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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第14回――制度と人のあいだで~北条時宗と「非常事態」の政治

本稿では、鎌倉幕府中期の執権 北条時宗 を中心に、守護・地頭・執権といった制度史的整理を踏まえつつ、元寇という「非常事態」に直面した幕府政治の実像を考察します。
「守護=役職」「地頭=利権(権利)」という整理や、執権を北条氏家督に紐づく事実上の家職と捉える視点から、時宗がどのような政治的基盤の上に立っていたのかを概観しました。

そのうえで、元寇対応として行われた非御家人の動員や、評定をショートカットする「寄合」による政治運営を、時宗個人の権力欲ではなく、現代で言う「非常大権」に近い措置として位置づけます。
しかし、この属人的な統治構造は、幕府の処理能力を超える負荷を生み、「人からシステムへ」の再構築を困難にしました。

非常事態に誠実に向き合った時宗の政治は、なぜ結果として幕府の行き詰まりを加速させてしまったのか。
英雄視や単純な独裁批判を避けつつ、「制度と人のあいだ」で揺れ動いた時宗期政治の意味を読み解きます。※約10000字


はじめに

前回は、鎌倉幕府の制度史を概観する一環として「守護」と「地頭」に着目し、
「守護=役職」「地頭=利権(権利)」という整理について考えてみました。

まず「守護」とは、全国(律令国68、あるいは66ヶ国)に一律一斉に設置されたものではなく、朝廷と幕府の力関係などを背景に、段階的に設置されていった存在であることを確認しました。
そして守護の職掌として知られる「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」について、「御成敗式目(貞永式目)」第3条を手がかりに少し掘り下げました。

そこから見えてくるのは、守護の権限が、
殺害人検断や夜討・強盗・山賊・海賊の取締りといった警察権、
および謀反人検断や大番催促といった限定的な軍事権に厳しく限定されていたという点です。
また、規則違反があれば罷免され得る立場であったことも確認しました。

つまり守護とは、「鎌倉幕府の現地実行部隊の責任者」ではあっても、「現地の事実上の支配者」ではなかった、ということになります。

さらに、式目第3条・第4条の規定から、守護という役職には当初から利権化の誘惑が存在していたこと、裏を返せば、守護という地位そのものには恒常的な旨味(利益)が乏しかったと推測できる点を指摘しました。

続いて、「地頭=利権(権利)」という整理をより明確にするため、中世特有の土地支配秩序である「職の体系」を再確認しました。
職の体系とは、一つの荘園において「本家職」「領家職」「下司職」といった権利がミルフィーユ状に重なり合う、重層的な土地支配構造を指す言葉です。

ここで重要なのは、「職(しき)」とは現代的な意味での役職ではなく、相続可能な権利であったという点です。
「地頭」もまた職の一つであり、「地頭職」は代々相続されるものでした。これが「地頭=利権(権利)」という整理の意味するところです。

一方、鎌倉期の守護は通常「守護職(しき)」とは表現されず、この点からも相続の対象ではない役職として理解することができます。
守護は「職(しょく)」であって「職(しき)」ではない、と押さえておくと理解しやすいでしょう。

また、「地頭職」が職の体系のどの層に位置づけられるかについては、基本的には下司職に相当する存在と考えられます。
もっとも、地頭は従来の下司とは異なり、最終的には「幕府(将軍)」のみに従属する存在であった点に特徴があります。

つまり地頭とは、職の体系に属しながら、同時に幕府との主従関係――すなわち封建制という別の体系にも属する、両属的な存在であったと理解できます。

以上の点から、守護と地頭はいずれも方向性は異なるものの、「公領荘園制」や「職の体系」といった既存の秩序を維持するために機能した、鎌倉幕府の現地実行機関であったと捉えることが可能になります。
そして「守護=役職」「地頭=利権(権利)」という整理を通じて、鎌倉幕府が朝廷との分担統治のもと、主として軍事・警察機能を担った限定的な権力体であったことも確認しました。

さて、今回はいよいよ 北条時宗 にメインのスポットを当ててみたいと思います。
いつものように年譜を追うのではなく、「何をしたのか」「なぜそう判断したのか」「その結果、何が起こったのか」という視点を軸に考えていきたいと思います

守護と地頭についての補足

本編に入る前に、「守護」と「地頭」について、もう少しだけ補足しておきたいと思います。

前回、守護について「室町期の守護とは、名称が同じだけの別物である」こと、また罷免の可能性を常に内包した役職であった点を強調しました。
ただし、実際には「ほぼ一貫して、あるいは大部分の期間において、同一の氏族が守護の地位にあった」例も少なからず存在します。近江国守護の佐々木氏や、薩摩国守護の島津氏などがその代表例でしょう。

これはしばしば「事実上の世襲」と表現されますが、注意すべきなのは、世襲と相続は制度的に異なるという点です。
守護の場合、たとえ慣行として同一氏族が地位を引き継いでいたとしても、形式的にはあくまで幕府による任命を経て初めて守護となります。この手続きを欠けば、それは「自称守護」にすぎず、場合によっては討伐対象となり得ました。

これに対して「地頭」に必要とされたのは、基本的に承認です。
ある地頭(御家人)が隠居や死去によって、子ども(女性を含む)が地頭職を含む土地、すなわち利権を相続する場合、将軍による安堵(公式承認)を受けることが原則とされました。
言い換えれば、地頭職の相続とは「御恩と奉公」という主従関係を再契約する手続きであったと捉えることができます。

もっとも、制度上は地頭も万能ではありません。
「御成敗式目」第5条には、年貢を本所に納めない地頭は、要求に従わなければ解任され得る、という規定が置かれています。

年貢を本所に渡さない地頭は、本所の要求があればすぐそれに従うこと。不足分はすぐに補うこと。不足分が多く返しきれない場合は三年のうちに本所に返すこと。これに従わない場合は地頭を解任する

(玉川大学Webページ『現代語訳「御成敗式目」全文』より引用)

この点から見れば、地頭は「職(しき)」であると同時に、「職(しょく)」として解任され得る存在であった、というのが制度上の建前でした。
しかし、土地は「御恩と奉公」という契約の核心にあたるため、実際にはそう簡単に解任できるものではなかったと推測されます。

以上のように、継承に必要な手続きという観点から見ても、
「守護=役職」「地頭=利権(権利)」
という整理が成り立つことが、よりはっきりするのではないでしょうか。

生まれる前から北条氏家督?

歴史学者・細川重男氏の表現を借りるならば、北条時宗は「生まれる前から北条氏家督であった」と捉えることが可能です(『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫)。

過去の記事でも触れたように、時宗の父である北条時頼は、兄の早逝によって急遽家督を継承した人物でした。そのため、時頼の正統性と政治的基盤は、当初から必ずしも盤石とは言えないものでした。

そもそも、時頼の祖父にあたる北条泰時による北条家の家督継承自体が、「一分家による本家の一方的継承」という性格を持っており、正統性の点で弱みを抱えやすい構造にありました。
泰時はこれに対し、「北条家の長老」である北条時房を連署に迎え、さらに幕府にとって最重要国である武蔵守と相模守を時房と分掌することで、義時・時房による兄弟分掌体制を再現し、制度面・象徴面の双方から権威と正統性の補強を図りました。

もちろん、こうした演出が機能した背景には、泰時自身の政治力や為政者としての実績があったことも無視できません。

しかし泰時の次世代において、早くも「弟(庶流)による家督継承」という新たな正統性の揺らぎが生じます。兄の子はいずれも幼少で、後年には出家しており、事実上の断絶と見なすことも可能でしょう。

この結果、有力分家である名越氏と、摂家将軍であった藤原頼経(前将軍)らが結びついた、いわゆる「宮騒動」が発生します。
時頼はこれを武力によって制圧し、最終的に摂家将軍は鎌倉を追われ、将軍職は宮将軍(親王将軍)へと切り替えられます。また名越氏も嫡流が排除され、一時的に勢力を失いました。なお、名越流の一部は、その後「江間」を称したと考えられています。

さらに宝治合戦によって、幕府創設以来の有力御家人であった三浦氏を事実上滅ぼし、北条氏――とりわけ得宗家の幕府内における優位性は決定的なものとなりました。

このように父・時頼は、宮将軍を戴くことで将軍権威の依拠先を「右大将家(源氏)」から「皇族の権威」へと付け替え、有力分家や有力御家人を排除することで、北条家(得宗家)の正統性と権威を塗り固め、権力の実効性を確保していったのです。

その結果として、時宗は――制度的・構造的な意味において――「生まれる前から北条氏家督であった」と捉えることが可能になるのです。

執権って誰が決める?

ところで、今さら感のある話かもしれませんが、皆さんは
「そもそも執権とは誰が任命する役職なのか」
と考えたことはあるでしょうか。少なくとも私は、これを不思議に思いました。

ここから先は、史料や学術論文を精密に渉猟したうえでの結論ではなく、あくまで私なりの整理と考察であることを、あらかじめお断りしておきます。

結論から述べるならば、執権とは制度上の官職というより、北条氏家督に紐づいた、事実上の「家職」と捉えるのが最も理解しやすいのではないか、と私は考えています。

これまで何度か触れてきたように、初代執権とされる北条泰時の北条家継承そのものが、源頼朝あるいは政子による承認、もしくは黙認の上に成立したものと考えられます。
さらに『吾妻鏡』によれば、義時の死後、泰時に対して「軍営(将軍)御後見」が命じられたと記されており、これを執権の始まりと捉えることも可能でしょう。

もしこの理解が許されるならば、執権とは、将軍家家長の判断から発生した役割であり、当初から政所の裁定や御家人たちの合議などによって制度化されたものではなかった、ということになります。

この点で執権制は、私がしばしば「制度外の制度」と評する院政とよく似た性格を持っていた、とも言えるでしょう。
もっとも、院政と決定的に異なるのは、北条氏自身が王家のような生来的な正統性や権威を持たなかった点にあります。

だからこそ北条氏は、これまで見てきたように、さまざまな制度的・象徴的手段によって正統性と権威を演出し、同時に経済的な基盤を懸命に確保し続けてきたのだと理解することができます。

さらに、北条氏がもともと備えていた実務官僚としての知識や技能、そして執権が担った「御家人制に内在するリスクを緩和するための制度的な緩衝装置」としての機能が相まって、執権制は次第に「制度外の制度」として定着していきました。
それこそが、北条氏が幕府中枢に居続けることを可能にした存立基盤だったのではないでしょうか。

このように考えると、「得宗(家長)」と「執権(家督に紐づく家職)」の分離が可能となった理由も、無理なく説明できます。
すなわち、いわゆる「得宗専制」とは、本質的には北条氏内部の権力配置をめぐる問題であり、必ずしも幕府全体を巻き込んだ権力闘争そのものではなかった、と捉えることができるのです。

時頼から時宗へ

父・北条時頼は、自身の息子たちの序列も含め、かなり周到な準備を整えたうえで、時宗に家督を引き継がせようとしていました。
しかし歴史とは、往々にして「そうは問屋が卸さない」ものです。

弘長3年(1263年)、時頼は数え37歳という若さで死去します。時宗は、まだ数え13歳でした。

普通に考えれば、これは極めて危うい状況です。
形式上は執権職を担っていた有力分家――赤橋氏のような存在に、主導権を奪われる可能性が全くなかったとは言い切れません。

ところが実際には、正室の実家である有力御家人の安達氏、北条氏の長老格であり泰時の異母弟にあたる北条政村、さらに有力分家の金沢実時らが時宗を支え、家督継承とその後の権力掌握は、概ね時頼の描いたシナリオ通りに進んでいきます。

特に重要だったのが、宮将軍である宗尊親王を廃し、京都へ送還した点です。
これにより、将軍=「鎌倉殿」の権威を実質的に抑え込むことに成功しました。

宗尊親王の後には、その嫡男である惟康王が、数え3歳で将軍宣下を受け、新たな「鎌倉殿」となります。

宗尊親王が鎌倉を追われた理由については、史料上必ずしも明確ではありません。ただ、成人して将軍としての自覚を持ち、儀礼的行事の人選などに積極的に関与し始めていたことが、北条氏側に警戒されたとする見方もあります。
北条氏の立場からすれば、かつての「宮騒動」の再来を未然に防ぐ措置であった、と捉えることもできるでしょう。

そして文永5年(1268年)、モンゴル皇帝クビライの国書を携えた使者が大宰府に来訪し、その国書は鎌倉へと送られます。
まさにこの時、時宗は「予定通り」に執権に就任し、名実ともに北条氏の家督を継承することになるのです。

時宗は、どのような”執権”だったのか

ここから、北条時宗の人生は、「元寇」への対応が最大にして中心的な政治課題となっていきます。

その過程で発生したのが、異母兄である北条時輔と、名越氏の継承者兄弟が排除された、いわゆる二月騒動です。
この事件については、名越兄弟のうち弟が「反得宗(北条家)」的な動きを見せていたとされ、それが時輔と結びつくことを防ぐため、事実関係のはっきりしない嫌疑に基づいて処断された可能性が高いと考えられています。

父・時頼は、時宗を支える存在として時輔にも充分な権威と地位を与えていましたが、それが結果として警戒の対象となってしまった、皮肉な事件であったとも言えるでしょう。

こうして時宗は、幕府内における強大な権威と権限を、ほぼ一身に集める体制を整えることになります。

では、時宗は「強い執権」として、どのような政治を行ったのでしょうか。
本来、執権とは評定衆の合議を主導する立場であり、現代的に言えば「議長」に近い役割でした。しかし、時宗はこの評定の場には、ほとんど出席していなかったことが、記録などから知られています。

代わって行われるようになったのが、時宗の私邸において、安達氏や北条家の被官、さらに「文士」と呼ばれる実務官僚など、ごく少数で行われる会議――いわゆる「寄合」です。
この寄合で決定された方針が評定衆に伝達される形となり、評定衆は幕府の最高決定機関としての実質的な役割を、徐々に失っていくことになります。

この動きは、先に触れた「将軍権威の低下」とも無関係ではありません。
というのも、評定の場である評定所は、もともと将軍邸内に置かれていました。その評定を迂回する寄合政治の定着は、将軍と北条家の力関係の変化を、象徴的に示すものと読むこともできるでしょう。

もっとも、これらの変化を、時宗個人の権力欲や専横の結果と見るのは適切ではないと、私は考えます。
むしろこれは、「元寇」という国難に対応するために生じた、いわば非常体制への移行と捉えるべきでしょう。

合議制による意思決定は、本質的に「決定が遅くなる」という弱点を抱えています。そのため現代においても、イタリアやドイツ、フランスなどでは、憲法上「緊急事態」が想定され、大統領などが暫定的に強力な権限を行使できる仕組みが設けられています。これは、しばしば「非常大権」と呼ばれるものです。

こうした点を踏まえれば、時宗の「寄合」政治も、評定をショートカットし、トップダウン型の迅速な意思決定によって「元軍侵攻」に備えるための方策であったと考える方が、自然なのではないでしょうか。

時宗が齎したもの

北条時宗が元寇に対して具体的にどのような軍事対応を行ったのか、あるいは御家人たちがいかに勇敢かつ屈強に元の大軍と戦ったのかといった点については、本稿の関心からはやや外れるため、ここでは立ち入りません。
確かに非常にドラマチックな題材ではありますので、機会があれば別稿で触れることにしたいと思います。

ともあれ、時宗が行った最も重要な施策は、防備のための戦力、すなわち兵力を確保する目的で実施された、「本所一円地住人」――言い換えれば非御家人の武士に対する動員でした。
これは、御成敗式目への追加法によって制度化されたものです。

この措置によって鎌倉幕府は、事実上、御家人に限らず広く武士層に対して軍事的動員権を及ぼす政権へと変質していきます。言い換えれば、ここに至って鎌倉幕府は、名実ともに「武家政権」としての性格を強めた、と言うことができるでしょう。

しかし、前回までにも触れてきたように、この「非御家人」の動員こそが、鎌倉幕府後期における深刻なキャパシティ・オーバーの一因ともなりました。
これにより、従来は朝廷の管轄とされてきた訴訟までもが幕府の窓口に集中することになります。

さらに、評定衆が次第に名誉職的な色彩を帯び、引付衆も北条氏内部の一種のキャリアコースとして機能する傾向が強まった結果、幕府諸機関は徐々に制度としての実効性を失っていきました。
そうなると、膨大に押し寄せる訴訟や案件を現実的に処理するためには、合議を省略する「ショートカット」――すなわち得宗専制への依存が、さらに強まらざるを得ません。

このようにして、得宗専制が評定衆や引付衆の形骸化を後押しし、それがまた専制への依存を強めるという、いわば不可逆的な負のスパイラルが、時宗没後の幕府において顕在化していくことになります。

そして最大の問題は、やむを得ない状況であったとはいえ、結果として「制度」よりも「人」に依存する、極めて属人的な統治構造が形成されてしまった点にありました。

その時宗自身は、二度目の侵攻である弘安の役から、わずか3年後の弘安7年(1284年)4月、数え34歳(満32歳)という若さで病没します。

制御不能の奔流

これはあくまで素人の想像に過ぎませんが、北条時宗本人は、この「属人的な統治」状況を、恒常的な体制ではなく、元軍の脅威に対処するための非常大権的な措置として捉えていた可能性もあるのではないか、と私は考えています。
そして、外圧としての脅威が低下すれば、いずれは「平常」の統治体制へとソフトランディングさせる構想を、どこかで思い描いていたとしても不思議ではありません。

確かに、一度作られた「前例」を覆すことは容易ではありません。しかし、時宗であれば、あるいはそれが可能であった余地は、決してゼロではなかったのではないか、と個人的には感じています。

史料などから垣間見える時宗の人物像は、単なる善人という意味ではなく、自らに課した役割を徹底して果たそうとする、きわめて規律的な為政者であったように思われます。
自身の家人(御内人)であっても、必要とあらば「トカゲの尻尾」として切り捨てる非情さ、冷酷さを併せ持っていたことは間違いありません。しかしそれは、感情的な残酷さというよりも、「やるべき時に、やるべきことをやる」という行動原理の一部と捉える方が適切でしょう。

そう考えるならば、幕府内の人事権をほぼ完全に掌握し、場合によっては「王者の沙汰」にすら介入できるほどの強権を有していたにもかかわらず、御家人や北条氏の分家たちが、内心に不満を抱えつつも時宗に従い続けた理由を、「あの人ならば……」という一定の信頼感に求める解釈も、決して荒唐無稽とは言えません。
そしてもしそうであったならば、「平常へのソフトランディング」という困難な課題も、理論上は不可能と断じきれないように思われます。

もっとも、時宗自身がどこまで明確な構想を持っていたのかは分かりません。結果として彼の死後に残された人々は、極めて難しい舵取りを迫られることになります。

時宗の後継者である北条貞時は、執権就任時わずか13歳(数え年)に過ぎず、しかも時頼の時のような入念な事前準備は、事実上存在していませんでした。本人の資質の問題以前に、「時宗の再生産」を待つための時間も余裕も、幕府には残されていなかったのです。

最終的に鎌倉幕府は、「人(時宗)」に依存した統治構造から、「制度(システム)」への再構築に失敗した結果、滅亡への道を突き進むことになった――そう総括することもできるでしょう。
元寇という非常事態に、物理的に対応できる唯一の政治主体が幕府であった以上、非常大権を行使し、真面目に役割を果たしたこと自体は、決して誤りではありませんでした。それが結果として、自らを滅ぼす引き金となったという点にこそ、歴史の持つ皮肉が凝縮されているように思われます。

おわりに

以上、守護と地頭についての簡単な補足に触れたうえで、北条時宗の登場に至る前提と、登場後の政治について概観してきました。

まず守護については、確かに「事実上の世襲」と言える状況にあった国も少なからず存在しましたが、それはあくまで幕府の任命という手続きを必要とする継承であり、相続とは異なるものであったことを確認しました。同様に地頭についても、相続に際しては幕府の承認が必要であり、それが「安堵」などの形で行われていたことを指摘しました。

これらの点から、「守護=役職」「地頭=利権(権利)」という整理が有効であることを、あらためて確認しています。

また、「執権は誰が決めるのか」という問いから、執権とは制度上の官職というよりも、北条氏家督に紐づいた事実上の家職と捉える方が比較的実態に近いのではないか、という考えを述べてきました。
事実上の執権制が成立した泰時期の背景を見ても、それは幕府政所や御家人の合議を経て成立したものではなく、将軍家家長(北条政子)の判断から発生し、「制度外の制度」として定着していったものと理解することができます。

このように考えれば、後年見られる「得宗(家長)」と「執権(家督)」という権力と権威の分離も、無理なく説明できることを指摘しました。

さらに、歴史学者・細川重男氏の言葉を借りて、時宗が「生まれる前から北条氏家督であった」存在であったことを概観しました。
父・北条時頼は、「弟(庶流)」による家督継承という正統性の新たな揺らぎを、武力によって抑え込み、摂家将軍を廃して宮将軍を戴くことで将軍権威の依拠先を切り替えました。さらに有力分家や有力御家人を排除することで、北条家(得宗家)の権力の実効性と、権威・正統性を確保していったのです。

時頼が若くして亡くなるという想定外はあったものの、正室の実家である安達氏や有力分家の長老たちの支えによって、時宗は概ね予定通り執権の地位に就くことになります。

そこに発生した「非常事態」が元寇でした。
時宗は、庶兄である時輔や名越氏の継承者を、陰謀性の高い嫌疑に基づいて排除し、強大な権限と権威を一身に集めて「国難」に臨みます。そして実施されたのが、「本所一円地住人」、いわゆる非御家人に対する動員でした。これによって鎌倉幕府は、御家人に限らず、広く全国の武士に影響を及ぼすことのできる、本格的な「武家政権」へと変質していったことを述べました。

しかしこの変化は、本来は朝廷の管轄であった訴訟までも幕府に集中させ、処理能力の限界を超えるオーバーフローを招く一因ともなります。
また、評定衆をショートカットする「寄合」の制度にも触れましたが、これは時宗個人の権力欲というより、現代で言う「非常大権」に近い措置であったと捉えることができます。

とはいえ、この寄合政治は、評定衆や引付衆の名誉職化・キャリアパス化を後押しし、それが得宗制(寄合)への依存を高めるという、いわば負のスパイラルを生み出しました。

そして不幸にも、時宗自身も若くしてこの世を去ります。
結果として、時宗個人の人望や信頼といった属人性に大きく依拠していた巨大な権力構造は、制御の難しいものとなり、「人からシステムへ」の再構築に失敗した幕府は、滅亡への道を突き進むことになった――そのように総括することもできるでしょう。

さて、次回についてはまだ詳細は未定ですが、もう少し時宗期、あるいは時宗没後の状況について、補足的に概観してみたいと考えています。
教科書にも必ず登場する「御内人」とは一体何者なのか、御家人とはどう異なる存在なのか――そうした点を掘り下げるかもしれませんし、あるいは全く別の話題になるかもしれません。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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