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ChatGPTと学ぶ日本史・第3回――荘園と親政が生んだ院政のロジック~白河天皇の戦略と時代

「後三条天皇による荘園整理令」は、制度の原点に立ち返る一方で、「制度内で保護される荘園」という新たな形を生み出しました。そしてその恩恵を受ける形で現れたのが、次代・白河天皇です。本記事では、白河天皇がどのような政治的立場にあり、なぜ「上皇」という立場から「天皇以上の実権」を持つことが可能だったのか──その仕組みと背景を丁寧にひもときます。

摂関政治と同じく「道徳的権威による支配ロジック」と「莫大な荘園収入」という二本柱を持ちつつ、白河法皇はそれを「王家主導で再構築」しました。それは、摂関から院政への政治形態の転換だけでなく、「女系から男系」への大きな流れの中でも象徴的な出来事だったのです。


はじめに:ざっくりの再確認

前回は主に後三条天皇の登場とその意義についてざっくりと見てみました。あれでも「ざっくり」なんです、信じて下さい。それはともかく、記事後半で簡単に触れた「荘園整理令の(たぶん)想定外の副作用」として、領域型荘園の成立についてザッと述べています。そこで今回は、この領域型荘園とも関係浅からぬ「白河天皇(法王)」について「ざっくりと」見てみたいと思います。

白河天皇の即位と政治的立場

前回触れたように、「白河天皇」は父である後三条天皇より「譲位」された事により即位(践祚)します。この「生前譲位」とその後の歴史的事実から、「後三条上皇も院政のような事をやる予定だったのでは?」という議論があったのですが、上皇となった翌年に病気のために薨去する(亡くなる)ので真相は藪の中です(近年は譲位も病気によるものでは、という見方もあるようです)。さて、この白河天皇も母親は閑院流の藤原氏であり、御堂流(摂関家)ではありません。つまり、先帝(父親)同様に「摂関家(外戚)の掣肘を受けにくい」立場にあり、関白は引き続き設置されますが親政を行います。

摂関家の後退と上皇への移行

そして前代に続き、自身も荘園整理を推進したようです。そして、御堂流の重要人物の死や内部での後継争いなどもあって、藤原氏(摂関家)はこの時期に「政治勢力」として大きく後退してしまいます。結果的に天皇(王家)の権力を強化できた白河天皇は幼い実子の善仁(たるひと)親王を皇太子に立てると(立太子と言います)即日に譲位し、「白河上皇」となります。

「上皇」と「院」の制度的位置づけ

さて、ここで少し寄り道をします。前回も簡単に触れていますが、「制度上一番偉いのは天皇」という建前は実は歴史上概ね不変でした。幕末の「尊王攘夷」が有名ですが、この「尊王」の思想は歴史の中で脈々と生き続けます(バサラ大名などの例外在り)。
この為、「上皇」として「公式に認められる」ためには天皇による「院号宣下」という手続きが必要でした。この手続きによって「白河院」として公認されるのですが、「建前上、天皇の方が偉い」事には変わりません。
では、何故、白河上皇は「天皇を超える」権力者になれたのでしょうか。
この時即位した堀川天皇(善仁親王)は僅かに8歳であったと伝えられています。
「え?そんな子供が院号宣下なんて難しい事できるの?」と思われる方がいるかもしれませんが、大丈夫です。これらの手続きは「既にシステム化」されており、具体的な手続きは臣下が代行し、「最終的な決済」を名目上整えるだけで良いようになっていました。
簡単に言えば、「部下が作成した書類にハンコを押すだけ」のようなイメージで多分良いと思います。

道徳的正当性と摂関政治との共通性

すると、ここに「大義名分」が発生する事になります。つまり、「重要な政治儀式を全て自力で行えない幼帝を、実父という道徳的な権威によって補佐(代行)する」というロジックです。しかも上皇とは基本的に「天皇経験者」です。これ以上の「適格者」が存在しないのは誰が見ても明らかです。
ところで、この「道徳的な権威によって補佐(代行)する」という話、どこかで聞いたような気がしませんか?
そうです、「摂関政治」の権力ロジックと「ほぼ同じ」です。大きな違いは摂関政治の場合は「女系重視」、院政の場合は「男系重視」という点です。この白河天皇の譲位と院政が「契機」ではないのですが、中世は「男系継承」が一般的なものになってゆきます。
つまり、この院政とは、「女系から男系」への大きな流れの中の一事例とも言えるのではないでしょうか。

「権威+経済力」の両輪を得た院政

このように、「正当(に見える)大義名分」は手に入りました。しかし、このままでは「半分足りない」状態です。
思い出して頂きたいのは、藤原道長が「この世ば我が世とぞ思」った理由です。一つは「外戚としての権力」、そしてもう一つが「本家として多数の荘園から上がる莫大な不労所得」でした。
つまり「超リッチ」貴族であったことが権力の一半を支えていたのです。そして、「院政」においてもこの構造は同じだったのです。

荘園と「制度による保証」の価値

この時に「院の財布」となったものの一つが「領域型荘園」です。
前回見たように、後三条天皇の「荘園整理令」は「墾田永年私財法」の原点に返り、「適法性に疑問のある荘園」を摘発し、それを公領や天皇直轄地に再編成するものでした。
この結果、「正当と認められた荘園」は晴れて「制度上の存在」となり、その領域と支配力を強化したと思われる事は既に述べている通りです。
これは少し視点を変えると、「寄進地系荘園」が「脱法的な保護」による「制度外の信用」に基づくシステムであったのに対し、「領域型荘園」は「制度による保証」によるシステムと表現できます。
このような観点から「保証」をより強固なものにしたいなら、それを求めるべきは「制度上一番偉い存在」になります。
これが「荘園の寄進が王家に殺到する」事になった理由の一つなのではないでしょうか。

「上皇」としての利点と「寄進殺到」

極乱暴に言えば、これは「ナンバーワン本家」が摂関家から王家に移った、と表現できるかもしれません。
ところが、「天皇」は建前上「私有地」は持てません。何度も思い出して頂いて恐縮なのですが、そもそも「律令制度」は「公地公民制」であり、「例外的に認めた私有地(荘園)」とは法理上「相容れません」。
勿論、既に述べている通り「没収された荘園の一部は天皇直轄領に編成」されていますので、「私有地的なものを全く持てない」訳ではありません。
しかしこれはあくまで「国家の一部門」的な扱いであり、天皇個人の財産とはされません。
従って、「ナンバーワン本家」として、天皇があからさまに「私的な富を集める」ことには無理があるのです。
そこで登場するのが「上皇」という存在です。すでに譲位を終えた元天皇は、形式的には「官職に就かない一私人」という立場になります。しかし一方で、「制度的にもっとも高い権威を保持し続ける者」として、院庁を組織し、実務に強く関与できる立場でもあります。
このような「制度から最も近い場所にいる私人」という絶妙なポジションにこそ、「寄進が殺到した理由」があるのではないでしょうか。
そして、実際に寄進が殺到しました。
ここにおいて「院政」は、かつて藤原道長が手にしていた「道徳的・血縁的な権威に基づく実権」と、「荘園から上がる莫大な不労所得」という二つの車輪を、自らのものとして確保することに成功したのです。

まとめ:権威と制度の複合体としての院政

ここまでで結構な文字量になってしまったので、今回はここで一端区切りとします。重要な点は、まず白河天皇が「親政を行える立場」にあった事です。これは成人してから即位した事もあって「摂政」は存在できず、外戚の立場に依拠する摂関家の影響力を受けなかった事もあります。
さらに、摂関制と同じ「権威のロジック」と「不労所得の構造」を得る事で「権力の実体性」を確保した事を確認しました。
そして、それは「女系継承から男系継承」に変化してゆく流れの中の一つと思える事にも触れました。

次回予告:白河法皇の治世と中世の胎動

次回も、この「白河上皇(法王)」の治世について俯瞰してみたいと思います。この時期には実に様々な事があったのですが、一つが「知行国制」の「発展」でした。これは最終的には「王家を含む朝廷の財政基盤を破壊」する一因になります。
また、有名な「天下三不如意」の一つである「山法師」は比叡山延暦寺等の寺社勢力についてですが、これは「墾田永年私財法」が切っ掛けの一つだった事は既に見てきました。これは単に「戦うお坊さん」の出現だけではなく、水面下では「新時代の産声」が静かに静かに上がっていたのです。
さらに、この時期に発生した「後三年の役」こそが、院政の、さらに「公家の時代」の終わりの始まりでした。これらの事に全部触れられるかは分かりませんが、また皆様と歴史の「ナニコレ?」を楽しみたいと思います。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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