ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第33回――西進する尊氏と建武政権の限界
今回は、後醍醐天皇によって朝敵とされた足利尊氏が、九州へ退き、再び京へ向かうまでの流れを概観します。
一見すると「敗走」にも見える尊氏の西進ですが、その過程では元弘没収地返付令や光厳上皇の院宣獲得など、武士層の支持と政治的正当性を確保するための重要な布石が打たれていました。
また、多々良浜の戦いについては、軍記物語が描くような「奇跡の逆転劇」とは異なる視点から、尊氏が九州で再起できた背景を考えます。
さらに、湊川の戦いでは、楠木正成の敗死を単なる「悲劇の忠臣」の物語としてではなく、建武政権の軍事的限界や、後醍醐が置かれていた政治的制約の中で捉え直します。
尊氏の勝利は、個々の合戦だけで決まったものではありません。建武政権の軍事的基盤の脆弱さ、尊氏が西進の中で積み重ねた布石、そして武士たちを惹きつける「神輿」としての機能が重なった結果として理解できるのではないか。
今回は、そのような視点から、建武政権が南北朝の時代へと転じていく過程を見ていきます。※約17000字
はじめに
前回は「中先代の乱」鎮圧後の流れについて、「後醍醐と尊氏の決裂の構造」に主な焦点を当てながら概観し、まず「尊氏の事情」に注目しました。
現在の研究では、当時の関東、特に尊氏のいた鎌倉周辺は、乱鎮圧後も時行方に与した勢力などによる潜在的な不安定要素が残されていたことが、現存する着到状や軍忠状などから確認されています。
そのため政治的・軍事的な面からも「抑え」として尊氏という存在に依存せざるを得ず、実質的には「鎌倉を離れられない」状況にあったのではないかと想像することができます。つまり、尊氏には「現実的な問題に対処するため、すぐには帰京できない」という事情があったと考えられるのです。
ただ、本シリーズでは尊氏の「後醍醐推し」を「割と本気であった」と想像していますので、本人としては「気持ちの上では一刻も早く京へ戻りたかった」可能性も「あり得なくもない」程度には考えることができるでしょう。
そうであれば、「後は任せた」とばかりに直義へ鎌倉を委ね、上杉氏や斯波氏などの一部を補佐につけて自らは帰京するという流れも、決して荒唐無稽とは言い切れません。
ならば、史実として尊氏が鎌倉に留まった以上、「尊氏が鎌倉に残るよう促した」あるいは「残留を要請した」人物も想定でき、本シリーズではそれを足利直義ではないかと考えました。
なぜなら「後醍醐の尊氏に対する距離感」を最も警戒していた人物がいたとすれば、それもまた直義であった可能性が高いと考えられるからです(あくまで本シリーズにおける人物像理解が前提ですが)。
ここで一点、訂正とお詫びを申し上げます。
私は以前の記事で、「建武政権下において足利直義は光厳上皇をはじめとする持明院統との間に比較的親密な関係を築いた」と述べました。しかし、時系列を勘違いしていました。
実際に直義と光厳上皇との関係が深まるのは所謂「北朝」成立後から観応の擾乱に至るまでの間のことであり、建武政権下においてそのような関係を史料から確認することは困難です。
したがって、「建武政権下で直義と持明院統との間で何らかの接触があった可能性」自体は否定し切れないものの、「親密な関係を築いた」と断定的に述べたことは不正確でした。紛らわしい表現となってしまったことをお詫び申し上げます。
もっとも、後醍醐が持明院統に比較的融和的な姿勢を示していたことは既に触れている通りであり、直義と持明院統側との間に全く接触がなかったとも考えにくいでしょう。
ただし、仮に接触があったとしても、それは貴人に対して当然払うべき礼儀、無理に現代風へ置き換えるなら「顔を合わせたら挨拶をする」程度のもの(距離感)であり、政治的な意図は極めて希薄だったのではないかと私は想像しています。
なお、この「光厳上皇と直義との関係」は、後の観応の擾乱を考える上でも間接的に小さくない意味を持つのではないかと考えているのですが、本稿の趣旨から外れるため、後日の別稿に譲ることとします。
話を戻しましょう。
これまで見てきたように、後醍醐が尊氏へ与えた「征東将軍」という称号に象徴されるような「中途半端な距離感」とは、言い換えれば「後醍醐は尊氏を完全には信用していなかった」とも解釈できます。
さらに問題なのは、この時点の建武政権には”制度”として尊氏と、その背後に存在する武士団を取り込む仕組みがほとんど存在しなかったことです。
つまり両者の関係は、制度ではなく属人的な信頼関係の上に成り立つ極めて不安定なものだったと言えます。
実際、「護良親王」は後醍醐によって切り捨てられるような形で失脚しています。可能性は低かったとしても、尊氏にも同じようなことが起きないとは誰にも断言できなかったでしょう。
また、建武政権の綸旨に大きく依存した統治実務には朝令暮改の側面も少なからず存在し、その政治的信用は決して盤石ではなかったと想像できます。
このような状況であれば、直義が「尊氏の帰京」に極めて慎重だったとしても、それはむしろ自然な判断だったのではないでしょうか。
「兄上には鎌倉にいていただかなければ、治まるものも治まりません。」
これは完全な想像ではありますが、このような感じの説得で尊氏を鎌倉に留めることは、それほど難しいことではなかったようにも思われます。
こうして考えると、尊氏が独自に恩賞を与え始めたことも、「戦後処理の一環」として迅速な恩賞給付により武士たちを繋ぎ止めるための現実的な対応だったと理解できます。
しかも足利方は北条時行を取り逃がしています。言わば「最大級の火種が行方不明」になっているような状況であり、迅速な対応が求められるのも当然だったでしょう。
したがって、「中先代の乱」鎮圧後の尊氏の行動に、新幕府創設や個人的野心、あるいは陰謀などを想定する必要は必ずしもありません。本シリーズでは、「関東の不安定な情勢に対する現実的な対応を優先した結果」と理解しています。
そして、その法的根拠として尊氏が意識していた可能性があるのが「征東将軍」という称号でした。
少なくとも当時の武士社会において、「征東将軍」と「征夷大将軍」の違いがどこまで厳密に意識されていたかについては慎重な検討が必要でしょう。
要するに、「征東将軍」を「征夷大将軍と同様の裁量権を持つ存在」とやや拡大気味に解釈することは、不可能ではなかったと考えられます。
そうであれば、戦場で功績を挙げた武士へ迅速に恩賞を与えることは、尊氏にとっては権限であると同時に責務でもあったと言えるでしょう。
以上が前回までの整理でした。
今回は、その後尊氏が九州へ向かい、そこで何が起こったのかを概観していきます。
尊氏の”西進”
若干内容が前回と重複しますが、建武2年(1335年)11月に後醍醐が「尊氏・直義誅伐」の綸旨を発給し、新田義貞を中心とする追討軍が発遣されたところから話を始めたいと思います。
尊氏は当初、「後醍醐との全面対決を望んでいなかった」とされます。『太平記』などの軍記物語では、尊氏は髻(もとどり)を切り、すなわち出家の強い意志を示した上で、わずかな近臣のみを連れて浄光明寺(神奈川県鎌倉市)に籠ったと描かれています。
もちろん、軍記物語の記述をそのまま史実と見ることはできません。しかし、出家云々はともかく、「後醍醐と戦いたくない」と考えた尊氏が、自主的に謹慎し、恭順の意を示そうとしたという程度であれば、充分にあり得る話と捉えることはできるでしょう。
前回触れたように、「中先代の乱」鎮圧直後には、なお後醍醐と尊氏の間に一定程度の協調関係があったことが分かっています。つまり尊氏の側には、そのような前例を踏まえ、「話せば分かってもらえる」という思い(または思い込み)があったとしても不思議ではありません。
しかし、後醍醐側にとっては、すでに「話し合いのフェイズ」は過ぎていたと考えられます。そのため、追討軍の動きが止まることはありませんでした。
さらに足利方は後醍醐方の軍勢に敗戦を重ね、鎌倉の玄関口とも言える箱根まで押し込まれてしまいます。ほぼ絶体絶命、相撲で言えば「徳俵に足がかかった状態」のようなものだったと言えるでしょう。
ここに至り、尊氏は戦うことを選択します。もう少し正確に言えば、「戦うことを選択せざるを得なかった」という方が実相に近いと本シリーズでは考えています。
なぜなら、すでに朝敵とされた尊氏が生き残るためには、「戦って勝つ」以外の選択肢がほぼ存在しなかったからです。そして尊氏の敗北は、弟の直義や足利氏一門、さらには自分に味方した武士たちの没落・滅亡にも直結します。
故に、尊氏は「選択せざるを得なかった」と考えることができるでしょう。
歴史学者の清水克行氏も『足利尊氏と関東』(吉川弘文館)という一般向けの著書の中で、
尊氏個人の感情と彼の社会的立場との二律背反は、彼の生涯を貫く苦悩であったが、悩みぬいた末に彼は必ず自己の感情を犠牲にする結論を選んでいる。ここに人間尊氏の悲劇があった。
と述べていますが、本シリーズにおける人物理解からも大いに首肯できます。
尊氏はこの時、名実ともに「武士たちの神輿」となることを決断した、と表現できるかもしれません。これ以降、尊氏は「独立した武士勢力の中心」として振る舞い続けざるを得ない立場になったと言えるでしょう。
ともあれ、一度決断した尊氏はやはり強く、「箱根・竹ノ下の戦い」で勝利し、新田義貞ら後醍醐方を敗走させます。

明けて建武3年(1336年)1月、尊氏は軍勢を引き連れて上洛を開始し、後醍醐天皇は坂本への退避を余儀なくされます。
なぜ後醍醐が「戦う」のではなく「退避」を選ばざるを得なかったのかと言えば、簡単に言うと、尊氏方を迎撃できるだけの戦力が手元になかったからだと考えられます。
これは後醍醐の落ち度や怠慢などでは決してありません。そもそも当時の日本には、現代国家のような常備軍、つまり国軍という発想そのものがありませんでした。もう少し正確に言えば、古代には防人などに見られるような国家的軍事制度が(一応)存在しましたが、中世の初め頃、桓武天皇の時代以降には、制度としての実態を大きく失っていたと考えられます。
従って、建武政権もまた有力武士の軍事力に依存せざるを得ませんでした。新田義貞を中心とする軍事力を鎌倉へ向かわせてしまうと、事実上、京を防衛できるだけの充分な軍勢が後醍醐の手元には残らなかったのです。
なお、楠木正成は元々河内国の小勢力であり、尊氏に正面から対抗し得る大軍を動員することは難しかったと考えられます。彼自身も、どちらかと言えば山岳部などの地形を生かした局地戦を得意とするタイプであり、大軍を率いて野戦で一大決戦を行う武将ではなかったと思われます。
故に、充分な戦力を持たない後醍醐は、防衛戦という選択肢を第一に採ることができず、坂本へ退避するしかなかったと整理できます。
余談になりますが、この坂本という地は「京から遠すぎず近すぎず」という絶妙な位置にあり、地形的な要素も含めて、後年、室町幕府の将軍も「京を維持できない」事態になると坂本へ避難するようになります。足利義晴・義輝の例が代表的でしょう。
ところが、尊氏方は遠く奥州から駆け付けた北畠顕家を中心に、新田義貞・楠木正成が合流した軍勢に敗北し、九州への退却を選択します。

ただし、これは単なる「敗走」ではなく、途中で様々な布石を打ちながらの戦略的行動であったと捉えることができます。
まず第一に挙げられるのが、摂津国兵庫嶋で発布したとされる「元弘没収地返付令」です。これは、鎌倉幕府滅亡後に建武政権によって没収された所領について、尊氏に味方することで元の持ち主への返還を約束するもので、これによって所謂「日和見」をしていた武士層が尊氏の下に参集したとされます。
第二に、特に重要なのが、この地で決定したとされる「光厳上皇の院宣獲得」の方針です。ただし、これは『梅松論』などの軍記物語の記述に負うところが大きく、「光厳上皇の院宣が発給された」という事実から逆算して作られた話であって、実際には兵庫嶋でのことではなかった可能性もあります。
ここで重要なのは、「いつ」「どこで」「誰の提案だったのか」ではなく、戦いの構図を「尊氏対後醍醐」から「持明院統対後醍醐」へ変える決定がなされた、という事実そのものだと私は考えます。
すでに朝敵となっていた尊氏は、簡単に言えば「建武政権=後醍醐天皇に謀反した反乱軍」の立場でした。しかし、光厳上皇、すなわち持明院統の院宣を得ることによって、「持明院統を奉じて後醍醐=大覚寺統と戦う」という立場へと変えることができます。
つまり尊氏は、単に持明院統という王家の権威を得たのではなく、自らの軍事行動を正当化するための政治的基盤を得たと考えられるのです。
多少先走って言えば、これこそが後に「北朝」と呼ばれる朝廷の基本構造であったとも言えるのではないでしょうか。ただし、これはあくまで結果論であり、この西進中の段階で尊氏とその陣営にどの程度明確な新幕府創設の構想があったかは分かりません。
「全くなかった」と断定することはできませんが、仮に何らかの構想あるいは志向があったとしても、この時点ではそれほど明確なものではなかったのではないかと私は想像しています。
また、本シリーズでは詳しく触れませんが、播磨国室津で行われたとされる「室津軍議(むろつのぐんぎ)」についても、以前は「室町幕府の軍事制度の基本的な枠組みを決定したもの」として重要視されていました。しかし現在では評価がやや慎重になり、「尊氏が九州へ撤退するまでの防衛ラインの設定に過ぎない」とする考え方も有力なようです(呉座勇一氏)。
本稿でもこの慎重な評価に賛同し、室津軍議の詳細は割愛しますが、これらのことからも、尊氏の九州への退却が単なる敗走ではなく、戦略的行動であったと整理できるでしょう。
なお、尊氏のもとに光厳上皇の院宣がもたらされたのは、建武3年(1336年)2月15日、備後国の鞆(”とも”と読みます。広島県福山市)でのこととされます。
ここに、尊氏の「朝敵」という立場は、少なくとも持明院統側の正統性・正当性によって相対化されたことになります。つまり以降の尊氏の行動は、「持明院統を奉じて、建武政権=後醍醐天皇に対抗する正統かつ正当な軍事行動」という意味を持つようになったのです(ただし、後醍醐視点では朝敵のままです)。
尊氏本人はもちろんのこと、彼に従う武士たちにとっても、これがいかに重要なことだったかは容易に想像できるでしょう。
誤解を恐れず乱暴に言えば、「悪者の一員」から「正義の味方の一員」へジョブチェンジしたようなものですので、士気や心理面への影響はかなり大きかったと考えられます。
尊氏方はそのまま西進を続け、2月20日に「長門(ながと)国」赤間関(あかまがせき)に着き、25日には「筑前(ちくぜん)国」大宰府に本拠を置く少弐氏が尊氏を迎えたとされます。こうして見ると、尊氏はおおむね山陽道を西進したようです。
先ほど簡単に「迎えた」と書きましたが、これは要するに、少弐氏が尊氏に対して「あなたに味方します」と表明したことに他なりません。この時点での少弐氏は、九州を代表する有力武士の一角です。
そのような有力勢力を既に味方につけていたことからも、尊氏にとって九州が有力な地盤の一つであったことが読み取れるのではないでしょうか。
こうして尊氏は2月29日に「筑前国」芦屋(あしや)へ上陸します。
次は、その後の尊氏の軍事的勝利を決定付けたとも言える「多々良浜の戦い」を概観していきたいと思います。
尊氏は”何故”勝利できたのか
先述の「筑前国芦屋」への上陸と同じ建武3年(1336年)2月29日、尊氏に味方していた「小弐氏」の一族の一人が後醍醐方の「菊池氏」の攻撃を受けて自害したとされ、九州では既に戦いの火蓋が切られていました。
この「多々良浜の戦い」の詳細は『太平記』などの軍記物語に負うところが大きく、そのまま史実として受け取ることはできません。特に「尊氏軍は僅か千騎余りに対し、菊池軍は四~六万騎」といった兵力差の描写については、軍記物語特有の誇張を多分に含むものと考えられます。
何故ならば、既に述べたように「元弘没収地返付令」によって尊氏の下には少なくない武士が馳せ参じたと考えられるからです。繰り返しになりますが、尊氏は「一門を中心とした僅かな兵力で辛うじて九州へ落ち延びてきた」という状況ではなかったと想像できます。
従って、仮に尊氏方が数の上で不利であったとしても、『太平記』が描くような圧倒的な兵力差であったとは考えにくく、少なくとも戦闘開始の段階では既に尊氏方へ味方する勢力が相当数存在していた可能性は充分に考えられるでしょう。
『太平記』では、「北からの強風が突如吹き、砂塵を巻き上げて菊池軍へ吹き付けた」「菊池方の有力武士が多く尊氏へ寝返った」などと記されていますが、これらは尊氏方の「奇跡の勝利」を演出するための文学的表現と考えるべきでしょう。
しかし、それらの描写を全くの「虚構」と断定することもまた慎重であるべきでしょう。例えば「風向き」そのものについては、実際の戦況をある程度反映している可能性も考えられます。
考えるべきは、そのような物語的演出の背景にどのような歴史的事実が存在したのか、という点でしょう。
過去の記事でも触れたように、尊氏は地方武士層への恩賞仲介などを通じて、各地の武士たちと強い関係を築いていたと考えられています。特に九州では、後醍醐の綸旨を根拠として北条与党への対処を実際に命じられていたことなどからも、建武政権期の比較的短い期間の間に、九州の大小の武士層が尊氏へ協力する基盤、すなわち「尊氏の地盤」が形成されていたと考えることができます。
さらに「元弘没収地返付令」もまた、尊氏に味方する武士を増やす上で大きく作用したと考えられるでしょう(九州でも)。
こうして見ると、「多々良浜の戦い」は尊氏個人の軍事的手腕や戦場での幸運だけで勝利した戦いではなく、武士たちが安心して参集できる「神輿」としての尊氏の機能が、後醍醐方、すなわち菊池氏側を大きく上回っていたことによる勝利という側面も見逃すべきではないと私は考えます。
『太平記』で小弐頼尚(しょうに・よりひさ)の発言とされる
「敵は大勢ではありますが、皆味方に来るものです。菊池の軍勢は三百余騎に過ぎないでしょう。」
という言葉も、そのまま史実とは言えないにしても、「尊氏側へ武士が次々と流れていく」という当時の人々の印象をある程度反映した記述と読むことはできるでしょう。
また、尊氏に味方した「小弐氏」「大友氏」「島津氏」は、鎌倉時代に異国警固番役を務めていたこともあり、「多々良浜」周辺の地理にも精通していたと考えられています。この点もまた、戦いを有利に進める要因の一つとなった可能性が指摘されています。

漫画『逃げ上手の若君』でも、「多々良浜の戦い」は「摩訶不思議な逆転劇」のように描かれています。しかし、これはあくまでもエンターテインメント作品としての演出であり、現在の研究動向を踏まえるならば、実相はそこまで「絶望的な状況を奇跡的に覆した戦い」ではなかったと考える方が自然でしょう。
この「多々良浜の戦い」が行われたのは建武3年/延元元年(1336年)3月2日とされます。
多少余談になりますが、後醍醐は建武3年2月29日、すなわち尊氏が芦屋へ上陸したとされるその日に「延元」へ改元しています。本シリーズでは以降も「建武」年号で記述することが多いと思いますが、時々併用或いは多少の混乱があるかも知れません。予めご容赦ください。
ともあれ、この年の4月、尊氏は足利一門の一部(一色道猷・二木義長ら)を九州へ残し、自らは再上洛を開始します。
つまり、およそ二か月という短期間で九州の諸勢力をまとめ上げたことになります。
このことからも、尊氏にとって九州とは単なる「最後の逃げ場」ではなく、「再起のための拠点」であったことが分かるでしょう。
さらに、この時の尊氏方は陸路と海路の双方を用いて京を目指したと考えられています。これは瀬戸内海を活動の場とする海賊衆(水軍勢力)とも一定以上の協力関係を築いていたことを示唆するものと言えるでしょう。
多少大胆な表現を用いるならば、この時点で尊氏は西日本の武士層を広く味方につけつつあった、と考えることもできそうです。
この「再上洛」の途上、5月25日に摂津国で起こったとされるのが「湊川の戦い」です。
よく知られているように、この戦いで楠木正成は敗死します。しかし、それは従来言われるように「建武政権最大の軍事的支柱」を失ったことを意味するのでしょうか。
次は、この「湊川の戦い」と楠木正成の死が持つ歴史的意味について考えてみたいと思います。
”湊川”と後醍醐天皇
建武3年/延元元年(1336年)5月25日、上洛(京)を目指す尊氏の軍勢を楠木正成・新田義貞らの軍勢が「摂津(せっつ)国」湊川(みなとがわ)で迎え撃った合戦を「湊川(または摂津湊)の戦い」と呼びます。

この戦いは従来、「後醍醐政権の軍事的支柱とも言える名将を失った戦い」といったイメージで語られることが多いように思われます。
ここで敗死した楠木正成は「悲運の名将」として後世に顕彰され、一方で敗走を選択した新田義貞には、やや「凡将」的な印象が与えられる一因にもなっているように見受けられます。
もっとも、この合戦の詳細もやはり『太平記』を始めとする軍記物語によるところが大きく、そのまま史実として受け取るには慎重さが求められるでしょう。
そこで本稿では、まず戦いそのものではなく、その前段階として軍記物語に描かれた幾つかの逸話から、当時後醍醐と正成が置かれていた状況について考えてみたいと思います。
『梅松論』には、尊氏の西走後、楠木正成が後醍醐に対して尊氏との和睦を勧めたというエピソードが記されています。
しかし、この逸話をそのまま史実と考えることは難しいように思われます。
『梅松論』は足利氏寄りの立場から成立したと考えられており、この和睦提案も、尊氏・正成の双方を高く評価する同書の性格を反映した叙述と考えた方が自然でしょう。
過去の記事でも簡単に触れましたが、尊氏と正成の間には、互いを一定程度評価していたことを窺わせるような逸話も見られます。
もちろん、それらも確実性の高い史料によって裏付けられている訳ではありませんので断定はできません。しかし、少なくとも当時、あるいは比較的近い後世の人々が「名将は名将を知る」というようなイメージを両者に重ね合わせていたことを反映している可能性は考えられるでしょう。
一方で、その結果として相対的に新田義貞の評価を下げる効果も持っていた可能性は否定できません。
つまり、その後に続く「正成が敗北を予言した」「倒幕は尊氏の働きによるところが大きい」「後醍醐は人望を失っていることに気付くべきだ」といった辛辣な諫言もまた、「未来を見通した名将・楠木正成」という人物像を形成するための叙述として理解する方が自然であると私は考えています。
『太平記』ではさらに、正成が三種の神器を携えた後醍醐を比叡山(概ね坂本)へ退避させた上で、空となった京へ尊氏軍を誘い込み、新田義貞と自らで挟撃する作戦を提案したと描かれます。
ところが、後醍醐や側近の公家たちは「何度も天皇が京を離れることは面目に関わる」としてこれを退け、正成はやむなく義貞とともに湊川へ向かったとされています。
さらに『太平記』では、正成が
「このような状況では討ち死にせよとの命令に等しい。しかし忠臣勇士たるもの、死を恐れるものではない」
という趣旨の言葉を残したと描かれています。
しかし、これもまた後世的な脚色、あるいは文学的な誇張表現と考える方が自然でしょう。
後醍醐や側近公家を殊更に貶めることが目的(意図)であったとまでは言えないにしても、「忠臣・楠木正成」という人物像を際立たせる意図は充分に読み取ることができます。

では、『太平記』に描かれる「何度も天皇が京を離れることは面目に関わる」という論理は、本当に後醍醐や側近公家たちの無策、あるいは無能さを意味しているのでしょうか。
私は必ずしもそうではないと考えています。
以前の記事でも簡単に触れたように、「京の静謐を保つ」ことは「治天の君」、後世的に言えば「天下人」の重要な責務と考えられていました。
短期間に何度も天皇が京を離れることは、「京を守る意思に欠ける」という印象を周囲へ与えかねません。
これは単なる「面目」の問題というよりも、政治的な「信用」を大きく損なう危険を伴う選択だったと考えることもできるでしょう。
尊氏が京へ大きな損害を与えることなく六波羅探題を攻略したことで「勲功第一」と評価されたことや、「平治の乱」の際に平清盛が京(内裏)での流血を避けるため敵方を六波羅まで誘導したとされる話を思い出していただくと、この感覚は理解しやすいのではないでしょうか。
つまり、「天皇や公家たちがおわす京」は本来的に極めて特別な空間であり、結果として戦場となることはあったとしても、最初から京を主戦場とすることは、当時の政治的・宗教的感覚から見ても容易には受け入れ難い選択だったのではないかと思われます。
「京の静謐を保つことは治天の君の責務である」という政治的正当性と、「京そのものが持つ神聖性」という精神的・宗教的正当性の双方を考え合わせるならば、正成の作戦が退けられたとしても、それは決して「故無きこと」ではなかったと私は考えています。
本シリーズでは、後醍醐天皇を「聡明で有能な現実主義者」として捉えています。
であるならば、後醍醐自身も現状では尊氏に勝ち切ることが難しいことは充分に理解していたと想像できます。
しかし同時に、「京を守る君主」という政治的正当性を失うこともまたできなかったのでしょう。
誤解を恐れずに言えば、後醍醐は自らの正当性を(最低限)維持するため、正成に極めて困難な役割を託さざるを得なかった、と整理することもできるように思います。

あるいは、後醍醐自身は内心では、正成がかつての下赤坂の戦いのように戦場から離脱し、再起を図る可能性も考えていたのかもしれません。
もちろん、これは史料によって裏付けられたものではなく、あくまで私個人の想像に過ぎません。
しかし、後醍醐が『尊氏は自らを害することはない』とある程度の確信を伴って予測していたとするならば、正成にも「生き残る」という選択肢が残されることを期待していたとしても、全く荒唐無稽とは言えないように思われます。
しかし、正成は「生き残る」という選択をしませんでした。
”湊川”と楠木正成
合戦の詳細については、やはり大部分を軍記物語に依拠せざるを得ず、史実としては慎重な取り扱いが求められます。そのため、本稿では細かな戦況には立ち入らず、割愛したいと思います。
ここで重要なのは、「湊川の戦い」において楠木正成が敗死(自害)し、新田義貞は京へ敗走したという歴史的事実です。
この両者の選択の違いについても、単純に「その状況で戦場を離脱することが比較的容易であったか、それとも極めて困難であったか」という違いとして理解することも可能でしょう。
つまり、ここでも正成や義貞の属人的な能力や(忠誠心などの)心性を主要因として想定する必要は必ずしもないと私は考えています。
敢えて両者の心情を想像するのであれば、本シリーズで繰り返し述べてきた「武士の論理」に従った「選択の違い」であった程度に理解するのが自然ではないでしょうか。
本シリーズで言う「武士の論理」とは、「自身の面子と利権(権利)を守り、それを次代へ継承する」という武士の基本的な行動原理です。
ここで重要なのは、「自身の面子と利権(権利)を守ること」と「自身の命を守ること」とは必ずしも一致しない、という点です。
要するに、生きることそのものが目的なのではなく、生死を問わず最終的に「武士の論理」を全うできればよい、という考え方です。
例えとして適切かどうかは分かりませんが、『葉隠』で有名な
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
という言葉も、このような「生死そのものではなく、武士としての本分(武士の論理)を全うするべし」という意味に読み替えることも不可能ではないように思います。
この前提に立つならば、仮に正成が文字通り死地へ赴く覚悟であったとするならば、それは「後醍醐の忠臣」という社会的評価を決定付け、それを楠木家へ受け継ぐという意味で、「武士の論理」に従った行動として理解することができるでしょう。
これを「面子」と呼ぶのか、「利権(権利)」と呼ぶのかは非常に微妙なところですが、やや乱暴に言えば「面子寄りの利権(権利)」のようなものと整理することも可能ではないかと思います(武士にとっては「名誉」も「所領」や「家名」同様子孫に残す「資産」と考えられるからです)。
一方、新田義貞の場合は、この「武士の論理」を自身が生き残ることで全うしようとした、と考えることもできるでしょう。
先ほど述べた後醍醐の「再起への期待」という想像を仮に前提とするならば、正成の場合はその期待と全く噛み合わず、義貞の場合は偶然にもそれが噛み合った、と表現することもできそうです。
ここまで繰り返し述べてきたように、楠木正成は元々河内国に割拠する比較的小規模な武士勢力であり、尊氏と正面からぶつかるだけの大軍を動員することは極めて困難だったと考えられます。
また、新田義貞も関東では比較的有力な武士勢力ではありましたが、それでも尊氏に匹敵するだけの軍事的基盤を持っていたかと言えば、やはり難しかったように思われます。
何度も述べてきたように、建武政権最大の弱点は、軍事的基盤として足利尊氏という「存在」に強く依存せざるを得なかったことにありました。
これは言い換えれば、「尊氏という存在の代わり」が建武政権にはいなかった、ということでもあります。
そう考えるならば、九州で充分以上の軍勢を整えた尊氏に対して、後醍醐方の勝機は極めて限られていたと考えられます。
仮に湊川で正成が勝利を収めていたとしても、それは局地的な勝利に留まり、建武政権全体の劣勢を覆すことは容易ではなかったのではないか――これが本シリーズにおける私の理解です。
つまり、大局的に見るならば、「湊川の戦い」における楠木正成の敗死は、建武政権や後の南朝の命運を決定付けた出来事というよりも、軍事史として見れば一人の有力武将を失った事例の一つとして位置付ける方が、実相には近いのではないでしょうか。
一方で、楠木正成という人物が後世へ与えた影響は決して小さくありません。
本シリーズでは、正成は後醍醐にとって「最有力の軍事的支柱」というよりも、「精神的支柱」としての側面がより大きかったのではないかと考えています。
既に述べているように、現実問題として正成一人の力で当時の戦局そのものを覆すことは極めて難しかった――事実上不可能だった――でしょう。
しかし、当時、そして後世の人々が正成に求めたものは、「忠臣勇士」としての精神的象徴だったと整理することは、それほど的外れではないように思われます。
そして正成は、それを「武士の論理」に従って自ら体現してみせた、と理解することもできるでしょう。
もちろん、ここで述べたことは史料や先行研究によって直接裏付けられたものではなく、あくまで私個人の一つの解釈に過ぎません。「なるほど、そのような見方もあるのか」程度に受け止めていただければ幸いです。
ともあれ、正成敗死後の5月27日、後醍醐は三種の神器を携えて比叡山への退避を余儀なくされます。
ここで言う「三種の神器」は、恐らく「剣璽」、すなわち八尺瓊勾玉と草薙剣、あるいはそれらの形代(レプリカ)であったと考えられます。
まもなく尊氏は入京を果たし、「建武の乱」とも呼ばれる尊氏と後醍醐の軍事的対立は、ひとまず尊氏の勝利という形で決着します。
しかし、この勝利は決して湊川一戦だけで決まったものではありません。
ここまで見てきたように、建武政権の軍事的基盤の脆弱さ、尊氏が九州で再構築した人的・軍事的基盤、そして両者の政治的・制度的な積み重ねがもたらした帰結として理解する方が、本シリーズではより実相に近いと考えています。
そして、この勝利は皮肉にも、その後約六十年にわたって続く「南北朝時代」の幕を開く、大きな一歩となってしまうのです。
おわりに
以上、尊氏の「西進」、すなわち「九州への撤退」の過程を再度概観しつつ、「多々良浜」と「湊川」の戦いを中心に据え、その背景や歴史的な意味について考えてみました。
まず確認したように、尊氏の「西進」は決して単なる「敗走」ではありませんでした。むしろ、先を見据えながら様々な布石を打っていく「戦略的な行動」であったと捉えることが出来ます。
その過程で特に重要であったと考えられるのが、「元弘没収地返付令」と「光厳上皇の院宣獲得」です。前者によって尊氏は広範な武士層の支持を集め、後者によって「朝敵」という立場を持明院統の正統性と権威によって相対化することに成功しました。
また、「多々良浜の戦い」についても、軍記物語が描くような「圧倒的劣勢からの奇跡の逆転劇」や、『逃げ上手の若君』で描かれるような「何が起こったのか分からないまま尊氏が勝利した戦い」と、そのまま理解する必要はないことを指摘しました。
考えるべきは、その背景にある歴史的事実です。
尊氏は「元弘没収地返付令」によって西国武士層の支持を広げ、「光厳上皇の院宣」によって政治的正当性を獲得し、さらに建武政権期を通じて九州の多くの武士層とも一定の関係を築いていたと考えられます。加えて、尊氏は没落して九州へ逃げ込んだのではなく、再起を見据えて西進していたことも踏まえるならば、「決定的な兵力差」を前提とする必要は必ずしもないように思われます。
仮に兵力差そのものは存在したとしても、それは通常の戦争で見られる程度のものであり、軍記物語が描くような「十倍近い兵力差」であったとは考えにくいのではないでしょうか。
さらに、小弐氏・大友氏・島津氏といった尊氏方の有力武士は「多々良浜」周辺の地理にも通じていたと考えられ、戦術的にも致命的な不利を受ける状況ではなかったと思われます。
要するに、尊氏にとって九州とは「最後の逃げ場」ではなく、「再起のための拠点」であったと理解することが出来ます。今風に言えば、「物語で描かれるほど極端なアウェイ戦ではなかった」という表現も出来るでしょう。
もちろん、だからと言って尊氏方の「圧勝」であったと断定することも出来ません。実際には「辛勝」に近い激戦だった可能性も充分考えられます。しかし、その実相がどうであれ、尊氏が勝利したこと自体は歴史的事実として確認できます。
比較的短期間で九州をまとめ上げた尊氏は、一門の一部を九州に残し、自らは再び京を目指します。
その途上で起きたのが「湊川の戦い」です。
この戦いについても、合戦そのものより『太平記』など軍記物語に描かれる逸話を通して、後醍醐や正成が置かれていた立場などを考えてみました。
後醍醐が、正成の「比叡山へ退避し、空になった京へ尊氏軍を誘い込む」という作戦を、「何度も天皇が京を離れることは面子に関わる」として退けたとされる点について、本シリーズでは、単なる無策や無能ではなく、「京を守る」という政治的正当性と、「京そのものが持つ神聖性」という精神的・宗教的正当性の双方に制約された結果であった可能性を指摘しました。
また、比較的身分の低い武士層の出身と考えられる正成は、より純軍事的な観点から作戦を立案したと考えられます。これは両者の能力差というよりも、立場や責任の違いによって生じた感覚の違いとして理解する方が自然であるように思われます。
本シリーズにおける後醍醐天皇像は、「聡明で有能な現実主義者」です。
その人物像に立つならば、後醍醐自身も正成だけで戦局を覆すことが極めて困難であることは理解していたと思われます。それでもなお、自らの立場と責任から、正成と義貞に極めて困難な役割を託さざるを得なかったのではないかと本シリーズでは整理しました。
そして、仮に正成自身が文字通り「死地」と覚悟して湊川へ赴いたのであれば、それは本シリーズ独自の整理である「武士の論理」に従った行動として理解することも出来るでしょう。
本シリーズで言う「武士の論理」とは、「自身の面子と利権(権利)を守り、それを次代へ継承する」という武士の基本的な行動原理です。この考え方において、「自身の面子と利権(権利)を守ること」と「自身の命を守ること」とは必ずしも一致しません。
『葉隠』の有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉も、解釈の正確性には注意が必要ですが、「生死そのものではなく、武士としての本分(武士の論理)を全うすることが重要である」という意味に読むことも可能ではないかと考えました。
そうであるならば、正成は自らの敗死によって「後醍醐の忠臣」という社会的評価を楠木家へ残すことで「武士の論理」を全うし、一方の義貞は、生き残って再起を図ることによって同じく「武士の論理」を全うしようとした、と理解することも出来るでしょう。
重要なのは、「湊川の戦い」における正成と義貞の選択を、両者の属人的な能力や(忠誠心などの)心性だけで説明する必要は必ずしもないという点です。もちろん、それらの要素を完全に否定するつもりはありません。しかし、それらはあくまで二次的な要因であり、主要因と断定できるほどの根拠は乏しいように思われます。
また、正成は元々「河内国の一武士勢力」に過ぎず、尊氏と正面から対抗し得るだけの軍事動員は極めて困難であったと考えられます。恐らく後醍醐も正成本人もそのことは充分理解していたでしょう。
だからこそ、当時の楠木正成に求められていたものは、「建武政権最大の軍事的支柱」というよりも、「忠臣勇士」として人々を支える「精神的支柱」としての役割であったのではないか――これが本シリーズにおける理解です。
大局的に見れば、「湊川の戦い」における楠木正成の敗死は、建武政権や後の南朝の命運を直接決定付けた出来事というよりも、軍事史として一人の有力武将を失った事例の一つとして位置付ける方が、実相には近いように思われます。
そして正成敗死後の5月27日、後醍醐は三種の神器を携えて比叡山へ退避します。結果として後醍醐は、正成が当初献策したのと同じ行動を取ることになりましたが、この時点ではもう戦局を覆すことは極めて困難であった――事実上あり得ない――と考えられます。
なお、ここで言う「三種の神器」とは、恐らく「剣璽」、すなわち八尺瓊勾玉と草薙剣、あるいはそれらの形代(レプリカ。”かたしろ”と読みます)であったと考えられます。
その後まもなく尊氏は入京し、「建武の乱」とも呼ばれる両者の軍事的対立は、ひとまず尊氏の勝利という形で決着します。
しかし、この勝利は決して「多々良浜」や「湊川」という個々の合戦だけで決まったものではありません。
ここまで見てきたように、建武政権が抱えていた軍事的基盤の脆弱さ、尊氏が西進の過程で積み重ねた様々な布石、九州で再構築した人的・軍事的基盤、そして後醍醐と尊氏を取り巻く政治的・制度的条件――そうした様々な要素が積み重なった結果として理解すべきものであると、本シリーズでは考えています。
そして、この尊氏の勝利は皮肉にも、その後およそ六十年にわたって続く「南北朝時代」の幕を開く、大きな一歩となるのです。
次回は、尊氏の入京後の流れを追いながら、後に「北朝」と呼ばれる持明院統を中心とする朝廷の成立、後醍醐天皇の吉野脱出、そして後の「観応の擾乱」へと繋がる状況や背景を主なテーマとして概観していきたいと思います。
それでは、また。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
