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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第30回――武士達の神輿へ~足利尊氏と建武政権

今回は、建武政権内部における「足利尊氏」の立場(立ち位置)と、後醍醐天皇による「武士層の取り込み失敗」について概観します。

本稿では、「護良親王」「新田義貞」との対立を中心に、「足利尊氏」が何故「武士達の神輿」として最も“適正サイズ”な存在だったのかを、「家格」「軍事力」「武士ネットワーク」「実務能力」などの観点から整理してみました。

また、「建武政権」内部における「反尊氏」の対立についても、『太平記』的な「尊氏の叛意」や「新幕府構想」への警戒というより、むしろ「建武政権内部の一般的な権力抗争」と捉えた方が実相に近いのではないか、という視点から考察しています。

更に、「後醍醐」と「尊氏」の間に成立していたと思われる「見かけ上の蜜月関係」や、建武政権の混乱によって「尊氏への期待」が徐々に高まり、本人の意思とも必ずしも無関係に「武士達の神輿」へ押し上げられていく過程についても触れました。

そして、そのような「微妙な時期」に発生したのが「中先代の乱」です。

本稿後半では、「北条時行」や「諏訪頼重」の背景にも触れつつ、「中先代の乱」が単なる「北条氏復興」ではなく、「どの政権(制度)を支持するのか」という大きな「踏み絵」を関東武士層へ突き付ける内乱だった可能性についても簡単に整理しています。

今回は「中先代の乱」そのものの詳細というより、その“前夜”における建武政権と足利尊氏の関係整理が中心となります。※約17000字


前回は後醍醐還御(京帰還)後の流れについて、主に「建武新制(政権)の何が問題だったのか」という点を、以前の記事とはやや視点を変えて概観しました。

本シリーズでは、後醍醐について通俗的な「復古的理想主義者」ではなく、「現実主義的改革者」として捉えています。
そのような前提に立つならば、後醍醐の最大の目的は「自身の皇子(皇統)に皇位を継承させる事(ルートを一本化する事)」であり、「律令制」の復興などは従来イメージされてきたほどには明確に志向してはいなかったのではないかと私は推測しています。

出典が『梅松論』という少々注意を要する史料ではあるものの、「朕が新義は未来の先例たるべし」という後醍醐の言葉(とされるもの)は、ある程度「本音」に近いものだった可能性も考えられます。ただし、これも”結果から逆算して創作された”ものである可能性も充分にあるでしょう。

しかしながら、後醍醐が何らかの復古的施策(例えば「太政官制」の本格的復興など)を行った事を史料上から明確に読み取ることは難しく、少なくとも「建武新制」が”先例重視”の復古的政権であったとは言い難いように思われます。
或いは、少なくとも当時の人々も「復古的政権」というイメージをそれほど強く抱いてはいなかった可能性もあるでしょう。

また、後醍醐が理想として掲げたとされる「延喜の治」についても、それは「太政官制」に基づく「陣定(じんのさだめ)」などの公卿会議や、「藤原氏(北家)」という最有力貴族層の支持などの上に成立した「天皇親政」でした。
つまり、「建武政権」が志向したと思われる「後醍醐個人への強い権限集中」とはかなり性格が異なるものです。

そもそも「延喜の治」の時代とは、まだ「武士」が政治的に台頭しておらず(故に”武家政権”も存在しない)、「摂関政治」や「院政」も制度としては未成熟(または未成立)な時代でした。
乱暴に言えば「天皇の政治的主導力が比較的発揮されやすかった時代」であったからこそ、そしてその上で一定度の成果があったことから後世に「理想化」された面もあると整理できるです。

後醍醐自身がそのような歴史的背景を全く理解していなかったとは考えにくく、従って彼は「延喜の治」という言葉を「表立って反対されにくい政治的スローガン」または「キャッチコピー」のようなものとして利用した可能性が高いのではないかと本シリーズでは推測しています。
つまり、後醍醐は「延喜の治」の”表面的イメージ”を利用したのであって、それをそのまま再現しようとしていた訳では必ずしもなかったのではないか、という事です。

なお、私は前回「菅原道真」について、宇多が「更に後継者である『醍醐天皇』に対しても、道真を引き続き重用するよう言い残したとされます」と書きましたが、これはやや誤解を招きやすい表現でした。

どういう事かというと、醍醐は「宇多崩御によって践祚(即位)」したのではなく、「宇多の譲位によって践祚」しています。
その際、宇多から当時13歳であった新帝醍醐に与えられたとされるのが『寛平御遺誡(かんぴょうのごいかい)』です。

「御遺誡」という名称からは何となく「遺言」のようなイメージを受けますが、内容は宮廷儀礼や朝廷運営の作法などについても詳しく述べられており、歴史研究上重要な史料となっています(ただし原本は失われており、現在伝わるものは鎌倉期の写本や逸文によるものとされます)。
つまり、「遺言」というよりは「政治運営マニュアル」または「ハウツー本」に近い性格のものと考えた方が分かりやすいでしょう。

この中では、藤原時平と菅原道真についてそれぞれ人物評が述べられていて、時平については「若いが政理に通じているので顧問としてその輔導に従うべき」、道真については「鴻儒で深く政事を知る人物であり、“新君之功臣”として信任すべき」といった趣旨の記述があります。
ここからは、宇多が道真を政治的ブレーンとして信任しながら、時平と「車の両輪」のような形で醍醐天皇の朝政運営を考えていた可能性を読み取ることが出来ます。

しかし、宇多は「上皇」になった後もなお朝廷への影響力保持を志向し、その為の「窓口」の一つが道真でした。
そして、このような道真重用に対して伝統的貴族層から反感や警戒が生じ、それが結果として「道真失脚」の一因になったと考えられています。

つまり、直接的には藤原時平や醍醐天皇の問題ではあるものの、宇多もまた間接的に「道真公を天神様にしてしまった原因の一人」と言えなくもないのです。

多少話が脱線気味ではありますが、要するに「延喜の治」の背後にも、貴族同士や宇多と醍醐の間などに様々な対立や葛藤が存在しており、「道真失脚」もまたそのような複雑な力関係の中で発生したものとして理解すべきだという事です。

前回はやや単純化し過ぎた説明になってしまいましたので、その点はここで訂正しておきたいと思います。

ともあれ、繰り返しになりますが「延喜の治」とは乱暴に言えば「幕府も摂関政治も院政も制度としては未成熟或いは未成立であり、結果として天皇の政治的主導力が比較的強く見える時代」であり、その上で「たまたま一定の成果」があった事がやや過大気味にクローズアップされた面が大きく、後醍醐はその事をある程度理解した上で、「延喜の治」という言葉の持つ”理想的イメージ”を政治に利用した可能性が高いと本シリーズでは考えています。

勿論、当時にあっても「延喜の治」の単純な復活・復古は現実的ではなかったでしょう。
従って、「現実に即した」改革は必要不可欠であり、「建武新制」において後醍醐が行った施策には、それなりに合理性や現実性を見出すことも出来ます。

この事は「建武政権」期に試みられた統治手法や制度の一部が、後の「室町幕府」にも引き継がれていった事からも一定度裏付けられるでしょう。

しかしながら、仮に名目的にでも「復古的」な目標を掲げてしまった以上、そこにはどうしても「言っている事とやっている事が違う」という「不整合」または「言行不一致」が発生してしまいます。

これの何が問題かというと、「言行不一致」や「不整合」は「信用」を大きく毀損する事です。
現在でも、「選挙公約で言っていた事と実際の政策が一致しない」といった不満は比較的一般的と思われますが、それに近いものをイメージして頂けると少し分かりやすいかもしれません(あくまでイメージです)。

つまり、「延喜の治」という復古イメージの強い”看板”を掲げてしまった事による結果的な「言行不一致」もまた、「貴族層からの信用低下」の一因(或いは遠因)となり、それが政権の早期不安定化に繋がった可能性もあるのではないか、というのが本シリーズの推測です。

また、やや古い研究用語である「異形の王権」という言葉についても触れましたが、この言葉がイメージさせる程に「建武新制」に強い「突然変異」や「断絶性」を読み取ることは必ずしも容易ではありません。

現在の研究では、後醍醐の政策には父・後宇多院の政治手法を継承・発展させたものが多い事が知られています。
また、「綸旨万能主義」と呼ばれるような、「綸旨を主軸に据えた親裁政治」のスタイルについても、「大覚寺統」の伝統的統治傾向である「親裁主義」の延長線上にあるものと見るならば、「建武新制」全体を「異形」と言える程に特異なものとして理解する必要は必ずしもないようにも思われます。

もう一つ重要と思われるのは、この「大覚寺統」の「親裁主義」は、武家政権などとの「分担統治」を前提とした比較的限定的な規模でこそ実効性を発揮しやすいものであり、「全国統一政権」の統治スタイルとしては必ずしも適していなかった可能性があるという点です。

つまり、「建武政権」の失敗には、統治スタイルの「スケーラビリティーの失敗」も含まれていたのではないか、という事です。

以上を踏まえると、本シリーズで「建武新制(政権)」の問題点として捉えているのは概ね以下のようなものになります(相互に重なり合う部分もあります)。

・政治(統治)スタイルの「スケーラビリティーの失敗」
・貴族層・武士層の「制度的ニーズ」の把握不足
・「延喜の治」という復古的イメージの強い”看板”による結果的な「言行不一致」
・「綸旨を主軸とした親裁政治」への過度な依存によるボトルネック化
・綸旨の乱発や不整合による権威(信用)低下
・処理能力のキャパシティーオーバーによる貴族層・武士層の「権利調整機能」の混乱と遅延常態化

勿論、教科書的に語られる「恩賞不足(政治的利権不足)」なども重要な問題だった事は間違いないでしょう。
しかし、それ以前の「統治構造」自体が「負のスパイラル」に陥りやすいものになってしまっていた事こそが、「建武政権(新制)」最大の問題だったのではないかと私は考えています。

ただし重要なのは、これらの事から「建武政権」が「完全に間違っていた」とか、「後醍醐が愚かな人物だった」と短絡的に結論づけてはいけないという事です。

「後醍醐天皇」本人が政治的に優秀な人物であった事は概ね確かと思われます。
そもそも「属人性」に強く依存する傾向のあった「大覚寺統」において、その「家長」であった後宇多院が(一時的なつもりであれ)後継者に選んだという一事をもってしても、後醍醐の能力の高さはある程度推測できるでしょう。

つまり、「建武政権」の個々の施策自体は、「後醍醐なりに現実を踏まえた」比較的合理的な対応だったとも評価できるのです。

また、「ショートカット型」の政治手法についても、状況次第では非常に有効なものになり得ます。
実際、組織の創成期においては「意思決定の速いトップダウン型組織」が大きな成果を挙げる事は珍しくありません(古今東西、創業期にカリスマ的指導者が現れやすいのもこの為でしょう)。

しかし、「人からシステムへ」という段階へ移行した際に「限定的なショートカットを支えられる(ある程度前提とした)制度(システム)」または「ショートカットに過度に依存しない制度(システム)」構築に成功しなかった事、そして「ショートカット」が「制度(システム)の代替」のようになってしまった事(或いはそうせざるを得なかった事)こそが、「建武政権(新制)」と「後醍醐天皇」の最大の失敗であり、不運だったのではないかと私は整理しています(あくまで非専門家の個人的見解です)。

そして、これらの問題は「後醍醐による足利尊氏と武士層の取り込み失敗」にも繋がっていった事を推測させます。

今回は予定通り、この「足利尊氏と武士層の取り込み失敗」と、「後醍醐天皇」と「足利尊氏」の最大のターニングポイントとなった「中先代の乱」について概観してみたいと思います。

それらは”よくある内輪揉め”だったのでは

尊氏が「六波羅探題」を討滅したのが元弘3年/正慶2年(1333年)5月上旬頃とされます。そして後醍醐が京に帰還(還御)したのが同年6月上旬頃と考えられています。

当然、その約1カ月ほどの間に尊氏がただ座って後醍醐を待っていた訳ではありません。
この時期の尊氏は、京市中の治安維持や秩序回復を進めると同時に、「奉行所」と呼ばれる組織を設置していたと考えられています。

この場合の「奉行所」とは、時代劇などでよく見る「町奉行所」のようなものではなく、むしろ武士層の「統制機関」あるいは「恩賞申請の仲介機関」に近いものと考えた方が分かりやすいでしょう。

具体的に言えば、後醍醐方として馳せ参じた、或いは各地で参加した武士達の「功績」を取りまとめ、「誰それは六波羅攻略でこのような功績を挙げましたので、帝より恩賞を与えるのが適当と思われます」といった形で、着到状・軍忠状などの証拠書類を添えながら後醍醐側へ「推挙」していたと考えられています。

当然、尊氏に「取り次いで」もらえれば恩賞にありつける可能性は高くなります。
この為、尊氏は広範な武士層から支持と期待を集める事になりました。

以前の記事で、尊氏が六波羅攻略に際して遠い九州地方の武士層に対しても「軍勢催促」を行っていた事に触れましたが、これも重要です。

九州に設置されていた鎌倉幕府の出先機関である「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」が滅亡したのは元弘3年(1333年)5月下旬頃とされます。
しかし実はそれ以前にも、「後醍醐の隠岐脱出」に呼応する形で蜂起した勢力が一度「鎮西探題攻略」に失敗しています。

その後、尊氏の「軍勢催促」にも応じる形で再結集した武士達による再度の攻撃によって最終的に「鎮西探題」は滅亡しました。

つまり、形式上は「足利尊氏の呼びかけ(事実上の動員命令)に従って功績をあげた」という形になる訳です。

そうなると、自然に「尊氏を一段上位に置く」関係が形成されやすくなります。
そこへ更に「具体的な恩賞」が絡めば「足利尊氏という神輿の担ぎ手」、つまり尊氏を中心とした比較的強い支持ネットワークが形成される事になります。

こうして尊氏は九州地方の武士層に対しても比較的強い影響力を持つようになりました。

多少先走った話になりますが、後に奥州から南下してきた「北畠顕家」の軍勢に敗北した尊氏が九州へ「落ち延びた」のも単なる偶然ではなく、このような九州武士層との関係性や支持基盤を背景に「再起可能な退却先」として選択した面があったと考えられます。

話を戻すと、後醍醐が京へ帰還(還御)した時、そこにいたのは既に「恩賞仲介」を通じて「武士層の神輿」になりつつあった「足利尊氏」でした。

しかし、以前の記事でも触れたように、この時点で後醍醐が尊氏を「頼もしく思った」のか、それとも「警戒した」のかは分かりません。

とは言え、この段階で過度に警戒する必要も必ずしもありません。

何故なら、「足利尊氏という神輿」は、あくまで「恩賞と利害関係」によって形成された比較的流動的な支持関係であり、「源頼朝」のような、明確な主従関係に基づく完成度の高い武士団組織とはまだ性格が異なるからです。

しかも、尊氏が行っていたのはあくまで「推挙」であり、実際に恩賞を「宛行(あてが)う」最終権限は後醍醐側にありました。

であるならば、尊氏を「勲功第一」として厚遇しつつ政権へ取り込み、以降は恩賞関連の窓口を自身へ一元化していけば充分である、と後醍醐が考えたとしても不自然ではないでしょう。

実際、後醍醐はその方向へ動きます。
しかし、それが後に「悲劇」へ繋がった事は、これまでの記事で触れてきた通りです。

私は以前、「幕府を滅ぼして京へ戻ってみたら、そこには既に“新たな幕府のようなもの”が出来上がっていた」という表現を使いました。
もっとも、これはあくまで後世から見た比喩的表現です。

実際には、尊氏本人や後醍醐を含めた当時の多くの人々(武士層も含め)は、この時点で「足利尊氏が新たな幕府を作ろうとしている」とまでは考えていなかった可能性が高いと私は考えています。

特に本シリーズでは、「足利尊氏」という人物を、「政治的意欲(野心)」そのものが比較的希薄な傾向を持つ人物として捉えています。

従って、この還御直後の時期においては「新しい幕府を作る」といった明確な問題(危機)意識は比較的乏しく、『太平記』が描くような「護良親王が尊氏の新幕府構想を警戒した」という構図についても、後世的理解や結果論的脚色が一定程度含まれている可能性があるのではないか、と本シリーズでは考えています。

依って、後醍醐が還御後に尊氏を「勲功第一」として厚遇し、偏諱や高位、高官、内昇殿などを与えた事についても、基本的には「大きな裏のあるもの」というより、「有力武士層の取り込み策」として比較的自然なものだったように思われます。

また、尊氏自身も、この時点ではなお「朝廷側武士の棟梁(少なくとも武士層側の中心的軍事指導者)」として振る舞おうとしていたように見えます。

そう考えるならば、その後に発生した「護良親王」「新田義貞」などとの対立についても、「最初から天下取りを巡る対立」のようなものであったというより、建武政権内部における比較的一般的な「権力抗争」と捉える方が自然なのではないかと私は考えています。

護良親王の場合

天台座主」も務めた「尊雲法親王」が還俗して「護良」を名乗り、後醍醐の「隠岐配流後」に大和国を中心として潜伏しながら多数の「令旨」を発給し、「倒幕運動」を支えていた事については、過去の記事でも簡単に触れてきました。

実際、その「功績」自体は決して小さなものではなく、親王自身にも一定以上の「自負」はあったと考えられます。

『太平記』が描くような「武芸を好む武士寄りな志向の人物」であったかについては不明ですが、少なくとも、後醍醐の意向や後押しがあったとは言え、若くして(「天台座主」としては最年少記録でした)有力宗派のトップを務め、僧兵などの軍事勢力を一定度統率していた事などを考えると、政治的・統率的能力そのものは「ある程度高かった」と考えて良いように思われます。

しかし、足利尊氏が「六波羅探題攻略」、つまり「京の解放」という極めて大きな軍事的功績を挙げた事によって、護良親王の功績は相対的に「目立ちにくい」ものになってしまったと考えられます。

護良親王の役割はどちらかと言えば「縁の下の力持ち」的な性格が強く、古今東西を問わず、そのような功績は過小評価されやすい傾向があります。

ただし、後醍醐政権成立に際して「尊氏の参加」が決定打となった事はほぼ間違いないでしょう。
また、現実問題として、広範な武士層を掌握しつつあった尊氏を早急に「取り込む」必要性があった事を考えれば、後醍醐が尊氏をより高く評価した(せざるを得ない)事自体は、ある意味当然とも言えます。

もっとも、そのような「現実的事情」と「個人的感情」が常に理性的に一致するとは限りません。

こうして護良親王は、「朝廷側武士勢力に対する主導権」を巡って尊氏と激しく対立していく事になります。

そして先述のように、そこには『太平記』などが描くような「尊氏による新幕府創設への警戒」や、「尊氏の叛意を見抜いていた」といった認識は比較的希薄であり、むしろ「建武政権内部における一般的な権力抗争」と捉える方が実相に近いのではないかと私は考えています。

この時、護良親王は「征夷大将軍」に補任されたと伝えられます。

ただし、この時点での「征夷大将軍」が以前の「鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)」のような強力な軍事・統治権限を伴っていたとは考えにくく、少なくとも実質的軍事指揮権を伴うものではなかった可能性が高いと思われます。

もっとも、護良親王自身は「将軍宮」を自称していたとされており、「軍事的指導者」のような立場への志向そのものはあった可能性があります。

従って、後醍醐側としては、そのような志向を持つ護良に対して「征夷大将軍」という「形式的権威(官職)」を与える事で、定度「面目」を立てつつ、実際の権限や影響力については相対的に抑制しようとしたとも考えられるでしょう。

また、護良親王が大量に発給した「令旨」は、後の建武政権実務を混乱させる一因ともなっており、その「整理・回収」という観点から見ても、護良親王の政治的影響力が過度に強まる事は好ましくなかったと思われます。

更に自身へ権力や権威を一元化したい後醍醐の視点に立った場合でも、護良親王の存在はどちらかと言えば「扱いの難しいもの」だったと考えられます。

もし「名目的な征夷大将軍」で護良親王が満足してくれるのであれば、それが後醍醐にとって最も都合の良い落としどころだったとしても不自然ではありません。

また、現実的に見ても、「武士層への求心力」という点では尊氏の方が圧倒的に有利でした。

そもそも、「親王(皇族)」という高過ぎる身分は、武士層にとって「神輿」として担ぎ上げるには大き過ぎ(重過ぎ)ます。

加えて、護良親王には広域的・恒常的な武士ネットワークがほとんど存在しませんでした。

彼は「尊雲法親王」として主に「宗教界」で指導的立場を築いた人物であり、その反面「俗界」、特に一般武士層との結びつきは比較的弱かったと考えられます。

勿論、赤松氏や北畠氏などのように護良親王と結びつきの強い武士勢力も存在していた為、「軍事力ゼロ」という訳ではありません。

しかし、それによって尊氏と正面から対抗できるかというと、また別問題でしょう。

要するに、「軍事的主導者」として争うには、護良親王は相対的に力不足だった可能性が高いという事です。

従って、「護良親王は尊氏の叛意や新幕府設立の陰謀を見抜いて警戒していた」といった後世的イメージについても、一定度「権威や正当性の後付け」が含まれている可能性があるように思われます。

最終的に護良親王は、『太平記』などでは「尊氏の讒言」によって失脚したと描かれます。

もっとも、「尊氏暗殺計画」の史実性についてはなお不明な部分も多く、仮にそれに近い動きが実際に存在していたとしても、少なくとも尊氏側から見れば「自己防衛」或いは「政権内対立への対応」として理解(認識)されていた可能性が高く、後世的な「陰謀家」「野心家」としてのイメージとはやや距離があるようにも思われます。

つまり、後醍醐は最終的に「護良親王」と「足利尊氏」を比較した際、「尊氏を選んだ」訳ですが、それは単なる個人的好悪というより、ここまで述べてきたような「政治的・軍事的背景」が比較的明確に存在していた為と捉える方が、実態に近いのではないかと私は考えています。

新田義貞の場合

もう一人、初期の建武政権内で尊氏と激しく対立した存在として「新田義貞」が挙げられます。

しかし、義貞もまた護良親王と「似たような事情」によって、尊氏の有力な対抗馬にはなり切れなかったと考えられます。

義貞の場合、幕府(北条氏)の政治的本拠地であった「鎌倉攻略」に成功するという極めて大きな軍事的功績を挙げていました。

もっとも、以前の記事でも簡単に触れたように、その鎌倉攻略には、寸前で鎌倉を脱出した千寿王(後の義詮)を「大将」として戴いた尊氏方の軍勢も少数ながら参加していました(勿論、この時点で千寿王はまだ3歳ですので完全に名目的存在と思われます)。

この為、義貞の鎌倉攻略を完全な「単独功績」として扱う事も難しかったと考えられます。

更に、義貞は攻略後の鎌倉掌握にも尽力しますが、尊氏が素早く派遣した細川和氏・頼春・師氏らとの主導権争いに敗れ、最終的には上洛する事になります。

もっとも、この「上洛」は栄転というより、実質的には「鎌倉における主導権争いからの撤退」に近い性格を持っていたように思われます。

このように、「武将として大功を挙げながらも、広域武士ネットワークの求心点にはなり切れなかった」という状況の中で、建武政権において「勲功第一」とされ重きをなす(ように見える)尊氏の存在が、義貞にとって「面白からぬもの」と映った可能性は充分に考えられるでしょう。

また、系譜上は「義国流」の河内源氏として足利氏の「兄筋」に位置づけられる立場であった事からも、尊氏に対する一定度の対抗意識が存在した可能性は否定できません。

もっとも、現在の研究では、同時代においては後世イメージされるような「源氏の嫡流」や「武家棟梁」といった観念が、必ずしも明確に意識されていた訳ではない事も指摘されています。

つまり、「源氏の嫡流」という概念自体が、後世における整理や、特に足利氏による権威付けの影響を一定度受けている可能性があるという事です。

少なくとも後世ほど固定化された「源氏棟梁観」はこの時代にはまだ成立しておらず、「源氏の嫡流は実朝を最後に断絶した」という感覚の方が比較的一般的であった可能性が指摘されています。

従って、尊氏や義貞自身も「源氏嫡流の座」を強く意識していたとは考えにくいように思われます。

なお、「嫡流」という文脈では、以前簡単に紹介した「新田氏を足利氏の庶流(分家)」と見る説を採るならば、「足利氏嫡流を巡る争い」という整理も理論上は成立します。

しかし、本シリーズでは従来説に従い、新田氏を「足利氏と同様の義国流庶流(分家)」と捉えている事は前回の記事で既に述べた通りです(シリーズ第29回『延喜の治という幻想~建武新政と制度の不整合』も是非ご参照ください)。

とは言え、実際問題としては、「足利荘」を相続した義康流(足利氏)の方が「家格」や「武家としての実力」において優位な立場にありました。

加えて、新田氏宗家は苗字の地である「新田荘」においても惣領としての立場をかなり失っていたと考えられています。

以前の記事でも触れたように、「官職」という点でも足利氏(尊氏)の方が優位であり、結果として「家格」「政治力」「軍事力」の総合面では、尊氏側に大きく分がある状況でした。

また、以前から本シリーズで用いている表現を使うならば、「神輿としての適正サイズ」という点でも義貞はやや小さかった可能性があります。

つまり、武士層から見た場合「担ぐ対象」としての魅力や安定感では、尊氏の方が優位(魅力的)に見えたのではないかという事です。

更に鎌倉での主導権争いに敗れた経緯を見る限り、義貞は純軍事的能力には優れていた一方、政治的調整能力では尊氏側にやや劣っていた可能性も考えられます。

少し視点を変えると、尊氏の周囲には「高師直」「足利直義」のような、実務能力や調整能力に長けた一族・家人・被官層などの存在が見えますが、義貞側にはそのような「政治・実務補佐集団」の存在が見えにくい事も最終的な差になったのかもしれません。

この辺りの人物的背景を、漫画『逃げ上手の若君』ではかなり誇張しつつ面白く描いています。
特に次男「義興」などは父親よりも極端なキャラクターとして描写されています。

勿論、これらはほぼ完全にフィクションであり、そのまま史実と考える事は出来ません。

とは言え、「どちらかと言えば武を重視し文に弱い傾向のある人物像」というイメージ自体は、必ずしも完全な荒唐無稽とも言い切れないように思われます(個人的には、です)。

しかしながら、結局のところ、新田義貞もまた護良親王と同じように、「尊氏と比較した場合、後醍醐から選ばれにくい」政治的・軍事的背景を抱えていたとは言えるのではないでしょうか。

”建武政権”内の”足利尊氏”

このように建武政権における「足利尊氏」は、政治的・軍事的・武士序列的などで見た場合、どちらかと言えば「優位」な立場にあったと考えられます。

なお、後醍醐方の有力武士勢力としては、「楠木正成」や「北畠親房・顕家父子」といった存在も挙げられるでしょう。

もっとも、彼らも当初から尊氏と鋭く対立していた(或いは対抗馬になり得た)とは必ずしも言えません。

例えば楠木正成は、「家格」という点においては「武士層全体の神輿」になる事は事実上不可能でした。
また、正成と尊氏の間には互いに一定度「評価」し合っていたように見える節も存在します。

後に室町幕府が楠木氏勢力を比較的強く警戒した背景にも、そのような事情があったのかもしれません。

また、「北畠氏」は確かに「村上源氏」の流れを汲む名門ですが、基本的には「公家的性格の強い家柄」であり、武士層内部から成立した軍事政権の中心勢力とはやや性格を異にしていました。

加えて、「護良親王」の場合と同様に身分が高過ぎる事もあり、「広域武士ネットワークの恒常的求心点」にはなりにくかったと思われます。

つまり、本シリーズで繰り返し用いている表現を使うならば、「神輿としてはやや重過ぎた」という事です(正成の場合は逆に”軽過ぎ”になります)。

従って、建武政権内部において、政治的・軍事的、或いは武士ネットワークの結節点(つまり「神輿」)として、尊氏を単独で強く脅かし得る勢力は少なかったと整理する事が出来ます。

実際、勝利の流れを決定づけた尊氏に対する後醍醐の信任は厚く、先述した「恩賞仲介」を通じた広域武士層との結びつきの強さから見ても、建武政権下において尊氏が後醍醐から比較的大きな「軍事指揮権」を委任されていた事はほぼ確実と思われます(建武政権の侍大将のような感じです)。

一方で、尊氏本人が建武政権の中枢実務へ積極的に関与しているようには見えない事から、「尊氏はかなり早い段階から建武政権を見限っていたのではないか」とする見方もあるようです。

しかし、過去の記事でも触れてきたように、「高師直」を始めとする足利氏の家人・被官層が「雑訴決断所」などへ抜擢され、建武政権実務に深く関与していた事を考えるならば、「尊氏が建武政権から冷遇されていた」とも、「尊氏は建武政権に対して冷淡だった」とも単純には断定し難いのではないでしょうか。

また、ここまで何度か触れてきたように、「足利尊氏」という人物そのものが、「政治的・実務的な事柄」に対して比較的意欲が薄い傾向を持っていたのであれば、乱暴に言えば、尊氏は「実務を周囲へ委ねつつ、自身は後醍醐配下の有力武将」であり続けようとしていただけだった可能性も考えられるでしょう。

しかし、これまで繰り返し述べてきたように、「建武政権」は早い段階から揺らぎ始め、それに伴って武士層を中心に「尊氏への期待」が相対的に高まり始めます

また、後醍醐は自身の還御によって事実上その即位を否定した「光厳」と持明院統の皇族達に対しては、比較的融和的な対応をとったと考えられています。

実際、遠流などの厳しい処断は行われず、「光厳」もまた上皇待遇を受けていたと推測されています(深津睦夫氏)。

そして「足利直義」は、この光厳上皇を始めとする持明院統との間に比較的親密な関係を築いたとされます。

これについては、直義の「生真面目さ」に由来する部分もあったようで、払うべき敬意を払いながら、公家文化や朝廷制度について学ぼうとした結果、そのような関係性が形成されたとも考えられています。

もっとも、当然ながら、双方に全く政治的打算や思惑が存在しなかったとは言い切れないでしょう。

或いは、後に直義が「鎌倉将軍府」の執権として鎌倉へ下向した背景には、このような「持明院統との接近」を一旦切り離す意味合いもあったのかもしれません。

なお、失脚した「護良親王」は、この鎌倉の地に幽閉される事になります。

ここまで「鎌倉将軍府」については詳しく触れてきませんでしたが、本稿では主題からやや外れる為、内容については一旦割愛します。
後日、稿を改めて概観するかもしれません。

ともあれ、この頃になると「後醍醐天皇」にとって尊氏(とその周辺)は、徐々に「扱いの難しい存在」へ変化していったと捉える事ができます。

現実問題として「建武政権」にとって尊氏は「実効力を持つ軍事勢力」として不可欠な存在であり、後醍醐自身も恐らくその事を充分理解していたと考えられます。

しかし、「建武政権」の揺らぎと混乱の中で尊氏本人の意思とは必ずしも無関係に、彼の「実質的立場」は徐々に変化していきました。

そして、それは同時に「制御の難易度」の上昇とほぼ同義の現象でもあったように思われます。

そのような複雑な状況の中で発生したのが「中先代の乱」でした。

建武2年(1335年)7月の事とされます。

”中先代の乱”を簡単に

まず、この「中先代の乱」ですが、教科書的には、

建武2年(1335年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児・北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

(Wikipedia『中先代の乱』より引用)

という説明で概ね問題ないと思われます。

先述の漫画『逃げ上手の若君』では、主人公「北条時行」は10代前半頃の少年として描かれていますが、史実ではこの時点の時行は「6歳前後」であった可能性が高く、彼自身に大きな軍事的主導権があったとは考えにくいように思われます。

もっとも時行の生年については完全に確定している訳ではない為、年齢設定として「絶対にあり得ない」とまでは言い切れません。
とは言え、やはり漫画的な演出や脚色が大きく含まれている事は間違いないでしょう。

もっとも、エンターテインメント作品において「不明部分を創作で補う」事自体は何ら問題ではありませんし、そのような部分をいちいち論(あげつら)うのも野暮というものです。

それはともかく、Wikipediaの記述に登場する「諏訪頼重(すわ・よりしげ)」は、信濃国(現在の長野県及び岐阜県の一部)に存在した「諏訪大社」の「大祝(おおはふり/神職の長のようなもの)」を世襲する「諏訪氏」の一族とされています(「諏訪大社」は今もありますし参拝も普通に出来ます)。

「諏訪氏」については史料上不明点も多く、あまり断定的な事は書けませんが、だからこそ漫画などのエンターテインメント作品では「創作で空白を埋めやすい」題材とも言えるでしょう。

ともあれ、「諏訪氏」はそのような「神職」を本来的基盤としながら同時に「在地武士」としても活動していた一族であり、北条氏の「御内人」として仕えていた事でも知られています。

ただし、「北条氏との結びつき」は強かったものの諏訪氏の本拠はあくまで信濃国内にあり、主たる立場も「神職」であった為、北条氏の御内人とは言っても常時鎌倉に在住して幕府実務や得宗家の家政などに参加していた訳ではないと考えられています。

このような関係性があったからこそ、鎌倉を落ち延びた時行を諏訪氏が匿ったと考えられます。

ただし「鎌倉陥落」時の時行は2~3歳程度だった可能性が高く、自力で落ち延びたとは当然考えられません。『太平記』などでは、諏訪氏一族の者が時行を連れて脱出したと伝えられています。

なお、本来であれば「元服」するまでは「幼名」を名乗るのが一般的ですが、時行については幼名も明確には伝わっていない為に本稿も便宜上「時行」で統一しています。

また、「時行」の「時」の字は父・高時からの偏諱である可能性もありますが、そもそも「いつ・どこで元服したのか」が史料上はっきりしない為、この辺りは推測の域を出ません。

兄「邦時」については得宗家嫡子の例に従い7歳頃で元服した事は比較的確実とされる為、時行についても、それにある程度準じた形で諱(いみな)を与えられた可能性はあるのかもしれません。

素人の推測はさて置き、本シリーズとしては、この「北条時行」という人物については「史料上、不明点の非常に多い人物」と整理するしかないように思われます。

ただし、時行を擁立した「諏訪頼重」の本意がどこにあったのかはさて置き、結果として「中先代の乱」が単なる「北条氏再興」や「鎌倉奪還」に留まらない、かなり大規模な「内乱」へ発展した事は確かでしょう。

そして、それは主として関東の元御家人層にとって、「どの政権(制度)を支持するのか」という、極めて大きな「踏み絵」を迫る事件でもあったとも捉えられます。

勿論その背景にあったのは、ここまで繰り返し述べてきた「建武政権(新制)」の混乱と、相対的な権威低下です。

だからこそ、この「中先代の乱」は、その後における後醍醐と尊氏の「運命を分ける」極めて重要なターニングポイントとなったのです。

おわりに

以上、後醍醐(建武政権)による「足利尊氏と武士層の取り込み失敗」の背景について、主に建武政権内における「尊氏の立場(立ち位置)」から概観しました。

まず「建武政権」成立後まもなく、尊氏とその対立勢力との間で激しい対立が発生した事は概ね間違いは無いと思われます。

その代表例として「護良親王」と「新田義貞」を中心的に取り上げましたが、いずれも武士層から見た「神輿としての適正サイズ」を完全に満たす存在とは言い切れず、「軍事的・政治的主導者」としては、必ずしも強力に「尊氏の存在を脅かす」存在だったとは言えなかった可能性を指摘しました。

もう少し俗っぽく言うならば、「尊氏の対抗馬としてはやや決め手に欠けた」という事になるでしょう。

つまり、「足利尊氏」は武士層にとっての「神輿」、即ち「広域武士ネットワークの結節点」として、

  • 家格(血統)

  • 軍事力

  • 実務能力

  • 官職

  • 武士社会内部での立ち位置

などを比較的高い(適切な)水準で兼ね備えた存在であり、構造的に「武士層の支持を集めやすい」立場にあったと整理する事が出来ます。

「後醍醐天皇」にとっても、尊氏とそこへ集まる「軍事力」は建武政権にとって必要不可欠な存在でした。

そして、それが仮に「幕府に繋がるような武士統率構造」であったとしても、少なくとも「名目上は”幕府ではなく”、且つ朝廷権力の統制下」に置かれている限り、後醍醐にとって実務上そこまで大きな問題ではなかった可能性があります。

従って建武政権内部における「尊氏との対立」についても、『太平記』が描くような「尊氏の叛意」や「新幕府設立への野心(または警戒)」、或いは「源氏棟梁を巡る対立意識」などは割と希薄であり、むしろ「よくある政治的権力抗争」と捉えた方が実相に近いのではないかという事を本稿では述べてきました。

そのような背景から後醍醐天皇は尊氏を厚遇し、尊氏側もまた自身の家人・被官層から「実務官僚」的な人材を政権へ送り込む事で建武政権運営を支えていた、と整理する事も可能でしょう。

つまり建武政権成立直後は、少なくとも「表面的」には後醍醐と尊氏の間に比較的良好な関係が成立していたと考えられます(見かけ上の蜜月関係)。

そして、その関係性には政治的打算だけではなく、一定度の「相互評価」や「信頼関係」も含まれていた可能性もあります(勿論、打算や思惑が全く無かった訳ではないでしょう)。

しかし、この両者の関係性は次第に変化していきます。

その背景にあったのが、ここまで繰り返し触れてきた「建武政権(新制)の混乱」と「相対的な権威低下」でした。

これによって、武士層を中心に「尊氏への期待」が徐々に高まり始めます。

そして、その結果として尊氏は必ずしも本人の明確な意思だけによるものではなく、「実質的な立場(立ち位置)」そのものを徐々に変化させていく事になります。

言い換えるならば、尊氏は「押し出されるようにして武士達の神輿」へ近づいていったとも捉えられます。
或いは、これは『人が立場を作る』だけではなく、『立場が人を作る』という事の一例とも言えるのかもしれません。

しかし、それ故に、この変化は同時に「後醍醐による尊氏の制御」を徐々に困難なものへ変えていく過程でもありました。

そして、このように尊氏の立場が「微妙なもの」になり始めた事によって、それまで比較的劣勢であった対抗勢力側にも、徐々に政治的余地が生まれ始めます。

そのような「微妙な時期(タイミング)」に発生したのが、「中先代の乱」でした。

中心人物である「北条時行」や「諏訪頼重」の人物的背景についてここでは繰り返しませんが、結果としてこの乱は単純な「北条氏復興」や「鎌倉奪還」を目指す復古的反乱に留まらず、「どの政権(制度)を支持するのか」という大きな「踏み絵」を元御家人を中心とした関東武士層へ突き付ける大規模内乱へ発展していきました。

では、何故「中先代の乱」はそこまで大規模な内乱へ発展したのでしょうか。

そして、本稿で述べた「政権或いは制度選択」という「踏み絵」とは、一体どのような意味なのでしょうか。

次回は、この「中先代の乱」について、もう少し掘り下げてみたいと思います。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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