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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第11回――北条義時は”北条氏”ではなかった~分家が作った幕府中枢

本稿では、「北条義時は、厳密には北条氏ではなかった」という視点から、鎌倉幕府中枢を担った北条氏の構造と、その内在的な問題を整理します。

頼朝挙兵の時点で、義時はすでに分家した「江間家」の家長であり、本家である北条家とは別の家を率いる存在でした。ここから出発し、鎌倉期武士社会における「分割相続」「家督」「家長」という制度的前提を確認しつつ、なぜ分割相続が当時において合理的な生存戦略であったのかを、荘園制と同族集団の拡大という観点から整理します。

さらに、「家督=地位」「家長=権威」という二つの権力の分離が、日本社会において古くから用いられてきた政治的・社会的な知恵であった点にも触れ、その理解をもとに、泰時による北条家家督継承が抱え込んだ「正統性の瑕疵」について考察します。

後半では、第3代(通説では第5代)執権・北条時頼の時代に、この正統性の問題が再び表面化する過程を追い、「宮騒動」「宝治合戦」を経て、家督と家長、執権と得宗が分離していく構造を明らかにします。そして、こうした選択の積み重ねが、後に「得宗専制」と呼ばれる体制へと収斂していったことを確認します。

本記事は、人物の善悪や能力ではなく、制度と前提条件の変化から鎌倉幕府の政治構造を読み解くことを目的としています。
「なぜ北条氏は強かったのか」、そして「その強さは何を代償としていたのか」――その一端を、構造的に考えてみたいと思います。
※約10200字


はじめに

前回は、源頼家と十三人の合議制についての補足を述べ、その後、北条氏の「出自」について概観しました。

頼家はこの「合議制」によって親裁が全面的に否定されたわけではありません。停止されたのは「聴断」、すなわち「頼家が御家人の訴えを直接聞き、その場で裁決する」行為であり、主眼はあくまで「訴訟の取次ぎを十三人の御家人に限定する」点にあったと考えられます。

親裁そのものはその後も一定程度行われていましたが、頼家が自身の側近層を育成し、「御家人を仲間として束ねる頼朝の政権」の再生産を指向したことが、「人」に依存した統治から「システム」へと舵を切りつつあった御家人たちとの間に方向性のズレを生み、それが構造的なストレスとして蓄積された可能性を指摘しました。
この点については、大陸プレート同士が衝突し、一方が沈み込む過程で歪みが蓄積され、やがて地震として顕在化する構造をイメージしていただくと理解しやすいかもしれません。

次に北条氏については、「伊豆国に根拠地を持つ、明確な名門の血筋とは直接結びつかない小規模な地方豪族」であった可能性をまず述べました。さらに、彼らの本拠とされる北条郷の名称、ならびにその近隣に伊豆国府が存在したと考えられている点から、「在庁官人、あるいはそれに極めて近い層」であったと推測できることを示しました。

こうした点から北条氏は、もともと「実務官僚的な知識や能力」を培ってきた一族であり、この実務能力こそが、幕府の中枢にあり続けるための、ほとんど唯一と言ってよい武器であったと考えられます。そのため彼らは、他氏との権力抗争に身を置きつつも、同時に幕府の制度整備を進め、それを自らの手で担い続けること自体を生存戦略として選び取った、と言えるでしょう。

また北条氏は、当初から覇権の獲得を目指していたわけではなく、「頼朝の姻戚」という立場以外に明確な権威・権力の源泉を持たない彼らが、「武士の論理」に忠実に従って行動した結果として、「生き残ってしまった」と捉えることも可能である、という点にも触れました。

今回は予告通り、「実は『北条義時』は、厳密には『北条氏』ではなかった」という事実から説き起こし、前回とはやや異なる視点から「北条氏の事情」について概観してみたいと思います。あわせて、日本中世史、特に鎌倉期を理解するうえで重要となる前提についても整理していきます。

義時は”何氏”なのか

さて、ではなぜ義時が「厳密には北条氏ではない」のかと言うと、頼朝の挙兵に際して北条氏が「身代を賭けて協力」した時点で、義時はすでに北条郷の近隣に位置する「江間(えま)」の地を与えられ、分家していたと考えられるからです。

つまり義時は、この時点ですでに「江間義時」であり、「江間氏」の初代当主となっていた可能性が高いのです。実際、鎌倉幕府の編纂史料とされる『吾妻鏡』においても、「北条」とほぼ同じ頻度で「江間小四郎」「江間四郎」と記されており、少なくとも当時の記録上では「北条家とは別家」として認識されていたと見ることができます。

ちなみに「小四郎」「四郎」といった呼称は、実名(諱/いみな)を直接呼ぶことを避けるための仮の名である「仮名(けみょう)」と呼ばれるものです。諱で呼ぶことが許されたのは、主君や父母など、ごく限られた関係にある者のみであり、通常はこの仮名によって呼ばれました。仮に同輩の御家人が「やあ、義時殿!」などと実名で呼ぼうものなら、その場で斬り合いになってもおかしくないほどの、極めて無礼な行為だったと考えられます。

前シリーズでも触れましたが、織田信長が武田勝頼に対して意図的に無礼な書簡を送った際でさえ、宛名は「諏訪四郎殿」とされており、それほどまでに「諱(実名)」が重要かつ神聖なものとして扱われていたことが分かります。

それはさておき、本来の「北条家」の嫡男は、時政の長男とされる「宗時(むねとき)」であったと考えられていますが、彼は「石橋山の戦い」後の敗走中に平家方によって討ち取られてしまいます。

宗時の死後、新たに北条家の嫡男が定められたことを明確に示す史料は見当たらず、少なくとも「ある時点」までは北条家の後継者が未定であった可能性も指摘できます。一方で、義時が北条家に「復帰(復姓)」したことを示す史料も確認できないことから、義時はあくまで江間家の当主であり、北条家とは別の独立した家を率いていた存在であったと捉えることができるのです。

ここであえて「北条“家”」「江間“家”」と回りくどい書き方をしているのには、実は理由があります。

”氏”か”家”か

これまで本稿では、私自身も特に断りなく「北条氏」といった表現を用いてきましたが、これはあくまで便宜的なものであり、「分かりやすさ」を優先した結果でもあります。文脈にもよりますが、厳密さという点では「100点満点中40点程度」の表現である、と言ってよいでしょう。

基本的に「氏(うじ)」とは、より大きな同族集団を指す呼称です。最も分かりやすい例としては、「藤原氏」「源氏」「平氏」などが挙げられます。より厳密に言えば、古代の「氏姓(しせい)制度」との関係もあり、この問題は非常にややこしいのですが、ここでは理解のために次のように整理しておきたいと思います。

すなわち、最上位に「源平藤橘」に代表される血統集団としての「本姓(ほんせい)」があり、そこから派生した血脈集団を「氏(うじ)」、さらに氏から分かれた比較的小規模な血族単位を「家」と捉える、という整理です。この理解であれば、100点満点中70点程度はもらえるのではないでしょうか。

とはいえ、この整理でさえなお煩雑であるため、実際の歴史叙述や一般的な議論においては、「氏」と「家」をほぼ同義として用いることが多い、というのが実情でもあります。

この整理を踏まえて義時を捉えるならば、彼は「北条氏の中の江間家」に属する人物、ということになります。前回触れた通り、北条氏は自らを「平氏の末裔」と称していましたが、これが事実であるならば、「平氏の中の北条家の分家である江間家」という、さらに入り組んだ系譜関係になります。

もっとも、「本姓は平氏」とする点については史料的な裏付けに乏しく、現代の研究では懐疑的に見られており、実際には無関係であった可能性が高いと考えられています。

ともあれ、この「氏と家」の関係性、そして鎌倉期の武士における「家のあり方」を理解するうえで、今後重要なキーワードとなるのが、「家督」「家長」、そして「分割相続」です。

分割相続とは何なのか

鎌倉幕府末期の状況を説明する文章などで、「当時の武士は分割相続であったため、所領が細分化されて困窮化し……」といった趣旨の記述を目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。場合によっては、これに続けて「これが『たわけ』の語源である(田分け)」といった、いかにもトリビア的な説明が添えられていたかも知れません。

もっとも、この「田分け」説については完全な俗説であり、そもそも想定されている時代も江戸期以降の話であって、鎌倉期の分割相続とは直接の関係はありません。しかしそれはさておき、鎌倉時代の武士たちが、なぜ一見すると「先細りが確定している」ようにも見える分割相続という方法を採っていたのか、不思議に思ったことはないでしょうか。少なくとも、私は長らく疑問に感じていました。

ところが、この問題に「荘園」と「家督」という概念を重ねて考えてみることで、この長年の疑問は、文字通り氷解しました。

結論から述べるならば、分割相続とは、「荘園が拡大し続けることを前提とした、『氏』あるいは同族集団の勢力拡大を最適化するための戦略」であった、と捉えることができます。

どういうことかと言うと、ある武士が一つの荘園に何らかの権利を有していたとします。その荘園が順調に発展し、規模を拡大していく中で、その武士は複数の息子に対して、土地に関する権利を分割して相続させます(ここで言う分割は、必ずしも均等分割である必要はありません)。次男以下は分家して新たな家名を称し、それぞれの拠点において、親世代と同様の営みを繰り返していくことになります。

このようにして、本家を中心とする「同族連合」は、世代を重ねるごとに裾野を広げていきます。武士の世界には、「動員できる兵力の多寡が、そのまま発言力や地位に直結する」という、きわめてシンプルな側面がありました。その意味で、この分割相続という仕組みは、同族全体としての勢力を拡大していくための、極めて合理的な選択だったと考えられるのです。

そして、この同族連合の要となるのが「本家」、すなわち「家督」です。鎌倉時代においても、家督については原則として嫡子相続が維持されていました。すなわち、「いざ鎌倉」という非常時に際しては、家督を継いだ当主が各分家の兵力を束ね、指揮官として幕府に馳せ参じることになります。

引き連れる兵力が多ければ多いほど、家督者は幕府軍の中で大きな存在感を持つことができました。こうした構造を踏まえるならば、分割相続は単なる「不合理な慣習」ではなく、当時の社会条件のもとでは「必要とされた制度」であった、と説明することができるでしょう。

”最適化”には前提が必須である

しかし、皆様もお気づきの通り、この「最適化」は、その前提条件が崩れてしまえば成り立たないことは明白です。そして実際に、この前提はやがて崩れていきました。

以前の記事でも述べた通り、鎌倉期の中頃には土地開発が一巡したと考えられており、この時期を境に、土地の権利を巡る訴訟が急増していきます。

御家人層に限って言えば、「新恩給与」によって持続可能性がわずかながら保たれていた、と見ることもできなくはありません。しかし、そもそもの前提であった土地拡大が期待できなくなった以上、新恩給与による新たな権利獲得も、全体としては焼け石に水に近い状況であったと考えられます。

ここで改めて確認しておきたいのは、幕府が地頭を設置できる範囲は、原則として謀反人などから没収した土地、即ち「闕所地(けっしょち)」に限られていた、という点です。これは、守護・地頭の設置を公認したとされる建久新制の段階で、すでに一定の枠組みとして定められていました。

つまり幕府は、「ここにも、あそこにも」という具合に、恣意的に地頭を設置できたわけではありません。取り決めのない荘園に対して、地頭を強引に押し込むような運用は、少なくとも原則としては行われなかったのです。

この点については、いずれ稿を改めて詳しく掘り下げたいと思いますが、ここでは一つだけ、やや先走った整理を述べておきます。鎌倉期の守護・地頭については、「守護=役職」「地頭=利権(権利)」と理解すると、当時の制度運用に対する解像度が一段高まると考えられます。ここでは、ひとまず「ふーん?」程度に受け取っていただければ充分です。

以上を踏まえるならば、鎌倉期の分割相続について、それを「当時の武士が愚かだったから生じた制度」と捉えるのは適切ではありません。むしろ、「最適化を可能にしていた前提条件が崩れたことによって生じた機能不全」と理解するのが、実態に近いと言えるでしょう。

それでは、”家督・家長”とは何ぞや

それでは、「家督」とは何だったのでしょうか。そして、そこに「家長」はどのように関わるのでしょうか。

先に、ごく簡単な整理を示しておくと、次のように捉えることができます。

・家督=対外的な代表権、公的な役職、所領の法的名義人としての地位。「公的な長」としての機能
・家長=家全体の統率権、構成員への命令権、祭祀権を含む内的支配権。「私的な親(あるいは祖)」としての絶対的な権威

これをさらに単純化するならば、「家督=地位(権力)」「家長=権威(権力)」と表現することもできるでしょう。やや分かりにくい表現ではありますが、これは「いずれも権力であるものの、その作用する方向性が異なる」という点を示すための言い換えです。

もう少し具体的な例として、北条政子を取り上げてみたいと思います。よく知られているように、政子は源氏将軍が断絶した後、「尼将軍」と呼ばれるほどの影響力を行使したとされています。実際に、政子が関与したと考えられる公文書も残されており、幕府中枢において政権運営に深く関与していたことは、ほぼ確実と見てよいでしょう。

この「尼将軍」という立場の根拠は、政子が「右大将(将軍)家の家長」として振る舞った点にあります。一方で、「将軍家の家督」は、藤原三寅(みとら)、後の頼経(よりつね)が継承していました。

この構図は、「天皇と院」、「江戸時代の将軍と大御所」、さらには「執権と得宗」といった関係と、原理的には同型のものと捉えることができます。「天皇と摂関」については、当時の貴族社会における母系重視の傾向もあってやや複雑ですが、基本的な構造は共通していると言えるでしょう。

なお、院政について、前シリーズでは「治天の君」を「天皇として即位していないにもかかわらず、政治の実権を掌握していた存在」と説明しましたが、この表現はやや誤解を招きかねないため、ここで補正しておきます。より正確には、「天皇の位にないにもかかわらず、政治の実権を掌握していた存在(多くの場合、上皇または法皇)」と表現すべきでしょう。

これは言い換えれば、「王家における家長」という位置づけに相当します。上皇が複数存在する場合であっても、「治天の君」が原則として一人に定まるのは、それが「家長」という性格を持つ存在であるためです。

基本的には、「家督」と「家長」は一致するのが通常ですが、このように「地位」と「権威」を意図的に分離する発想は、日本において古くから用いられてきた、政治的・社会的な知恵の一つであったと言えるでしょう。

北条氏と”北条家”・”江間家”

少し長くなってしまいましたが、ここまでの整理を踏まえて改めて「江間義時」という存在を捉え直してみると、彼は「分割相続」によって独立した分家、すなわち「北条氏という血脈集団を構成する、江間家という血族集団の家長」であった、と表現することができます。

同様に、「北条時政」は「北条氏という血脈集団の家督であり、北条家の家長」であったと言えるでしょう。家督予定者であった宗時が早世した後も、時政は引き続き家督と家長の双方の地位を保持していたと考えられます。

時政が義時に対して強い影響力を行使し得た理由は、単なる父子関係に基づく「尊属」としての権威だけではなく、分家に対して及ぶ「家督」としての権限に依拠していた点に求めることができます。これを単純に父子関係のみから説明してしまうと、義時が終始「北条家の一員」であったかのような理解に陥り、その後の展開を見誤る可能性があります。

というのも、時政は後年、継室(後妻)との間に男子をもうけており、この息子を新たな家督候補としようとした可能性が指摘されているからです。この推測は、継室が藤原北家に連なると考えられる駿河国の名族の出身であること、またその息子が若くして「従五位下・左馬権助(さまのごんのすけ」に任じられている点などから導かれています。同時期の義時が「従五位下・相模守」であったことも、この見方を補強する材料の一つと考えられるでしょう。

一般論としては、受領(国守)よりも中央官職の方が形式的な官位の格としては上位と見なされる傾向にありました。

しかし、この家督候補と目される人物は早世し、さらに時政自身も権力闘争に敗れて表舞台から退くことになります。この際、時政は出家のうえで北条郷に隠居させられており、その後に政治的影響力を保持していたことを示す史料も見当たらないことから、実質的には「家長」としての権威も失ったものと推測されます。

こうして見ると、この時点で「北条家」は家督・家長ともに空白状態に陥ったと捉えることができ、そこに義時の嫡子である泰時が家督を継承したことは、よく知られた歴史的事実です。

これは形式的に見れば、「分家(江間家)による本家(北条家)の継承」と表現することができ、この点が後年、同族内での権力抗争を引き起こす一因となった可能性は否定できません。やや砕けた言い方をするならば、「それが許されるのであれば、自分も」という論理が働きやすい土壌を生んだ、とも言えるでしょう。

もっとも、これを義時の独断や暴走と捉えるのは適切ではなく、基本的には源頼朝の了承、あるいは少なくとも黙認のもとで進められたと考えるのが自然でしょう。義時は頼朝から「家の子専一」と評されるほど厚い信頼を受けており、この関係性を踏まえれば、頼朝(あるいは政子)を「疑似的な家長」とするかたちで、北条氏の家督継承が正当化された、と想像することも可能です。

しかし、この「分家による本家継承」という事実は、家督の正統性という点では一種の瑕疵となり、分家が増加するにつれて家督を巡る対立が激化していく、その遠因となったと考えられるのです。

もう一つの”問題”

そして、この「正統性」をめぐる問題が、もう一段階表面化するのが、第3代の執権とされる北条時頼の時代です。なお、私は本稿において、「執権」という役職が明確に幕府の制度として確立したのは泰時の代であると捉え、時政・義時については後世的な理解に基づいて遡って「執権」と呼んでいる、という立場を取っています。そのため、一般的な数え方とは若干異なり、時政から数えた場合には時頼は第5代に相当します。

時頼は、泰時の嫡流に連なる人物であることは確かですが、兄である第2代執権が病により早世したため、結果として「弟」による家督継承という形になりました。この継承は緊急的なものであったものの、現存する史料から見る限り、手続き上に重大な瑕疵があったとは考えにくいとされています。

しかしながら、この継承は形式的には「傍流」によるものでもあり、御家人たちの支持が必ずしも盤石であったとは言えません。この時期に発生したのが、過去記事で簡単に触れた「宮騒動」であり、これに深く関与したのが、北条氏の有力分家である名越氏(家)でした。

この危機を乗り越えた結果、朝廷側(後嵯峨上皇)と幕府側(時頼)の利害が一致し、その帰結として成立したのが「宮将軍(皇族将軍)」の擁立であり、さらに「院議定制」であったことは、すでに述べた通りです。

その後、有力御家人であった三浦氏を宝治合戦によって排除することに成功したことで、「北条氏」に対抗し得る勢力は、事実上幕府内から姿を消したと考えられます。

もっとも、家督継承の正統性に一定の弱みを抱えていた時頼にとっては、穏健な合意形成だけで政権を維持することは困難であり、ある程度強権的な政治手法を取らざるを得なかった側面も否定できません。そうでなければ、第二、第三の名越氏(家)が現れる可能性を常に抱え続けることになったからです。

また、この正統性の不足を補うためにも、義時を祖とする「北条家の家督」という物語、言い換えれば一種の「神話」を構築する必要がありました。その一環として、時頼が義時に追号したとされる「徳崇」は、後に「得宗」という呼称へとつながっていった可能性が指摘されています。

なお、義時の法名は「観海」であったとされ(『佐野本北条系図』)、これは浄土宗系のものと考えられています。一方、「徳崇」は禅宗系の語感を持ち、時頼の時代には禅宗が鎌倉における有力な宗派の一つとなっていました。この宗派的背景も、象徴操作として無視できない要素でしょう。

詳細は本旨から外れるため省きますが、時頼は自身の嫡子である時宗への家督継承を確実なものとするため、執権職を一時的に分家に委ね、自身は「家長」として北条家の権力を保持する、という選択を行います。

ここに、「家督」と「家長」の分離、そして「執権」と「得宗」の分離という、後に「得宗専制」と呼ばれる体制へと向かう扉が開かれたのです。

おわりに

以上、「『北条義時』は、厳密には『北条氏』ではなかった」という視点から、「北条氏の事情」について概観してきました。

頼朝挙兵の時点で、義時はすでに分家した「江間家」の家長であり、「北条家」とは別個の家を率いる存在であったことを確認しました。

そこから、鎌倉期武士の「家の在り方」として、「分割相続」と「家督・家長」という二つの重要な概念を整理しました。複雑な「本姓」「氏」「家」の関係を大まかに整理したうえで、「分割相続」とは「荘園が拡大し続けることを前提とした、『氏』あるいは同族集団の勢力拡大を最適化するための戦略」であったことを述べました。

そして、拡大した同族集団を指揮する要が「家督」であり、「土地は分割相続であっても、家督は嫡子単独相続であった」という点から見ても、分割相続が当時の武士にとって合理的な生存戦略であったと捉えることができるでしょう。

さらに「家督」と「家長」について触れ、それが「地位」と「権威」の分離という、日本社会に古くから見られる政治的・社会的な知恵の一つであったことも指摘しました。

これらの理解を踏まえると、泰時による「北条家家督継承」は、本家を差し置いた分家による継承であり、この点において一定の「正統性の瑕疵」を内包していた可能性があること、そしてそれが後年の同族間抗争の遠因となった可能性について考察しました。

さらに、第3代(時政から数えれば第5代)執権である時頼の継承は、やむを得ない事情によるものとはいえ「弟」、すなわち形式的には「傍流」による家督継承となり、正統性の観点からは新たな「弱み」を抱えることになります。その結果として表面化したのが「宮騒動」であり、これに深く関与したとされるのが、有力分家である名越家でした。

その後、有力御家人であった三浦氏を宝治合戦によって排除することで、「北条氏」は幕府内での優位を確立することに成功します。しかし同時に、先述の「正統性の瑕疵」が、「家督をめぐる同族間抗争」という不安定要因を内在させる構造を、「北条家(本家)」が抱え込むことになったとも表現できるでしょう。

そのため時頼は、義時の権威に仮託するかたちで、「義時を祖とする『北条家の家督』」という一種の「神話」を構築したと考えられます。それが、義時に追号されたとされる「徳崇」であり、後に「得宗」という呼称へとつながった可能性がある点についても触れました。

そして時頼は、嫡子である時宗への家督相続を確実なものとするため、「執権(家督)」を一時的に分家へ委ね、自身は「北条家の家長」として実権を保持するという選択を行います。

これにより、「執権(家督)」と「得宗(家長)」の分離が生じ、後に「得宗専制」と呼ばれる体制へと向かう道筋が開かれたことを確認しました。

さて、今回簡単に触れた「宮騒動」を通じて、ようやく「朝廷側の事情」と「幕府側の事情」が、わずかではありますが交錯し始めたことが見えてきました。次回は、「では、北条時宗はいかにして『王者の沙汰』を左右し得る権力を獲得したのか」という点も頭の片隅に置きつつ、いつもの通り少し回りくどく(笑)、制度史の側面から鎌倉幕府の総論を試みてみたいと思います。

例によって専門的な議論には踏み込みませんので、どうぞお気楽にお読みください。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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