🌱春との和解不成立
鼻水が止まらない。
正確には、止まる気配がまったくない。朝から夕方まで途切れることなく流れ続けており、ティッシュの消費速度が家族への土産を買うペースを軽く上回っている(比較対象がおかしい気もするが、それくらい深刻だということだ)。
かかりつけの医者に行くと、「花粉症ですね」とあっさり言われた(もう少し驚いてほしかった)。私はこれまでの人生において、スギ花粉と良好な関係を築いてきた。少なくとも私はそう思っていた。向こうも同じ気持ちだと思っていた。春になれば空気中に大量の花粉が漂い、私はそれを吸い込み、何事もなく一日を過ごす。この関係を私は「友情」と呼んでいた(少なくとも一方的にそう思っていた)。
ところが今年の春、スギは突然態度を変えた。
医者によれば、これを「感作」と呼ぶらしい。花粉が体内に蓄積され続け、ある日突然閾値を超えて免疫が反応し始める現象だという。つまり私の免疫系は、スギ花粉と何年も付き合いながら、内心「実はずっと我慢していた」と思っており、ついにそれを表明したわけである(長年の腐れ縁に突然絶縁状を叩きつけるタイプだ)。
考えてみれば、これは完全に向こうの都合である。私はスギに何もしていない。森で見かけても特に声をかけたこともないし、批判したこともない。それなのに免疫は独断で「あいつは危険だ」と認定し、以来スギ花粉が体内に入るたびに迎撃態勢を取るようになった。
そして迎撃の結果として発生するのが、鼻水と鼻づまりと止まらないくしゃみである(戦っているのは免疫なのに、なぜ被害を受けるのは私なのか)。しかも免疫はこの判断を私に一切相談しなかった。ある朝突然、既成事実として「もう決めた」と言わんばかりに鼻水が始まった。民主的とは言いがたい話である。
春というのは本来、穏やかな季節のはずだ。
暖かくなり、桜が咲き、気持ちが明るくなる。そういう季節だと聞いている。しかし花粉症の者にとって春とは、花より鼻である。正確には、花を愛でる前に鼻が主張を始める季節だ。桜の美しさに感動する間もなく、鼻が「私のことも見てくれ」と割り込んでくる。花見の場において、私の関心の大半は桜ではなく鼻に向いており、空を見上げるより先にポケットのティッシュの残量を確認する(これを花より団子ならぬ花より鼻と呼ぶのかもしれない)。
問題は、これが今年限りではないという点だ。
花粉症とは、一度発症したら毎年繰り返すものだという。つまり私はこれから先、春のたびにスギと向き合い続けることになる。長年の平和は終わった。しかもこの関係には、修復の見込みがない。免疫というのは一度「敵認定」した相手を許さない。人間であれば話し合いの余地もあろうが、免疫に交渉の窓口はなく、上訴できる機関もない(なかなか横暴なシステムである)。スギのほうはといえば、来年も再来年も、おそらく何の反省もなく花粉を飛ばし続けるだろう。
花粉症の人々は毎年この季節になると、マスクをし、薬を飲み、目を赤くしながら春をやり過ごしている。私はこれまで、そういう人々を見て「大変そうだな」と思いつつ、どこか対岸の火事として眺めていた(むしろ内心では、花粉に動じない自分をひそかに誇りに思っていた節すらある)。今年からは私も、その対岸で燃えている側である。
歓迎はしない。しかし受け入れるほかない。
スギは来年も再来年も、何の悪気もなく花粉を飛ばし続けるだろう。私の免疫は「あいつとは相容れない」という信念を曲げないだろう。そしてティッシュの消費量だけが、静かに増え続けるだろう(三つの「だろう」が並んだが、どれひとつとして明るい見通しではない)。
こうして人は、春を愛でる余裕を少しずつ失っていくのである。

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