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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第25回――カリスマが招いた分裂:足利尊氏という人物

建武政権の崩壊と南北朝時代の始まりを語るとき、足利尊氏はしばしば「野心家」や「裏切り者」といったイメージで語られることがあります。
しかし実際の史料や研究を踏まえてみると、尊氏の人物像は必ずしもそのような単純なものではありません。

本稿では、尊氏個人の「野心」ではなく、むしろその人物的魅力(カリスマ)に着目しながら、なぜ武士たちが彼を担ぎ上げ、結果として後醍醐天皇との対立が避けられないものとなったのかを概観します。

尊氏は、気前が良く功績を即座に認める「親分気質」の人物として武士たちの強い支持を集めました。
このカリスマ性こそが、建武政権に失望していた武士層の支持を急速に集め、尊氏を中心とする新たな政権形成の動きを生み出していきます。

しかし、その属人的な求心力は同時に別の問題も抱えていました。
尊氏のもとには多くの武士が集まる一方で、政権運営は強い属人性に依存する構造となり、それが後の観応の擾乱をはじめとする内部対立の要因にもつながっていきます。

結果として、足利尊氏というカリスマは武士政権を誕生させる原動力となると同時に、南北朝時代の長期化と室町幕府の政治構造にも大きな影響を与えることになりました。

本稿ではこうした視点から、尊氏の人物像と武士社会の関係を整理しながら、南北朝時代の出発点を改めて考えてみたいと思います。
※約14000字


はじめに

前回は、「足利尊氏の事情」の続きとして、「なぜ尊氏は後醍醐天皇と袂を分かつことになったのか」という点について、当時の「京の価値」に着目しながら尊氏の「功績」について概観しました。

まず重要な点として、「京の都」とその周辺は「公領荘園制」における「職の体系」の最終権利主体である「本家職」を持つ王家や有力貴族、有力寺社(これらを総称して「本所」とも呼びます)が集住する一大「富の集積地」であったという事実があります。
さらに貨幣経済の浸透とも相まって、京は比較的早い段階から「都市型経済」が発達する先進的な経済地域となっていました。

原則として、「ヒトとモノの集積地には商機が生まれる」という傾向があります。また、当時の米は単なる食料ではなく、それ自体が経済的価値を持つ財として流通しており、いわゆる「商品貨幣」としての側面も持っていました。
そのため、実際に流通している貨幣量以上の経済的価値が京には集中していたと考えることができます。

こうして、各地から年貢などの形で集められた「富(財)」が京に集まり、その余剰が循環することで、「富から更なる富を生み出す」経済活動も発達していきます。
例えば、いわゆる「土倉」や「酒屋」と呼ばれる商人たちによる貸付など、後に「金融」とも呼ばれる経済活動が京では活発に行われるようになりました。

このような経済的集積と余剰の循環によって、京では次第に「二次産業」や「三次産業」を主体とする経済構造が形成されていきます。これが先に述べた「都市型経済」です。
必ずしも「貨幣経済」が中心だから都市型経済であるというわけではなく、そこには「富(財)の循環」と、「富(財)が更なる富(財)を生み出す構造」がどの程度発達しているかという点も重要になります。

既に述べたように、当時の米が「商品貨幣」として経済的価値を持っていた以上、京には実際の貨幣流通量を上回る経済的価値の集積が存在していたと考えることも可能でしょう。そして、その集積と余剰が、土倉や酒屋による貸付などを含む都市型の経済活動を発展させたと見ることができます。

この「都市型経済」が生み出す富の余剰は極めて大きく、政権の財源としても重要な位置を占めることになります。
京市中の土倉や酒屋といった金融業者への課税は、後宇多院政期に本格化したとされますが、後宇多院の政策を踏襲した後醍醐天皇(建武政権)においても、これらは重要な財源の一つであり続けました。
そして建武政権の制度の多くを引き継いだ室町幕府においても事情は同様であり、幕府後期にその権威が大きく揺らぐ中でも、一定程度政権の主体性を維持できた背景の一つとして、この京の都市型経済への課税があったと考えることもできるでしょう。

また、当時は「京を実効支配する者」が「天下人」であるという認識も広く存在していたとされます。ただし注意すべきは、この場合の「天下人」とは必ずしも日本全国を意味するものではなく、あくまで「京とその周辺に住む人々から見た政治的中心」を意味していた可能性が高いという点です。
つまり、「京都静謐」はあくまで「京都静謐」であり、「天下静謐」とは必ずしも同義ではありません。しかしながら、この「京都静謐」を実現することが政権の正当性の一端として機能していたことは、充分に考えられるところです。

この観点から見ると、尊氏が六波羅探題を攻略した後、「京の治安維持」にも着手したであろうことは容易に推測できます。史料上、尊氏が京の治安維持に大きく失敗したとする記録も特に見られないため、尊氏は一定程度「京都静謐」を実現したと考えてよいのではないかと思われます。

これに対して、建武政権(後醍醐天皇)の時期には、二条河原落書の冒頭に「此頃(このごろ)都ニハヤル物」として「夜討ち」と「強盗」が挙げられていることから、京の治安維持が必ずしも充分ではなかった可能性が指摘できます。
この時点で、「京の治安維持(実効支配)」という観点では尊氏の方に京市中の支持、すなわち政治的正当性が傾いていたと見ることもでき、それが後の室町幕府および北朝政権を支える正当性の一端になった可能性も考えられるでしょう。

このように、京には「経済的な重要性」と「政治的な正統(正当)性」という二つの意味がありました。そして尊氏が攻め落とした六波羅探題とは、まさに京における鎌倉幕府支配の象徴とも言うべき存在でした。

京の治安維持を本来担当していたのは、朝廷の機関である「検非違使(庁)」でした。しかし、承久の乱に敗北したことによる朝廷の軍事(警察)力の縮小などもあり、その主導権は事実上六波羅探題、すなわち鎌倉幕府に移っていきます。

これまで度々述べてきたように、六波羅探題は西国に広く展開した御家人や在京御家人などの武士層を統制・管轄する幕府の出先機関であり、幕府の「公式窓口」としての役割が主任務でした。
その結果として、朝廷の監視や抑制といった役割も担うことになり、外から見ると「六波羅探題が朝廷を支配している」ように見える状況が生まれたとも考えられます。

しかし、「京の治安を実質的に担当していた」という事実は、そこに一定の政治的正当性が付与されていたと考えても必ずしも荒唐無稽ではありません。
すなわち、「京都静謐」の担い手は事実上鎌倉幕府であり、その結果として「天下人は鎌倉殿(将軍)」という認識が成立する余地も生まれていたと言えるでしょう。

さらに、両統迭立期を通じて貴族たちは事実上自ら皇位継承を決定できないほど幕府への依存を強めていました。
この点から見ても、「京の治安維持を担うのは鎌倉幕府」であり、その出先機関(窓口)である六波羅探題こそが幕府の京都支配の象徴となっていたと言うことができます。

そして尊氏は、このような政治的象徴であった六波羅探題を攻め落とし、しかも京の市街に大きな被害を与えることなく掌握するという偉業を成し遂げます。
これは探題方が徹底抗戦ではなく、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇という王家の中枢を伴って鎌倉に退却するという戦略を取ったことも大きな要因でした。しかし結果として彼らは鎌倉に到達することができず、退却の途上で追いつかれて北条氏はほぼ壊滅し、六波羅探題は滅亡します。

意地の悪い言い方をすれば、尊氏が「ほぼ無傷で京を掌握した」のは偶然の側面もあったかもしれません。
しかし古今東西、政権交代には都市への被害が伴うことが多い中で、都市に大きな被害を与えずに政権奪取を実現した尊氏の功績が極めて高く評価されたとしても、決して不思議ではないでしょう。

言い換えるならば、尊氏は「幕府(北条氏)は倒すが、天皇(朝廷)は助ける」という政治的メッセージを象徴的に実演してみせたとも言えます。
その意味で、幕府の本拠地である鎌倉を攻略した新田義貞よりも、朝廷の根拠地である京を「解放」した尊氏の政治的インパクトが大きくなるのも理解できるところです。

しかし、京を掌握し政治的正当性を持ちつつある上に、多くの武士が従い始めていた尊氏の存在は、後醍醐天皇から見れば「第二の幕府」のようなものであり、警戒するには充分な存在でした。

当然ながら、後醍醐は尊氏の取り込みを図り、尊氏もそれに応えます。しかし、これまでの記事で述べてきたように、建武政権は次第に貴族層・武士層の双方から信用を失っていきます。
その結果、行き場を失った武士たちは尊氏へと期待を寄せるようになっていきました。

さらに尊氏は、北条氏ですら一目置かざるを得ない高い家格を持つ「貴種」であり、しかも彼自身の位階は武士層から見て「高すぎず低すぎず」、いわば「神輿として担ぐのに丁度よい」位置にありました。
つまり尊氏はもともと武士層から「選ばれやすい構造」にあり、その結果として武士層から熱烈な支持を受けることになり、それが後醍醐天皇(建武政権)と袂を分かつ大きな要因になったと見ることができます。

もっとも、このような構造だけで尊氏が武士層に選ばれたわけではありません。そこには尊氏自身が持つ「個人的な魅力」、すなわちカリスマ的な要素もまた重要な役割を果たしていました。

そこで今回は、足利尊氏の「属人性(カリスマ)」に着目しながら、「尊氏の事情」を総括的に概観してみたいと思います。
少し先取りして言えば、この尊氏のカリスマとその限界こそが、やがて「観応の擾乱」という大きな内乱を引き起こし、その後の室町幕府の在り方を少なからず決定付けることになるのです。

それでは、順を追って見ていきましょう。

”足利尊氏”とは、いかなるキャラだったのか

多少今更ではありますが、ここで一点だけ補足しておきます。
これまでの記事では、「尊氏が足利氏の家督を継承してから北条(赤橋)登子を正室に迎えた」かのように読める書き方をしてしまいましたが、正確には登子との婚姻は家督相続以前の出来事であり、むしろ北条(赤橋)登子との婚姻が尊氏の足利氏家督相続者としての立場を強く後押しした、という順序になります。

尊氏の祖父・家時の頃から「隙間風」が吹き始めていた足利氏と北条氏の関係を、北条氏が再び強化しようとしたという当シリーズの推論自体に矛盾するものではありませんが、時系列の整合性に混乱を招いてしまった点についてはお詫びの上、訂正させていただきます。

さて、尊氏が「どういう人物であったのか」については、「夢想疎石(むそうそせき)」という臨済宗(禅宗)の高僧として知られる人物による「尊氏評」が伝えられています。
ただし予め注意しておきたいのは、この記述が載っているのは『梅松論』という史料であり、これは尊氏寄りの立場で書かれたとされるため、史料として扱う際には一定の慎重さが必要であるという点です。さらに夢想疎石自身も尊氏から厚く尊敬されるなど、比較的近しい関係にあった人物であったことから、この「尊氏評」には尊氏を好意的に描く意図が含まれている可能性も考えられます。

その点を踏まえたうえで、『梅松論』に語られている尊氏の人物像は次のようなものです。

  1. 心が強く、合戦で命の危険に遭うことがたびたびあっても、逆に顔には笑みを含み、まったく死を恐れる様子がない。

  2. 生まれつき慈悲深く、人を憎むことを知らず、多くの仇敵すらも許し、しかも彼らに我が子のように接する。

  3. 心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すら土石のように考え、武具や馬などを人々に与える際も、特に確認することなく手に触れるまま与えてしまう。

(『足利尊氏と関東』清水克行著/吉川弘文館「人をあるく」シリーズ、P40より引用)

先述のように多少の「身内びいき」を考慮したとしても、少なくとも「頼りがいがあり、しかも非常に気前の良い人物」であったことは読み取ることができます。

引用元である清水克行氏の『足利尊氏と関東』でも、三番目の点について次のような逸話が紹介されています。

たとえば、当時流行していた八月一日の八朔の祝いのとき、尊氏のもとへは山ほどの贈り物が届いていたが、尊氏は届いたそばからそれを次々と人に与えてしまい、その日の夕方には贈り物が一つも残らなかったという逸話が伝わっている(『梅松論』)。

『足利尊氏と関東』清水克行著/吉川弘文館「人をあるく」シリーズ、P42より引用

これも出典が『梅松論』である以上、尊氏を好意的に描く意図は含まれている可能性があります。しかし、それを差し引いても、尊氏が物に対してかなり無頓着な人物であったことは、ある程度確かなようです。

前回簡単に触れた、

「赤松則祐(あかまつ・のりすけ/そくゆう)の所領が関東にあるなんて知らなかったんで、しつこく恩賞を求めてくるヤツらにくれてしまったよ……。赤松から替わりの所領をくれと泣きつかれて困っている。京都の方に適当な所領があったならば、急いで世話してやってくれ。わるいな。」

(『足利尊氏と関東』P84より引用)

という義詮に宛てた手紙も、この「物事への無頓着さ」がやや悪い方向に表れた例と読むことができます。

また清水氏は同書において、尊氏の戦場での振る舞いについて次のようなエピソードも紹介しています。

尊氏は戦場で抜群の功績を挙げた者を見るとすぐに感激し、自ら筆を取ってその場で恩賞を与える旨の文書を書き与えるのを常としていた。
この自筆文書は「軍陣の下文(くだしぶみ)」と呼ばれるが、尊氏の恩賞は文書や所領に限らなかった。
戦場で感極まると、低い身分の者にも腰に差していた太刀を与えたり、時には手にしていた軍扇に花押を書いて与えることもあった。

(『足利尊氏と関東』P42~43より引用)

このように「戦場では自ら危険を恐れず、功績があれば身分に関係なく本気で感激して恩賞を与える」という人物が、武士の間で人気を得ないということは、むしろ考えにくいでしょう。

無理に現代風に例えるなら、「難しい案件に自ら率先して飛び込み、成果を上げながらもそれを誇ることなく功績を部下に分け与える上司」がいた場合、部下が多少のブラック労働も厭わずその上司についていく、という状況に近いのではないかと思われます。

特に六波羅探題攻略後、京を掌握した尊氏軍のもとには地方から上京してきた武士団も多く存在しました。そうした武士たちも、尊氏のこのような振る舞いに触れることで、次第に心酔していったのではないかと想像することができます。

これまで繰り返し述べてきた「自身の利権と面子を守り、それを次代に継承する」ことを第一義とする「武士の論理」には、「可能であれば利権を拡張したい」という含意もあります。
尊氏のいわば「ヨッシャヨッシャ系」の気前の良い親分気質は、この「武士の論理」を重んじる武士層にとって非常に魅力的なものだったと考えられます。

つまり、前回述べた「選ばれやすい構造」に加えて、「選ばれやすいキャラクター(カリスマ)」が存在したからこそ、足利尊氏は武士たちから選ばれたと整理することができます。

私の別シリーズ『私説・政経』でも「歴史はシステム(制度)だけでも人(属人性)だけでも大きくは動かない」と書きましたが、もう少しミクロな視点から言えば、「人は構造(システム)だけでも属人性(カリスマ)だけでも大きく動くわけではない」と言えるのではないでしょうか。

要するに、尊氏には「構造」と「カリスマ」の両方が揃っていたからこそ武士たちから選ばれたのであり、他の武士、たとえば北畠氏や楠氏、新田氏には強いカリスマはあったかもしれませんが、尊氏ほど有利な構造的条件を備えていたわけではなかった、と整理することができます。

それはコインの表と裏のように……

ただし、これらの「尊氏のカリスマ(美点)」は、容易にマイナス方向へ発揮されうる性質のものでもありました。
先ほど来、たびたび引用している清水克行氏の『足利尊氏と関東』でも、こうした美点が裏返った場合の問題点が論じられています。

ところが、こうした尊氏の個性は、時と場合によっては彼の政治家としての欠点も秘めていた。そもそも、(二)の降参人に対する寛容な処遇については、厳しい見方をすれば、決然とした対応のとれない彼の武将としての「甘さ」とも言えるだろう。また、(三)のだれかれなく贈り物をしてしまう天真爛漫な、その性格は悪くいえば「無軌道」であり、政治家としては軽躁で思慮に欠けるともいえる。しかし、より深刻なのは、(一)の死を恐れない不思議な性分であった。戦場で危機に陥っても笑っているうちはいいのだが、いよいよ事態が深刻になると、彼はあっさり自害しようとして、その生涯で何度となく周囲を慌てさせている。

(『足利尊氏と関東』P43~44より引用)

先ほど触れた、いかにも義詮を困らせたであろう所領配分の手紙なども、尊氏の持つこうした「無軌道さ」の一端と見ることもできるでしょう。

実際、尊氏はきわめて戦に強く、敗北することはそれほど多くありませんでした。
しかしその一方で、政治的な対立や調整の局面では決断が遅れがちであり、事態がかなり逼迫してからようやく動く、という傾向もしばしば見られます。
その結果として、軍事的には尊氏が最終的に局面をひっくり返す一方、そこへ至るまでに政治的混乱が深まってしまう、という構図が繰り返されました。

この点について、歴史学者の石原比伊呂氏は一般向け新書『北朝の天皇―「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』の中で、

「直義が負けて、救援に駆けつけた尊氏が勝つ」というのは、ほとんどお約束のパターンであり、あらかじめシナリオが用意されていたのではないか、あるいは、『太平記』の作者など同時代人が事実とは無関係に状況をそのようなものとしてパターン認識していたのではないか、と錯覚さえする。

『北朝の天皇―「室町幕府に翻弄された皇統」P55より引用

という指摘をしています。
分かりやすさを優先した若干の誇張を含む表現ではあるにせよ、これは「政治家としての不安定さを、武将としての卓越した能力が何度も補ってしまった人物」として尊氏を捉える見方をよく表しているように思われます。

そして、この「尊氏の欠点」が最悪の形で噴出したのが、室町幕府を二分する大内乱へと発展した「観応の擾乱」でした。
観応の擾乱は、足利尊氏・直義兄弟の対立によって起きた、初期室町幕府の分裂と全国的内乱として理解されており、教科書類でもしばしば取り上げられる重要事件です。

よく知られているように、最初期の室町幕府は、尊氏が将軍として立ち、実弟の直義がその補佐につく体制をとっていました。
一般にはこれを「二頭政治」あるいは「両将軍」と説明し、尊氏が恩賞授与や守護職任免、軍事指揮といった主従制的支配を担当し、直義が裁判・政務・所領安堵などの統治的支配を担当したと整理されます。

ただし、「二頭政治」という表現は、両者の力関係が機械的に均衡していたかのような印象を与えやすいため、その点には少し注意が必要でしょう。
むしろ実態としては、将軍としての尊氏の権威を前提としつつ、その下で直義が実務と調整を強く担っていた、と見る方が自然かもしれません。

尊氏や直義の意識の中には、先代の鎌倉幕府が一つの理想像としてあったとも考えられます。
とりわけ直義は、「将軍」とその補佐役という関係を、源頼朝と北条義時、あるいは鎌倉殿と執権というかたちで理解していた可能性があります。
そうであるならば、将軍である尊氏と武士たちの間に立ち、「執権」的に利害調整を行う直義という体制は、ある意味で「古き良き鎌倉殿」の再現を狙ったものと考えることもできるでしょう。

この理解に立てば、尊氏が主従制的支配を、直義が統治的支配を担当したことは、相応に合理的だったとも言えます。
もともと尊氏は政務に強い関心を持つ人物ではなく、むしろそうしたことから距離を置きたがる、やや厭世的な傾向を持っていたようです。
清水寺に奉納された尊氏自筆とされる願文にも、その片鱗をうかがうことができます。そこでは「この世は夢のごとく」と述べたうえで、自らには道心を、そして「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」と祈っています。

この願文を見る限り、足利尊氏という人物は、通俗的にイメージされがちな「野心家」「自信家」とはかなり異なる、むしろ強い厭世性を帯びた人物であったと考えられます。
それに対して直義は、真面目で理想主義的な傾向が強く、政治への知識と意欲も高かったと見られています。
ただしその一方で、直義には武将としての力量に乏しい、すなわち合戦に弱いという弱点がありました。

そう考えると、室町幕府最初期のこの体制は、少なくとも出発点においては「適材適所」と言えないこともありません。実際、当初は相応に機能していました。
しかし、これは同時に、権威・軍事・実務が一人の中で完結していない体制でもありました。
この「分担」が平時には強みとなる一方で、ひとたび人間関係が崩れれば、政権の中枢そのものを割ってしまう危うさを抱えていたのです。

そして、まさにその点こそが、次に見るように、「韓非子」的な意味での致命傷になっていきます。

”韓非子”かく語りき

「韓非子」は、君主が「絶対に手放してはならない権限」を「二柄(にへい)」と呼びました。
「二柄 第七」の冒頭では、次のように述べています。

明主の導(よ)りて其の臣を制する所の者は、二柄のみ。二柄とは刑と徳なり。

金谷治訳注『韓非子―第一冊』岩波文庫 P111より引用

では、この「二柄」とは何か。これについても韓非子は明快に説明しています。

何をか刑と徳と謂う。曰わく、殺戮をこれ刑と謂い、慶賞をこれ徳と謂う。

金谷治訳注『韓非子―第一冊』岩波文庫 P111より引用

ここで言う「刑」とは要するに刑罰であり、「徳」とは報償のことです。
極めて単純に言えば、いわゆる「アメとムチ」と理解していただければ概ね間違いありません。

韓非子は、この「二柄」を君主が自ら掌握し続けることが統治の根本であると強調しています。
もし君主が「刑」または「徳」のいずれかを臣下に委ねてしまえば、やがて君主の権威は失われ、国家は混乱すると説くのです。

故に人主、自ら其の刑徳を用うれば、則ち群臣は其の威を畏れて、其の利に帰す。

金谷治訳注『韓非子―第一冊』岩波文庫 P111より引用

つまり、君主が刑罰と報償を一体として掌握している限り、臣下は刑罰を恐れ、報償を求めて君主「のみに」従う、というわけです。

この観点から室町幕府最初期の体制を見ると、尊氏と直義の役割分担は、ある意味で「徳」と「刑」に近い形で機能していたとも理解できます。
尊氏は恩賞授与や軍事指揮など、武士との主従関係を中心とする支配(徳に近い)を担い、直義は訴訟・行政・所領安堵といった制度的統治(刑に近い)を担当していました。

韓非子の理論から見れば、このように統治の重要な権限(二柄)が分担される体制は、本来かなり危うい構造です。
通常であれば、どちらか一方が実権を掌握し、もう一方を排除する方向へと進みやすいからです。

それにもかかわらず、この体制がしばらく維持された理由は明確です。
直義の権力は、あくまで「将軍である尊氏の権威」を前提として成立していたからです。
将軍そのものを排除してしまえば、直義自身の権力の根拠も失われてしまうことになります。

この構造は、かつて鎌倉幕府で北条氏が実権を掌握しながらも、将軍の存在という「権威」を維持し続けた状況と、ある程度共通しています。

しかし、この体制は次第に歪みを拡大させていきます。

尊氏が感激のあまり恩賞を気軽に与えると、その整合性を取るために直義が制度的な調整を行わなければなりません。
また、恩賞にあぶれた武士は直義に訴え、直義の裁定に不満を持つ武士は今度は尊氏に泣きつくという状況も頻発しました。

そして、尊氏の恩賞政策を実務面で支えたのが、足利家の側近であった高師直です。
やがて尊氏と直義の間に生じた制度的な不整合は、「高師直」と「足利直義」の対立へと転化していきます。

さらに、より迅速な恩賞を求める武士層と、制度的手続きを重視する武士層がそれぞれ尊氏(師直)派と直義派に分かれ、政権内部の分断は急速に拡大していきました。

ところが、この局面で尊氏の「欠点」が発揮されます。
すなわち、「師直を取るのか直義を取るのか」という決断をなかなか下すことができなかったのです。

こうして対立はついに武力衝突へと発展し、最終的には直義派によって高師直一族が滅ぼされる事態となります。
しかしそれでも兄弟の対立構造は解消されず、最終的に尊氏と直義は直接対決へと進むことになります。

最終的には尊氏が勝利し、直義は鎌倉で亡くなります。
この死については古くから「毒殺説」が唱えられてきましたが、史料的には確定的とは言えません。
毒殺を明確に記すのは『太平記』のみであり、この史料は扱いに慎重を要するものです。

歴史研究者の亀田俊和氏も『観応の擾乱』(中公新書)において、

古今東西、政争に失脚した政治家が失意のうちに早世することは頻繁にある。四六歳という享年も、当時としてはよくある年齢である。甥の義詮も三八歳で死去している。

『観応の擾乱』(中公新書)P184より引用

と述べており、必ずしも毒殺を強く疑う必要はないと指摘しています。

また尊氏の人物像を考えても、直義を徹底的に憎んで暗殺に及ぶほどの強い敵意を抱いていたとは、やや考えにくいようにも思われます。
仮に政治的に排除するとしても、出家させて俗世から退かせる程度で充分だった可能性もあります(必ずしも現実的ではりませんが)。

もっとも、直義の死が病死であったか毒殺であったかという問題は、後の歴史の大きな流れを決定的に変えるものでもありません。
したがって本シリーズでは、この問題については「事実は不明」と整理しておくことにします。

おわりに

以上、今回は「足利尊氏の事情」の続きとして、「なぜ尊氏は後醍醐天皇と袂を分かつことになったのか」という問題を、主として尊氏の「属人性」に着目しながら概観してきました。

もっとも、今回の記述では、最初の問いである「なぜ尊氏は後醍醐と袂を分かったのか」そのものへの直接的な説明はやや弱く、実際には「尊氏の属人性(カリスマ)がどのようなものであったのか」、そして「それがどのような結果を招いたのか」という点に考察が集中した感もあります。
要するに、尊氏の持つカリスマが武士たちの支持を急速に集めてしまった結果、後醍醐天皇から見れば尊氏は「第二の幕府」にも等しい存在となり、両者の対立は構造的に避けがたいものとなっていった、というのが今回の問いへの答えになるでしょう。

尊氏と後醍醐の対立は、単純に尊氏個人の「野心」や「野望」によって生じたものとは言い難いように思われます。
先に触れたように、歴史学者の石原比伊呂氏は、

源平の対立をはじめとする歴史上の二者対立というのは、単に当事者同士の個人的な相性だけで発生するわけではない。それが社会現象として列島規模で拡大するということは、相応の社会的背景が存在するからであり、二者対立とは社会矛盾の代理戦争に過ぎないといえる。

『北朝の天皇―室町幕府に翻弄された皇統の実像』中公新書 P53より引用

と述べていますが、まさに尊氏と後醍醐の関係もこのように理解すべきなのでしょう。

両者が袂を分かつ背景には、これまで見てきたように、後醍醐天皇の綸旨万能主義が建武政権のボトルネック化とキャパシティーオーバーを招き、貴族層からも武士層からも信用を失ったことによる政権機能の不全がありました。
同時に、その裏側では、武士層のあいだに「同業組合としての幕府」の復活を求める強いニーズが存在していました。
この二つが重なった結果として、後醍醐と尊氏、より正確には「後醍醐」と「尊氏を押し上げる武士層」との利害衝突が不可避になったと考えることができます。

そして、尊氏のいわば「ヨッシャヨッシャ系の、気が良くて気前が良い」キャラクターは、当時の武士層にも深く刺さったのでしょう。
もともとの「神輿としての適正サイズ」とも言うべき立場の良さもあって、尊氏は武士たちの強い支持と押し上げを受けることになります。
イメージとしては、まさに大勢の武士たちが尊氏という神輿を「ワッショイ、ワッショイ」と担ぎながら、自分たちに都合の良い方向へ驀進していくようなものです。そこに尊氏本人の強い政治的野心を読み込むのは、少々難しいように思われます。

主要な出典が『梅松論』という、『太平記』同様に扱いにやや注意を要する史料であるとはいえ、そこに描かれる尊氏は、「自身の命にも富にも無頓着で、厭世的な心性を持ち」、しかも「戦場にあっては冷静かつ勇敢で、身分を問わず功績には感激し、その場で恩賞を約束する」ような、いかにも頼れる親分として描かれています。

こうしたキャラクターは一般には「先天的」なものと考えられがちですが、先述の清水克行氏は『足利尊氏と関東』のなかで、尊氏が本来の家督相続者である高義の早世後も長く立場が不安定であったこと、そして北条(赤橋)登子との婚姻がその家督相続に強い後押しを与えたことなどを踏まえ、こうした性格形成には後天的な要素もあったのではないかと推測しています。

もっとも、それが先天的なものであれ後天的なものであれ、尊氏のキャラクターはかなり「天然」に近いものであったと、私は考えています。
これは、親分気質をある程度自己演出として意図的に利用していたように見える源頼朝や豊臣秀吉とは、かなり異なる点でしょう。
この計算の薄い「天然さ」こそが、武士たちを強く惹きつけ、歴史上でもかなり特異な「尊氏の強さ」を生み出した要因の一つだったのではないでしょうか。

実際、先に見た尊氏自筆の願文も、「この世は夢のごとくに候」から始まり、自らには道心と来世の安定を願い、さらに「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」と、直義の現世的な成功と安穏を祈っています。
このような文面からは、少なくとも通俗的にイメージされるような、ギラギラした政治的野心や権力欲はあまり見出しにくいように思われます。

京都制圧後に後醍醐天皇へ「征夷大将軍」を望んだとされる件についても、仮にそれが事実であったとして、その動機は「源氏の棟梁として」などといった高尚な自己意識や露骨な野心というよりも、むしろ「子分たちに早く分け前を配りたいから、そのための財布を開く権限が欲しい」という程度に理解した方が、尊氏のキャラクターにはよく合っているように思われます。

足利尊氏が「ただ者ではない」こと自体は、ほぼ間違いないでしょう。
しかしその人物像は、「野心と武士の棟梁としての自負でギラついた人物」というより、「天然で、気が良く、ひどく気前の良い親分」であり、その親分気質と、いざ肝心な局面になると決断が遅れがちな欠点に半ば流されるようにして、結果的に時代を泳ぎ切った人物と捉える方が、実相には近いように思われます。

そして、この欠点が招いたものこそが、南北朝時代の長期化であり、さらに観応の擾乱でした。
最終的に尊氏は南朝に対しては一時期を除き概ね優勢を保ち続け、観応の擾乱にも勝利します。
しかしその過程で、「高師直とその一族」と「足利直義」という、幕府運営にとってきわめて重要な人材を相次いで失うことになりました。これは、尊氏にとっても、また幕府にとっても痛恨の損失であったと言えるでしょう。

なぜ「痛恨」なのか。
それは、高師直も直義も、それぞれ方向性は異なるにせよ、単なる武人ではなく、政権運営を実務面・制度面から支えることのできる希少な人材だったからです。
この結果、室町幕府は「人からシステムへ」という方向転換の機を失い、以後も属人性に依存しがちな体制のまま、自力救済的な社会秩序をなし崩し的に支え続けていくことになります。
より制度化された秩序としてこれが回収されていくのは、戦国の長い分断を経た後のことでした。

ここまで、南北朝時代が「なぜこうなったのか」を考えるための背景として、後醍醐天皇の事情足利尊氏の事情を、やや回りくどくなりながらもそえぞれ概観してきました。

次回は、これまで確認してきた背景も踏まえつつ、後醍醐天皇による倒幕から、尊氏主導による北朝成立のあたりまでを、多少編年的に眺めてみたいと思います。
もしかすると「中先代の乱」あたりで紙幅が尽きるかもしれませんが、なるべくスピード感を持たせつつ、それでも可能な限り雑にならないように進めていければと思います。

それでは、また。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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