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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第24回――武士はなぜ尊氏を選んだのか~建武政権と武士社会の選択

鎌倉幕府滅亡後、建武政権のもとで一度は協力関係にあった後醍醐天皇と足利尊氏。しかし、やがて両者は決定的に袂を分かつことになります。

一般には「尊氏の裏切り」といった形で語られることも多い出来事ですが、本当にそうだったのでしょうか。

本稿ではまず、尊氏の六波羅攻略がなぜ大きな功績と評価されたのかという点から出発し、当時の京都が持っていた経済的・政治的な意味、そして「京都静謐」が天下人の正統性と結びつく構造について簡単に整理します。

その上で、より重要な問題である「なぜ武士たちは後醍醐天皇ではなく尊氏を選んだのか」という点を考えてみます。

家格(権威)、位階(身分)、そして武士社会の政治構造――。
それらを踏まえると、尊氏は武士たちにとって「担ぎ上げやすい存在」、いわば神輿として極めて都合の良い位置にあった人物だったとも見ることができます。

つまり、尊氏が武士に支持されたのは単なる個人的な野心や裏切りの結果ではなく、当時の政治構造の中で「選ばれやすい位置」にあったからでもあったのです。

今回はそうした「武士社会の選択」という視点から、尊氏と建武政権の関係を改めて整理してみたいと思います。※約13000字


はじめに

前回は、南北朝時代への扉を開いたもう一方の当事者である「足利尊氏」の事情についてザックリと概観しました。
蛇足ながら、本シリーズで尊氏を「もう一方の当事者」と表現したのは、彼が結果として「北朝」を打ち建てる主体となってしまったからです。

尊氏が鎌倉幕府(北条氏)に滅亡への第一歩となる大打撃を与え、最終的に建武政権(後醍醐天皇治世)の崩壊に「王手」をかけ、さらに「北朝」を成立させるに至る流れは、半ば「成り行き」のようにも見えます。その本意を直接示す史料は多くありませんが、少なくとも「その時々の状況の中で、武士として合理的と考えられる選択を重ねた結果」であったと理解することは可能でしょう。これが本シリーズにおける基本的な整理です。

その論証として、まず尊氏の「血統」に着目しました。
彼は「清和源氏」の一流である「河内源氏」の流れを汲む名門の出身であり、鎌倉幕府の中にあっても高い権威と家格を誇る「有力御家人」であったことを指摘しました。

足利氏は将軍(頼朝)家と縁戚関係を持つ、いわば「御門葉」に準じる立場の名家であり、幕府内で実力者となっていく北条氏とも積極的に姻戚関係を結ぶことで、幕府の上流層に位置し続けていました。

ただし、足利氏が幕府内でその地位を保ち続けることができた理由は、単にこのような姻戚関係のみにあったわけではありません。
足利氏の「苗字の地」である足利荘は、絹などの特産品を有する豊かな荘園であり、しかも足利氏はこの荘園の「下司職」を代々相伝することで、同地に強い影響力と支配力を及ぼしていました。

つまり、足利氏は幕府内でも有数の「リッチ御家人」であり、中世社会の傾向としてしばしば見られる「リッチ=大兵力」という関係から見ても、御家人層の上流に位置することができたと言えるでしょう。以前の記事でも簡単に述べたように、武士社会では「連れて来る兵の数が多いほど発言力も増す」傾向があったのです。

ところが、尊氏の祖父である家時(いえとき)が謎の自死をしたと伝えられる出来事などもあり、北条得宗家との関係にはわずかな隙間風が吹くようになります。
このため、尊氏の父である貞氏(さだうじ)の正室は、北条氏分家の中ではやや家格が下がるとされる「金沢流」の北条(金沢)顕時(あきとき)の娘でした。それ以前は北条宗家(得宗家)や、それに準ずる有力分家の子女を正室に迎えることが多かったことを考えると、やや微妙な変化とも見ることができます。

さらに尊氏自身も、側室である「上杉清子」所生の次男であり、本来の家督継承者ではありませんでした。足利氏の家督は正室所生の兄である高義(たかよし)が継承していましたが、彼が二十一歳という若さで早世したため、次男であった尊氏が急遽家督を継ぐことになったとされています。

その結果、尊氏は「北条氏を直接の外戚に持たない足利氏家督」という、幕府内ではややイレギュラーな存在となりました。

これは北条氏側から見ても必ずしも望ましい状況ではなかったようで、尊氏は北条宗家(得宗家)に準ずる高い家格を誇る有力分家「赤橋流」の北条(赤橋)久時(ひさとき)の娘である登子(とうし/なりこ)を正室に迎えることになります。この登子の兄が、最後の執権である北条(赤橋)守時です。

つまり尊氏は「執権の義理の弟」という立場にあったことになります。この婚姻は、尊氏と足利氏を再び北条氏側の枠組みに取り込もうとする意図を持っていた可能性が高いと考えられます。

しかし、この婚姻によって尊氏の内心をどこまで強く結び付けることができたのかは、必ずしも明らかではありません。簡単に言えば、尊氏は「妻の実家(北条氏)」と「母の実家(上杉氏)」という二つの縁の間に立つことになりました。武士社会では、状況によっては母方の縁を重視する例も少なくありませんでした。

北条氏側もこうした事情は理解していたと考えられます。そのため、尊氏が幕府軍の主力として出征する際には、正室の登子と嫡男の千寿王(後の義詮)を鎌倉に留め置くことで、いわば事実上の人質として確保する措置が取られていました。

これが直ちに尊氏と北条氏(鎌倉幕府)の「運命の分かれ道」になったと断定することは難しいでしょう。しかし、少なくとも両者の間に充分な相互信頼が形成されていたとは言い難い状況であった、と表現することはできるかもしれません。

そして、足利氏の根拠地である足利荘が王家領「長講堂領」に編成されていたことも確認しました。長講堂領は大覚寺統に相続され、同統の重要な財源となっていました。

つまり、大覚寺統の系譜に属する後醍醐天皇と、足利荘の下司職を相伝する尊氏は、「職の体系」という社会秩序を介して、もともと一定の経済的結びつきを持っていたと見ることができます。

さらに、尊氏には朝廷に対する一定の敬意や親近感があったことも史料からうかがわれます。特に後醍醐天皇に対する敬意は終生変わらなかったと考える研究者も少なくありません。

前回の記事では、これを現代風の比喩として「後醍醐天皇推し」と表現しました。もちろん、これはイメージを掴みやすくするための便宜的な表現であり、尊氏が現代的な意味での「推し」の感覚を持っていたと断定するものではありません。

ただ、尊氏の心情としては「後醍醐天皇寄りの傾向」があった可能性は充分考えられます。イメージとして言えば「後醍醐天皇>北条氏(鎌倉殿)」という力学が存在していた可能性は決して低くないでしょう。

このように、尊氏はもともと後醍醐天皇と一定の経済的な繋がりを持ち、同時に北条氏との関係にはわずかながら緊張を孕んでいました。こうした状況の中で、尊氏が最終的に後醍醐方に味方したことは、必ずしも突飛な行動とは言えず、むしろ「武士の論理」に従った合理的判断として理解することも可能です。

さて、前置きが長くなり過ぎてしまいましたが、以上のような「尊氏が後醍醐天皇に味方した事情」を踏まえつつ、今回は「なぜ尊氏が後醍醐天皇(建武政権)と袂を分かつことになったのか」という点について、少し考えてみたいと思います。

”京”と”六波羅探題”の意義

では、例によって少し回りくどくなってしまいますが、ここで前回ごく簡単に触れた「何故、幕府(鎌倉殿)の根拠地である鎌倉を陥落させた新田義貞よりも、一出先機関に過ぎない六波羅探題を制圧した足利尊氏の方が“功績が大きい”と評価されたのか」という点について、もう少しだけ考えてみたいと思います。

前回はこれを「朝廷(後醍醐天皇)の政治的中心地である京の方が、鎌倉よりも価値が高かったから」と非常に大雑把に説明し、現代的なイメージとして「“経済の中心地”である大阪を制圧するよりも、“首都”である東京を制圧した方が政治的な意味は大きい」という補足を述べました。しかし、この説明は分かりやすさを優先したものであり、やや単純化しすぎていた部分もありました。

中世、もう少し限定すると「公領荘園制」が広く展開し、「職の体系」が比較的安定して機能していた時代における「京」とその周辺は、「ヒトとモノが集積する」巨大な経済圏でもありました。
これはある意味では当然の話で、「職の体系」における「本家」や「領家」(これらを総称して「本所」と呼ぶ場合があります)の多くは王家や有力貴族、有力寺社であり、彼らの多くは基本的に「京とその周辺(いわゆる畿内近国)」に居住していました。

その結果、荘園や公領から生じる年貢などの富は、最終的な権利主体である本所(公領であれば朝廷)に帰属します。本所が集中する京には、結果として各地の富が集まりやすい構造が形成されていました。

中世においては、それらの「モノ」は基本的に人力や家畜によって物理的に運ばれるほかありません。そして運ばれてきたモノを保管するためには当然ながら倉庫が必要になりますし、その倉庫の維持管理にも人手が必要になります。

これは前シリーズでも少し触れたように、「ヒトとモノが集積する場所には商機が生まれる」という、ごく自然な現象でもあります。モノを保管するために倉庫が必要なように、モノを運んできた人々を受け入れるためには宿も必要になります。さらに人が集まれば必ず「需要」が発生します。

現代的なイメージで言えば、「大きな企業などが集中する地域(ビジネス街)の周辺に飲食店が集まりやすい」のと同じようなものと考えると分かりやすいでしょう。もちろんこれは分かりやすさを優先したかなり単純化した説明ですが、「ヒトとモノが集積する場所には商機が生まれる」という現象の典型例と言えます。

そしてそのような場所では、「富が富を生む」構造も同時に発生します。これは前シリーズでも述べた「土地を富の源泉としない人々」、つまり商人や金融業者のような存在のことです。別の言い方をすれば、「富を元手にしてさらに富を生み出す人々」と表現することもできるでしょう。

現代的なイメージで言えば、農業などの一次産業だけでなく、加工や流通、金融などの二次産業・三次産業の比率が高い経済構造が形成されていた、と言うこともできます。
そして年貢などの富が集積する巨大なストレージでもあった「京」では、このような都市型経済が比較的早くから発達していました。

もちろん、都市型経済が発達していたのは京だけではありません。日本各地にも「ヒトとモノの集積地」は存在していました。しかしその規模という点では、この時代の京が突出していたと考えることができます。

都市型経済が発達すると、必然的に金融も発達しやすくなります。中世の京には酒屋や土倉と呼ばれる金融業者が多数存在し、彼らは都市経済の重要な担い手となっていました。

当時は貨幣経済も次第に広がりつつありましたが、日本では中世の早い段階で自国通貨の発行が停止しており、流通する銭の多くは宋・元などから輸入されたものでした。
そのため室町時代から戦国時代にかけては、銭の種類や摩耗の程度などによって価値の差が生じる、いわゆる「悪銭問題」が発生することになります。現代人の感覚で言えば、同じ「100円玉」のように見えても、実際には交換価値が異なる貨幣が混在しているような、かなり複雑な状況が生まれていたわけです。

さらに当時は、米や布などの物資そのものが決済手段として機能する場合もありました。こうしたものは一般に「商品貨幣」と呼ばれます。
従って、年貢として京に集積される米などは単なる食料ではなく、それ自体が経済的価値を持つ財でもありました。

このように、実際に流通する貨幣量以上の「富」が京には集中しており、この富の余剰がさらに新たな富を生み出すという循環が形成されていました。

この都市型経済への課税として知られているのが、酒屋役や土倉役などです。室町幕府はこうした都市経済からの収入を重要な財源としており、全国的な支配力が弱まった時期であっても、京の都市経済に対する課税によって一定の政権運営を維持することが可能でした。

そして尊氏は結果的に、この「京」をほとんど損傷させることなく確保することに成功しました。
六波羅探題は京の東南部に置かれた幕府の出先機関であり、都の中心そのものではありません。現代的な感覚で言えば、「都市の周辺部にある行政拠点が焼け落ちたが、都市そのものは無傷だった」というイメージに近いでしょう。

つまり尊氏は、政治的象徴であり巨大な経済市場でもあった「京」を無傷で後醍醐天皇の手中に帰したことになります。これがまず第一に評価された功績であったと考えられます。

もちろん、義貞が陥落させた鎌倉も幕府の根拠地として重要な都市でした。しかし政治的象徴という点では、やはり京の持つ意味は格段に大きかったと言えるでしょう。さらに尊氏が義貞よりも先に京を制圧したという時間的要素も、評価に影響を与えた可能性があります。

このような理由から、尊氏と義貞の功績には政治的評価の面で一定の「非対称性」が生じました。そしてこの評価の差が、後に両者の関係に微妙な緊張を生む遠因となり、最終的には「誰が武士勢力の中心となるのか」という問題にも影響していくことになります。

京の”価値”をもう少しだけ

多少余談になってしまいますが、もう一点だけ「六波羅探題討滅」の意味と意義について補足しておきたいと思います。
それは、六波羅探題が幕府による「京都支配の象徴」とも言える存在であったという点です。

前シリーズでも述べたように、六波羅探題は西国に広く分布する御家人や在京御家人を統制するために設置された幕府の出先機関でした。よく「朝廷を監視・支配するための機関」と説明されることがありますが、これはやや単純化した理解と言えるでしょう。実際には、京都周辺の治安維持や幕府と朝廷の間を取り次ぐ窓口としての役割も担っていました(寧ろ、こちらがメイン)。

ただし、当時の実際の力関係としては「朝廷<幕府」という構図が存在していたことも事実です。そのため、形式的には朝廷の決定であっても、幕府の意向を無視することは現実的には難しい状況にありました。このような事情から、「鎌倉幕府(武士)が朝廷(貴族・王家)を支配していた」と理解されることが多いのだと考えられます。

したがって、「自身の皇統に皇位継承を一本化したい」と考えていた後醍醐天皇にとって、六波羅探題は文字通り「目の前に存在する最大の障害(所謂、目の上の瘤)」であったと言えるでしょう。実際、六波羅探題が存在していたからこそ、「正中の変」も「元弘の変」も比較的短期間で鎮圧され、後醍醐天皇は敗北に追い込まれました。

仮に幕府軍が鎌倉から直接出動する体制であったならば、いかに大軍であっても数日から十日以上の時間差が生じる可能性があります。その間に迎撃体制を整えることも不可能ではなかったはずです(あくまで理論上)。承久の乱において後鳥羽方がこの時間差を充分に活かせなかったことも、敗因の一つとして指摘されることがあります。

つまり尊氏は、「幕府の京都支配の象徴」であった六波羅探題を討滅しながらも、都市そのものにはほとんど被害を与えないという形で京を確保しました。この点が評価された可能性は十分に考えられます。

Google Mapsで確認すると、六波羅探題跡の史跡は鴨川東岸に位置しており、京都御苑とは直線距離でおよそ3km程度しか離れていません。私は京都の土地勘がないので距離感覚を完全には掴めていないのですが、敢えて東京の地理で例えるならば、「新宿区に置かれていた六波羅探題が焼け落ちたが、皇居や千代田区・中央区といった政治中枢部にはほとんど被害が及ばなかった」といったイメージに近いのかもしれません。

歴史的に見ると、このような「政権の奪取」には多かれ少なかれ都市中枢へのダメージが伴う場合が少なくありません。映画の話になってしまいますが、『シン・ゴジラ』においてゴジラが当初「蒲田」に上陸した時と、その後に再上陸して東京の都市中枢部へ進撃した時では、事態の深刻さがまったく違っていたことを思い出していただくとイメージしやすいかもしれません。

ざっくり言えば、尊氏の行動は「幕府は倒すが都は守る」という姿勢を象徴的に示したものだったと言えます。結果として尊氏は、「都市を壊さずに政権を奪う」という歴史的には比較的珍しいケースを成功させたとも考えられます。

こうした事情を踏まえると、功績評価の面で「六波羅討滅>幕府中枢討滅」という印象が生まれた理由も理解しやすくなるでしょう。より正確には、両者は単純な優劣というより「≧」の関係に近かったのかもしれません。

京に”選ばれる”

もう一つ考えるべき点として、六波羅探題討滅後の「戦後処理」があります。
尊氏は当然のことながら、その後の京都の治安維持にも関与したと考えるのが自然でしょう。

京市中の治安維持については、もともと朝廷の機関である「検非違使」が存在していました。しかし、その規模や実効性は必ずしも充分とは言えず、鎌倉時代に入ると次第に六波羅探題が京都周辺の軍事・治安維持を担う比重が大きくなっていきました。

検非違使が完全に機能していなかったわけではありませんが、少なくとも京の実効的な治安維持の主役が武士(幕府)側に移っていたことは確かでしょう。

そのため、六波羅探題が消滅するということは、京都の治安維持体制に大きな空白が生まれることを意味しました。
この状況を放置するという選択肢は、尊氏にとって現実的ではなかったと考えられます。

そして、このような治安維持の役割は、本来まさに武士の役割そのものでもあります。軍事力を背景とする武士団にとって、都市の秩序維持は決して特別な仕事ではなく、体制さえ整っていれば比較的容易に遂行できる任務でもあったでしょう。

少なくとも、尊氏が京都の治安維持に大きく失敗したと明確に伝える史料は知られていません。逆に言えば、大きな混乱を生じさせることなく秩序を維持することができていた可能性が高いと考える方が自然かもしれません。

これに対して、建武政権が成立した後の京都では、必ずしも充分な治安維持が行われていたとは言い切れない状況があったようです。以前の記事でも触れた「二条河原落書」の冒頭では、「此頃(このごろ)都ニハヤル物」として「夜討ち」と「強盗」が挙げられています。

ここで言う「夜討ち」とは戦術的な夜襲ではなく、夜間に人家を襲撃して財物を奪うような行為を含む、かなり物騒な犯罪行為を指していると考えられます。

イメージとしては、TVドラマ『鬼平犯科帳』に登場する「急ぎ働き」にやや近いかもしれません。夜間に集団で商家などに押し入り、従業員を急襲して金品を奪い去るような行為です。

つまり、尊氏は京都の治安維持を比較的うまく行い、一方で建武政権はそれを必ずしも充分に行えなかった可能性があります。
そうなると、京市中に住む人々がどちらをより「信用」するかという問題が生まれます。

言い換えれば、尊氏は京都の都市住民を一定程度味方につけていた可能性があり、この「京市中の支持」が後に成立する北朝政権の正統性の一端を支える要素となった可能性も考えられるでしょう。

さらに言えば、「京都の治安を維持できる政権こそが天下の支配者である」という認識は、この時代には比較的広く共有されていたとも考えられます。
室町幕府が制度として大きく弱体化した後も、なお「幕府」としての体裁を保ち続けることができた背景には、京都を実効支配していたという事実があったからだと言えるでしょう。

この「京都の実効支配者=天下人」という観点から、三好長慶こそが織田信長に先立つ「天下人」であったとする説を積極的に主張しているのが、歴史学者の天野忠幸氏です。もちろんこの見解には多くの反論もありますが、興味のある方は天野氏の『松永久秀と下剋上―室町の身分秩序を覆す』(平凡社)を読んでみると、通俗的な「梟雄・松永久秀」像とは違う視点を知ることができるでしょう。

また少し脱線してしまいましたが、要するにここで言いたいことは、「尊氏は京都を味方につけていた」と表現できる可能性があるという点です。

これは必ずしも「尊氏が後醍醐天皇と袂を分かった直接の原因」とまでは言えないかもしれません。しかし少なくとも、後に北朝政権が成立する際の重要な有利条件の一つになった可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。

”天下人”とはいかなる人物か

なお、この「京を味方につけた(実効支配)者が天下人になる」という構造は、中世後半頃に突然生まれたものではなく、ある意味では歴史的な「伝統」と言うこともできるでしょう。

摂関政治の補佐を受けつつも朝廷(天皇)が概ね正常に機能していた時代には、当然ながら王家(天皇)こそが正統な天下人でした。

その後の歴史を見ても、平清盛は武力と経済力を背景に京の政治中枢に入り込み、実質的な権力者となりました。
源頼朝もまた、京都守護や京都番役などを通じて京の秩序維持に関与しています。
さらに室町将軍は京そのものを本拠地とし、三好長慶は京都を実効支配し、織田信長も上洛と二条城を拠点として京を掌握しました。

このように見ていくと、「京を実効的に掌握した勢力が天下の主導権を握る」という構造は、日本の中世政治において一種の伝統的なパターンであったとも言えるでしょう。

ざっくり言えば、「京の静謐を保つ者」であることが、正統な天下人となるための第一歩であり、そのスケールを全国に拡張したものが「天下静謐」という理念であったと考えることもできます。

先述した天野忠幸氏の「京都静謐=天下人」説に対する反論の一つが、この「天下静謐=天下人」説です。三好長慶を含めて、織田信長以前にはこの「天下静謐」という意識や志向は必ずしも強くはなかったとも指摘されています。

信長についても、「天下布武」という言葉の解釈を含めて、本当に「天下静謐」を志向していたのかどうかについては議論があります。これは「天下人」という言葉をどのように定義するかという、大変興味深い問題でもあります。

また少し脱線してしまいましたので話を戻すと、尊氏は「京を味方につけた」のと同様に「武士を味方につけた」ために、結果として後醍醐天皇と袂を分かつことになったとも言えるでしょう。

「今更、何を当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、これは話を順序立てて整理するために、あえて回りくどく説明しているものです。

なぜなら、これは結局のところ「なぜ武士たちは後醍醐天皇ではなく尊氏を選んだのか」、言い換えれば「なぜ後醍醐天皇ではなく尊氏を信用したのか」という問題に行き着くからです。

その理由の一つとして、以前の記事でも述べたように建武政権の「綸旨万能主義」という統治構造がボトルネックとなり、権利関係の調整機能がキャパシティーオーバーを起こしてしまった結果、武士層だけでなく貴族層からも信用を失ってしまったことが挙げられるでしょう。

つまり武士たちにとっては、「建武政権(後醍醐天皇)」という選択肢自体が事実上消えており、「尊氏を選ばざるを得ない」状況が生まれていたと考えることもできます。

御家人の視点から見ると、「鎌倉殿(幕府)」とは、いわば武士社会の「同業組合」のような側面も持っていました。そしてその最も重要な機能は、所領をめぐる権利関係の調整機関としての役割でした。

第二夜シリーズで繰り返し述べてきたように、北条氏とは「鎌倉殿と御家人の間に立って権利関係を調整する存在」であり、その北条氏がキャパシティーオーバーを起こして機能不全に陥ったことが、幕府滅亡の大きな要因の一つになったと考えられます。

したがって、当時の御家人層の一般的な認識としては、「幕府に反旗を翻した」というよりも、「調整機関として機能しなくなった北条氏に反旗を翻した」という理解に近かったのではないでしょうか。

つまり、「自身の利権(権利)と面子を守り、それを次代に継承する」ことを第一義とする武士の論理を全うするためにも、「同業組合」としての幕府と「権利関係の調整機関」としての幕府は必要不可欠だったと言えるでしょう。

そして御家人たちは「幕府を滅ぼした」と考えていたのではなく、「調整者として適切な存在に挿げ替えるために北条氏を排除した」と理解していた可能性があります。

その際に、北条氏に代わる存在として注目されたのが足利氏であり、その家督である尊氏でした。

足利家の持つ家格は確かに魅力的なものでしたが、いわゆる「源氏の棟梁」というイメージは後世の脚色の要素も強いと考えられます。実際には「河内源氏の嫡流に比較的近い有力な庶流」といった程度の認識であり、同じ河内源氏系の武士の中で見れば、最大でも「半馬身ほど先行している」程度の優位性だったと考える方が、実態に近いのではないかと私は考えています。

神輿の適正サイズ

さらに、より現実的な「優位点」として、足利氏の持つ「家格(権威)」と尊氏自身の位階のバランスが、武士層にとって「ちょうど良い存在」であったことも重要だったと考えられます。

例えば、六波羅攻略の頃には尊氏は既に「従五位上」という位階を有しており、さらに功績によって「鎮守府将軍」という官職も与えられていました。

それに対して、新田義貞はこの時点では官位の面で尊氏に及ばず、政治的象徴として担ぎ上げる存在としてはやや弱い立場にありました。
つまり、武士たちが「神輿」として担ぐ対象として見た場合、その魅力という点では尊氏に軍配が上がっていたと言えるでしょう。

また、後醍醐方の有力な武家としては北畠氏の存在も挙げられます。しかし北畠氏は村上源氏の名門に連なる公家であり、位階も三位以上の公卿という極めて高い身分にありました。

このような存在は朝廷政治の中枢としては理想的な人物ですが、武士社会の側から見ると身分差があまりにも大きく、武士たちが「神輿」として担ぎ上げる対象にはなりにくかったと考えられます。

一方で、「悪党」層の出身とされる楠木正成や、出自がはっきりしない名和長利のような人物では、今度は逆に身分が低すぎる、あるいは武士社会の代表としての権威が不足しているという問題がありました。

つまり、尊氏は

  • 幕府内で最大の実力者であった北条氏ですら一目置かざるを得ない「家格」を持つ足利氏の当主であり

  • 自身の官位も武士としては高すぎず低すぎない、比較的「程良い」位置にあり

という点で、まさに「神輿として担ぐには非常に都合の良い存在」であったと言えるでしょう。

この意味で、尊氏は武士社会の構造の中で「担ぎ上げられやすい位置」にあり、結果として武士層から選ばれやすい立場にあったと考えることもできます。

言い換えれば、尊氏は個人の能力だけで武士たちに支持されたのではなく、「構造的に武士社会から選ばれやすい位置にいた人物」であったとも言えるのではないでしょうか。

おわりに

以上、全体的にいつも以上に回りくどくなってしまいましたが、「足利尊氏の事情」の続きとして、「何故尊氏は後醍醐天皇と袂を別つことになったのか」という点について概観しました。

まず、尊氏の「六波羅攻略の方が鎌倉攻略よりも功績が大きいと評価されたのか」という点について、少しだけ掘り下げてみました。

当時の「京とその周辺」は、「公領荘園制」という社会秩序のもとで税や年貢などのモノが集積する場所となっており、その結果として「都市型経済」が発展していたことを簡単に確認しました。

重要な前提として、当時は「貨幣自体が自身の信用(価値)を担保する」実物貨幣を含む商品貨幣の時代であり、従って年貢などで集積されるコメなどの穀物は「食料」であると同時に「貨幣」としての役割も果たしていたことに注意が必要です。

つまり、京には実在する貨幣以上の「通貨供給(マネーサプライ)」に相当する経済的集積が存在していたとも言え、そのような「経済状況」の上に「富がさらに富を生む」循環構造、すなわち「都市型経済」が発達していたとイメージすることができます。

ヒトとモノが集積する場所には商機が発生する」というのは、私の歴史シリーズで用いている独自表現であり学術用語ではありませんが、「富が富を生む構造の発生要因」を分かりやすくイメージするための説明として用いているものです。

この期に及んで若干の余談になりますが、この「ヒトとモノが集積する場所には商機が発生する」という整理は、後の時代の「楽市楽座」などについて考える際にも有効なフレームになるはずです。機会があれば別稿、あるいは別シリーズで考えてみたいと思いますので、ここでは詳細には触れません。

ともあれ、このように京は当時の日本における最大規模の「都市型経済」の地であり、故に京を掌握し、すなわち「京都静謐」を実現した者が正統な「天下人」とみなされやすい都市でもありました。

その京を「ほぼ無傷で掌握することに成功」したことこそが尊氏の最大の功績であり、同時に「京を味方につけた」ことが後の「北朝」成立の際に正統性の一助となったことにも触れました。

このような点も記憶の片隅に置きつつ、具体的に「何故、後醍醐天皇(建武政権)ではなく、足利尊氏が武士層に選ばれたのか」について簡単に整理しました。

尊氏は「北条氏ですら一目置かざるを得ない」家格(権威)を有する「貴種」の系統に属し、更に彼自身が有する位階(身分)が「御家人(武士)層の視点から見て高過ぎず低すぎず」という、いわば「神輿として担ぐのに丁度良い」位置にありました。

すなわち、尊氏は元々「武士層から選ばれやすい」構造にあったと言え、後醍醐天皇(建武政権)が武士層の取り込みに失敗して「選択肢が減った」武士たちにとっては、「あの人しか居ない」という状態に近かったのではないか、というのが本稿の理解です。

もちろん、構造だけで「尊氏が選ばれた」わけではなく、そこには尊氏自身の「個人的な魅力」のような属人的要素も少なからずあったことは確かでしょう。

次回は、尊氏の属人性にスポットを当てつつ、引き続き「後醍醐天皇と尊氏が袂を分かたざるを得なかった背景」について考えてみたいと思います。

ここでは、歴史学者である清水克行氏が一般向け書籍『足利尊氏と関東』(吉川弘文館「人をあるく」シリーズ)で紹介されている、尊氏から息子の義詮に宛てたとされる手紙の現代語訳を同書より引用します。

「赤松則祐(あかまつ・のりすけ/そくゆう)の所領が関東にあるなんて知らなかったんで、しつこく恩賞を求めてくるヤツらにくれてしまったよ……。赤松から替わりの所領をくれと泣きつかれて困っている。京都の方に適当な所領があったならば、急いで世話してやってくれ。わるいな。」

清水克行著『足利尊氏と関東』(吉川弘文館「人をあるく」シリーズP84より)

という、同書の「困惑する義詮の顔が目に浮かぶような内容」という表現に頷くしかない手紙です。

とは言え、これこそが「尊氏が武士層に支持され、後醍醐天皇と袂を別つことになった」原因の小さくない一端であり、同時に「実弟の直義と決裂すること(観応の擾乱)になった」原因でもありました。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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