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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第17回――両統迭立の意味を問い直す~なぜ問題は回収不能になったのか

鎌倉幕府末期の皇位継承を語る際、避けて通れないのが「両統迭立」という制度です。
本稿では、この両統迭立について、「誰が悪かったのか」を問うのではなく、「なぜ問題は回収不能になってしまったのか」という視点から、その意味を改めて考察します。

北条時宗による「御二流れ」方針は、合理性だけを見れば疑問も残るものの、「予備の継承ライン」を確保するという点では一定の合理性も持っていました。しかし結果として、持明院統と大覚寺統は、ともに権威・経済力・政治力を備えた「実体を持つ政権」となり、問題は極めて解決困難なものへと変質していきます。

さらに本稿では、「皇位継承をめぐる争いの主体は多くの場合王家(朝廷)であり、幕府(武士)は基本的に消極的関与にとどまっていた」という、いわば「幕府巻き込まれ説」とも言える視点を提示し、朝廷・幕府双方の立場と制約を整理します。
弱すぎても困る、強すぎても困る――そんな微妙な均衡の中で、朝幕関係はいかに維持されていたのかを見ていきます。

また、院議定制をめぐる統治スタイルの違いから、大覚寺統の「親政重視」と持明院統の「合議・手続重視」という政治的傾向を整理し、両者の幕府との距離感の差を明らかにします。伏見天皇期の雑訴議定や記録所庭中の整備を通じて、持明院統もまた「置物政権」ではなかった点にも触れています。

結論として、本稿は「王家も、朝廷も、幕府も、誰一人としてこの問題を回収できなかった」という構造的理解に立ち、後の後醍醐天皇登場の前提条件を浮かび上がらせます。
次回は、その結節点として「後宇多天皇」に焦点を当て、両統迭立がどのように後醍醐へと繋がっていったのかを探っていく予定です。
※約1200字


はじめに

前回は、鎌倉幕府史の補足として、「4人目の源氏将軍」という視点から簡単に述べました。

無理やり現代風に表現するならば、鎌倉幕府の「創業家」である源氏(頼朝家)が、事実上2代3人で断絶したことはよく知られている通りです。本シリーズで言う「4人目」とは、教科書などでは「惟康(これやす)親王」として知られる「源惟康」その人を指します。

惟康は、第6代将軍にして「宮将軍」の初代である宗尊(むねたか)親王の嫡男とされ、父・宗尊が文永3年(1266年)、何らかの政治的事情により将軍職を解任され鎌倉を去った後、わずか3歳で将軍宣下を受け、第7代の「鎌倉殿」となりました。

この時点では親王宣下を受けておらず「惟康王」でしたが、文永7年(1270年)に臣籍降下し、源姓を下賜されて「源惟康」となります。これが、本シリーズでいう「4人目の源氏将軍」です。

惟康は後嵯峨天皇(上皇)の孫にあたるため、敢えて系譜的に言えば「後嵯峨源氏」と位置づけることも可能ですが、この系統が「家」として存続・継承されなかったため、通常そのように呼ばれることはありません。

ここにおいて鎌倉幕府は、頼朝以来の「源氏将軍と執権(北条氏家督)」という、半ば神格(伝説)化された創業時の体制を再現することになります。これは決して偶然ではなく、北条時宗の明確な意思と目的によるものでした。

時宗は、「源氏将軍(頼朝)とそれを補佐する執権(義時)」という、御家人にとっての原体験とも言うべき体制を再演出することで、自身すなわち執権の権威と正統性を高めようとしたと考えられます。それは時宗一身への権力集中の一環でもありましたが、同時に「元寇」という未曽有の国難に対し、「挙国一致」体制で臨むという、やむを得ない事情があったことも確認しました。

これは同時に、北条氏、特に得宗家の権力の「限界」をも示すものでした。得宗家がいかに強大な実権を振るい、権勢を誇ったとしても、それはあくまで「将軍権力の代行者」としてのものであり、その最大の権力源泉である「将軍」の存在なしには成立し得ないものであったのです。

そのため時宗は、実権を持たず、ほとんど「そこに居るだけ」に等しい源惟康を厚く礼遇し、新御所落成の祝賀において自ら率先して庭に下り、諸御家人がそれに倣って地下に列するという、「君臣の礼」を演出してみせました。

この「権力の源泉(根拠)」の構造は、そもそもの鎌倉幕府自体が「朝廷(王家)→幕府」という関係にあり、そこからさらに「将軍→北条氏(得宗家)」「得宗家→御内人」という多層構造として整理することができます。

この構造からも明らかなように、幕府も北条氏も御内人も、自らの「権力の源泉」を超越することは理論上不可能であり、むしろ「上位者の権威を高める」ことこそが、自身の権威と権力の増幅に直結していました。

そこに「自身の利権(権利)と面子(面目)を守り、それを子孫に繋げる」という武士特有の論理(本シリーズで度々使う武士の論理です)が加わった結果が、鎌倉幕府史の表層に現れた現象であり、だからこそ本シリーズで繰り返し述べてきたように、鎌倉幕府は「全国的な統一政権」ではなく、「朝廷の軍事・警察権を代行する限定的政権体」であったと理解することが可能となります。

日本中世におけるこのような「天皇を頂点とする諸権力による分担統治」の体制は、学術的には「権門体制(けんもんたいせい)論」と呼ばれ、現在では最も有力な理解とされています。

学説史の詳細に立ち入ることは本旨ではないため割愛しますが、鎌倉幕府を「朝廷を超越した全国統一政権」とみなす理解は、現在では有力視されなくなりつつあると言えるでしょう。

また前回は、「両統迭立」の状況に立ち返り、有力な王家領である八条院領が幕府の裁定を経て亀山院に相続された点に触れました。これにより亀山皇統は確かな経済的基盤を得て、「大覚寺統」という政治勢力として実体を持つに至ったと考えられます。

ここに王家は、「皇統」と「経済力」が分割相伝されるという事態を迎え、実態を伴った持明院統と大覚寺統が、皇位と治天の君を巡って争うという、極めてセンシティブな問題が現実化します。

この問題の発生源とも言える北条時宗は、その真意は定かではないものの、結果としてこれを回収しないまま若くして世を去りました。

結論から述べれば、この問題は王家自身も、それを支える貴族社会も、そして本来は部外者であった幕府も、いずれも回収に失敗したまま、「両統迭立」という制度だけが半ば惰性的に続くことになります。

むしろ幕府は、自らが撒いてしまった種から育った大木に圧し潰されるかのように滅亡へと向かっていきます。その大木こそが、後醍醐天皇その人でした。

そこで今回は、後醍醐天皇がいかにしてその「大木」となっていったのかについて、簡単に眺めてみたいと思います。そのため、またもや時間を遡ることになりますが、ご寛恕の上、お付き合いください。

両統迭立に理はありや?

さて、私は第二夜シリーズの第5回において、「幕府にとって両統迭立そのものに、積極的なメリットがあったとは言いがたいのではないか」という疑問を提示しました。その上で、北条時宗の「御二流れにて、位にもおはしまさなむ(両統で交互に皇位につけばよいでしょう)」という判断には、合理性や高度に政治的な計算だけでなく、「親切心」「義侠心」、そして一定の「自信」といった感情的要素も、無視できない程度に含まれていたのではないか、という考えを述べました。

ここで言う「自信」とは、時宗が「御二流れ」という状況を、自らの政治的手腕によって適切にコントロールし、最終的には何らかの形で収束へ導けるという構想、あるいは期待を抱いていた可能性を想像したものです。もっとも、これは史料に明示されているものでも、仄めかされているものでもありません。

この時宗の「構想」が具体的にどのようなものであったのかは不明ですが、「皇統を複数保持する」こと自体は、必ずしも誤った発想とは言い切れません。

幕府(北条氏)存立の最大の危機であった承久の乱を辛くも制し、後鳥羽皇統を排除するために政治的事情から成立した後高倉皇統が、わずか3代・20年前後で断絶したこと、そして承久の乱において「反幕府(北条氏)」の最右翼と見なされていた順徳皇統が、再び浮上しかけたことを考えれば、同じ後鳥羽皇統であっても、幕府にとって相対的に扱いやすい土御門皇統を安定的に保護・保持することは、幕府の存立基盤を守る上でも重要であったと考えることができます。

冒頭でも述べたように、幕府の権力の源泉(根拠)は朝廷(王家)にあります。そうである以上、言葉のイメージは良くありませんが、「予備の継承ライン」を確保するという意味で「御二流れ」を形成することは、リスク管理の視点から見ても、必ずしも荒唐無稽とは言い切れないでしょう。

後世の「御三家」や「御三卿」、あるいは皇室における「宮家」も、その根本的発想は「予備の継承ライン」の確保にあります。この点から考えれば、「御二流れ」も同様の発想として理解することは可能です。

問題であったのは、「両統」が経済力を含む「実体」を、ほぼ同程度に持ってしまったことでした。これが、両統迭立という問題を「回収困難」なものにした大きな要因の一つであったと捉えることができます。

以前触れた、後嵯峨上皇(院)の権威・権力を支えた「三つの担保」を思い出して頂きたいのですが、その一つが「権力者が真面目に統治を行っていた」こと、すなわち政治力でした。

両統迭立期においては、持明院統も大覚寺統も、それぞれが「治天の君」として真面目に統治を行っており、この結果、後嵯峨朝と同様に、朝廷は引き続き「実体を持った政権(権力)」であり続けました。

そしてこれは、少なくとも当初においては、幕府の存立基盤(根拠)の安定にも資する状況であったと考えることができるのです。

後嵯峨を支えた「院議定制」のその後

拙シリーズの第6回および第7回において、後嵯峨上皇(院)の権力・権威を支えた「政治力」の源泉として、「院議定制」について概観しました。

この制度の成立過程や具体的な式次第については紙幅の都合上ここでは割愛しますが、過去記事をご参照頂ければ、本稿の理解もより立体的なものになるかと思います。

本稿で指摘したいのは、「院議定制」の経緯や制度設計そのものではなく、「後嵯峨期の院議定制」の運用の在り方のその後についてです。すなわち、「治天の君による勅裁(直裁)」という側面を、亀山皇統(大覚寺統)がより強く継承したのに対し、「合議制という制度」を、後深草皇統(持明院統)がより重視して継承したと考えられる点です。

後嵯峨崩御後の継承争いの結果、幕府の裁定も受けて「治天の君」を継承したのは亀山天皇でした。「院議定制」の仕組みは、ほぼそのまま亀山親政に引き継がれ、世仁親王(後宇多天皇)への譲位後は、自らの院政において「院議定(院評定)」が行われます。

亀山院はこの体制のもとで積極的な政治活動を展開し、院評定を「徳政評定」と「雑訴評定」に分けるなどの制度改革も行いました。これらの改革は一定以上の成果を挙げ、貴族社会からは「厳密之沙汰」「徳政興行」などと、その善政が評価されるようになります。

なお、ここでいう「徳政」とは、後代の徳政令とは無関係であり、本来的な意味での「徳のある政治」、すなわち徳に基づく政治を指すものです。

ここに前回触れた「八条院領の相続」を重ねて考えると、本シリーズで整理してきた「後嵯峨朝を支えた三つの担保」のうち、「経済力」と「政治力」の二つを、亀山上皇(院)は確保していたと捉えることができます。

一方で、亀山に欠けていたのが、三つ目の担保である「幕府との協調」、すなわち関東申次を介した安定的なパイプでした。これまでに何度か触れてきたように、亀山は関東申次である西園寺実兼と不仲であったとされ、この点において後深草皇統(持明院統)に対して不利な立場にあったと言えます。

また、積極的な政治活動によって形成された強い権力・権威は、後鳥羽上皇を想起させる「強すぎる治天の君」として、幕府(武士)側の警戒を招く要因ともなり得ました。ここに「関東申次との関係性の薄さ」が重なれば、幕府にとって亀山院は「制御が困難な、あるいは制御不能となりかねない治天の君」としてリスク視される可能性も充分に考えられるでしょう。

さらに、後に霜月騒動で滅亡する安達氏とも親しかったとされる点なども相まって、幕府からの圧力が強まり、結果として後宇多天皇から、持明院統である熙仁親王(伏見天皇)への譲位と、後深草院への「治天の君」の移譲が行われることになります。

その後、伏見天皇の皇子である胤仁親王が立太子され、後深草皇統(持明院統)による「天皇」「治天の君」「鎌倉殿」の独占体制が成立し、亀山皇統(大覚寺統)は、しばらくの間「不遇の時」を過ごすことになるのです。

幕府に動機はありや?

勿論、前段で述べた亀山院の「強すぎる治天の君」に対する警戒から、幕府(北条氏)が自発的・積極的に朝廷(王家)へ圧力を加えた、という単純な構図で捉えるべきではありません。そこには、持明院統からの強い要請が先行していた可能性を、充分に意識する必要があると考えます。

実は大覚寺統、もう少し範囲を狭めて言えば亀山皇統には、関東申次とのパイプの弱さ以上に、後深草皇統(持明院統)に対して不利となり得る、構造的な弱点が存在していました。

それは、亀山が後深草の「弟」であり、系統的には嫡流ではない立場、いわば「庶流的な位置」にあったという点です。これは、北条氏(得宗家)が抱えていた弱点とよく似た構造を持っています。

北条氏の場合、泰時期の「一分家(江間家)による本家の一方的継承」や、時頼期の「嫡流ではない系統(弟)による家督継承」という、いわば「正統性の瑕疵」を抱えた結果、それが有力分家である名越氏(家)との対立・衝突という不安定要因として表出しました。

亀山の場合、北条氏のように明確な有力分家が多数存在したわけではありませんが、後深草皇統(持明院統)からは常に、「嫡流である自分たちこそが正統であり、嫡流ではない大覚寺統が皇位に居座るのはおかしいのではないか」という主張を突きつけられ続ける立場に置かれていました。

つまり、以前の記事でも触れたように、この亀山皇統の流れを汲む後醍醐にとっては、自身が亀山皇統の「非嫡流的立場」にあることに加え、皇統そのものが「非嫡流的立場」に置かれていたという、「正統性に関わる二重の弱点」を抱える存在であった点は、ある程度留意しておく必要があるでしょう。

では、同様に「正統性の瑕疵」を抱えていた北条時頼は、これにどう対処したのでしょうか。既に述べた通り、時頼は最終的に「力によってねじ伏せる」ことで、この問題を乗り越えました。

後醍醐もまた、結果として同様に「力でねじ伏せる」道を選ぼうとしましたが、これは後醍醐個人の浅慮や短気といった性格の問題だけで説明できるものではなく、そもそも構造的に選択肢が極めて限られていた、と捉えることも可能ではないでしょうか。

後醍醐という”芽”

多少先走って後醍醐の事情の一端に触れてしまいましたが、ここで一つ、重要な前提理解を述べておきたいと思います。

本シリーズでは「両統迭立」を考えるにあたり、皇位継承争いの主体となったのは多くの場合王家(朝廷)であり、幕府(武士)は基本的に消極的関与にとどまっていた、いわば便宜的に「幕府巻き込まれ説」とでも呼べるような理解を採っています。

これは現在の主流学説というわけではなく、あくまで私個人の整理と理解によるものですが、この前提と視点の上に、前シリーズを含めて全体の論理を構築しています。

承久の乱後の戦後処理として行われた皇位継承への強力な干渉や、順徳皇統への強い拒否は、いずれも「幕府の存立」そのものを賭けた非常事態への対応でした。また、北条時宗の皇統問題への介入も、元寇という未曽有の国難に「挙国一致」で対応するための一環と捉えるならば、これもまた非常事態への対処と理解することができます。

このように考えるならば、幕府が王者の沙汰に積極的・主体的に介入するのは、基本的に「非常事態」に限られていたと整理することが可能でしょう。

その意味で、時宗が残した「御二流れ」という方針は、「どちらかの皇統を断絶させてはならない」という制約として、むしろ後代の幕府にとって大きな「呪縛」となったとも言えます。実際、足利義満が南朝を単純に討伐するのではなく、「合併吸収」という形に拘った背景には、この「皇統断絶不可」の方針が生きていたためである、という見解を、南朝研究の第一人者である森茂暁氏は、一般向け著作『南朝全史』(講談社文庫)において指摘しています。

森氏は同書において、「このままでは我が皇統が断絶してしまう」と訴えられれば、幕府としても動かざるを得なかった、という趣旨の理解を示していますが、この点からも、幕府としては本音の部分では「できれば不干渉でいたい」と考えていた可能性を推測する根拠とすることができます。

逆に言えば、実体を伴った政権であるならば、持明院統であっても大覚寺統であっても、幕府にとっては「どちらでもよい」とも言え、さらに幕府(あるいは得宗家や御内人)にとって都合が良く、御しやすい存在であれば、なお望ましかったとも考えられます。

先に述べた「亀山皇統の主流外し」についても、「幕府にとって都合が良さそうな持明院統からの要請」に対し、渡りに船とばかりに幕府がこれに乗った、と理解すれば、本シリーズにおけるこれまでの論理とも矛盾は生じません。

当然ながら、両統ともにそのような幕府側の事情を見極めつつ、積極的なロビー活動を展開していたと考える方が自然であり、この点からも、鎌倉期の朝幕関係は、単純な対立や相克ではなく、複雑な利害関係の上に、協調と葛藤を繰り返していた関係として理解するのが適切でしょう。

持ちつ持たれつ?

前回、惟康の「惟康王」から「源惟康」、そして再び「惟康親王」へと至る、異例かつ異色の経歴について触れました。その際、「親王であると名目上は言え、皇位継承権が発生してしまうことを避けるため、源氏賜姓(臣籍降下)が行われたのではないか」という、王家(朝廷)側の都合を重視する見方があることを紹介しました(曽我部愛氏『中世王家の政治と構造』)。

この点についても、先程の「朝幕の複雑な利害関係に基づく協調」の一環として捉えることができるでしょう。

さて、先述のように様々な事情から一時は不遇の時期を過ごした大覚寺統(亀山皇統)ですが、程なくして巻き返しに成功し、皇位と治天の君の座を持明院統から奪還することになります。

この際、大覚寺統が持ち出したとされるのが、「後嵯峨上皇の遺詔」です。すなわち、「後嵯峨院の本意はあくまで亀山皇統による継承にあり、持明院統(後深草皇統)が二代続けて即位(登極)することは、その遺詔に背く不義・不忠である」という主張が展開された、という理解です。

しかし実際には、伏見天皇の次にはすでに立太子されていた胤仁親王(後伏見天皇)が即位し、譲位した伏見上皇による院政が開始されます。大覚寺統は後伏見の春宮(とうぐう/皇太子)に後宇多の第一皇子である「邦治(くにはる)親王(後の後二条天皇)」を立てる事に成功し、何とか皇統を繋ぐことが出来ました。

ここで改めて、「院議定制」の運営について振り返ってみましょう。先に述べたように、「治天の君の親裁」を重視した大覚寺統に対し、持明院統は「合議制という制度」をより重視する傾向があったと考えられます。

記録類によれば、亀山院政期に創設されたとされる「徳政評定」や「雑訴評定」、さらに雑訴評定の下部機関である「文殿庭中」といった制度が、持明院統にそのまま継承された事実は確認できません。大覚寺統期には雑訴評定で扱われていた案件が、持明院統期には徳政評定で処理されていたことも、『勘仲記』(公卿・広橋兼仲の日記)などから確認されています。

これは、院議定制(院評定)の在り方が、亀山院政期から後嵯峨院政期の形へと「巻き戻されていた」ことを意味すると同時に、治天の君による親裁についても、大覚寺統期より抑制的・制限的であったことを示唆しています。こうした点から、持明院統が「訴訟を含む行政文書の正確性」や「手続きの適正性・正当性」を重んじていたと評価される所以も理解できるでしょう。

この姿勢は、北条時宗の干渉によって皇統の継続が可能となった経緯とも相まって、持明院統の方がより「幕府との協調」を重視していたことの現れとも言えます。すなわち、長講堂領を基盤とする「経済力」、院議定制(院評定)に基づく「政治力」、そして幕府、すなわち「鎌倉殿」との連携・協調という、後嵯峨院が有していた「三つの担保」を、事実上すべて備えることになったとも表現できるのです。

この状況は、「天皇」「治天の君」「鎌倉殿」を事実上独占するという、持明院統にとっての一種の「春」であったとも言えるでしょう。

ただし、冒頭部を始めここまでで縷々述べているように、これは持明院統の治世下において、院を含む朝廷が形骸化したことを意味するものではありません。大覚寺統とは方向性をやや異にしつつも、持明院統もまた「実体を持った政権」であったことに変わりはなかったのです。

その表れの一つが、大覚寺統から譲位を受けた伏見天皇が行ったとされる諸改革でした。

後醍醐の”根”

実は、後深草院は当時の慣習には従わず、治天の君として本格的な院政を行うことを辞退したとされます。その理由は明確ではありませんが、結果として「伏見天皇による親政」が行われたと理解されています。つまり、伏見天皇が「名実ともに」治天の君となったということです。なお、「治天の君」という言葉は語義上は、天皇そのものを指す言葉でもありました。

この伏見天皇の親政は、当時二年にわたって続いた天変地異を受けて行われた「徳政」の一環であったとされます。亀山院政期の「雑訴評定」を継承する形で「雑訴議定」が設けられ、議定衆は「三番(三交代制)」に編成されました。

この雑訴議定の特徴は、「頭人(とうにん/責任者)」に関白などの上級公卿が参加している点にあります。これは、「雑訴」、すなわち多くは土地の権利関係に関する訴訟が、国政上の最重要課題として位置づけられていたことを意味します。

過去の記事でも触れたように、当時の朝廷・幕府双方にとって最大の政治課題は、土地の権利関係をめぐる利害調整でした。その意味で、大覚寺統から持明院統へ皇統が移行しても、「雑訴(所務)沙汰」を朝廷と幕府が分担して対処するという基本構図に大きな変化はなかったと捉えることができます。

もう一つ、伏見天皇が行ったとされる改革が、「記録所」に「庭中(ていちゅう)」を開いたことです。以前の記事で述べたように、「庭中」とは現代で言えば裁判所、江戸時代で言えば「お白州」に近い機能を持つ場でした。

では、この場合の「記録所」とは何かと言えば、これは「記録荘園券契所」の名称を復活させたものと考えられています。後三条天皇期の荘園整理令とセットで知られるこの機関は、不正荘園の調査や書類不備の荘園の没収を担ったとされますが、後三条天皇崩御後に消滅し、その後は何度かの復活と消滅を経て院政機構(院庁)の中に吸収されていったと考えられています。

伏見天皇が設置した「記録所」は、この後三条期の制度との直接的な連続性はほとんどなく、主に雑訴(所務)沙汰を専門に扱う部署として整備されたものと理解されます。制度的には、亀山院政期の「文殿庭中」と非常によく似た性格を持ち、中・下級の実務官僚が訴人と論人を召喚し、「対決問注(もんちゅう/口頭尋問)」を行い、その結果を上位の議定に上申する仕組みでした。

以上の点から、持明院統の伏見天皇、さらに譲位後の伏見上皇もまた、治天の君として真面目に統治を行い、一定の成果を挙げていたと評価することができます。大覚寺統との違いは、「治天の君の親裁」をどの程度重視するかという、いわば統治姿勢の「温度差」に過ぎないとも言えるでしょう。

ただし、全体的な傾向として、幕府との協調を前提とする政治スタイルが持明院統に強く見られた一方で、大覚寺統は相対的に幕府からの独立・自立志向が強かったことも事実です。

したがって、後の後醍醐天皇が親政に強くこだわり、倒幕、すなわち「王権の自立・独立」を希求したことも、これまで見てきた「亀山皇統(大覚寺統)の政治スタイルと傾向」の延長線上に位置づけて理解することができるのです。

おわりに

以上、今回は主に「両統迭立」の意義について、素人なりに再考察してみました。冒頭で「後醍醐天皇がいかにしてその「大木」となっていったのかについて、簡単に眺めてみたいと思います」などと言いながら、大木どころか後醍醐は未だ”芽”であり”根”の一端に触れただけで終わってしまいました。

以前の記事で触れたように、北条時宗の「御二流れにて、位にもおはしまさなむ」という方針、すなわち「両統迭立」については、合理性という観点から見ればやや疑問も残るものの、「予備の継承ライン」を確保するという視点からは「一理ある」と考えられることを述べました。

これは、後代の江戸幕府における「御三家」「御三卿」や、王家における「宮家」といった制度と、ある程度似たものとしてイメージすることができます。

しかし、この「両統」は結果として、共に同程度の「権威」「経済力」「権力」を有する「実体を持った政権」となってしまい、これが問題を極めて「回収困難」なものにした一因であることも確認しました。

とはいえ、「権力の最大級の源泉(根拠)」を朝廷に依拠する鎌倉幕府にとって、朝廷(王家)の安定はそのまま幕府の権力の安定にも直結します。「弱すぎる治天の君では困るが、強すぎても困る」という、痛しかゆしの微妙なバランスの中で、朝幕関係を制御する必要があったのです。

また、本シリーズでは「両統迭立」を理解する上での重要な前提として、「皇位継承を巡る争いの主体となったのは多くの場合王家(朝廷)であり、幕府(武士)は基本的に消極的関与にとどまっていた」という理解、便宜的に言えば「幕府巻き込まれ説」とも呼べる立場を取っていることを改めて確認しました。

幕府(武士)が主体的・積極的に「王者の沙汰」に介入するのは、「幕府自身の存立に関わる非常事態」に限られており、通常は王家・朝廷に関する事柄については「不介入」が原則、あるいは少なくとも本音であったと考えられます。

以前の記事で触れた、北条時頼の執権期に紀伊国で発生した高野山と粉河寺の「境相論」について、時頼が「相論に付随して発生した狼藉」は幕府が裁くとしつつ、境相論そのものについては「聖断たるべし」、すなわち「朝廷で裁くべし(当方の管轄外)」とした判断も、「王者の沙汰を含む朝廷(王家)の事は朝廷(王家)で」という幕府の一貫した姿勢の一例と見ることができるでしょう。

さらに、後の後醍醐天皇が抱えた「系譜上における大覚寺統の正統性の弱点」について触れ、同様の弱点を抱えていた北条氏(得宗家)の北条時頼が、最終的には「力でねじ伏せた」ことを引き合いに出しました。後醍醐もまた、この構造的な弱点ゆえに「とれる選択肢は多くはなかった」のではないか、という視点を提示しました。

また、後嵯峨院の権威・権力を支えた「院議定制」に着目し、亀山皇統(大覚寺統)がその「直裁(勅裁)」重視の側面をより強く継承したのに対し、後深草院皇統(持明院統)は「合議制という制度」をより重視する傾向を示したと考えられることを指摘しました。

こうした傾向が、大覚寺統の「親政重視」、持明院統の「手続き・正当性重視」という政治スタイルの違い、さらには「幕府からの自立・独立」と「幕府との強い協調」という、幕府との距離感の差として収斂していった様子を概観しました。

もっとも、それによって持明院統が「幕府を頼りにするだけの置物政権」であったと評価できるわけではありません。持明院統においても、大覚寺統と同様に「真面目に統治を行っていた」ことの一例として、伏見天皇期における「雑訴議定」や「記録所庭中」の設置・整備についても簡単に触れました。

このように、持明院統もまた「実体を持った政権」を、やや温度高めの朝幕協調のもとで維持していたと言えるでしょう。一方で、大覚寺統は持明院統に比して「幕府からの自立・独立」を志向する傾向が強かったと述べてきましたが、それでもなお大覚寺統もまた、鎌倉幕府を頼り、時に大いに「利用」していたことは否定できません。

次回は、その代表例として「後宇多天皇(上皇)」に着目し、どのように幕府を利用し、それがどのように「後醍醐」へと繋がって「しまった」のかを概観してみたいと思います。

主なテーマは「大覚寺統内の皇統分裂」、「後宇多治世と皇統継承構想」、そして余力があれば「それらが後醍醐のちゃぶ台返しにどのように繋がるのか」となる予定ですが、もしかすると全く別の話題になるかもしれません。

鎌倉幕府と両統迭立について、いよいよ後半戦に入りつつあります。相変わらず回りくどい論の進め方ではありますが、引き続きお付き合い頂ければ幸いです。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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