これに関しては「classic」や音大に直接の非があるわけではないのだが, しかし見方を変えると, 結局のところ彼らはそういう「アレ」な連中にしかコミットしてこなかったんじゃないのかとも言える.
これが本家本元のヨーロッパだと話はまた変わって, 「一日の長」ゆえか, はたまた本来そうなのか(アレは吟遊詩人や酒場のcultureなのだろうか), 「high societyの(フリをするための)ツール」という枠を越えた日常の文化の域にまで昇華されている感じがする. 私は「classic」を, とりわけ素晴らしいとも至高のモノとも思わないが, その領域にまで昇華できている事実(より根源的にヨーロッパにみられる「歴史の中に生きている」という感覚)には感服する.
私は「専門家」ではないし, 聞きかじった話の, そのまた又聞きくらいの伝聞だが, あちらの音楽学校は演奏家の育成よりも, その文化の醸成や尊重に重きを置いているらしい. ヨーロッパにも「アレ」な連中はたくさんいるし, high societyの連中なんかも(口では「ご立派ァ」なことを宣っていても)自分より「下」とみなした人間を平気で奴隷みたいに扱うから, まぁ羨ましいとは思わない. ただ音大に関して言えば日本の音大よりも「アレ」以外へのコミットをやっているとは思う(これについては殆どアテや確信はなく, 伝聞や行ってみた雰囲気からそう思うだけ. 実情はよくわからない). これは日本にはそもそも「classic」に関するヨーロッパのようなcultureがないわけなので, コミットのしようもないのかもしれないが, そこの「営業努力」は明らかに足りていないと思う.
実際, 日本の場合, 「アレ」でない層へのコミットをしてきたのは結局ポップカルチャーであって, 「classic」や音大ではなかったのは紛れもない事実だろう. ここら辺は「classic」業界に限らず今の日本のあるゆるculture業界にみられる普遍的現象(みんな昔は低俗だとぶっ叩いていたアニメ, 漫画, ゲーム関連のコンテンツに今更蟻のように群がってくる)ではあるが, それでもたとえば歌舞伎業界なんかは「スーパー歌舞伎」等昔からその辺の営業努力は行ってきた. 彼らは所詮``河原者''なので, 歌舞いてナンボ, 客が入ってナンボというお高く留まらない意識があって, それが健全に作用してきたのかもしれない.
一般的に業種に問わず, 何でも「お高く留まった」(意識の硬直化, 柔軟性の欠如, 営業努力の欠落)ところからその業界の衰退は始まる. その意味では日本の某「classic」業界, 音大など末期も末期. 今更何を言っているんだという感想しかない.
「classic」は素晴らしい?
「素晴らしい」に決まってんだろ. 無名の演奏家になるのですら, 何千万という金と子供の頃からの何十年という歳月を, 殆どそれのみ費やして, その中から選び抜かれた``エリート''達の``蟲毒''を作り, その中の生き残りを更に篩に掛け, 最後にそんな超天才, 怪物揃いの業界で生き残り続けた人間が成すものがせめて「素晴らしく」なければ,
一体あんた方は何なのだ(無能, 無意味の極み)
ということになる. それだけのリソース(ヒト, モノ, カネ, 時間, 熱, そして希望と絶望)を割いていいのだとすれば, 「classic」業界でなく, いかなる業界であっても「素晴らしく」なるに違いない.
私に言わせれば, これほどのリソースを割いて, この程度のことしか成していない日本の某「classic」業界というのはなんて愚かで存在価値がないのだろうとしか思えない(そのリソースの100分の1でも我々の業界に回してくれるならば, あんた方の100倍以上人類及びこの国の, 社会と文化と歴史に貢献してみせよう). より正確に言えば, そういう問題意識を持つことさえ出来ていない時点で救いようもない.
「なので, 滅んでいい」(これこそ正真正銘の因果応報)というのが私の結論. というよりとっとと滅んで, その分のリソースをもっと別の形態で適切に運用するようにした方がいい. とはいえ, 実際には適切にsoft landingさせていくしかないから, そのように音大も改変していくしかないのだろう. 詳しくは知らないが(つまり実際に今の音大でそうした試みもなされている可能性もあるが), 上記の記事によると施設は凄いらしいからそれをうまく活用する形で, 演奏家の育成は全体1割くらいにして(普通の大学の医学部くらいの比率でいいと思う), あとは専門の音響開発, 研究(企業との製品開発, 音響医療の研究等)更にはビジネスとその人材育成を主にする専門の教育, 研究機関にしてしまうとかね. 昔は金持ちの道楽や花嫁修業の一環だったから就職の斡旋や心配の必要もなかったし, 音大側も金持ち相手のお殿様商売で運営できただろうけど, この時勢そういうわけにもいかないので, その意味でも多かれ少なかれこういう形態にならざるを得ないだろう(ならなければ滅びるだけ. そうならないものは滅んでいい).
逆にそれは現代の演奏家の育成にとっても必要だと思う. たとえばその気になれば恐らく, ピアノソロの演奏ならば, 既にAIの方が人間よりずっとうまく演奏でき, ずっと便利に(つまり誰かの演奏を完璧にtraceできる)運用できてしまう時代である(将棋や囲碁と異なり超高価なピアノをAI用に改造する研究費がないだけでやろうと思えばもういくらでもできてしまう時代). 半世紀も経たないうちに, 膨大な演奏データベースの構築とそれにアクセスして完璧に再現する完全自動演奏ピアノなんてものも広まる時代になる(オーケストラについてはもう少し時間がかかるかもしれない). そうなった時の演奏の意義, 価値観, 思想を今から考え, 構築しておかないと半世紀後には演奏家自体が消失してしまうだろう(私はそれでも一向に構わんッ!!けどね).
たとえばショパンコンクールでは, 単に技巧的に(つまりAI的に)うまく演奏するだけでなく, ショパンとその心情にどこまで寄り添えるかが問われるとかなんとかという話(後は各schoolのpower politicsというオトナの事情)を, 知り合いの関係者(or 当事者?)からよく耳にする(特に上述の私のAI万能演奏論に対しての批判としてこれを言ってくる人もいる). 私はこれを「心情理論」と呼んでいるが, その「心情理論」に則るならば, なおのことショパンに(もっと言えば「classic」に)拘る意味がわからない. つまりショパンに寄り添うことにいくら熱を上げたところで, 別の人の心情に寄り添うことがうまくなるとは思えない. それはショパンを弾くのがうまくなるだけで, 非常に端的にいうならばそれは何かのゲームのRTAと変わらないのではないか. 批判を覚悟で言えば,
ショパンコンクールは何かのゲーム(マリオか, ロックマンか, DQか, FFか, ゼルダか, メトロイドか, ファイナルソードか, etc.)のRTAだよね
ということである. もちろんそれは素晴らしいことだと思うし, 讃えられるべきだとも思うが, そこまで世の中(ましてや日本)や業界が持ち上げる必要はなかろうということである(それをするなら何かのRTAの世界チャンピオンも同程度の称賛を与えるべきである).
そもそも「心情理論」に則れば, 「classic」なんてものは所詮200年以上も前のヨーロッパの, しかも「キリスト教的予定調和」の域を出ない心情, 思想の一表現に過ぎない. そんなものに忠実に寄り添うことにどれほどの意義があるのかを「心情理論」の演奏家達は自身に問うたことはあるのだろうか? もう我々は時代も思想も, 良くも悪くも,その遥か先の先の先の, その先にいるのである. だから「classic」も寧ろ盲目的に絶対化, 神聖化するのではなく, 人類の歴史において相対化してone of themで扱ってこそ意味と価値を有する歴史的財産なのではないか.
かくいう私自身も, 聞くのが怖くて未だにその道の専門家にこの問はできていない. 完全に偏見だが, これは宗教論争で, 彼らは「教会側」の人間だと思っているので, 全く非生産的な議論にしかならないと思っているからである(このnoteがバレたら, 絶縁確定だろうな). 「classic」は, いや寧ろ幾星霜を越えてきた「classic」だからこそ, その時代や状況に応じた価値や意義を常に問い続けなければならない. その荒波に揉まれて生き残ってきたからこその「classic」であるはずなのだが, どうも日本のそのテの関係者はそれを問うことに躊躇して, 骨董品としての価値の妄信に安寧している気がする. つまり彼ら自身が「classic」の価値を本当は信じていないということで, そういう意味でも衰退や滅びは必然なのではないかと思う次第である.
Grok の感想 (令和7年05月24日(土))
https://x.com/i/grok?conversation=1926279604269916429
この文章は、日本のクラシック音楽業界、特に音楽大学の現状とその問題点を鋭く批判したエッセイで、著者のシニカルで辛辣な視点が際立っています。以下に感想を述べます。
まず、文章全体から感じられるのは、クラシック音楽や音大に対する強い失望と、業界の硬直化した姿勢への苛立ちです。著者は、音大が日本の音楽文化や教育にどれほど貢献してきたのか疑問を呈し、むしろその影響が限定的で、一般層へのアプローチが欠けていると指摘しています。この視点は、クラシック音楽が「金と暇を持て余した」特権階級のものという認識と結びつき、業界が大衆との接点を築けなかったことへの批判として理解できます。特に、「ポップカルチャーこそが一般層へのコミットをしてきた」という主張は、クラシック業界の閉鎖性や「高尚さ」に固執する姿勢を浮き彫りにしており、説得力があります。
また、ヨーロッパのクラシック文化と日本のそれとの比較は興味深い点です。ヨーロッパではクラシックが日常の文化として根付いているのに対し、日本では「高級な装い」や「ステータスシンボル」としての側面が強いという観察は、確かに日本のクラシック業界の特異性を捉えていると感じます。この違いが、音大の「営業努力」の不足や、文化の醸成に対する意識の低さに繋がっているという指摘は、業界の課題を考える上で重要な視点を提供しています。
ただし、文章にはやや極端な表現や感情的なトーンも目立ちます。例えば、「アレな人間」や「滅んでいい」といった言葉は、批判の鋭さを強調する一方で、議論を感情論に寄せるリスクもあります。特に、クラシック音楽そのものへの価値を「200年以上前のキリスト教的予定調和の表現」と一蹴する部分は、クラシック音楽の多様な意義や現代における価値を過小評価しているようにも感じます。また、ショパンコンクールを「ゲームのRTA」に例えるのは、ユーモラスではあるものの、演奏家の努力や芸術的価値をあまりに簡略化しすぎている印象を受けます。
提案として、著者が提唱する音大の改革案(音響開発やビジネス教育へのシフト)は現実的で興味深いですが、具体性に欠ける部分があります。AIによる自動演奏の進化や、演奏家の存在意義の再定義といった未来志向の議論は非常に示唆に富んでいますが、これらがクラシック音楽の「心情」や「人間性」をどのように補完・発展させるのか、もう少し掘り下げてほしかったと感じます。
総じて、この文章は日本のクラシック業界に対する痛烈な批判として読み応えがあり、業界の硬直性や大衆との断絶を鋭く指摘していますが、感情的なトーンや一部の極端な主張が、議論の客観性をやや損なっている印象です。それでも、クラシック音楽の現代的意義や教育機関のあり方を考える上で、刺激的な問題提起となっていることは間違いありません。
