ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第32回――後醍醐と尊氏、決裂の構造
前回は「中先代の乱」について、その背景や北条時行の位置付けを中心に考えてみました。
今回は、その続きとして「中先代の乱」鎮圧後の流れを概観します。
一般には、足利尊氏が鎌倉に留まり、後醍醐天皇の帰京命令に従わなかったことや、独自に恩賞を与えたことなどが、両者の決裂の原因として語られることが少なくありません。
しかし本稿では、単純な「野心」や「悪意」といった属人的な要因だけではなく、「そうなりやすい構造」が存在していたのではないかという視点から、この問題を考えてみます。
尊氏には本当に京へ戻れない事情があったのではないか。後醍醐はなぜ尊氏を「制御不能な存在」と認識したのか。そして、なぜ尊氏は最終的に「武士たちの神輿」として戦う道を選ばざるを得なかったのか。
本稿では、そうした問題を「情報の非対称性」や「三人成虎」の故事なども手掛かりにしながら整理してみました。
また、尊氏が「朝敵」とされた後の動きや、「元弘没収地返付令」「光厳上皇の院宣発給」などの持つ意味についても触れています。
後醍醐と尊氏の決裂とは、一体何だったのでしょうか。
今回は、その「構造」に注目しながら見ていきたいと思います。
※約17000字
はじめに
前回は「中先代の乱」について、私の個人的な推測や独自の整理も交えながら、ざっくりと考えてみました。
最初に、「北条時行」とは何者かについて概観しました。
時行本人については謎も多く、確定的に述べることは困難です。本シリーズではそれらの事情も踏まえつつ、「北条時行という人物」が重要だったというよりも、「北条時行という存在」が重要だったのではないかと整理しました。
時行は北条高時の子とされますが、正室所生ではなく、生母についても確実性の高い史料からは明確に確認しにくい人物です。『太平記』には「新殿(にいどの)」あるいは「二位殿」と見えるため、これを兄・邦時の生母とされる「常葉前(ときわのまえ)」と同一人物とする説などもあります。
ここで敢えて素人考えを述べるならば、『太平記』の記述がある程度事実を反映しているという前提に立つ場合、「新殿」が本来の呼称であり、「二位殿」は後世的な表記、あるいは当て字に近いものだったのではないかとも想像できます。
例えば北条政子が「二位尼(にいのあま)」とも呼ばれたのは、彼女自身が「従二位」という高い位階を有していたためです。従って、「二位殿」の「二位」も本当に位階に由来する呼称なのかについては、少し慎重に考える必要があるように思われます。
もし位階による呼称であったなら、彼女自身、あるいは父や祖父など近親者に「二位」に相当する高位の人物が想定されます。しかし、北条得宗家とはいえ、上級公家の女性を側室として迎えていたのであれば、彼女自身やその実家について、もう少し確実性の高い記録が残っていてもよいのではないかとも思われます(断定はできませんが、そのような女性が側室という立場に置かれることは、やや考えにくいようにも思われます)。
そのような記録が現時点で確認しにくいことを踏まえると、時行の生母は、少なくとも上級貴族層の出身ではなかった可能性が高いのではないかと私は考えます。もちろん、これは史料や先行研究によって確定された話ではなく、あくまで個人的な素人想像に過ぎません。
ともあれ、時行が正室所生ではなかった以上、通常は兄・邦時と同様に庶子にあたると考えられます。しかし、高時に正室所生の男子がいなかったこともあり、邦時は嫡子とされ、時行もまた得宗家の正統に連なる存在として周囲に認識されていた可能性があります。
従って、もし鎌倉幕府の滅亡がなければ、時行は得宗・邦時を支える有力一門として幕府内で重きをなしたかもしれません。もちろん、その立場が将来的な権力抗争の火種になった可能性もあります。
これらのことから、「中先代の乱」において時行に期待されたのは、政治的・軍事的指導者としての役割ではなく、得宗家の正統性、あるいは旧幕府への帰属意識を結びつける象徴としての役割だったのではないかと考えられます。
何より挙兵時の時行は十歳に満たない幼少の人物だったと推定されます。従って、軍勢の指揮・運用、あるいは政治的な実務については、諏訪頼重をはじめとする周辺の大人たちが主導していたと考えた方が自然でしょう。
このような理解を踏まえると、「中先代の乱」とは単純な北条氏再興運動、あるいは鎌倉奪還運動であっただけではなく、建武政権に対する不満や不信が大規模に可視化された事件であったと整理することができます。だからこそ中先代の乱は、関東の武士層の支持を一定程度集め、短期間で大規模化したのではないでしょうか。
そして、そのような情勢の中で、足利直義が差配する鎌倉将軍府は、建武政権に連なる存在とみなされ、関東武士層の結節点となるだけの権威や信用を充分には獲得できていなかった可能性があります。
近年の研究で指摘されるように、鎌倉将軍府が事実上、足利氏一門と旧幕府吏僚層との妥協の上に運営されていたのであれば、関東の武士層の中には、自らの功績に比して充分な処遇を得られていないと感じる者も少なくなかったかもしれません。つまり、鎌倉将軍府は関東の武士層にとって必ずしも魅力的な存在とはならず、むしろ不満の温床となる構造を抱えていた可能性があります。
この結果、充分な支持を集めきれなかった直義は時行方に対して後手に回らざるを得ず、名目上の「将軍」である成良親王を奉じて、鎌倉からの撤退を余儀なくされます。
本シリーズにおける後醍醐天皇像は、「聡明で有能な現実主義者」です。この前提で考えるならば、建武政権が行き詰まりつつあったことを、後醍醐自身も理解していた可能性があります。
そうであるならば、時行が将軍府方を打ち破り、鎌倉を奪還したという事実は、後醍醐に強い危機感を抱かせるものだったかもしれません。北条時行が、広く建武政権に反発する武士層の結節点となってしまった場合、建武政権そのものを揺るがす騒乱へと拡大する可能性も、まったく考えられないわけではありません。
それこそ、かつて鎌倉幕府の身に起こったことが、今度は建武政権の身に起こらないとも限らないのです。
そして問題は、後醍醐には時行に対抗できる手札がかなり限られていたと思われる点です。時行が持つ得宗家の正統性、旧幕府への帰属意識を集める象徴性、そして武士ネットワークの結節点としての機能に対抗し得る人物という条件であれば、足利尊氏以外の選択肢はほとんどなかったとも考えられます。
しかし、過去の記事でも触れたように、建武政権はその成立の経緯上、尊氏と彼の下に集まる軍事力に強く依存せざるを得ない構造になっていました。そして、その制御は後醍醐と尊氏の属人的な信頼関係に依存していたと考えられます。
少し表現を変えるなら、後醍醐と尊氏の間には表面的には充分な協調関係があったものの、後醍醐の側には尊氏を完全には信用しきれない思いがあったのではないか、と想像することができます。
なぜなら、京に戻った後醍醐が見たものは、尊氏を中心に武士たちが集まる「幕府のようなもの」だったからです。そして建武政権は、尊氏に武士を統率するための恒常的・制度的な地位を与える方向には進みませんでした。むしろ、「幕府」を認めない後醍醐の基本構想から考えるならば、「進まなかった」というより「進めなかった」と表現した方が実態に近いのかもしれません。少なくとも、史料上からはそのような明確な動きを読み取りにくいように思われます。
つまり、建武政権(後醍醐天皇)は「足利尊氏」という人物を処遇することは出来ても、尊氏の背後に存在する武士社会そのものを制度的に取り込むことは出来なかったのかもしれません。
このような背景から、後醍醐は尊氏の鎌倉下向や、征夷大将軍・惣追捕使への補任に慎重であったと考えることもできるでしょう。
そこには、従来言われるような「尊氏による新幕府創設」への警戒を想定してもよいでしょう。しかし本シリーズでは、それだけではなく、尊氏が自身の制御を外れることによって建武政権の軍事的基盤が弱体化することへの懸念を重視したいと思います。
ところが、尊氏は後醍醐の許可を得ないまま、飛び出すようにして鎌倉へ向かってしまいます。後醍醐はやむなく尊氏を事後的に「征東将軍」に補任したとされます。
本シリーズでは、この征東将軍という称号を、「制度的な裁量は認めないが、軍事行動そのものは公的に承認する」、つまり尊氏の東下を公戦として位置づけるための措置と解釈しました。称号自体が、後醍醐と尊氏との微妙な(或いは中途半端な)政治的距離感を象徴しているとも言えるでしょう。
しかしながら、この時点ではまだ両者の間に一定程度の協調、あるいは信頼関係が残っていたと考えることができます。
ともあれ、後醍醐からの公認も得た尊氏は、時行方の勢力を打ち破りながら東海道を東進し、三河国で弟・直義と合流して軍勢を整えます。そして鎌倉を目指してさらに進軍し、辻堂・片瀬原の合戦で諏訪頼重らを自害に追い込むと、時行は鎌倉から脱出し、中先代の乱は終息へと向かいます。
結果として中先代の乱は短期間で制圧されました。しかし、この乱が「中先代」と呼ばれたこと自体、北条時行の勢力が単なる一地方反乱ではなく、鎌倉を一時掌握した政治的事件として記憶されたことを示しているようにも思われます。
そして、この事件は歴史の大きな転換点となります。
今回は、乱鎮圧後の流れを概観していきたいと思います。
足利尊氏の事情
「中先代の乱」鎮圧後、尊氏は鎌倉に留まり、後醍醐からの上洛(帰京)命令にも従いませんでした。また、武士たちに独自に恩賞を与えるなどしたため、後醍醐の怒りを買ったとも言われています。
この結果、後醍醐は新田義貞に「尊氏追討」の綸旨を与えたとされます。
『太平記』をはじめとする軍記物語も含め、記録に残る限りでは、「中先代の乱」鎮圧後に後醍醐(建武政権)と足利尊氏が決裂したということ自体は概ね事実と見て良いでしょう。少なくとも私の知る限りでは、この事実を覆すような史料は発見されていないと思われます。
この歴史的事実と尊氏の「野心」、あるいは「幕府設立への志向」を結び付けて語られることも少なくないように思われます。しかし、本シリーズでこれまで述べてきたように、私は「尊氏本人には幕府設立に対する明確な構想や志向は極めて希薄だった」と考えています。
では、尊氏にそのような意思がなかったとして、なぜ後醍醐と尊氏は袂を分かつことになってしまったのでしょうか。
一つには、尊氏に「京へ戻りたくても戻れない事情」があった可能性が考えられます。
『南北朝の動乱―主要合戦全録』(渡邊大門編・星海社刊)には、「三浦和田文書」に収められているある武士の着到状が紹介されています。それによると、建武2年(1335年)10月3日から9日にかけて計4回の着到が記されており、そのうち2回が「北条時行に与する者を退治するため」の作戦行動への参加でした。
諏訪頼重を自害に追い込み、事実上「乱鎮圧」の決定打となった辻堂合戦が行われたとされるのは8月19日です。つまり、その後も鎌倉周辺では時行方の残存勢力に対する掃討戦(または緊張状態)が続いていたことが読み取れます。
もちろん、これだけで鎌倉が再び時行方に奪還される危険が差し迫っていたとまでは言えません。しかし少なくとも、鎌倉周辺には依然として時行方残党が潜伏・活動していた可能性があり、情勢はなお不安定だったと考えられるでしょう。
過去の記事でも触れているように、実務上やむを得なかった面もあるとはいえ、直義の「鎌倉将軍府」の運営は関東武士層の広範な支持を得るには至らなかったように思われます。従って事態を抑え込むためには、「足利尊氏」という存在が持つ圧倒的な求心力に依存せざるを得なかった可能性があります。
そう考えるならば、尊氏は「帰京しなかった」のではなく、「帰京したくても出来なかった」という側面もあったのかもしれません。
勿論、これが理由の全てではないでしょう。軍記物語などでは、直義が「新田義貞らが尊氏の暗殺を企てているため京へ戻るのは危険である」と説いて引き留めたような話も見られます。その史実性については慎重であるべきですが、本シリーズにおける人物理解の上からは「近い話があった可能性」までは否定できないように思われます。
前回触れた「征東将軍」という称号の中途半端さを「後醍醐の尊氏に対する距離感」の表れと解釈するのであれば、その温度を最も鋭敏に読み取れた人物は直義だったかもしれません。
そして実際に時行方残存勢力の脅威が続いていたのであれば、直義が「兄上には鎌倉にいてもらわなければ治まるものも治まりません」といった形で帰京に慎重であった可能性は充分に考えられるでしょう。
つまり尊氏が京へ戻らなかった理由は、単純な個人的野心や軍記物語に見られる陰謀譚だけではなく、現実的な軍事・統治上の事情も大きかったのではないか――というのが本シリーズの推測です。
また、「勝手に恩賞を与えた」という話も、そのような現実的事情を前提とすると理解しやすくなります。
一方で、「征夷大将軍を自称した」という説明については慎重であるべきだと考えています。
武士たちの間で尊氏を「将軍家」と呼ぶ者が現れ始めたこと自体は事実であるようです。しかし、それと尊氏自身が「征夷大将軍」を自称したこととは全く別の問題です。
そもそも征夷大将軍は、宗尊親王以来約80年にわたり親王が就任してきた官職でした。このため当時の一般的な武士層の間でも、「征夷大将軍とは親王が就くもの」という認識は相応に強かったのではないかと思われます。
つまり、征夷大将軍という称号のハードルは決して低いものではなかったとも言えるでしょう。
前回触れた『太平記』の記事――鎌倉下向の際に尊氏が後醍醐へ「征夷大将軍」と「惣追捕使」への補任を求めたという逸話も、仮に事実を反映している部分があるとすれば、尊氏にとってはあくまで例外的・一時的措置という認識だった可能性があります。
惣追捕使は追捕が終われば存在意義(法的根拠)の大半を失いますし、征夷大将軍も本来は常設官職ではありません。そしてそれらを任命できるのは建前上、後醍醐天皇ただ一人です。
従って、仮に尊氏を「将軍家」と呼ぶ武士が現れたとしても、それだけで尊氏が気軽に征夷大将軍を自称できるほど軽い称号だったとは考えにくいのです。
一方、「勝手に恩賞を与えた」ことについては充分にあり得たと考えられます。
先述の『太平記』の記事で尊氏が語ったとされる「戦乱を鎮め統治を安定させるには、功績を挙げた武士に直ちに恩賞を与えるのが第一である」という趣旨の言葉は、史実として受け取ることは出来ないとしても、尊氏の本音に近い部分を表現している可能性があります。
武士たちを繋ぎ止めるためには、迅速な恩賞給付が必要だったからです。
前回の記事で述べたように、「時行方」に与した武士たちの動機には大きな温度差があったと考えられます。短期的な利益を求めて時行方へ加わった者もいれば、尊氏の寛容さを期待して帰順してきた者もいたでしょう。
何より尊氏は時行本人を取り逃がしています。
こうした状況で恩賞の遅延や不満が広がれば、それは再び反建武勢力の結集を招く要因になりかねません。
そう考えるならば、「勝手に恩賞を与えた」こともまた、地域の武士社会を安定させるための現実的措置だったと理解することが出来ます。
では、尊氏が「征夷大将軍になったつもり」だったわけではないのだとしたら、彼は一体何を根拠としてそのような措置を行ったのでしょうか。
根拠は何か
考えられるのは、やはり尊氏が「征東将軍」に補任されていたという事実です。
そもそも論として考えるならば、「征夷大将軍」とは律令に定められていない臨時の官職、すなわち「令外官(りょうげのかん)」です。要するに古代において朝廷の敵対勢力であった蝦夷(えみし)を征討するために置かれた非常置の官職が「将軍」だったと言えるでしょう。
その意味では、重要なのは「将軍」であって、「征夷」や「征東」、「鎮狄」などの表現は、同じ将軍職を細かく呼び分けたものと理解することも不可能ではありません(学術的な正確性については保証できません)。
前シリーズでも触れた源義仲の「征東大将軍」や、源頼朝が当初「大将軍」を朝廷に要求したことを思い出して頂けると多少分かりやすいかもしれません。
少なくとも武士社会においては、「征東将軍」と「征夷大将軍」の違いがどこまで厳密に意識されていたのかについては慎重に考える必要があるでしょう。
そうであるならば、「征東」や「征夷大」という部分の差異よりも、「将軍」という立場そのものを根拠として、その裁量権を解釈することは不可能ではなかったように思われます。
特に直義はその種の知識に通じていたと考えられますし、尊氏に対して「助言」を行った可能性は充分に考えられるでしょう。少し意地の悪い表現をするならば、「入れ知恵」と言い換えることも出来るかもしれません。また、武家故実に詳しい「高師直」についても同様の可能性を考えることは出来そうです。
もう一つ重要なのは、「後醍醐との協調関係」という前提です。
尊氏は乱鎮圧後の8月30日に従二位へ昇叙されています。これは建武政権(後醍醐天皇)による、中先代の乱鎮圧に対する恩賞と考えてよいでしょう。
また、尊氏は中先代の乱鎮圧に参加した武士たちへの恩賞について後醍醐に奏請し、それに応じる形で後醍醐が恩賞給付の綸旨を発給したことも知られています。
つまり少なくとも乱鎮圧直後の段階では、後醍醐と尊氏はなお一定の協調関係にあったと考えることが出来るのです。
このような前提を合わせて考えるならば、尊氏が独自に恩賞を与えたことも、あるいは拠点を旧将軍邸跡へ移したことも、「後醍醐との協調関係」を前提にしながら、現実の軍事的・政治的脅威へ対応するための措置だったと捉えることが出来ます。
少なくとも、この時点で尊氏が将来の室町幕府を具体的に構想し、その実現に向けて行動していたと考える必要は必ずしもないように思われます。
従来しばしば語られてきた「源氏の嫡流」や「武家の棟梁」といった説明についても、近年では比較的慎重な理解がなされています。
特に「源氏の嫡流」という観念については、室町幕府成立後に足利将軍家の権威を高めるために形成・流布された側面が強いと考えられており、この時点では尊氏本人を含めて一般的な認識だったとは考えにくいようです。
以前の記事でも簡単に触れましたが、当時の一般的な認識としては、「源氏の嫡流」は実朝の死によって断絶したものと理解されていた可能性が高く、従ってそれが尊氏の政治的動機になったとは考えにくいと思われます。
度々述べているように、本シリーズでは尊氏について、「幕府開設のような積極的な武家政権樹立の志向や構想は極めて希薄だった」と考えています。
また学術的にも、『難太平記』などに見える「置文伝説」は後世の創作と理解されています。
これは源義家が「七代後に生まれ変わって天下を獲る」と記した置文が足利家に伝わり、その七代目にあたる家時が「三代のうちに天下を獲らせてほしい」と八幡大菩薩に祈願してから自害した、という有名な逸話です。
しかし要するにこれは、「尊氏や直義が幼少期から天下取りの志を抱いていた」ことを説明するための物語だったと理解することが出来るでしょう。
歴史家の亀田俊和氏は『高師直―室町新秩序の創造者』(吉川弘文館刊)の中で、「当時の足利氏には、天下獲りの野望など微塵もなかったのである」と述べています。
もちろん、これは主として家時の置文伝説に対する批判として語られたものです。しかし少なくとも、足利氏の内部で代々受け継がれた「天下取り構想」のようなものが存在したと考えることには慎重であるべきでしょう。
私自身もまた、尊氏にこのような伝説を踏まえた明確な幕府創設構想(天下獲りの大望)があったとは考えていません。
従って本シリーズでは、中先代の乱鎮圧後の尊氏の行動についても、後醍醐との協調関係を前提とした現実的対応であった可能性を重視しています。
では、乱鎮圧直後にはなお一定の協調関係にあった後醍醐と尊氏は、なぜ決定的に袂を分かつことになったのでしょうか。
ここから先は史料だけでは説明しきれない部分も多くなります。私自身の推測も交えながら、この問題について考えてみたいと思います。
三人成虎?
過去の記事で触れているように、本シリーズでは建武政権について、「足利尊氏とその背後に存在する軍事力へ強く依存せざるを得ない構造にあった」と整理しています。
そして、本シリーズにおける後醍醐天皇像――すなわち「聡明で有能な現実主義者」という人物像を前提とするならば、後醍醐が積極的に尊氏を切り捨てる明確な理由(動機)は、それほど多くなかったように思われます。
先述したように、中先代の乱鎮圧直後には両者の間に一定の協調関係が確認できます。
そうであるならば、「尊氏・直義追討」の綸旨が発給されたと考えられる建武2年(1335年)11月までのおよそ三か月の間に、後醍醐と尊氏の決裂を決定的にさせる何らかの要因が存在したと考えざるを得ません。
しかし、その「何か」を直接示す史料は、少なくとも私の知る限りでは確認されていません。
今後、新たな史料が発見されれば話は変わるかもしれませんが、現時点では推測によって補うほかない部分と言えるでしょう。
ここから先は、本シリーズ独自の整理を前提とした私見になります。
過去の記事でも述べたように、私は建武政権成立直後から、政権内部には尊氏派と反尊氏派の対立が存在していた可能性を考えています。
もっとも、それは必ずしも露骨な派閥抗争を意味するものではありません。
当時の建武政権において、軍事力・武士ネットワーク・政治的求心力のいずれを取っても、尊氏を単独で大きく上回る勢力は多くはなかったように思われます。
軍記物語などに見られる「尊氏暗殺計画」のような話が実際に存在したかどうかは分かりません。しかし建武政権の構造を考えるならば、後醍醐が積極的に尊氏を排除することによって得られる利益は、それほど大きくなかったように思われます。
また、「神輿」の適正サイズという観点から見ても、尊氏の後釜となり得る人物を見出すことは容易ではなかったでしょう。
ところが、後醍醐と尊氏の間に物理的な距離が生まれた場合には話が変わってきます。
現代であれば電話やテレビ、あるいはインターネットなどによって、ほぼリアルタイムで情報を共有することが出来ます。しかし当然ながら、中世の日本にはそのような通信手段は存在しません。
以前の記事で、尊氏が京から鎌倉へ到達するまでに二十日前後を要したことを「かなり早い」と述べました。しかしそれはあくまで軍事行動としての話です。
早馬などを利用すれば通信はより迅速だったでしょうが、それでも一定の時間を必要としたはずです。
例えば現在の地図サービスで鎌倉駅から京都駅までを検索すると、徒歩で約四日程度と表示されます。もちろん当時と現代では道路事情も異なりますが、少なくとも情報の伝達に数日単位の時間を要したと考えることは不自然ではないでしょう。
私が言いたいのは、これによって後醍醐と尊氏の間には「情報の非対称性」と「時間差」が生じていたということです。
そして、この状況になって初めて、建武政権内部に存在したであろう政治的対立にも変化が生まれたのではないかと思うのです。
ここで必ずしも物語的な「讒言」を想定する必要はありません。
私が連想するのは、『韓非子』などに見える「三人成虎」の故事です。
魏の龐恭(ほうきょう)は、太子と共に人質として趙へ赴く前に魏王へ向かって「市場に虎が出たと言う者が一人なら信じないだろう。しかし三人が同じことを言えば信じてしまう」と語ったとされます(夫れ市の虎無きや明らかなり。然れども三人言いて虎を成す)。
要するに、「あり得ない話であっても、同じ内容が繰り返されれば事実のように見えてしまう」という話です。
私は、後醍醐の周囲でも似たような現象が起きた可能性を考えています。
尊氏は帰京命令になかなか応じず、独自に恩賞を与え、鎌倉で独自色を強めていきます。
それらの行動には先述したような現実的事情があったのかもしれません。しかし、その事情や意図が後醍醐へ正確に伝わっていたかどうかは分かりません。
むしろ私は、その点に大きな疑問を感じています。
本シリーズで描いている尊氏像は、どちらかと言えば大局的で親分肌の人物です(要するに大雑把)。
細かな政治的配慮や説明を得意とする人物だったとは、あまり思えません。
加えて、征東将軍への補任や従二位への昇叙、さらには恩賞奏請への対応などによって、尊氏自身が「自分と後醍醐は協調関係にある」と認識していた可能性も考えられます。
もしそうであれば、尊氏は後醍醐への説明や情報共有を、それほど重視していなかったのかもしれません。
そして、以前から述べているように、後醍醐の尊氏に対する距離感を最も警戒していた人物は直義だった可能性があります。
直義が明確な幕府構想を持っていたかどうかは分かりません。しかし、少なくとも後醍醐との距離を慎重に測っていたとしても不思議ではないでしょう。
その場合、直義もまた、後醍醐との意思疎通を積極的に促進する方向には動かなかった可能性があります。
こうして後醍醐のもとには、尊氏に関する情報が断片的(或いは不正確)な形でしか届かなくなっていったのではないでしょうか。
そして、そのような状況の中で反尊氏的な立場の人々が尊氏を積極的に擁護するとも考えにくいように思われます。
その結果として、後醍醐は「尊氏が自らの統制を離れつつある」と判断したのではないか――これが私の想像です。
もちろん、これは史料や先行研究によって裏付けられたものではありません。あくまで一人の非専門家による推測に過ぎません。
しかし建武政権の構造を考えた時、「尊氏を積極的に排除する明確な利益」が見出しにくい以上、このような説明も全くあり得ない話ではないように思われます。
そして、この問題は「足利尊氏という人物」をどう扱うかではなく、「足利尊氏という存在」をどう扱うかという問題だったのではないでしょうか。
その意味では、中先代の乱における北条時行とどこか似た構造を持っていたようにも思われます。
私自身は、後醍醐と尊氏の決裂とは、誰か一人の野心や悪意によって生じたものではなく、情報の非対称性と政治的距離が生み出した構造的な行き違いの結果だったのではないかと考えています。
遂に「決裂」する両者
後醍醐と尊氏の「決裂の実相」がどうであれ、建武2年(1335年)11月に後醍醐が「尊氏・直義誅伐」の綸旨を発給したこと自体は歴史的事実です。
このため、新田義貞を中心とする追討軍が鎌倉へ向けて発遣され、更に尊氏と直義の官位は全て剥奪されました。
こうして尊氏は「朝敵」とされてしまいます。
これに対し、少なくとも本シリーズの理解では、この時点の尊氏はなお後醍醐との全面対決を望んでいなかったように思われます。
『梅松論』や『太平記』などによれば、尊氏は全ての政務を直義に委ねて鎌倉の浄光明寺(神奈川県鎌倉市)へ籠ったとされます。
また、「髻(もとどり)」を切ったとも伝えられています。
髻とは髷(まげ)の根元にあたる部分であり、簡単に言えば出家の前段階のような行為と理解することが出来るでしょう。
もしこれが事実であれば、尊氏は出家によって恭順の意を示そうとしたとも考えられます。
もっとも、この話の主な出典は『梅松論』や『太平記』ですので、そのまま史実として受け取ることは難しいと思われます。
ただし、「出家」まではともかくとして、尊氏が自ら蟄居謹慎したという程度であれば、充分にあり得る話ではないでしょうか。
しかし後醍醐にとっては、既に「話し合いで解決する段階」を過ぎていた可能性があります。
追討綸旨が発給された以上、単なる謝罪や恭順だけで事態を収拾できる局面ではなかったように思われるのです。
こうして足利方と後醍醐方は武力衝突へ向かうことになります。

足利方は11月25日、三河国の矢作川(愛知県岡崎市)や遠江国の鷺坂(静岡県磐田市)などで後醍醐方に敗北し、駿河国の手越河原(静岡県静岡市)まで後退します。
さらに12月5日には、鎌倉から駆け付けた直義軍と合流して後醍醐方と再戦しますが再び敗北し、箱根方面へ退却して水呑(静岡県三島市)に要害を構えました。
これは事実上、鎌倉の玄関口まで追い詰められた状態と言ってよいでしょう。
箱根を突破されれば、鎌倉防衛は極めて困難になった可能性があります。
もちろん鎌倉そのものは天然の要害であり、防御に適した土地です。
しかし既に一度「失陥」を経験している上、今まさに攻め寄せているのは、その鎌倉攻略の中心人物であった新田義貞です。
足利方にとって、事態はかなり深刻だったと考えられます。
直義らの窮状を知った尊氏は、遂に再び表舞台へ立つことになります。
12月10日に足柄峠へ布陣し、翌11日に竹ノ下へ進軍すると、ここで後醍醐方を破りました。
さらにその後の戦いでは、佐々木導誉ら後醍醐方に属していた勢力が尊氏方へ転じたことなどもあり、戦局は大きく変化します。
最終的に尊氏は三島周辺で後醍醐方を破り、新田貞義らを敗走させました。
これがいわゆる「箱根・竹ノ下の戦い」です。
戦いの具体的経過については『梅松論』に依る部分が大きいものの、着到状などの一次史料との整合性も高く、一定以上の信頼性を持つと考えられています。
ただし、尊氏が決意した際の心情描写などについては、『太平記』と同様に創作を含む可能性が高く、そのまま史実と受け取ることは出来ません。
重要なのは、具体的なやり取りがどのようなものであったにせよ、この段階で尊氏が名実ともに「武士たちの神輿」となったことだと私は考えています。
そこには弟・直義や尊氏を慕う武士たちの危機を救いたいという個人的な想いもあったでしょう。
しかし同時に、「朝敵」とされた以上は戦って勝つ以外に生き残る道がほとんど残されていなかったという現実もあったように思われます。
つまり、この時点の尊氏には選択肢がほとんど存在しなかったとも言えるでしょう。
戦うか、それとも自ら味方と共に滅びるか。
尊氏は「戦う」ことを選んだというよりも、「戦うしかなかった」のではないか――それが本シリーズの理解です。
そして、この戦いを境に尊氏は独立した武士勢力の中心として振る舞わざるを得なくなります。
後の室町幕府成立も、その延長線上に位置付けることが出来るように思われます。
尊氏の”上洛”
「箱根・竹ノ下の戦い」で新田義貞らを敗走させた尊氏は、そのまま京へと攻め上ります。
『梅松論』によれば、この際に「鎌倉へ戻って関東支配の安定を優先するか、それとも京方面での戦いを重視するか」を協議したとされます。しかし先述したように、既に尊氏は「朝敵」とされており、事実上「戦って勝つ」以外の選択肢はほとんど残されていなかったように思われます。
故に仮に何らかの協議が実際に行われていたとしても、その結論はある程度決まっていたのではないでしょうか。
この話は、むしろ「承久の乱」において北条義時ら幕府首脳部が「鎌倉で防衛するか、京へ攻め上るか」を議論したという逸話を意識した叙述が含まれている可能性もあるように思われます。
繰り返しになりますが、この時点で尊氏は既に朝敵です。
尊氏本人はもちろん、彼を神輿として担ぐ武士たちにとっても、選択肢は極めて限定されていたと考えるべきでしょう。
本シリーズ独自の整理である「武士の論理」――すなわち「自身の利権(権利)と面子を守り、それを次代へ継承する」という観点から考えても、彼らに残された道は「戦って勝つ」こと以外にほとんど無かったように思われます。
年が明けた建武3年(1336年)1月、尊氏方は京への攻撃を開始し、後醍醐天皇は坂本への退避を余儀なくされます。
ところが、その後奥州から駆け付けた北畠顕家を中心とする後醍醐方との戦いに敗北してしまいます。
敗れた尊氏方は摂津国兵庫嶋(現在の神戸市兵庫区)へ移動し、ここでいわゆる「元弘没収地返付令」を発布したと考えられています。
これは建武政権によって所領を没収された武士たちに対し、尊氏方へ加われば旧領を返還するという趣旨の政策です。
残念ながら法令そのものの原文は現存していません。しかし複数の下文(くだしぶみ)や御教書(みぎょうしょ)の内容から、そのような政策が実施されていたことは確実視されています。
ここで重要なのは法令の文言そのものではなく、その目的です。
尊氏の目的とは要するに「味方となる武士を集めること」でした。
実際問題として、建武政権によって所領を没収された武士たちの多くは北条氏やその与党勢力だったと考えられます。
その意味では、この政策は「中先代の乱」で見られたような反建武政権勢力の結集を、より大規模に再現しようとしたものと捉えることも出来るでしょう。
既に尊氏方に属していた武士たちの中にも、この政策を歓迎する者は少なくなかったはずです。
つまり「元弘没収地返付令」は、多くの武士たちにとって「武士の論理」を実現するための政策だったと考えることが出来ます。
もちろん、その一方で建武政権から新たな所領を与えられていた武士の中には、この政策によって不利益を被る者もいたはずです(尊氏本人も含めて)。
しかし建武政権の強い受益者層の多くは後醍醐方に属していたと考えられます。
そのため、仮に一部に不満が生じたとしても、全体として見れば尊氏方にとって充分に採算の取れる政策だった可能性が高いでしょう。
つまり、この「元弘没収地返付令」は、尊氏の勢力拡大という目的を充分に果たし得るものだったと評価できるように思われます。
そして何より重要なのは、この政策が「尊氏が勝利しなければ何の意味も持たない」という点です。
この政策を動機として尊氏方へ加わった武士たちにとっても、「戦って勝つ」ことが前提条件となります。
そして、その可能性を担保する存在こそが「足利尊氏」でした。
この点が、同じく結節点として機能した北条時行との大きな違いだったように思われます。
時行の場合、その影響力は基本的に関東を中心としたものでした。
しかし尊氏の場合、その影響は既に全国規模に広がりつつあります。
もし後醍醐が中先代の乱を「建武政権に対する不満や不信が大規模に可視化された事件」と認識していたのだとすれば、尊氏はまさにその(意味と)可能性を全国規模で体現する存在になっていたとも言えるでしょう。
もう一つ、この時期に重要なのが光厳上皇による院宣の発給(の要請)です。
『梅松論』では赤松円心の献策によるものとされていますが、その真偽は分かりません。
しかし少なくとも、誰かが提案し、それを尊氏が採用したこと自体は歴史的事実と考えてよいでしょう。
一般にこれは「朝敵」という立場を解消するための政治的措置と説明されます。
これによって戦いの構図は、「尊氏対後醍醐」から「持明院統対後醍醐」という形へと変化します。
簡単に言えば、「尊氏が天皇に逆らう」のではなく、「持明院統を奉じて後醍醐と戦う」という形へとレイヤーを移したのです。
尊氏が院宣によって得るものは、単なる権威ではありません。
それは、自らの軍事行動を正当化するための政治的基盤だったと言えるでしょう。
少し先の話になりますが、後に尊氏は北朝を擁立することになります。
しかし本シリーズでは、北朝を単なる「傀儡政権」と捉えるべきではないと考えています。
尊氏、そして後の室町幕府にとって北朝とは、自らの正当性を担保するための前提条件だったのではないでしょうか。
ともあれ、この段階では尊氏はなお後醍醐方に勝利することが出来ず、九州への退却を選択します。
しかし、それは単なる敗走や没落ではありませんでした。
九州には少弐氏や島津氏など有力な武士勢力が存在し、足利氏とも一定の関係を持っていました。
つまり尊氏にとって九州とは、「最後の逃げ場」ではなく「再起のための拠点」だったと考えるべきなのです。
おわりに
以上、「中先代の乱」鎮圧後の流れについて、主に「後醍醐と尊氏の決裂」の構造に着目しながら概観してみました。
既に述べている通り、本稿では両者の決裂について、単純な「誰かの政治的な悪意」や「野心」といった属人的な要因よりも、「そうなりやすい構造」が存在していた可能性を重視しています。
本稿でまず注目したのは「尊氏の事情」です。
尊氏本人の考えがどのようなものであったにせよ、当時の関東、特に鎌倉周辺には時行方に連なる勢力などによる潜在的な不安定要素が残されていたと考えられます。そのため、「抑え」として尊氏という存在が必要とされており、実質的には「鎌倉を離れられない」状況だったのではないかと想像しました。
また、後醍醐の尊氏に対する距離感を最も警戒していた人物がいるとするならば、それは弟である足利直義だったのではないかとも考えました。
そのような理解に立つならば、直義が尊氏を鎌倉に留める方向へ動いた可能性も充分に考えられます。
さらに、尊氏が後醍醐の綸旨を待たず独自に恩賞を与えたことについても、こうした不安定要因へ対処するための現実的な対応だったと捉えることが出来るでしょう。
従来しばしば語られる「帰京命令の拒否」や「独自の恩賞給与」も、本稿では戦後処理の現実的対応という側面から理解できるのではないかと考えました。
一方で、後醍醐側にも乱鎮圧直後には尊氏の昇叙や恩賞奏請への対応など、一定の協調関係が存在していたことが確認できます。
しかし最終的に後醍醐は尊氏を排除する方向へ舵を切ることになります。
その要因として本稿が着目したのが、物理的距離によって生じた「情報の非対称性」と「時間差」です。
私は、この状況が中国の故事である「三人成虎」に近い状態を生み出したのではないかと想像しました。
軍記物語に見られるような劇的な「讒言」を想定する必要は必ずしもありません。反尊氏的な立場の人々が尊氏を積極的に擁護しないだけでも、後醍醐の判断に影響を与えることは従分にあり得たでしょう。
加えて、本シリーズにおける人物理解から考えるならば、尊氏も直義も後醍醐との意思疎通を積極的に図る方向には動かなかった可能性があります。
このような状況であれば、後醍醐が尊氏を「自らの統制から離れつつある存在」と認識したとしても、不自然ではなかったように思われます。
つまり、これは「後醍醐が愚かだった」という話ではなく、「そう判断してしまっても不思議ではない状況にあった」のではないか――それが本稿の整理です。
こうして後醍醐は尊氏・直義討伐の綸旨を発給し、新田義貞を中心とする追討軍が鎌倉へ向かうことになります。
遂に尊氏は「朝敵」とされてしまいました。
本シリーズの理解では、尊氏はなお後醍醐との全面対決を望んでいなかったように思われます。
そのため当初は蟄居謹慎、あるいは出家による恭順という道を選ぼうとしたとも考えられます。
しかし、追討軍との戦いで劣勢に立たされ、直義や味方の武士たちが危機に陥る中で、尊氏は「戦って勝つ」道を選ばざるを得なくなりました。
それ以外の選択肢は、もはやほとんど残されていなかったとも言えるでしょう。
こうして尊氏は名実ともに「武士たちの神輿」、すなわち独立した武士勢力の中心として振る舞うことになります。
尊氏方は戦局を立て直し、「箱根・竹ノ下の戦い」で義貞らを敗走させることに成功します。
さらに京へ攻め上り、後醍醐を坂本へ退避させるところまで追い詰めました。
しかしその後、奥州から長駆南下してきた北畠顕家らの軍勢に敗北し、九州への退却を余儀なくされます。
その過程で行われた重要な政策が「元弘没収地返付令」と「光厳上皇の院宣発給(の要請)」でした。
前者は北条与党やそれに連なる武士層の支持を獲得するための政策として理解することが出来ます。
そして後者は、「朝敵」という立場を政治的に上書きするための措置と考えることが可能でしょう。
これによって戦いの構図は「尊氏対後醍醐」から、「持明院統を奉じる尊氏対後醍醐」へと変化します。
言い換えるならば、尊氏はここで新たな「正当性」を獲得(しようと)したとも言えるのです。
また、この構図は後に成立する「北朝を奉じる室町幕府」という基本構造の萌芽と捉えることも出来るでしょう。
以前の記事でも触れたように、尊氏は九州に対して一定の影響力を保持していたと考えられており、少弐氏や島津氏などの有力武士勢力とも関係を有していました。
従って、九州への下向は単なる敗走や没落ではありません。
尊氏にとって九州とは、「最後の逃げ場」ではなく「再起のための拠点」だったと考えるべきでしょう。
このように、一時は尊氏に勝利したかに見えた後醍醐天皇でしたが、その後の歴史が示すように、まだ「試合終了」ではありませんでした。
中先代の乱において北条時行が関東武士層の結節点となったように、この時期の足利尊氏は全国規模の武士層の結節点となりつつあったのかもしれません。
後醍醐方では唯一、楠木正成が尊氏との和睦を献言したとされます。しかし、この逸話についても後世の創作が含まれている可能性は否定できません。悲運の名将という構図は、古今東西を問わず物語の定番でもあるからです。
次回は九州における尊氏の動きと、その後の展開について概観したいと思います。
いよいよ「南北朝時代の扉」が本格的に開き始めます。
それでは、また。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を加えています)。
