見出し画像

ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第6回――朝廷は、まだ生きていた~院議定制から見る中世政治

承久の乱以後、朝廷は形骸化し、政治の主導権は完全に鎌倉幕府へ移った――
そんな通俗的な理解に、少し立ち止まって疑問を投げかけてみたいと思います。

今回取り上げるのは、後嵯峨院期に整えられた「院議定制」という合議制度です。
この制度は、幕府(武士)側からの要請を一つの契機として始まり、「院の恣意的な政治運営」を制度的に制御しようとする試みでもありました。一方で、それは鎌倉幕府が朝廷を支配したことを意味するものではなく、あくまで「朝幕協調」の枠組みの中で成立した仕組みでもありました。

院議定制の具体的な運営や、その限界、そして後嵯峨院自身の決裁(勅定)との関係を確認しながら、本稿では「中世の朝廷は、なお実体を持った政権として機能していた」という点を、制度史の視点から整理します。

後嵯峨院、院議定制、そして承久の乱後の朝廷――
それらをつなげて見ていくことで、後の亀山・後深草両統の政治スタイル、さらには南北朝や後醍醐天皇の親政へと続く流れも、少し違った姿で見えてくるはずです。約8900字


はじめに

前回は、まず「両統迭立」の扉を開いたキーマンの一人である北条時宗の動機について、補足的に考察してみました。

その中で、両統迭立という選択は、必ずしも合理性だけで説明できる解決策とは言い切れないこと、また、理論上は「王家領の経済力を亀山方に集約して皇統を一本化し、後深草皇統は予備的な系統として温存する」といった別の選択肢も、時宗には取り得たのではないか、という点を指摘しました。

それにもかかわらず、時宗が一見すると非合理にも見える着地点を選んだ背景には、「不遇の後深草を助けたい」「兄弟間の争いをできるだけ穏やかに収めたい」という、親切心や義侠心といった、いわば「お気持ち」の要素も少なからず作用していたのではないか、と推測しました。

また、当時「関東申次」として時宗の介入を引き出した西園寺実兼についても触れ、そこにはすでに「亀山派・後深草派」という派閥対立の萌芽が見られること、そして実兼自身が、後深草派として自らの立身を図る意図を持って行動していた可能性について述べました。

さらに、史料的な裏付けを欠く点は承知の上での私見ではありますが、実兼の行動の背景には、後深草の寵愛を受けた「二条」と呼ばれる女性の存在があり、彼女が実兼にとって相思相愛の「想い人」であったと仮定すれば、彼女を守るために後深草の立場を押し上げようとした、という動機も全く考えられない訳ではないのでは――そんな、やや大胆な推測にも触れました。

さて、ここで一旦「両統迭立」そのものの議論は脇に置き、その背景の一端である「両統迭立期の政治構造」について、少し視点を引いて眺めてみたいと思います。
前回の最後にも触れた通り、私は専門家ではなく、ごく普通の一般人ですので、詳細で厳密な制度史の議論を行うことはできません。あくまで全体像を掴むための「大まかなイメージ」の話になりますが、その点はあらかじめご容赦ください。

そもそも「院政とは」というお話

本シリーズで「院議定制」について最初に触れたのは、第3回でした。そこでは、後嵯峨院の権力・権威を支えた「三つの担保」の一つとして院議定制を挙げ、すなわち「権力者が、制度として真面目に統治を行っていた」という事実そのものが、後嵯峨院の権力・権威の一端を形作っていたのではないか、という点を指摘しました。

では、「後嵯峨院以前の統治者は、真面目に統治を行っていなかったのか」と言えば、当然ながらそのようなことは全くありません。

ここで一つ、大前提として押さえておきたいのは、そもそも院政とは、朝廷(律令)における従来の制度・慣習・前例に必ずしも縛られない、比較的「自由度の高い」政治システムであった、という点です。

そのため、広大な王家領に裏打ちされた経済力を背景として、院(上皇・法皇)の発言力が非常に強くなる傾向が、院政という仕組みの中には元来内包されていた、と考えることもできるでしょう。

特に後白河院期においては、公卿による正式な会議がほとんど開かれなくなり、院が在宅している近臣に対して個別に意見を求める、いわゆる「在宅諮問」の形式が主流であったとされています。このやり方では、必然的に諮問が「院自身の判断を補強するための材料集め」に近いものになったり、「誰の意見が採用され、あるいはどの意見が強い影響を与えたのか」といった過程が、外からは見えにくくなりがちです。

その結果として、後白河院の政治は「恣意的」に見えやすく、言い換えれば「院が独断で政治を動かしている」かのような印象を、周囲に与えることになりました。後白河院自身の真意がどうであったかはさておき、政治の受け手から見れば、「院の判断」に振り回されていると感じられる局面が少なくなかった、ということなのでしょう。

そして、そうした「院の恣意」に翻弄されることになった人物の一人が、他ならぬ源頼朝でした(最大の「被害者」は平清盛だったのかもしれませんが……)。

それゆえに、頼朝が朝廷、ひいては院に対して突き付けた要求の一つが、「議奏公卿制」の導入という、一種の政治改革でした。前シリーズ第31回でも簡単に触れていますので、詳しくはそちらをご参照いただければと思いますが、要するにこれは、特定の公卿のみを院政(国政)の意思決定に関与させる仕組みであり、そこには「院の恣意を制度的に掣肘し、牽制する」という明確な狙いがありました。乱暴に言えば、「院にブレーキをかけてほしい」という要求だった、と表現してもよいでしょう。

もっとも、この議奏公卿制は、「必ずしも親鎌倉派の公卿だけで構成されていたわけではない」ことなど、制度的基盤の脆弱さもあって、ほどなく後白河院の巻き返しを受け、ほぼ機能することなく終わってしまいました。

後白河院から後鳥羽院へ

また、その後の後鳥羽上皇期においては、上皇自身の強烈な個性と卓越した政治的手腕によって、一定の「国政の安定」が実現したことは確かでしょう。しかし最終的には、その「強大な権力」が、幕府にとってはまさに「興亡この一戦にあり」とも言うべき危機的状況――承久の乱――を引き起こすことになりました。

念のため付け加えておきますが、これは決して「後鳥羽上皇が愚かだった」とか、「過剰な野心が破滅を招いた」といった単純な話ではありません。さまざまな出来事や誤算が積み重なった結果として、後鳥羽上皇自身にとっての「最適解」が選択された、その帰結に過ぎないと見るべきでしょう。

とはいえ、鎌倉幕府、特に北条氏の立場から見れば、「たまったものではない」出来事であったこともまた事実です。ここに、「強すぎる治天の君は困る」という感覚が、幕府(武士)側に強く刻み込まれた可能性は、充分に考えられるところです。

ところが、承久の乱後、幕府が事実上「後高倉皇統」を立てた際には、源頼朝の時代に見られたような、朝廷に対する明確な「政治改革要求」が打ち出された、という話はほとんど聞きません。

ここから先は、例によって私自身の素人推測も交えた話になりますが、「院」であれ「朝廷」であれ、その権威や権力というものは、強すぎても弱すぎても扱いに困る存在です。承久の乱後、強引な辻褄合わせの結果として成立した後高倉皇統は、まず充分な権威・権力を欠いており、言い換えれば、「掣肘や牽制を必要とするほどの権勢そのものが、そもそも存在していなかった」と見ることもできるでしょう。

ここで改めて押さえておきたい大前提があります。前シリーズでも繰り返し述べてきたように、鎌倉幕府とは本来、「武士による、武士のための地方政権」、いわば「武士特区」のような存在でした。しかも、その「武士」とは御家人に限定されるものであり、幕府の統治権は最初から全国に及ぶものではありませんでした。

つまり、「鎌倉幕府(鎌倉殿)」とは、御家人という限定された集団のための権力体であり、それは成立から滅亡に至るまで一貫して変わりませんでした。全国統一政権のような存在では決してなく、あくまで朝廷(律令制)と公領荘園制に依存した、いわば「外付けの制御装置」のような位置づけにあったと言えます。

この視点から見れば、朝廷側をあえて強く牽制しなかったことは理解できますが、その一方で、朝廷全体の統治機能――とりわけ後高倉皇統側の権威・権力を、何らかの形で補強する必要性も、本来であれば生じていたはずです。

結論から言えば、この時期の朝廷には摂関家、より正確には九条道家という存在がいたため、幕府自身が積極的に「カンフル剤」を打つ必要はありませんでした。

九条道家は、「摂家将軍」である藤原頼経の父であり、「摂関家」かつ「将軍の実家」という立場を背景に、朝廷内で極めて大きな権勢を誇った人物として知られています。そして、この九条道家が主導したとされる仕組みの一つが、「殿下評定(でんかひょうじょう)」でした。

殿下評定の背景

多少話が前後して恐縮ですが、「長講堂領」や「八条院領」といった広大な王家領が、ほぼそのまま後高倉院に継承されている点も、幕府による一種の「王家強化策」と捉えることができるでしょう。

それはさておき、この「殿下評定」がどのような仕組みであったのかと言えば、ごく簡単に言えば、太政官制の流れを汲む公卿会議の一形態と理解することができます。厳密な定義ではないことを承知の上で言えば、「公卿による合議制」に近いものであり、ここでは後に整備されていく「院議定制」への橋渡し的な存在として捉えていただければ、充分かと思います。

最終的に九条道家は、その強大な権勢を失い、政界の表舞台から退くことになりますが、その背景には、「摂家将軍が鎌倉を追われる」こととなった一連の政治抗争がありました。これがいわゆる「宮騒動」、あるいは「名越光時(なごえ・みつとき)の乱」と呼ばれる出来事です。もっとも、本稿の主題からはやや外れますので、詳細についてはここでは深入りしないことにします。

重要なのは、この結果として「宮将軍(親王将軍・皇族将軍)」の時代が始まること、そしてその過程で行われた朝廷と幕府のやり取りの中から、「幕府側の徳政要求」を契機として、院議定制が本格的に始動していく、という点です。

ここで言う「徳政」とは、後世に見られるような「御家人の借金帳消し」や「所領回復」を意味するものではなく、文字通り「徳による政治」、あるいは「徳を備えた統治」を指す言葉でした。余談になりますが、後年の徳政についても近年研究が進んでおり、「借金棒引き」や「所領回復」は、あくまで付随的な要素であり、本来の目的は別にあったのではないか、という理解が有力になりつつあります。

なお、この時期の執権は北条時頼でした。この人物もまた、結果論ではありますが、後の「鎌倉幕府滅亡」へと至る流れの起点の一つを形作った存在と言えるかもしれません。ただし、幕府側の事情については話が大きく逸れてしまいますので、いずれ稿を改めて触れることにしたいと思います。

閑話休題

強引に言えば、これは源頼朝がかつて朝廷に求めた「政治改革要求(議奏公卿制)」が、数十年の時を経て、別の形で実現したものとも言えるかもしれません。ともあれ、「院議定制」は、その成立過程を見る限り、幕府(武士)側からの要請を一つの契機として始まった制度であったと考えても、大きな間違いはないでしょう。

これはまた、後嵯峨院の権力・権威を支えた「三つの担保」の一つである、「鎌倉幕府による後援」、すなわち「朝廷と幕府の協調路線」の具体的な表れと捉えることもできます。

では、このようにしてスタートした「院議定制」とは、具体的にどのような仕組みだったのでしょうか。本シリーズ第3回でもごく簡単に触れましたが、ここでもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。

まず、以前にも述べたように、院議定制とは「公卿による合議システム」であり、院(親政期であれば天皇)がこれに臨席します。現代的に言えば、いわば「御前会議」に近いものと考えると分かりやすいでしょう。

参加するメンバーは時期によって多少の増減がありますが、後嵯峨院期においては、関東申次を務める西園寺家、邦仁王(後嵯峨天皇)擁立に深く関わった土御門家(村上源氏)、藤原北家勧修寺流の吉田家といった王家の外戚に連なる上級貴族に加え、徳大寺家・葉室家といった実務を担う中級貴族、合わせて五名程度で構成されていたと考えられています。

なお、西園寺家以外の個々の名前については、ここでは覚えていただく必要はありません。重要なのは、時期によって人数に変動があっても、「上級貴族と中級貴族の比率」が概ね維持されていたこと、そして「関東申次」を務める西園寺家が、常にメンバーに含まれていたという点です。

建前上は、幕府との直接的な窓口となる関東申次のみに幕府の指名が必要で、他のメンバーは「治天の君(院・天皇)」の意向によって選ばれる存在でした。しかし実際には、院議定の構成員はすべて幕府に通告され、その承認を得る形が取られており、これがやがて「幕府の了承を得ること」が院議定のメンバーとなる事実上の条件へと定着していきます。

なお、この「院議定の構成員」は史料上「評定衆」と呼ばれることもありますが、幕府の評定衆と混同しやすいため、ここでは特に意識する必要はないでしょう。

このように、院議定制の成立や運営には、確かに幕府の強い影響が見られます。ただし、これは「鎌倉幕府(北条氏)が強権をもって朝廷や院政を支配した」という意味ではありません。むしろ、これまで見てきた経緯を踏まえた上での「朝幕協調」、そして「後嵯峨院を後援する」という文脈の中で理解する方が、より実態に近いと考えられます。

実際、朝廷や院から幕府に対して行われた照会についても、返答は「叡慮に任せる」、すなわち「その判断で差し支えありません」という形が、いわばデフォルトであったとされています。

繰り返しになりますが、鎌倉幕府(鎌倉殿)とは、御家人という限定された集団のための権力体であり、それ以上の存在でもなく、また意図的に「それ以上のもの」になろうとした形跡も見られませんでした。

したがって、御家人に関わる事項や、概ね東日本地域については幕府の管轄となりますが、それ以外の武士を含む畿内近国や西日本については、引き続き朝廷の管轄に置かれていました。以前にも簡単に触れた通り、この時期の朝廷は、名目的な存在ではなく、「実体を持った権力体(政権)」として、なお機能していたのです。

この「院議定」の具体的な運営については、概ね先述した本シリーズ第3回で述べた通りです。ここであまり細かく掘り下げすぎると、かえって話が煩雑になってしまう恐れもあるため、基本的な流れのみを確認するにとどめたいと思います。

「院議定」の流れ

第3回では、院議定の流れを以下のように整理しました。

  • 奏聞を受けて、院(後嵯峨)の発議で会議を招集

  • 合議を経て結論をまとめ

  • それを院に奏上

  • 院が決裁し、奏者が院宣を作成・発給する

ただし、この書き方はやや誤解を招く余地もあるため、ここで補足しておきたいと思います。

まず重要な点として、この「院議定」は、原則として定期的に開催される会議でした。たとえば「三と五の付く日」といった具合に、あらかじめ開催日が定められ、月に数回の頻度で行われていたと考えられています。

したがって、ここで言う「奏聞」とは、会議開催のために改めて案件を持ち込むというよりも、「当日の議題を奏上する」という意味合いが強いものになります。

会議は院(あるいは天皇)が臨席する形で行われ、出席者による議論を経て一定の結論がまとめられます。その結論を踏まえて、院がその場で決裁を行い、それに基づいて院宣が作成・発給される、というのが実際の流れです。

その意味では、先ほど挙げた流れのうち、「それを院に奏上」という部分はやや紛らわしく、この点については一旦意識しなくても差し支えないでしょう。

何かと「忘れていただく」ことが多くて恐縮ですが、ここで押さえておきたい要点は、以下の三点に集約されます。

  • 治天の君が必ず臨席すること

  • 合議によって、原則として結論が出されること

  • その結論を、院(または天皇)が直接決裁すること

とりわけ、「合議によって結論を出す」という点と、「治天の君が会議に臨席し、直接決裁を行う」という点は、摂関期前後まで一般的であった朝廷の「公卿会議」との、決定的な違いとされています。

従来の公卿会議は、あくまで天皇や摂政・関白による諮問機関であり、会議で出された意見は結論として一本化されるのではなく、複数の見解が併記された形で奏上されました。天皇や摂政・関白は「決裁者」であるため、会議そのものには出席せず、この併記された意見を踏まえて最終判断を下す、という仕組みです。構造的に見れば、「摂政」「関白」に強い権力が集中しやすい制度であったことも、容易に理解できるでしょう。

話が少し横道に逸れましたが、この「院議定」という合議システムによって、後白河院期に見られた「在宅諮問」や、「院の恣意的な政治運営」は、少なくとも建前上は排除されることになります。

ここであえて「建前上」と回りくどい言い方をしたのは、この制度によって「院の意向(恣意)が完全に抑制された」とまでは言えないからです。

それでも残った「院の意向」と、その後の伝統

こうした実態は、院議定に直接関わった貴族たちの日記などの史料からも確認することができます。たとえば、ある院議定においてまとめられた結論に対し、後嵯峨院が「疑義」を呈した結果、翌日に改めて行われた合議では、「院の意見に沿った結論」に修正された例や、あるいは「議奏に及ばず(公卿からの発言なし)」として、最初から院の意向通りに事が運ばれた例などが、少なからず見られるのです。

このような後嵯峨院による最終的な判断は、難しい言葉で言えば「勅定(ちょくじょう)」と呼ばれます。院議定の中には、この「勅定」によって結論が(最初から)確定した事例も一定数存在しており、やはり制度として「院の意向(恣意)」が完全に封じ込められていたわけではありませんでした。

とはいえ、多少建前的な側面を含んでいたとはいえ、この「院議定制」という仕組み自体は、一定程度以上に有効に機能していたようで、後嵯峨院の崩御後に始まる「亀山天皇の親政」や、その後の院政期にも、ほぼそのままの形で継承されていきます。

さらに、その後、皇統が後深草皇統側に移った後も、院議定制という枠組み自体は引き続き用いられました。ここでは少し先走りになりますが、その後の「院議定制」の運用について、簡単に触れておきたいと思います。

後嵯峨院の勅定の影響をどこまで受けていたかは断定できませんが、亀山皇統では、院議定において「親裁」、すなわち「院または天皇による直接の決裁」を重視する政治スタイルが、一つの伝統として形成されていったと考えられています。これに対し、後深草皇統では、「親裁」はそれほど重視されず、むしろ「手続きの正当性」や「形式の整合性」を重んじる傾向が強まっていった、と見ることができるでしょう。

こうした違いは、後の南朝と北朝の政治運営のスタイルにも、部分的に重なるところがあり、非常に興味深い点です。ここでは詳しく立ち入りませんが、一点だけ指摘しておくとすれば、後醍醐天皇の強い「親政至上主義」は、この亀山皇統における「親裁重視」の伝統の中に、その原点を見出すことも可能なのではないか、という点です。

おわりに

以上、主に後嵯峨院期における「院議定制」の始まりと、その基本的な内容について、本当に簡単に見てきました。

まず、「院議定制」という合議システムそのものが、幕府(武士)側からの要請を一つの契機として始まり、その後の運営においても、少なからず幕府の影響を受けていたこと。そして、幕府がそうした要請を行うに至った背景には、「在宅諮問」のような不透明な意思決定のあり方や、後鳥羽上皇期に見られたような「歯止めの利かない強権」を、何らかの形で制御してほしいという、ある意味で切実な事情があったことを確認しました。

その一方で、「鎌倉幕府」とは、あくまで御家人のための限定的な政治権力であり、その基盤は終始、「朝廷の制度(律令制)」と「公領荘園制」に依存した一公権力であったこと、全国的な統一政権ではなく、またそのような政権を目指した存在でもなかったことにも触れました。畿内近国や西日本は引き続き朝廷の管轄下にあり、そこでは朝廷が「実体を持った政権」として機能していた、という点も重要なポイントです。

さらに、院議定の具体的な運営のあり方と、その制度としての有効性、そして同時に存在していた限界についても、ざっくりと確認しました。

話が進むにつれて少しずつ複雑になり、「あちこちに話が飛んでいる」ように感じられたかもしれませんが、これらはすべて後の展開に向けて、きちんと一本の線で繋がっていますので、ご安心(?)いただければと思います。

以上を踏まえ、次回は「では、実際に公卿たちは御前会議で何を議論していたのか」、言い換えれば、「当時の『政治』とは、具体的にどのような営みだったのか」という点について、簡単に概観してみたいと思います。どこからか「またか……」というため息が聞こえてきそうな気もしますが、次回は幕府側の事情や状況も多少絡んできますので、話としての面白さも、もう一段増すはずです。

それでは、次回もどうぞお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

【関連リンク】

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集