ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第21回――朝幕分担支配の終焉~建武新制が促した秩序転換
本稿では、中世日本に特有の土地支配構造である「職(しき)の体系」を改めて整理したうえで、後醍醐天皇による建武新制が、結果としてこの社会秩序を大きく揺るがしてしまった過程を概観します。
「職の体系」とは、一つの荘園(土地・領域)を、複数のレイヤー(職)が重層的に支配・関与する体制であり、王家・摂関家・有力寺社などの本所と、現地を管理・運営する下位層とが「知行(収益を得る権利)」を分有することで成り立っていました。これは、朝廷(国司)が支配する公領と併存する「公領荘園制」という、中世日本の一般的な社会秩序の中核でもありました。
鎌倉幕府の成立以降、この職の体系には、本来は異質であるはずの「地頭」という武士的主従制(封建制)に属する存在が外付けされ、「公武協調による分担支配」という形で辛うじて安定を保ってきました。しかし、地頭(御家人)と本所との間には、奉公に伴う負担や収益配分をめぐる構造的な緊張が常に内在しており、また地頭が存在しない荘園においても、雇われ荘官や「悪党」と呼ばれる存在を生み出す要因が蓄積していきます。
本稿では、こうした状況を整理する補助線として「知行」という概念を導入し、「職の体系」を重層的な収益権(知行)の分布構造として捉え直します。そのうえで、後醍醐天皇が建武新制のもとで志向した「王権による知行の一元化」が、結果として職の体系を事実上リセットし、収益権と支配権がより強く結びついた「一円支配」へと社会秩序を転換させる大きな契機となったことを論じます。
さらに、地頭と並んで建武政権が継承した「守護」が、この一円支配化の流れの中で変質し、国人層を被官化していくことで「守護領国制」へと発展していく過程を概観します。これにより、鎌倉時代の「公武協調による分担支配」は終焉し、室町時代の「公武癒着(あるいは一体化)による分割支配」へと移行していった――本稿では、その構造的転換点として後醍醐天皇を位置づけています。
学術的な厳密性よりも「大きな流れの理解」を重視した素人論考ではありますが、中世後期から南北朝・室町期にかけての制度変化を整理する一つの視点として、日本中世史理解の手がかりとなれば幸いです。※約13000字
はじめに
前回は、後醍醐天皇の建武政権が、本来であれば最大の支持基盤となり得たはずの貴族層の取り込みに結果的に失敗した背景について、駆け足ではありますが概観しました。
まず確認したのは、当時の日本社会における最大の政治課題が、土地・官職・相続などに関わる「権利関係の調整」であったという点です。
これらの問題は、それまで「朝廷(公)」と「幕府(武)」が役割を分担する形で処理されてきましたが、幕府(北条氏)滅亡後の建武政権においては、これらを朝廷側に一本化して処理する体制が必然的に採られることになりました。
その結果、必然的に政権の処理能力を超えるキャパシティーオーバーが発生します。
このため建武政権は、武士のみならず貴族層にとっても、「いつまで経っても問題(権利関係の調整)を解決してくれない窓口」と映るようになり、これが急速に政権の求心力を低下させる一因となりました。
もちろん、建武新制がこの状況を放置していたわけではありません。
政権は、公武一体の訴訟機関として雑訴決断所を設置し、旧六波羅探題配下や幕府機構で実務経験を有していた幕府吏僚層(二階堂氏など)や、足利家の私的な実務官僚層(高師直を代表とする人々)まで動員して対応に当たります。
しかし、それでもなお殺到する訴訟を捌き切ることはできず、やがてこの問題は建武政権崩壊の一因となっていきました。
なお、この雑訴決断所は単なる「訴訟窓口」に留まるものではなく、後醍醐天皇によって多数発給された綸旨の整理・回収・保証といった重要な役割も担っていましたが、この点については本旨から外れるため、機会を改めて考察したいと思います。
また前回は、当時の中・上級貴族層において盛んに行われた分家が、官職や伝領(荘園)の相続をめぐる「参加者だけが増え続ける椅子取りゲーム」のような状況を生み出し、貴族社会における訴訟(相論)が激増する一因となっていたことにも触れました。
特に「官職」は、性質こそ異なるものの、「家を維持し、次代へと継承していくための基盤」という点において、武士にとっての土地に近い意味を持っていたと捉えることができます。
貴族社会では家格の固定化が進み、それに伴って出世(昇進)のコース、いわばキャリアパスも半ば定型化していましたが、これが先述の椅子取りゲームをさらに過酷なものにしていました。
後醍醐天皇は「延喜の治」への回帰を掲げましたが、太政官制や二官八省といった律令制度を、当時の社会構造に即した形で再編・再建するには至らず、その結果、下級から上級に至る多くの貴族にとって、建武政権は「椅子が増えるわけでもなく、役割が新たに与えられるわけでもない」政権として、不満が蓄積しやすい構造を持つことになりました。
この結果、建武政権は貴族層からも極めて評判の悪いものとなり、「物狂いの沙汰」と日記に記した貴族が現れたり、父・後宇多を「末世の英主」と讃えた花園天皇(上皇)からも、「一代の恥」「一朝の恥辱」などと酷評されるに至ります。
もっとも、後醍醐天皇の掲げた「朕の新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』)という言葉が示す通り、改革者としての意思や構想力が欠けていたと評価するのは適切ではないでしょう。
しかし、前例や慣習を重んじる貴族社会において、属人的な判断に依存しやすい大覚寺統の伝統的統治スタイル(親裁主義)と、制度構築の未成によるキャパシティーオーバーが重なった結果、貴族層の取り込みにも失敗したことは、ある意味で構造的な必然であったとも言えます。
この「制度のキャパシティーオーバー」は、鎌倉幕府が北条時宗以降に直面した「人からシステムへの再構築」に失敗した状況とも構造的に相似しており、その意味では建武新制は、打倒した北条氏の轍を踏んでしまったとも言えるでしょう。
さて、後醍醐天皇(建武新制)にとって最大の壁となったのは足利尊氏という個人ではなく、当時の社会秩序そのものでした。
しかし同時に、この社会秩序は後醍醐によって大きく揺さぶられます。
それこそが、長く続いてきた「職の体系」を終焉へと向かわせ、新たな時代の扉を開く原動力の一つとなりました。
その意味で後醍醐天皇は、「断絶という名の大きな結節点」であったと言えるでしょう。
今回はこの点について、もう少しだけ掘り下げて考えてみたいと思います。
”職の体系”とは
さて、第二夜シリーズでも徐々に出現頻度が上がってきた「職(しき)の体系」ですが、これは中世日本を理解する上で不可欠な概念であり、前シリーズでもやや踏み込んで掘り下げてきました。
ここで一度、簡単におさらいしておきたいと思います。
ごく大雑把に説明すると、「職の体系」とは、一つの荘園(土地・領域)を、複数のレイヤー(職/しき)がミルフィーユ状に重層的に支配・関与する体制を指します。
このレイヤーは、上流から順に
本家職
領家職
下司(げす・げし)職
といった形で積み重なっており、こうした構造全体を歴史用語として「職の体系」と呼びます。
なお、ここで言う「土地」とは、畑一枚や一集落といった個別の土地を指すものではありません。
多数の田畑や集落を含んだ一定の「領域」を意味しており、現代的な感覚で言えば、一つ、あるいは複数の市や町に相当する自治的な単位とイメージすると分かりやすいでしょう。
この意味で、前シリーズでは、いわゆる「領域型荘園」を事実上の自治的支配区域と捉え、王家・摂関家・有力寺社などが保有する荘園の集合体である「領」を、それら自治的支配区域のネットワークとして解釈しました。
つまり、「職の体系」における荘園とは、制度的に成立した私的地方自治体のような存在であり、それが朝廷(国司)が支配する公領と併存する体制こそが、「公領荘園制」と呼ばれる中世日本の一般的な社会秩序であったと言えます。
鎌倉幕府によって設置された地頭職は、このレイヤー構造の中では、位置づけとしては概ね下司職に相当します。
ただし、最大の違いは、地頭職が「職の体系」そのものとは異なる、御恩と奉公に基づく武士的主従関係(いわば武士的封建制)に属する存在であった点にあります。
もっとも、これはあくまで「最終的には」という留保が必要であり、実際の社会秩序の中では、地頭は下司職と同様に職の体系にも組み込まれた、いわば両属的な存在でした。
すなわち、形式上は職の体系に属しつつ、実質的には武士的主従制にも属するという、極めて曖昧な立ち位置にあったのです。
このような「異質な存在」である地頭が、職の体系の中に入り込むことができたのは、
地頭職が職の体系に対する外付け(後付け)レイヤーとして横から差し込まれた存在であったこと
そして、その背後に朝廷と幕府による分担統治という政治的担保が存在していたこと
によるものでした。
しかし、本来は異質な存在である地頭は、次第に本家職・領家職、すなわち本所による制御が困難になっていきます。
その背景の一つが、地頭(御家人)に課せられていた経済的負担の重さです。
御家人の奉公には、通常の軍役に加えて「関東御公事(かんとうみくうじ)」と呼ばれる諸公事の負担があり、貨幣経済の浸透に伴って、これらは主に銭納(現金納付)で支払われるようになっていきました。
さらに、軍役そのものも原則として自弁であり、鎌倉や京都、あるいは九州沿岸に赴いて勤務し、帰還するまでの一切の費用を、自らの財力で賄う必要がありました。
加えて、家人や奉公人といったスタッフ(兵力)を雇用・維持するにも費用がかかります。
鎌倉幕府の御家人は、「武士は食わねど高楊枝」などと呑気なことを言っていられる立場ではなかったのです。
このように、とにかく金がかかるため、地頭の多くは、公田・給田(くでん・きゅうでん)など「公式に必要経費として認められた収入」だけでは立ち行かなくなり、本所の権益に踏み込むようになっていきます。
これが、本所と地頭の対立を激化させる要因となりました。
その結果として採られたのが、
地頭に荘園経営を任せ、一定の年貢納入義務のみを負わせる地頭請
荘園そのものを本所と地頭で分割する下地中分(等分とは限らない)
といった、いわば妥協策でした。
一方、地頭が存在しない荘園であれば安泰だったかというと、必ずしもそうではありません。
この場合、下司職に位置づけられる荘官が、本所の意向に反する行動を取るようになるケースが見られます。
当時は、「読み書きそろばん」に相当する実務能力を持つ人材そのものが希少であり、特に鎌倉時代後期に畿内関西地方を中心に貨幣経済が浸透すると、年貢の代銭納(現金納付)が一般化し、実務能力に加えて(より有利な現金化・換金などの)商才まで求められるようになります。
こうした条件を満たす荘官は、現代で言えば「レアアース」に匹敵する希少資源(人材)でした。
結果として、本所が自家の家司や家人だけで荘園経営を賄えるケースはむしろ例外となり、多くの場合、外部から人材を「雇う」必要が生じます。
現代的に言えば、コンビニなどの小売店舗における雇われ店長に近い存在です。
本来的にフリーランス的性格を持つ彼ら荘官は、「稼げる時に稼ぐ」しかなく、必然的に地頭と同様、本所の権益と衝突するようになります。
しかも当時の荘官は、解雇されれば素直に立ち去るとは限りませんでした。
いわゆる「悪党」とは、必ずしも野党的に荘園を侵食する無法者集団を指す言葉ではなく、こうした雇われ荘官が「居直り」を見せた場合などにも用いられた概念です。
地頭による違法行為(契約違反)があれば、本所は幕府に訴え出ることになりますが、幕府は余程の事情がない限り、地頭を即座に解任することはせず、当事者同士の話し合いによる和与(示談)を基本とする「調停役」に回ることが一般的でした。
ここに、地頭請や下地中分が成立する余地が生まれます。
寺社や貴族を本所とする場合、本所側が勝訴する例は比較的多かったとされますが、それでも地頭や荘官が「居直り」を見せれば、実力で排除することは容易ではありませんでした。
幕府が原則として保証するのは権利の正当性であり、その執行は当事者自身に委ねられていたからです。
これは鎌倉幕府が武家政権である以上、ある意味で当然の構造でした。
武士同士であれば、「正当性さえ担保されれば、後は自力で何とかできる(何とかせよ)」という前提があったからです。
幕府後期には、非御家人を相手とする場合などに、御家人を派遣して強制執行を行う使節遵行(しせつじゅんぎょう)も実施されるようになりますが、これもまた派遣される御家人の自腹で行われるものでした。
少々説明が長くなりましたが、ここで重要なのは、こうした制度疲労(や問題)を抱えながらも、なお「職の体系」そのものは、中世社会における一般的な社会秩序として維持されていたという点です。
そして、この秩序に決定的な揺さぶりをかけることになるのが、建武新制でした。
意図的とは言い切れない
もっとも、ここで注意しておきたいのは、建武政権や後醍醐天皇が、意図的に「職の体系」を揺さぶろうとしたと断定するのは適切ではないという点です。
むしろそれは、「意図せず、結果的に揺さぶってしまった」側面が大きかったと捉えるべきでしょう。
当たり前の話ですが、いわゆる御家人制という武士的主従制(封建制)を支えていた「鎌倉殿(幕府)」が事実上消滅した以上、その制度に依拠して成立していた御家人という公的身分もまた消滅することになります。
これは北条氏のように物理的に「滅亡」したという意味ではなく、制度上の身分が消えたという意味です。
現代的な感覚で言えば、ある日突然、勤めていた会社や店舗が倒産し、従業員という立場そのものが消滅したようなものと考えると分かりやすいでしょう。
しかも、この「倒産」には、退職金や未払い給与といったものの清算義務すらありません。
なぜなら、御家人の奉公は原則として自弁で行われていたからです。
このように考えれば、建武政権に対して、旧御家人を含む武士たちが一斉に「殺到」した理由も、容易に理解できるはずです。
では、御家人が制度上消滅した以上、その利権でもあった地頭も消えたのかと言えば、必ずしもそうではありません。
建武政権、すなわち後醍醐天皇は、地頭を「御家人の特権」として否定するのではなく、地頭を一つの「職(しき)」として、王権が直接把握するという選択を行いました。
これは「職の体系」を旧来の形で復興しようとしたものではなく、あくまでも
「天皇を最終権利者として、支配を一元化する」
という改革構想の一環と捉えるべきでしょう。
この結果、地頭は後醍醐天皇の綸旨によって個別に任命される存在となります。
言い換えれば、後醍醐天皇は、それまでの重層的土地支配構造を、天皇による一元的支配へと組み替えようとしたとも表現できます。
この発想自体が必ずしも誤りであったとは言い切れません。
問題は、それを律令体制の再構築や制度的再編という形で行わず、あくまで「最終権利者の付け替え」に近い方法で進めてしまった点にありました。
ここで、これまで意図的に深掘りを避けてきた概念を導入したいと思います。
それが「知行(ちぎょう)」です。
前シリーズでも「知行国制」などの用語は登場しましたが、「知行」そのものについては詳しく触れてきませんでした。
本稿では、これを便宜的に、
「その荘園、あるいは地域から収益を得る権利」
と大雑把に理解したいと思います。
「便宜的」と断るのは、知行という言葉自体が比較的早い時期から用いられており、時代によって意味合いや指す範囲に揺らぎがあるためです。
また、学術的にも統一された定義があるとは言い切れません。
本稿は、あくまで一個人による素人論考であり、厳密な概念史を論じることは目的としていません。
この理解であっても、「知行国制」を「特定の律令国の収税の一部を自己の収益とする権利」と概ね正しく説明することは可能であり、議論を進める上では充分であると考えます。
この「知行」という視点から改めて「職の体系」を捉えると、それは一つの土地に対して、複数の主体が重層的に知行(収益権)を持つ構造であったと表現することができます。
言い換えれば、「職の体系」とは、コストとリターン(収益)の分布構造
であり、地頭や荘官といった下位層と、本所層との葛藤とは、突き詰めれば「負担しているコストに見合うリターンを誰が得るのか」という問題でもありました。
そして、この収益がまったく得られなくなった状態を「不知行」と呼び、前シリーズでも簡単に触れた通り、これは当事者にとって死活問題となります。
紙幅の関係で詳細は省きますが、建武政権、すなわち後醍醐天皇が結果として揺るがしてしまったものこそが、この「知行」でした。
建武新制によって、地頭職を含む「職の体系」は、事実上リセットに近い状況へと追い込まれます。
しかし、本来は異質であった地頭職という制度を用いて、最終的な知行権を天皇に集約しようとする試みは、ほとんど実効性を持ちませんでした。
その結果、「職の体系」の中で機能していた知行は混乱し、やがて知行権に含まれる「支配権」の比重が急速に増大していきます。
こうして社会秩序は、重層的土地支配から、知行と支配がより一体化した「一円支配」へと移行していくことになります。
この社会秩序転換の契機として後醍醐天皇を位置づけたものが、本稿で述べてきた
「断絶という名の結節点」
という理解なのです。
建武期における”守護”
ただし、繰り返しになりますが、ここまで述べてきた理解や整理は、あくまで非専門家による素人論考であり、学術的な厳密性や統一的な見解を担保するものではありません。
中世史研究は日進月歩であり、今後の研究動向や自身の理解の深化によって、これらの見解が大きく修正される可能性も充分にあります(自分自身のものも含め)。
それでもなお、個人的には、建武新制(建武政権)を含めた中世史理解として、大きく的外れではないという程度の確信は持っています。
さて、後醍醐天皇が、地頭と並んで鎌倉幕府の制度を継承・利用したものとして、守護があります。
以前の記事でも簡単に触れましたが、鎌倉幕府における守護とは、将軍によって任命される役職であり、その本来的な機能は、
律令国内における警察権の行使
限定的な軍事権の行使
御家人に対する部分的統制
にとどまるものでした。
後醍醐天皇もまた、地方における警察権および限定的軍事権の担い手として、守護を利用しようとしたと考えられます。
すなわち、建武政権における地方統治構想は、
国司が、民事・行政といった「文民的」機能を担当し
守護が、警察・一部の刑事裁判、限定的軍事権といった「制服組的」機能を担当する
という、役割分担を前提としたものであったと理解できます。
もちろん、国司と同様に守護も、綸旨による天皇の直接任命・掌握を前提とした存在であったことは、改めて述べるまでもありません。
この点において、建武新制下の守護制そのものは、決して誤った構想であったとは言えず、理論的にはむしろ最適解に近い制度設計であったと評価することも可能でしょう。
実際、鎌倉幕府期における守護制そのものが、制度的に大きく破綻していたとは考えにくく、幕府は折々の(番役を含めた)軍事行動において、守護を通じて充分な兵力を動員・運用できていたと見られます。
また、北条氏が半数以上の守護職を掌握していた体制が崩壊した以上、その空白を守護任命という形で恩賞として配分できる点は、ある意味で「低コストな報償」とも言えました。
さらに、国司(国衙)についても、地域差こそあれ、依然として実体を伴う地方統治機構として機能しており、これを新政権でも活用すること自体は合理的な判断であったと言えます。
ところが、ここに先述してきた職の体系の混乱・崩壊傾向、および一円支配化の流れが重なったことが、問題を複雑化させました。
以前の記事でも触れましたが、鎌倉幕府前期に制定された『御成敗式目(貞永式目)』第三条には、次のような規定があります。
守護の中には、代官を村々に送り、勝手に村人を使役したり、税を徴収したりする者がいる。
また、国司でもないのに地方を支配し、地頭でもないのに課税を行う者もいる。
これらはいずれも非法の行為であり、固く禁止する。
この規定が示す通り、守護という「職(しょく)」自体が、比較的早い段階から利権化の誘惑や拡張志向を内包していたことが分かります。
そこに、職の体系の混乱・崩壊と、一円支配化の進行によって生じた国人(こくじん)層の台頭が重なります。
守護は、これら国人を被官化して束ねることで、次第に勢力を拡大しました。なお、これら「国人」がより大きな勢力を得たものが国衆(くにしゅう)であり、これらの国衆の一部は後に「戦国大名」へと成長していきました。
また、国司の権限は地域によって大きな差があり、伝統的に守護権力が強かった地域や、国司権力が相対的に弱かった地域では、守護が国司の権限を侵食する動きが顕在化していきます。
これらがやがて、守護請として制度化され、律令国内における実質的な支配権力を守護が掌握する形へと進展します。
これは、公領の経済力を守護が吸収することを意味し、後に発布される半済令とも相まって、守護の利権化を大きく後押しする結果となりました。
こうして、一部の守護は事実上一国を一円支配、あるいはそれに近い形で支配するようになります。
これがいわゆる守護領国制であり、結果として、後醍醐天皇が構想した「守護と国司の並立による王権主導の全国統治」は、武士による全国の分割統治へと着地することになりました。
機会があれば改めて詳述したいところですが、ここで大雑把に結論だけ述べるならば、鎌倉幕府と室町幕府の大きな違いの一つは、
鎌倉幕府:
公武協調による分担統治
室町幕府:
職の体系崩壊を背景とした、公武癒着(あるいは一体化)による分割統治
と整理することができるでしょう。
その意味でも、後醍醐天皇は、日本中世史において
「分断という名の結節点」
となってしまった存在であったと表現することが可能なのです。
おわりに
以上、中世特有の土地支配である「職の体系」について振り返りつつ、後醍醐天皇が結果としてそれを大きく揺るがしてしまったことを、概観してきました。
「職の体系」とは極めて単純化して言えば、一つの荘園(土地・領域)を、複数のレイヤー(職)がミルフィーユ状に重層的に支配・関与する体制のことです。
ここで言う荘園(土地)は、畑一枚や一集落といった個別の土地を指すものではなく、多数の田畑や集落を含んだ一定の「領域」を意味している点に注意が必要です。現代的にイメージすれば、一つ、あるいは複数の市や町に相当する自治的単位に近いものと捉えると分かりやすいでしょう。
この理解を踏まえ、前シリーズでは、いわゆる「領域型荘園」を事実上の「自治的支配区域」と捉えました。そこから、王家・摂関家・有力寺社などが保有する荘園の集合体である「領」を、それら自治的支配区域のネットワークとして解釈しました。
つまり、「職の体系」における荘園とは、制度的に成立した「私的地方自治体」のような存在であり、それが朝廷(国司)が支配する公領と併存する体制こそが、「公領荘園制」と呼ばれる中世日本の一般的な社会秩序であった──という整理です。
そして鎌倉幕府における「地頭」とは、本来は職の体系とは異なる「武士的主従関係(封建制)」に属する存在でありながらも、外付け・後付けのような形で「職の体系」に組み込まれました。
その状態が「公武協調による分担支配」に支えられ、結果として社会秩序の一部として機能していた、という点を確認しました。
しかし、この「職の体系」と「武士的主従制」の両属的な関係からも分かる通り、地頭(御家人)と本所(荘園領主)の間には葛藤が生じやすい構造が内在していました。
その一因として、御家人(地頭)の奉公には軍役だけでなく、「関東御公事(かんとうみくうじ)」のような臨時負担(実質的には不定期の課税)が含まれていた点を挙げました。また、奉公の本旨である軍役も原則として自弁である以上、地頭(御家人)は制度上「金のかかる立場」でもありました。
ゆえに、個人的な欲望以上に必要上「より多くの収入」を求める動機が地頭側には発生しやすく、それが本所の権益との衝突や浸食を招きやすい原因にもなっていた──という整理です。
また、地頭が設置されていない荘園も安泰ではありませんでした。そもそも下司職(げす・げししき)の中核を担う荘官(荘司)が、現地で荘園を管理・運営するための知識や技能を持つ人材であり、それ自体が希少な存在でした。
さらに畿内や西日本などの「先進地域」を中心に貨幣経済が進展し、年貢の銭納(現金納付)化が進行すると、実務能力に加えて商才まで求められる場面が増え、自家の人材だけで荘園運営を賄うことが難しくなっていきます。
結果として、外部から人材を雇い入れる必要が生じますが、フリーランス的性格を持つ「雇われ荘官」もまた、地頭とは異なる方向性で本所の権益と衝突しやすい構造的動機を抱えました。そして、こうした衝突の一部が「悪党」と呼ばれる存在として認識されていくことになります。
なお「悪党」とは、必ずしも反体制(反幕府・反北条氏)的な武装抵抗勢力を意味するとは限らず、むしろ「職の体系」内の隙間で、実務上の利権や制度的に不正な権益を得ようとする者たちを、荘園領主や取り締まる側(幕府)から見て「厄介な存在」として把握した言葉でもありました。
歴史学者・石原比伊呂氏は一般向け新書『北朝の天皇―「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』(中公新書)の中で、「悪党」を現代的な感覚で「やべぇヤツら」と言い換える趣旨の紹介をしていますが、確かに「悪党の実相」を直感的に捉える上では分かりやすい比喩だと感じます。
その意味で、後醍醐天皇が結果的にそれらの一部を戦力化できたとしても、それは「悪党」が反体制的勢力だったからというより、あくまで当時の社会秩序の部分的な綻びが軍事的動員へ転用された(出来た)側面が大きい、と捉えるべきでしょう。
そして、職の体系を理解する補助線として「知行」という概念も導入しました。
「知行」は時代によってニュアンスや射程に揺らぎがあり、学術的にも一義的な統一見解が確定しているとは言い難いため、本稿では便宜上、「その荘園、あるいは地域から収益を得る権利」と定義しました。
この定義から職の体系を捉えると、それは「一つの土地(荘園)に対して、複数の主体が重層的に知行(収益権)を持つ構造」と表現できます。
であるならば、地頭や雇われ荘官と本所との葛藤は、突き詰めれば「負担しているコストに見合うリターンを誰が得るのか」という、コスト(支配)とリターン(収益)の分布構造の問題として整理できます。
そして、この知行が完全に機能不全に陥った状態を「不知行」と呼び、上位レイヤー(本家・領家=本所)にとってはまさに死活問題であった、という点も確認しました。
後醍醐天皇が結果的に崩壊への後押しをしてしまったのが、まさにこの「職の体系」における知行であり、これが「収益権」と「支配(管理)権」の一致を促進させる一因になった──というのが本稿の大筋でした。
後醍醐天皇は「王権(天皇)への知行の一本化」を志向し、そのために地頭職を鎌倉幕府から継承し、綸旨による直接任命を行いました。しかし、こうした建武政権の土地政策は結果として「職の体系の事実上のリセット」に近い混乱をもたらし、従来の重層的土地支配(重層的知行)から、収益権と支配権がより一体化した一円支配へと社会秩序が変化していく大きな契機となってしまいました。
これはかなり単純化したイメージではありますが、鎌倉時代から室町時代、そして戦国時代へと繋がる制度的変遷の「大筋」としては、それほど的外れではないだろうと考えています。
このイメージで整理すれば、鎌倉時代を「公武協調による分担統治」、室町時代を「公武癒着(あるいは一体化)による分割統治」、江戸時代を「公武分離による分割統治」と、大まかに整理することも可能になります。
そして「公武癒着(あるいは一体化)による分割統治」の一端を担ったのが、地頭と並んで建武政権が継承した「守護」でした。
後醍醐天皇が意図した守護の利用は、国司との分担(分掌)による地方統治であり、必ずしも一律ではないものの実効性を持っていた国司(国衙)機構と、幕府の地方警察・軍事機能を担う守護を併置すること自体は合理的な制度設計と捉えられます。
しかし守護には、早い段階から法規制が必要になるほどの利権化志向が内在しており、それが職の体系の崩壊による一円支配化と重なったとき、守護が大きく変質していく第一歩となりました。
すなわち、一円支配化の進行により「荘園(土地)を直接支配し(大部分の)収益を得る」国人(こくじん)層が成立・発展し、守護がそれらを被官化して束ねることで勢力と経済力を拡大していきます。さらに「守護請」や「半済令」によって制度的な利権化が補強され、結果として「律令国を事実上一円的に支配」する守護が登場していきます。
これが守護領国制であり、その中でも特に有力なものが守護大名と呼ばれます。
つまり、この「公武癒着(あるいは一体化)による分割統治」へ向かう流れを切り開く一歩になってしまったという意味でも、本シリーズでは後醍醐天皇を「分断という名の結節点」の一つと表現してきた、という点を確認しました。
このように、後醍醐天皇による建武新制は方向性自体が必ずしも誤りとは言えないものの、武士層も貴族層も、そして「職の体系」に基づく社会秩序のニーズも充分に汲み取りきれず、それが短期間での崩壊に繋がったと理解できます。
そして前提こそ異なるものの、この流れは「人からシステムへ」の再構築に失敗した時宗期以降の鎌倉幕府とも構造的に相似であり、本シリーズでは建武政権の「失敗」を属人的要因以上に構造的要因として重視する視点で論述してきました。
さてここまで、「南北朝時代」の「どうしてこうなった」を紐解くため、遠因としての両統迭立に至る前史から出発し、後醍醐天皇の登場、そして職の体系の動揺と一円支配化の流れまで概観してきました。
これらは原則として「単純化した大きな流れのイメージ」であり、学術的な厳密性を担保するものではありません。しかし全体の理解整理としては「間違いとは言い切れない」程度の精度を保つつもりで記事を書いています。読者諸賢におかれましては、本稿を日本中世史理解の一助としていただければ幸いです。
次回の内容は未定です。引き続き建武新制の概観を続けるか、あるいは「足利尊氏の事情」に話題を転換するか、考え中です。もしかすると全く別の話題になるかもしれません。
いずれにせよ回りくどい論考になることはほぼ確実かと思いますが、どうぞよろしくお付き合いください。
それでは、次回もお楽しみに。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
