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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第9回――「頼朝でよい」から「頼朝でなければならない」へ~精神的主従関係という構造

鎌倉幕府は、どのような原理で成立し、そして変質していったのか。
本稿では、前回までの「鎌倉幕府ザックリ総論」を踏まえつつ、あえて「最初期の幕府」に立ち返り、その内側から幕府の本質を捉え直します。

前シリーズで提示した「源頼朝を“神輿”として担ぎ上げた御家人の政権」という理解に加え、本稿では新たに、「御家人たちを“仲間”として束ねた源頼朝の政権」という側面に注目し、これを筆者独自の概念である「精神的主従関係」として整理します。

細川重男氏の著作などを手がかりに、頼朝が御家人たちの心を巧みに掴み、強い仲間意識を醸成していった過程を確認しつつ、この関係性が、結果として「頼朝でなければならない」という、代替も再生産も困難な構造を生み出していたことを明らかにします。

頼朝死後、十分な時間も基盤も与えられなかった頼家の時代に、御家人たちが選択したのは、「武士の論理」──すなわち、自己の利権と面子を守り、次代へと繋げるための合議制という制度的対応でした。
本稿では、「十三人の合議制」を、単なる頼家個人への評価ではなく、「人からシステムへ」という必然的な転換として位置づけます。

そして最後に、鎌倉幕府後期を特徴づける「得宗専制」をめぐる問題にも触れ、それを「個人の専制」というよりも、「構造の歪みや疲労が表面化した現象」として捉える視点を提示します。

次回は、この流れを受けて、鎌倉幕府を理解するうえで避けて通れない存在である「北条氏」とは何だったのかというテーマに踏み込んでいく予定です。※約9100字


はじめに

前回は、前シリーズ中に見られた「誤解を招く余地のある」表現について補足と修正を行いながら、鎌倉幕府の大まかな総論を概観してきました。

そこで確認したのは、鎌倉幕府がいわゆる「全国的な統一政権」ではなく、あくまで武士階層を対象とした限定的な権力体、いわば「武士特区」あるいは「御家人専用窓口」のような存在であったという点です。
つまり鎌倉幕府とは、朝廷が引き続き国政の中枢として機能していることを前提として、初めて成立し得た補完的・分業的な政治機構であったと整理することができます。

また、「文治の勅許」の意義についても、前シリーズで述べた「決定的な転換点(ターニングポイント)」としてではなく、「一連の過程における通過点(チェックポイント)」として再整理しました。
すなわち、反乱勢力であった源頼朝政権が、段階的に朝廷から軍事・警察権(検断権や刑事裁判権)といった実務的権限の一部を委ねられていく、その連続的なプロセスの中に位置づけて捉える必要がある、という点を確認しました。

しかし、このように国家が本来有していた武力を伴う強制力、あるいはその執行を担う役割を結果的に引き受けることになった幕府は、朝廷からの「武力を必要とする強制執行」への要請を容易に拒むことができない立場に置かれるようになり、そのことが次第に幕府の人的・制度的リソースを消耗させる一因となっていった可能性も考えられます。

その一例として前回は六波羅探題を取り上げ、当初は検非違使との共同対応という形で行われていた京の治安維持が、やがて六波羅探題単独の職掌へと比重を移していった経緯を確認しました。

このように見ていくと、「鎌倉幕府」とは朝廷と国政を分担する一つの実務部門のような存在であり、「全国的な統一政権」というイメージとは、実態としてはかなり距離のある政治機構であったと考えられます。

今回は予告通り、こうした前提を踏まえた上で、「幕府内部の事情」に目を向けながら、改めて鎌倉幕府の総論的理解を試みていきたいと思います。

お詫びと訂正

ところで、ここでまたしてもお詫びと訂正があります。
前回、「問注所」について触れた箇所で、

「問注所もまた、家政機関内部の『公文所(くもんじょ)』の延長線上にあるものと考えられています(異説はあります)」

と記してしまいましたが、正確には「公文所」の延長と考えられているのは「政所」であり、「問注所」はそれとは別系統の機関と理解するのが適切です。

これは完全に私のケアレスミスであり、むしろ現役の学生の皆様の方が「違う、そうじゃない」とツッコミを入れたのではないかと思います。
もっとも、この点は論理全体の整合性を損なうものではありませんが、ここで改めてお詫びを申し上げます。今後はこのような誤りがないよう、より注意したいと思います。

せっかくの機会ですので、この「異説」についても簡単に触れておきます。
これは幕府成立史に関わる問題で、要点を単純化すると、

・公文所を発展的に継承したものが政所であると考えるのか
・あるいは、公文所とは別に設置された政所が、最終的に公文所を吸収・統合したのか

という点をめぐる議論です。

一見すると「どちらでも大差はないのでは」と感じてしまいそうですが、制度史の観点から見ると、幕府初期の組織構成や権限の性格、さらには鎌倉幕府がどのように形成されていったのかという理解にも影響するため、決して軽視できる問題ではありません。

もっとも、私のような素人が軽々に特定の説を採るべき性質のものでもありませんので、本シリーズでは、

「もともと存在していた家政機関的な組織を、行政機構へと転用・再編したものが、最初期の鎌倉幕府の組織であった」

という、あくまで大枠の理解に留めています。
前シリーズでも触れた通り、まずはこの程度の把握で充分であろうと考えています。

頼朝”神輿”説

前シリーズにおいて、私はたびたび源頼朝を「関東(坂東)武士たちの神輿であり、むしろ“鎌倉に縛られる存在”であった」という趣旨で述べてきました。
今にして思えばやや強調しすぎたきらいはあるものの、これはあくまで「主として土地制度の視点から日本史を眺める」という目的のもと、比較的分かりやすい説明として採用した見方です。

つまり、当時の武士にとって最も重要であったのは「自身の利権」と「面子」であり、「治承三年の政変」の結果、権利関係が大きく混乱した坂東武士たちが、それらを回復するための「看板」として源頼朝を擁立したのであって、必ずしも「源氏の棟梁」という権威や、古くからの歴史的主従関係に自動的に従ったわけではない、という点が主な論旨でした。

この点については、現在でも大筋では誤っていないと考えていますが、そうすると次に浮かぶであろう、もっともな疑問があります。
すなわち、「それでは、誰でもよかったのか」という問題です。

あくまで素人考えであることを断った上で述べるならば、私は究極的には「誰であってもよかった」可能性が高いと考えています。
ただし、その中でも当時の坂東武士たちにとって、源頼朝という人物は「非常に都合のよい条件」を兼ね備えていた存在だったのではないでしょうか。

一つには、頼朝はもともと「従五位下・右近衛将監(うこんえのしょうげん)」という官位を有していた、名実ともに「貴族」に属する人物でした。また、清和源氏の中でも棟梁的な位置づけにあったとされる(もっとも、これについては議論の余地がありますが)河内源氏の嫡流に連なる存在であり、その点でもいわゆる「貴種性」に不足はありません。

他方で、挙兵当時の頼朝は「一介の流人」に過ぎず、形式的に見れば「自分たちよりも下位の存在」と捉えることも不可能ではありませんでした。実際には、そのような見方が完全に成り立つわけではありませんが、少なくとも「貴人ではあるが、手の届かない存在ではない」という、身分的・距離感的にきわめて微妙(或いは絶妙)な位置にあったことは確かでしょう。

乱暴に言ってしまえば、「直接顔を合わせ、話をすることができる貴人」であったという点こそが、源頼朝を「神輿」として担ぐうえで、これ以上ないほど都合のよい条件だったと考えても、大きな誤りではないように思われます。

”源頼朝”の姿

もっとも、こうした条件だけが理由であったわけではありません。
頼朝の乳母の一人であった比企尼(ひきのあま)などを通じて、一定の経済的支援――現代的に言えば「仕送り」のようなもの――や、都からの情報提供が行われていたことも指摘されています。

つまり頼朝は、「食うや食わず」の境遇にある流人というよりも、一定の生活基盤を保ちつつ、在地の武士たちと正面から交流・交際を行い、なおかつ中央の情勢についてもある程度の知識と関心を持っている人物でした。そうした点もまた、彼が「ボスとして仰ぐに足る存在」と見なされる要因の一つであった可能性は高いでしょう。

加えて、在地豪族である北条氏と姻戚関係を結んでいたことも、坂東武士たちにとっては無視できない要素であったと思われます。これは単なる政略的結びつきというだけでなく、「同じ土地に根を張る者同士」という感覚、いわば緩やかな仲間意識のようなものを醸成する方向に働いた可能性も否定できません。

このように見ていくと、坂東武士たちにとって「理屈の上では誰でもよかったかもしれないが、大義名分の面でも、また心情的な面でも、源頼朝が最も適切であった」というのが、私なりの理解です。

そして、ここで特に重要なのが、この「心情的」という要素です。
これこそが、「頼朝でよい」という段階から、「頼朝でなければならない」という意識へと変化していく、その核心部分であったと推測できるのではないでしょうか。

「精神的主従関係」とは

例えば、歴史学者である 細川重男 氏の一般向け著作『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』(朝日新書)では、源頼朝が、ある意味では「あざとい」と言いたくなるほど、きわめて丹念に武士たちの心を掴んでいった様子が、複数の史料をもとに生き生きと描かれています。

たとえば挙兵当初、頼朝が討ち入りに参加する武士を一人ずつ人目のない場所に呼び、「これは誰にも言っていないが、お前だけを頼りにしている」と語りかけて感激させ、奮起を促したといった逸話や、鎌倉においては自身の邸内で御家人たちと頻繁に集い、現代風に言えば飲み会や親睦会のような場を設けていたことなどが紹介されています。

非常に読みやすく、かつ示唆に富んだ一冊ですので、関心のある方にはぜひ手に取っていただきたいところですが、本稿では特定の書籍を宣伝する意図はありませんので、詳細な紹介はここまでにしておきます。

いずれにせよ、このような頼朝と御家人たちとの関係性を、私は「御恩と奉公」といった明確な契約関係だけでは捉えきれないものとして、「精神的主従関係」と呼んでいます。
もちろん、これは学術用語や歴史用語ではなく、あくまで私自身の理解を整理するための便宜的な表現に過ぎません。しかし、この「精神的主従関係」こそが、先に述べた「頼朝でよい」から「頼朝でなければならない」へと意識が変化していく過程を説明する上で、有効な概念であるように思われます。

なお、どなたの言葉であったかは失念してしまったのですが、最初期の鎌倉幕府の本質を「源頼朝とゆかいな仲間たち」と表現した方がいます。これを初めて目にしたとき、私自身も思わず膝を打った記憶がありますが、この表現を自分なりに咀嚼し、言語化したものが、先ほどの「精神的主従関係」という言い方である、とも言えるでしょう。

こうした点を踏まえると、最初期の鎌倉幕府とは、「源頼朝を“神輿”として担ぎ上げた御家人の政権」であると同時に、「御家人たちを“仲間”として束ねた源頼朝の政権」でもあった――そのように捉えることができるのではないでしょうか。

「精神的主従関係」の限界

なお、蛇足を加えるならば、この「源頼朝を“神輿”として担ぎ上げた御家人の政権」という理解こそが、前シリーズにおける主要な論旨でした。

さて、今回の主眼である「御家人たちを“仲間”として束ねた源頼朝の政権」という観点から鎌倉幕府を捉えた場合、この体制が再現も再生産もきわめて困難なものであったことは、容易に想像できるでしょう。

というのも、この「精神的主従関係」が、制度や契約ではなく、源頼朝という個人の人物的魅力に大きく依拠していた以上、それはまさに「余人をもって代え難い」性格を持っていたからです。これは先に述べた「頼朝でなければならない」という意識が、構造的な問題を孕んでいたことを意味します。

そして、この点こそが、頼朝死後の混乱や、その後の鎌倉幕府の方向性を少なからず規定する要因の一つとなりました。

源頼朝が没したのは建久10年(1199年)とされています。この時点で、いわゆる鎌倉幕府の成立からは、まだ7年しか経過していません。
なお、私は鎌倉幕府の成立時期を1192年とする従来説を採っていますが、その理由については前シリーズで述べていますので、詳細はそちらをご参照ください。

仮に近年主流となっている(とされる)1185年説を採ったとしても14年程度、頼朝の鎌倉入りから数えても20年に満たない期間であり、「政権」としては、依然として明確な創業期にあったと言うべき段階です。

ここで改めて前提として確認しておきたいのは、鎌倉幕府が「武士特区」「御家人専用の権力体」に過ぎなかったとしても、大きな枠組みとしては紛れもなく「武家政権」であり、それ自体が当時の人々にとって「これまで誰も作ったことも、見たこともない」存在であった、という点です。

「初の武家政権なのだから当然ではないか」と思われるかもしれませんが、これはすなわち、参照したり手本としたりできる前例が一切存在しなかった、ということでもあります。頼朝自身も、そして御家人たちも、まさに「目隠しをしたまま手探りで歩く」ような状態に置かれていたと言えるでしょう。

したがって、この「精神的主従関係」という要を失ったとき、御家人たちが拠り所としたのは、抽象的な理念や制度ではなく、より切実で現実的な「武士の論理」――すなわち「自己の利権と面子を守り、それを次代へと繋げる」という行動原理ではなかったか、と私は考えています。

人からシステムへ

この「武士の論理」は、源頼朝の死後、比較的早い段階から、「制度化」へと向かっていったものと考えられます。

よく知られているように、頼朝の後を継いだ源頼家は、間もなく将軍としての「聴断」を停止され、有力御家人による合議的な政治運営へと移行していきました。いわゆる「十三人の合議制」が始まったのは建久10年(1199年)とされ、頼朝の死から数カ月後のことです。

幕府の編纂史書である 吾妻鏡 などには、頼家が「暗君」であったことを示唆する逸話が複数記されていますが、こうした記述をそのまま受け取ることには、慎重の上にも慎重であるべきでしょう。

そもそも頼家が親裁を本格的に行った期間は殆ど無く、彼が名君であったのか暗君であったのか、仮に問題があったとしてそれが是正可能であったのか、といった評価を短期間で下すこと自体、相当に無理があります。

ここで、先に述べた「精神的主従関係」という視点から考えるならば、頼家は将軍継承の時点で、父・頼朝が築き上げていたような心情的な結束関係を、ほとんど構築できていなかった可能性が高いと考えられます。

史料、とりわけ後世に編纂された歴史書については、「記されていないから存在しなかった」と即断することはできませんが、少なくとも 吾妻鏡 などを見る限り、頼家を次期棟梁として御家人たちに強く印象づけ、既成事実を積み重ねていくような過程は、あまり明確には描かれていません。

これに対して、たとえば後に初代執権(三代目とする考え方もあります)となる 北条泰時については、元服前の少年期に比較的些細な出来事をきっかけとして、頼朝から称賛を受け、愛用の刀を与えられたという逸話が伝えられています。この点については、出来過ぎた話であり創作の可能性もある、という留意とともに紹介されているものですが、それでも「誰を評価し、誰を将来有望な存在として示すか」という象徴的行為の重要性を示す例ではあります(先述の『頼朝の武士団』より)。

こうした点を踏まえると、頼家は「精神的主従関係」を結ぶための準備期間も、またそれを積み上げていくための時間も、結果的にほとんど与えられなかったと考えることができるでしょう。

しかも当時の鎌倉幕府は、依然として「創業期」にあり、その基盤は不安定で、脆弱な要素を多く抱えていました。御家人たちにとっても、頼家と改めて「精神的主従関係を結び直す」ための余裕は乏しかったと見ることができます。

その結果、御家人たちが拠り所としたのは、先に述べているように抽象的な忠誠や理想ではなく、「自己の利権と面子を守り、次代へと繋げる」という、極めて現実的な「武士の論理」でした。そして、その論理から導かれた一つの帰結が、有力御家人による合議的統治、すなわち「十三人の合議制」であったと考えられるのではないでしょうか。

言い換えれば、この局面は、「頼朝でなくてもよい」政治体制を成立させるために、「人(個人)からシステム(制度)へ」と舵が切られた、一つの重要な転換点(ターニングポイント)であったと位置づけることができるでしょう。

再び「御家人の政権」へ

つまり、この「十三人の合議制」の開始を一つの大きな画期として、鎌倉幕府は、「将軍を“神輿”として担ぎ上げることを前提とした御家人の政権」へと、その性格をより明確にしていったと捉えることができます。

頼家が若くして政治の表舞台から事実上退場するに至った背景には、比企氏と北条氏という外戚同士の権力抗争――いわゆる比企能員の変――があり、その過程に巻き込まれたという側面が大きいでしょう。したがって、頼家個人の人間性や政治的資質については、史料的にも判断材料が乏しく、「未知数であった」と評価するのが比較的妥当であるように思われます。

仮にこの権力抗争が発生せず、合議制という枠組みの中で将軍職を務める時間が与えられていれば、頼家が一定の評価を得る統治者となった可能性を、完全に否定することもできないでしょう。

いずれにせよ、これ以後の鎌倉幕府は、「精神的主従関係」を必須条件としない、言い換えれば、原則として特定の個人の魅力や資質に過度に依存しない、制度的・構造的な運営へと重心を移していったと考えられます。

この傾向は、三代将軍である源実朝の時代以降、幕府滅亡に至るまで基本的に維持されたものであり、時代ごとの差異があるとすれば、それは「創業者である頼朝の権威がどの程度必要とされたか」という点の違いとして捉えると、その後の摂家将軍や、いわゆる宮将軍(皇族将軍)の時代についても、比較的理解しやすくなるのではないでしょうか。

もっとも、ここまでお読みの歴史に詳しい方であれば、「鎌倉幕府が最終的に行き詰まった一因として、得宗専制を挙げるべきではないのか。それはむしろ『システムから人へ』の逆行ではないのか」という疑問を抱かれるかもしれません。

確かに、本シリーズでも触れてきたように、北条時宗は、強い指導力を背景に、得宗家への権力集中を一段と推し進めた人物として位置づけられることが多く、結果として「得宗専制」への流れを加速させた存在であったことは否定できません。また、両統迭立という枠組みを事実上固定化した点でも、鎌倉後期政治における重要人物の一人であったと言えるでしょう。

それでもなお、私自身は、「得宗専制」という現象そのものを、鎌倉幕府衰退の直接原因と見るよりも、その背後にあった制度や構造の疲労、あるいは前提条件の崩れが表面化した結果として捉える方が、より実態に近いのではないかと考えています。

おわりに

以上、鎌倉幕府の「ざっくり総論」の続編として、とりわけ「最初期の幕府」の姿に注目し、その本質をどのように捉えるべきかを見てきました。

ここでは、前シリーズで繰り返し述べてきた「源頼朝を“神輿”として担ぎ上げた御家人の政権」という理解に加え、「御家人たちを“仲間”として束ねた源頼朝の政権」というもう一つの側面を、「精神的主従関係」という独自の言葉を用いて整理しました。

また、細川重男氏の著作を手がかりに、頼朝がきわめて丹念に人心を掌握し、御家人たちとの間に強い仲間意識を醸成していった様子についても、簡単に触れました。

しかし、このような関係性は、結果として「頼朝でなければならない」という代替も再生産も極めて困難な性格を持つものであり、頼朝の死後、その限界を早々に露呈することになります。

頼朝の後を継いだ頼家は、この「精神的主従関係」を十分に構築できておらず、また新たに構築していくための時間も、結果としてほとんど与えられませんでした。
それは御家人たちにとっても同様で、幕府はいまだ「創業期」にあり、「頼家の成長」を待ちながら改めて精神的主従関係を育て直す余裕は乏しかったと考えられます。

その結果、御家人たちは「自己の利権と面子を守り、それを次代へと繋げる」という、きわめて現実的な「武士の論理」に基づいて行動し、その一つの帰結として「十三人の合議制」が始まりました。
教科書的には「頼家の専制を抑制するため」と説明されることも多いですが、頼家に与えられた時間が極めて短かった点を踏まえると、個人の資質や政治手法の問題というよりも、御家人たちが「武士の論理」に従って動いた結果と捉える方が、より腑に落ちるように思われます。

以後の鎌倉幕府は、基本的に「人(個人)からシステム(構造/制度)へ」と重心を移した運営を行い、その姿勢は概ね滅亡に至るまで維持されていきます。

ここで当然の疑問として浮かび上がるのが、「それでは“得宗専制”とは何だったのか」という問いでしょう。私自身はこれについても、「人の制御ミス」というよりは、「構造の歪みや疲労、あるいは破綻」が前面に現れた現象であった可能性が高いのではないかと考えています。

次回は、鎌倉幕府を理解する上で極めて重要な存在である「北条氏とは何だったのか」という、やや難しいテーマに挑んでみたいと思います。基本的には、「時宗に至るまでの構造」と「時宗以後の構造」という二つの視点から概観する予定ですが、詳細については改めて整理していくつもりです。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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