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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第12回――武士特区という選択~執権制が支えた鎌倉幕府

鎌倉幕府とは、どのような政権だったのでしょうか。
本稿では、その制度史的な側面から、まず「執権」という役職に注目し、鎌倉幕府の本質を総論的に捉え直します。

執権とは単なる将軍の補佐役ではなく、「将軍の代理として裁許を行う存在」として成立した制度でした。その背景には、北条泰時自身の家督継承の正統性の問題、将軍家との血縁関係がもたらす権威、そして受領職などを通じて確保された経済力がありました。
さらに、連署として北条時房を据えることで、北条家の長老的権威と政治的実績を取り込み、執権制は実効性を持つシステムへと整えられていきます。

また、執権が担った「将軍に代わる裁許」という役割は、御家人制が内包していた構造的リスクを緩和するための、制度的な緩衝装置として機能していたことも確認します。

あわせて、政所・問注所・侍所をはじめとする幕府機構の規模と機能の限定性を整理し、鎌倉幕府が「公領荘園制」や「職(しき)の体系」という中世社会の土地支配秩序を守るための、いわば「武士特区」として設計された政権であったことを明らかにします。

後半では、悪党の取り締まりや元寇への対応を通じて幕府の処理能力が限界を迎え、得宗家への権限集中が進んだ結果、幕府そのものがシステムとして破綻していった過程にも触れます。
鎌倉幕府の滅亡を、特定の人物の腐敗ではなく、制度のキャパシティオーバーとして捉え直すことで、鎌倉時代の政治構造をより立体的に理解することを目指します。※約9800字


はじめに

前回は、まず「『北条義時』は、厳密には『北条氏』ではなかった」という点を簡単に掘り下げました。
義時は頼朝挙兵の時点で「江間」の地を与えられたことで「江間義時」となり、すでに“北条家”とは別家である“江間家”の家長となっていたことを確認しました。

さらに、鎌倉期武士社会の基本原理として「分割相続」と「家督・家長」について概観しました。
分割相続とは、荘園が拡張し続けることを前提とした、「氏(うじ)」あるいは同族集団の勢力拡大を最適化するための戦略であり、その核を成すのが本家に属する「家督」であったことを述べました。

あわせて、「家督」と「家長」という二つの概念についても簡単に確認しました。
両者は原則として一致するものの、状況によっては分離も可能であり、それは「地位(家督)」と「権威(家長)」を意図的に切り分けるという、日本社会に古くから見られる政治的・社会的な知恵の一つであったことにも触れました。

これらを踏まえると、江間義時の嫡子である泰時が北条家の家督を継承したことは、事実上「分家が本家を差し置いて“氏”を継承した」事例と見ることができます。
そしてこの点は、北条得宗家の支配構造の中に一定の「正統性の瑕疵」を内在させ、後年の同族間抗争を惹起する遠因となった可能性があることを指摘しました。

さらに時頼期には、「弟による事実上の継承」という、いわば“さらなる弱み”が生じます。
これが強権的な政権運営を必要とした一因となり、最終的には「執権」と「得宗」という形で、「家督」と「家長」の分離が制度として常態化していく契機になったところまでを見てきました。

今回は予告通り、こうした人物史・家政史の整理を踏まえたうえで、制度史の側面から鎌倉幕府をざっくりと捉えてみたいと思います。
ただし、「評定衆は何年に設置され、その構成員は──」といった細部の制度史を追うことはしません。
あくまでポイントを絞り、鎌倉幕府という組織全体の性格と構造を俯瞰することを目的とします。

そのための手がかりとして、まずは「執権」という存在から考えてみたいと思います。

”執権”をどう捉えるか

前回の記事では、私は「執権の初代を泰時とする」という考え方に触れました。
これは、「執権」という役職が、幕府の制度として明確に確立したのが泰時の代である、という理解に基づくものです。

多少補足的に掘り下げると、「執権」という言葉自体は、鎌倉幕府成立以前から存在していたと考えられています。
史料上の初見は後三条天皇期に遡るとされ、その後は院政下において「院司(いんのつかさ)」の筆頭を指す要職名として用いられていました。

鎌倉幕府においても、右大将家、すなわち源頼朝家の家政機関であった政所において、その職員の筆頭に「執権」という名称が与えられたと考えられています。
ただし、この段階ではあくまで私的家政組織内の役職名に過ぎず、後世に見られる「執権」という政治制度とのあいだに、明確な制度的連続性を見出すことは難しいでしょう。

北条氏との関係で言えば、三代将軍・実朝期の比較的早い段階で、北条時政が政所別当と並んで「執権」に任じられたとされるのが、史料上確認できる最初期の例とされています。
さらに、時政が単独で署名した命令書、いわゆる関東下知状(かんとうげちじょう)も現存しており、この時期の「執権」が一定の実体を伴っていた可能性は否定できません。

命令書に単独で署名するという行為は、「命令の最終責任者」が一人であることを意味し、事実上、強い政治的影響力を有していたことを示唆します。
ただし、これはあくまで将軍・実朝の外戚として、その権限を代行する立場にあったことによるものであり、「執権」という役職そのものが制度化されていた結果と捉えるには、やや無理があるように思われます。

次代の義時期においても、「執権」という役職の具体的な制度的実態については不明な点が多く、現時点で定説と呼べるほどの統一見解は存在しません。

史料には、進化論における化石と同様の「不完全性」が常につきまといますが、制度として整備されていたのであれば、命令書(下知状)などの行政文書に、より明確な痕跡が残る可能性は高まります。
その点を踏まえると、史料的裏付けが充分でない以上、『吾妻鏡』などの後世史料が、遡及的に「執権」という呼称を用いていると考える方が、現段階では自然ではないかと私は考えています。

もっとも、これは現存史料の制約を前提とした一つの整理に過ぎません。
今後、新史料の発見などによって、「初代執権は時政、あるいは義時であった」と確定される可能性があることは、あらかじめ付記しておきたいと思います。

”執権”とは、どのような存在か

それでは、北条泰時の代に「執権」が制度として整えられたのだとすれば、そもそもなぜ、そのような役職が必要とされたのでしょうか。

第一に挙げられるのは、幕府内部における北条氏、より正確には泰時自身の政治基盤の脆弱性です。
前回見たように、泰時は本来「江間家」の嫡子であり、「北条家」の本家を継ぐ立場にはありませんでした。それにもかかわらず泰時が北条家の家督を継承したことは、見方によっては「空白となっていた本家の家督を、分家が継承した」事例と捉えることもでき、一定の正統性の弱さを内包していたと言えます。

史料的な裏付けは必ずしも充分ではありませんが、頼朝あるいは政子の承認、もしくは後見的な関与によって、この家督継承が実現したと考えることは不自然ではありません。
そうした後見があったからこそ、継承過程における混乱が比較的小さく抑えられた可能性も考えられるでしょう。もっとも、『吾妻鏡』などが伝えるいわゆる「伊賀氏事件」に見られるように、家督継承をめぐる緊張が全く存在しなかったわけではありません。

義時の代には、「政所別当」と「侍所別当」を兼務する慣行が成立しつつありましたが、家督の正統性にやや不安を抱える泰時にとって、それだけで盤石な権力基盤が築けたとは言い切れないでしょう。
ここで重要になるのが、伯母であり、かつ将軍家(源氏将軍家)の家長でもあった政子の存在です。政子は、その政治的威信によって、泰時の正統性と権威を少なからず補完する役割を果たしていたと考えられます。

そして、この政子との関係を背景として泰時が担った立場こそが、「将軍の補佐」という役割でした。
義時が死去した元仁元年(1224年)の時点で、将軍であった藤原三寅(後の九条頼経)はまだ幼少で、元服も済ませていません。このため、実質的には幕府は「将軍が統治を行えない状態」に置かれていたと言えるでしょう(もっと言うと「将軍不在(空位)」です)。

この状況を踏まえると、政子が「尼将軍」と呼ばれた意味も、より明確に理解できるのではないでしょうか。

しかし、義時の死から間もない嘉禄元年(1225年)、政子もまた世を去ります。
享年は数え年で69歳とされ、当時としては高齢であり、自然な死と考えられます。これにより泰時は、「将軍家の外戚」、より正確には「将軍家の家長と結びついた存在」という、重要な権威の源泉を失うことになります。

詳細な時系列は必ずしも史料上明確ではありませんが、この前後に、泰時は京都で六波羅探題南方を務めていた北条時房(ときふさ)を鎌倉に呼び戻し、「連署」に任じたとされています。一方、六波羅探題北方には泰時の嫡子が残されました。

この時期以降、「執権」と「連署」という役職が、単なる慣行や肩書きではなく、幕府の政治運営を担う制度的装置として明確な実体を持つようになったと捉えることができます。
こうした点から、私は北条泰時を「執権という制度の初代」と理解しています。

”執権”という制度の成り立ち

ここで、あらかじめ一点だけ補足しておきたいと思います。
「連署」とは、命令書(関東下知状など)において、執権に続いて署名することに由来する名称ですが、執権とのあいだに明確な上下関係や職掌上の差異があったとは考えられていません。
その意味で、これは事実上の「二人執権制」と捉えることが可能でしょう。

では、なぜこの時期に北条時房という人物が登場するのでしょうか。
大きく分けて、二つの理由が考えられます。

第一に、時房の出自と立場です。
時房は義時の異母弟にあたり、北条氏の庶流ではあるものの、少なくとも現存史料の範囲では分家して別の苗字を名乗っていた形跡は見られません。文字通り「北条時房」として、北条一門の中に位置づけられていたと考えられます。

現代的な感覚からすると、「それならば、時房が家督を継承すればよかったのではないか」と感じてしまいますが、時房の母親については名前すら伝わっておらず、身分的に高位の女性ではなかった可能性があります。
一方、義時の母は有力な一族(伊東氏)の出身であり、さらに政時の後妻(継室)との間に生まれた男子は、血統面ではより有利な立場にあったと考えられます。こうした母系の身分差が、時房が家督候補とならなかった一因であった可能性は否定できないでしょう。

とはいえ、時房は北条家内部において「長老」とも言うべき立場にあり、また政治・行政両面での経験も豊富でした。そのため、「将軍(幕府)を支える」役割に就く人物としては、極めて説得力のある存在であったと言えます。

つまり泰時は、「北条家の長老であり老練な政治家」である時房を自らと並び立たせることで、自身の立場に「家長的権威」と「実績」という二つの裏付けを与えた、とイメージすることができます。

第二の理由は、経済力です。
前シリーズでも触れたように、「関東御分国」の中で、義時は相模守、時房は武蔵守を務めており、幕府の所在地を含む最重要地域を兄弟で分掌していました。義時がすべての官位を辞した後は、相模守を時房が継承し、連署就任時も引き続き受領の地位にありました。

周知の通り、当時の受領(国守)は極めて収益性の高い官職であり、4年の任期で一財産を築くことも決して珍しくありませんでした。この点からも、相模・武蔵という二国を押さえることが、北条氏にとって重要な経済基盤であったことが理解できます。

こうした事情を踏まえると、泰時は「執権」という立場の権威と正統性を、北条家の長老である時房によって補強すると同時に、「経済力」という実効性を加える構図を意図したと解釈することができます。

もっとも、このように述べると、泰時自身に経済的基盤がなかったかのような印象を与えてしまうかもしれません。しかし実際には、泰時もまた武蔵守に任じられていました。
これは、相模国と武蔵国を分掌する体制を再現することで、義時と時房による兄弟分掌の構図を象徴的に引き継いだものと捉えることもできるでしょう。

後に、この二か国を執権と連署が受領として継承することが慣行となり、北条氏にとって重要な経済的基盤となっていきますが、同時にそれは、権威と正統性の源泉としても機能する、強固な制度的枠組みであったと考えることができます。

何故”執権”か

ここまで「執権」という役職が成立した背景を整理してきましたが、それでは実際に、執権は幕府の中で何を担っていたのでしょうか。

その中心的な役割の一つが、「将軍に代わって訴訟を裁許する」という機能です。
一見すると当たり前のように思えるかもしれませんが、ここに「土地の権利問題」が関わると、執権という存在の意味と意義が、より鮮明に浮かび上がってきます。

そもそも御家人とは、「御恩と奉公」、すなわち土地の権利を媒介とした契約関係によって将軍に仕える存在です。
ここで仮に、AとBという二人の御家人が、ある土地の権利をめぐって訴訟を起こしたとしましょう。もし将軍が自ら裁許し、Aの訴えを正当であると認めた場合、敗訴したBは土地の権利を失うことになります。

土地の喪失は、単なる財産上の損失にとどまりません。それは主従契約の根幹である「御恩」を失うことを意味し、結果として、将軍とBとの主従関係そのものが動揺しかねません。
つまり、公正な裁きであればあるほど、将軍自身が主従関係の不安定化というリスクを直接引き受ける構造が生じてしまうのです。

言い換えれば、これは「御家人制」という仕組みそのものに、当初から内在していたリスクが、訴訟の増加とともに顕在化しつつあった状況であったとも表現できます。

過去記事で触れた「十三人の合議制」も、こうした将軍親裁のリスクを軽減するために、「将軍自らが裁くべき訴訟を事前に吟味する」装置として機能していた可能性があります。
実際、頼朝政権の末期には、御家人と将軍とのあいだに緊張関係が生じつつあったとする研究もあり、「御家人を仲間として束ねる将軍の政権」は、比較的早い段階から構造的な限界を抱えていたと見ることもできるでしょう。

こうした状況の中で、将軍に代わって、同じ御家人身分に属する執権が裁許を行うことで、「将軍と御家人の主従関係を直接揺るがすことなく、公正な裁きを下す」仕組みが成立しました。
この点にこそ、「執権(および連署)」という制度の根幹的な意義があったと考えられます。

再考・鎌倉幕府とは

こうした点からも、鎌倉幕府という権力体が、きわめて限定的な機能を持つ組織であったことが見て取れます。
教科書でもおなじみの初期機関である「政所」「問注所」「侍所」に加え、後の時代に新たに整備された中枢機構は、「執権(連署)」「評定衆」「引付衆」にほぼ限られます。

六波羅探題や鎮西探題は、しばしば地方統治機関のように説明されますが、その本質は朝廷や西国武士との折衝・対応を担う出先機関であり、独立した統治権限を持つ存在ではありませんでした。実際の運用においては、最終的に鎌倉の判断を仰ぐ形で、いわば「ミニ幕府」とも言える体制(機構)を構築していたと理解するのが妥当でしょう。

そして、鎌倉期の幕府における「政治」とは、その大部分が土地をめぐる訴訟の処理、すなわち裁許業務でした。
とりわけ引付衆は、「訴訟の事前審査」「口頭弁論の整理」「判決原案の作成」を担う、土地訴訟(所務沙汰)の専門機関として設置されたものです。

訴訟の受付自体は、時期による変動はあるものの、問注所や侍所でも行われていました。概ね、問注所が所領関係以外の民事訴訟(雑務沙汰)を、侍所が刑事事件や治安維持に関わる裁判(検断沙汰)を担当していたと考えられています。

また、政所は「関東御料」、すなわち将軍家が直接支配する所領(荘園)の管理・運営を担う機関であり、それに関連する訴訟の一部については、政所自身が処理に関与していた可能性も指摘されています。

このように見てくると、鎌倉幕府の統治機構は、御家人同士の権利関係の調整と、軍事・警察権(検断)に特化・最適化されたものであり、律令国家としての朝廷が有していたような、全国的かつ網羅的な行政機構とは大きく性格を異にしていたことが分かります。

これまで再三述べてきたように、鎌倉幕府の本質とは、「武士特区」、あるいは「御家人専用の統治・調整機構」であったと言えるでしょう。
各制度・機関もまた、その目的に即した規模と内容で整備されており、必要以上の機能を持たなかった点にこそ、鎌倉幕府という政権の特徴があったと考えられます。

幕府のあるべき姿

そして、本シリーズ第8回でも述べたように、鎌倉幕府は、当初は反乱勢力として出発しながらも、その後、段階的に朝廷から軍事・警察権の一部を委ねられることで成立していった政権でした。
この点から見ると、鎌倉幕府は、現代的な比喩を用いれば「自衛隊」と「広域地方警察」、さらには「刑事裁判所」の機能をあわせ持つ組織であったと表現することも可能でしょう。

ここで用いている「武士特区」という言葉が、幕府内部の機能や構造を捉えたミクロな視点であるとすれば、この「自衛隊兼広域地方警察兼刑事裁判所」という比喩は、日本全体から見た鎌倉幕府の位置づけを示す、よりマクロな視点に相当します。

つまり鎌倉幕府は、朝廷を実質的に超越したり、国家としてそれに取って代わった存在ではありませんでした。
むしろ、朝廷が担いきれなくなった武力行使や治安維持、裁判実務の一部を引き受けた存在であり、乱暴な言い方をすれば「下請け的な統治機構」と表現することもできるでしょう(「分担統治」とも表現しました)。

では、その幕府が「警察」あるいは「自衛隊」として、具体的に何を守っていたのかと言えば、それこそが「公領荘園制」と「職(しき)の体系」によって構成される、中世社会の土地支配秩序そのものでした。
鎌倉幕府とは、新しい秩序を創出する政権ではなく、既存の土地支配制度と権利体系を、武力によって実効的に維持するために設けられた統治装置であったと理解することができます。

その後の幕府を少しだけ

「公領荘園制」や「職(しき)の体系」については、前シリーズでやや詳しく触れていますので、未読の方はそちらも併せてご参照いただければと思います。
この二点について一定のイメージを掴むことができれば、日本の「中世」という時代への理解は、もう一段深まるはずです。

さて、鎌倉幕府の制度史については、また稿を改めて別の視点から概観したいと考えていますが、ここでは少しだけ先走って、この「武士特区」あるいは「自衛隊兼広域地方警察兼刑事裁判所」としての幕府が、その後どのような道を辿ったのかを、ごく簡単に眺めておきたいと思います。

確かに朝廷は、「検断権」を完全に幕府へ移譲したわけではありません。とくに自らの担当領域である畿内近国や西日本においては、引き続き治安維持を担おうとしていました。しかし、朝廷が実際に保持していた軍事力・警察力はきわめて限定的であり、京の治安維持が、検非違使と六波羅探題の共同体制から、最終的には六波羅探題の職掌へと移行していったことは、以前にも触れた通りです。

こうした朝廷の幕府への警察力依存を加速させた要因の一つが、「悪党」と呼ばれる存在でした。
ここで言う「悪党」とは、必ずしも反幕府勢力や政治的反抗者を意味するものではありません。むしろ、公領荘園制や職の体系の隙間を突いて利得を得ようとする者たちであり、本家や領家といった土地所有者の側から見た「反社会的存在」として認識された人々でした。

そして朝廷は、宣旨などによって彼らを「朝廷に対する反抗者」と位置づけ、その取り締まりを幕府に委ねていくことになります。
既に述べてきたように、公領荘園制や職の体系という「秩序」を守ることこそが幕府の役割であり、同時にそれは幕府自身の存在基盤でもありました。そのため幕府は、これら「悪党」の取り締まりに、本気で取り組まざるを得なかったのです。

さらに、幕府の崩壊へと拍車をかけた大きな要因が、元寇でした。
教科書などでは、「戦いには勝利したものの、恩賞として分け与える土地が不足した」と簡略化して説明されることが多いですが、これはむしろ副次的な問題に過ぎません。

より深刻だったのは、元軍への対応のため、西日本や九州の「非御家人」を大量に御家人として取り込んだ結果、幕府に持ち込まれる訴訟件数が爆発的に増加したことです。
その結果、従来の「執権―評定衆―引付衆」という合議と分担を前提とした意思決定システムでは処理が追いつかなくなり、「得宗によるトップダウン」、言い換えれば制度を飛び越えた“ショートカット”による対応が常態化していきます。

しかし、この権限集中は、さらなる御家人の不満を蓄積させ、結果として北条氏は求心力を失っていくことになります。

このように見てくると、「鎌倉幕府の滅亡」とは、特定の得宗が腐敗・堕落していたから起きた出来事ではなく、幕府というシステムそのものが、時代の変化と負荷の増大によって処理能力の限界を超え、いわば“パンク”した結果であったと理解することができます。
そして、そのシステムに最も深く組み込まれていた北条氏が排除されることが、そのまま幕府の滅亡へと直結したのです。

おわりに

以上、鎌倉幕府の制度史概観として、今回はまず「執権とは何か」という問題から見てきました。

執権とは、「将軍の補佐」という名分と、「将軍家の家長の親戚」という権威を出発点としつつ、家督継承に内在する正統性の弱さを補い、さらに受領職などを通じた経済力を確保することで、実体を伴った政治システムへと成長していった存在であることを述べました。

また、「連署」とは、その執権の権威と正統性を補完するために設けられた仕組みであり、北条時房という「北条家の長老」が持つ権威と、政治的経験・実績による説得力を執権に付与する役割を果たしていたことを確認しました。
さらに、執権と連署が受領として有する経済力を組み合わせることで実効性を高めると同時に、「義時と時房」による重要国の兄弟分掌を再現することで、正統性を演出する構図であったと捉えることもできる点に触れました。

そして、執権が担った「将軍の代理としての裁許」という役割について、それが御家人制に当初から内在していたリスクを緩和するための、いわば制度的な緩衝装置として機能していた側面を指摘しました。

あわせて、鎌倉幕府という権力体の規模と機能の限定性を再確認し、幕府が「公領荘園制」や「職の体系」という中世社会の土地支配秩序を守るための、警察・軍事・裁判機構として存在していたことも確認しました。

さらに、少しだけ幕府のその後にも目を向けました。
鎌倉幕府の滅亡とは、特定の得宗の腐敗や堕落といった属人的な要因によるものではなく、幕府というシステムそのものが時代の変化によって処理能力の限界を超え、その応急的な対応が結果として北条氏の求心力を低下させたことに起因するものであった、という見方が可能であることを示しました。

これに、前回までに見てきた「幕府の事情」や「北条氏の事情」を重ね合わせていただくと、鎌倉時代の姿が、より立体的に見えてくるのではないかと思います。

次回は、以前少しだけ触れた「守護=役職」「地頭=利権(権利)」という整理を手がかりに、「公領荘園制」や「職の体系」を改めて確認しつつ、鎌倉幕府の統治構造をもう一段掘り下げてみたいと思います。

相変わらず北条時宗が主人公として登場するまでには時間がかかっていますが、まずは外堀から着実に埋めていくことにしましょう。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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