ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第1回――武士が皇位継承に介入した瞬間:後嵯峨天皇登場まで
承久の乱から約20年。
武士政権と朝廷の均衡は、一見すると落ち着きを取り戻したかに見えました。
しかし、四条天皇の急逝によって皇統の継承問題が再び噴き出すと、幕府はついに “天皇の選定” という、本来は治天の君の専権であった領域に踏み込むことになります。
本稿では、徹底排除したはずの後鳥羽の皇統へ「結局は戻らざるを得なかった」歴史の皮肉、そして後嵯峨天皇の即位に至るまでの複雑な経緯を、前シリーズの視点も交えつつ(なるべく)わかりやすく整理します。
南北朝時代という「どうしてこうなった」日本史最大級の迷宮は、どこから始まったのか。
その序章となる“皇位継承への武士の本格介入”の瞬間を、今回も執筆者とChatGPTの協業で追いかけていきます。※約6100字
はじめに
日本史を「単なる暗記教科」ではなく、少し視点を変えて“線で捉えてみよう”という軽い気持ちで書き始めた note 記事の「ChatGPTと学ぶ日本史」シリーズ。
前シリーズでは「墾田永年私財法」から説き起こし、主に土地制度の視点から日本史を眺めましたが、途中どうしても「武士とは何者か」を語る必要が生じ、土地制度史の画期でもある「鎌倉幕府」の成立へと歩を進めることになり、結果として想定外の長さの連載になりました。
さて、前シリーズの終盤で扱った「承久の乱」は、いわゆる“武士の世”が揺るぎないものになる大きな転換点でした。しかし、この大事件によって直ちに武士が政治の全てを掌握したわけではありません。
徐々に権威は弱まりつつも、「朝廷」は依然として実態をもった政権として存在し続け、その権威の屋台骨も決して一朝一夕には崩れませんでした。
この、強引に言えば“朝廷と幕府の並立制”のような安定バランスが崩壊し、なし崩し的に「新時代」へと転がり始める直接的なきっかけとなったのが、誰あろう「後醍醐天皇」その人です。そして後醍醐天皇が引き起こした一連の動きは、のちに足利義満によって収束するまで約60年続く「南北朝時代」という大混乱へとつながりました(ほぼ完全な解決は足利義教の時です)。
そこで今回、新シリーズとして、日本史における「どうしてこうなった」の代表格とも言える“南北朝時代”へ至る道筋を、前作同様に土地制度や貨幣経済にも少し触れつつ、概観してみたいと思います。
もちろん、私自身は研究者でも専門家でもない一般人ですので、難解な学術的議論はできません。どうか肩の力を抜いてお付き合いいただければ幸いです。
なお、今回も私が原稿を書き、それを ChatGPT が事実確認とリライトを行うという、前シリーズ同様の協業形式でお届けします。
天に二日無く土に二王無し
本来、日本において「天皇」とは常に一人だけ存在するものです。
少なくとも「大和朝廷」と呼ばれる政治体制が確実に成立し、「文字による記録」が残るようになって以降、天皇(あるいは古代の大王〈おおきみ〉)は基本的に唯一の存在として扱われてきました。
ところが、この“一人であるはずの天皇”が、なぜか二人同時に並立してしまった時期があります。
それが、約 60 年続いた「南北朝時代」です。
中国史にも同名の「南北朝時代」がありますが、決定的な違いは、中国のそれが“北も南も、それぞれ別王朝として易姓革命が成立している”点にあります。
日本の場合はまったく異なり、同じ皇統(王家)の内部で系統が分裂し、最終的には同じ王家へ収束したという特異な構造を持ちます。その点では、むしろ15世紀イングランドの「薔薇戦争」のように、同一王家の内部対立が王位継承問題にまで発展したケースの方がやや近いのかもしれません。
ともあれ、日本史における「一天二皇」とでもいうべき事態が生じた最大の要因のひとつは、冒頭で触れた後醍醐天皇の登場でした。
もちろん、後醍醐天皇がある日突然の“思いつき”で南北朝の大混乱を生み出したわけではありません。
そこに至るまでには、長い時間をかけた政治的・制度的な揺らぎが積み重なっています。
そして、その“根っこ”を辿っていくと、最終的に二人の人物へ行き着きます。
それが、
「後嵯峨上皇」
そして
「北条時宗」
です。
”後嵯峨上皇”とは
二人のうち、「北条時宗」の方は中学校の歴史教科書にも登場しますので、ご存じの方も多いでしょう。
“迫りくる元の大軍を撃退した”という、日本史のなかでも燦然と輝くヒーローの一人であり、2001年には『北条時宗』というタイトルでNHK大河ドラマにもなっています。
対して「後嵯峨上皇」については、「どちら様でしょうか?」という方も少なくないかもしれません。そこでまずは、南北朝時代の“最初の切っ掛け”を作った人物とも言える後嵯峨上皇から見ていきましょう。
ところで先ほど、「日本において天皇は唯一の存在」と気軽に書きましたが、実は南北朝時代以前にも、“天皇が二人同時に存在した”時期が約2年ほどありました。
前シリーズでも簡単に触れたように、平清盛によって擁立された「安徳天皇」は、平家の都落ちの際に母方の一門とともに西国へ動座することになります。その際、平家方は後白河法皇を確保し損ねるという決定的な失策を犯しました。その結果、後白河法皇は「治天の君」として権威を維持しつつ、尊成(たかひら・たかなり)親王を践祚させ、のちに“後鳥羽天皇”として即位させます。
この践祚の時点から数えると約2年弱、即位礼から数えても約10か月、西の安徳天皇と東の後鳥羽天皇が同時に“天皇として”存在していたことになります。
期間が短いこと、また安徳天皇側には官職の任命や文書発給など、独立した「王朝」と呼べるほどの政治的体制が成立していなかったことから、“東西朝”のような呼び名が定着していないだけなのです(ただし、新史料の発見などによって変わる可能性はあります)。
とはいえ、“一天二皇”の前例がすでにあったことは間違いありません。
そしてこの経験は、のちの南北朝時代を考える上で、遠因の一つでもありました。
”後鳥羽天皇”のコンプレックス
このとき後鳥羽天皇は、「天皇の正統性を象徴する」いわゆる三種の神器が一つもないまま即位することになります。
これは、平家が安徳天皇とともに神器を携えて西国へ動座したためで、この“神器なしの即位”は、後鳥羽自身の皇位の正統性に対する大きなコンプレックスになったとも言われています。
なお、後に神器のうち二種(八咫鏡・八尺瓊勾玉)は京都へ戻りますが、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は壇ノ浦で失われたとされます(ただし異説もあり、儀礼的には“代替の剣”が用いられていきます)。
こうした“正統性へのこだわり”も一因だったのか、後鳥羽は貴族たちが震え上がるほどの厳しさで朝廷儀礼の復興に邁進し、自らも武芸に励み秀でた人物でした。いわばインテリにして武芸にも通じた、極めて異色の「上皇」だったのです。
この「後鳥羽上皇」が、さまざまな出来事と誤算の積み重ねの末に「打倒・北条義時」の檄を飛ばし、最終的に引き起こしたのが承久の乱です。
(乱に至る経緯や詳細な結果は前シリーズで扱いましたので、ここでは割愛します)
ただし、ここで二つだけ重要な点を挙げておきます。
承久の乱の結果、武士(幕府)が皇位継承に強い影響力を持つ前例が成立した。
後鳥羽上皇が狙ったのは“北条義時(=北条氏)排除”であって、討幕そのものではなかった。
この二点は、のちの南北朝時代の遠因として非常に大きな意味を持つため、ぜひ記憶の片隅に置いていただければ幸いです。
避けて通れない”前置き”
前シリーズに引き続き少々回りくどい説明になっていますが、「後嵯峨上皇」を語るには、ここまでの前提を避けて通るわけにはいきません。どうしても前置きが長くなってしまうのです。
というのも、この後嵯峨上皇とは、他ならぬ後鳥羽上皇の孫にあたる人物だからです。
そして後鳥羽上皇は、承久の乱に敗れた結果、隠岐へ配流され、皇統の主流から排除されました。このとき、反幕府派の最大の強硬派とされた順徳上皇も佐渡へ配流され、ほぼ無関係であった土御門上皇までが自ら望んで土佐へ下向してしまいます(のち阿波へ移動。三上皇のなかでは比較的優遇されました)。
こうして後鳥羽の皇統は事実上排除され、代わって立てられたのが守貞(もりさだ)親王の皇統でした。
……はい、「お前は何を言っているんだ」状態なのは重々承知しています。しかし、後鳥羽の皇統を配流・臣籍降下・出家などで次々と排除した結果、幕府に残された“皇位継承の候補”は、守貞親王(=行助〈ぎょうじょ〉法親王)の三男である茂仁(とよひと)王しかいなかったのです。
このあたりの経緯は前シリーズ第37回でも触れていますので、よろしければ参照してみてください。ともかく、皇位継承の可能性がほぼゼロで、すでに寺院で学問修行をしていた(※正式な受戒はしていなかった)茂仁王は、賀茂別雷神社の記録いわく
「せめいだしまいらせて、おがみまいらせて」
(=無理やりお連れして、拝み申し上げた)
という有様で即位へ連れ出されることになりました。
ネットミーム風に言えば、ほとんど「いやこら拉致だよ!」という状況ですが、繰り返しになりますが、幕府にはこれしか選択肢が無かったのです。
院政という「制度外の制度」は白河上皇以来、すでに「あって当然。むしろ無いと困る」レベルにまで制度化されていました。
そもそもこの“治天の君システム”があったからこそ、後鳥羽天皇の即位も可能だったと言えるでしょう。
そして、このとき茂仁王はわずか10歳。自ら治天の君となって親政を行うのはさすがに無理があります。そこで父の行助法親王(守貞親王)を太上天皇として奉じ、「後高倉院」として院政を行わせる形をとりました。
苦しい「つじつま合わせ」ではありますが、“最低限の体裁”はどうにか整えた、と言ってよいでしょう。
すなわち、
親王宣下も立太子も経ずに即位した後堀河天皇(=茂仁王)
天皇即位を経ずに上皇となった後高倉院(=守貞親王)
という、異例中の異例の布陣が生まれたわけです。
ともあれ、こうして後高倉院の皇統が続き、朝廷と幕府の体制もある程度の安定期を迎える……はずでした。
まさかの事態
成立の経緯はさておき、後高倉院は混乱していた朝廷の立て直しに努め、朝幕関係の安定化にも一定の成果を挙げたとされます。しかし、その働きも束の間、わずか約2年(仁治4年=1223年)で薨去してしまいます。史料には腫物を患ったと記されています。
残された後堀河天皇は、そのまま親政(自ら政務を執る体制)に入ります。天皇を支える摂関家の内紛や政治的駆け引きを挟みつつも、幕府の後押しもあって、貞永元年(1232年)にわずか2歳の秀仁(みつひと)親王(四条天皇)へ譲位し、自らの院政を開始します。
しかしその約2年後、天福2年(1234年)、後堀河上皇は23歳の若さで崩御してしまいます。元々身体が弱かったとも伝えられています。
さらに頼みの綱であった四条天皇も、仁治3年(1242年)、12歳の幼さで崩御します。
廊下に敷いた滑石で宮廷女官を転ばせて笑おうとしたところ、自ら仕掛けを踏んで転倒し、当たり所が悪く亡くなった――という逸話が有名です(史実性は不明ですが、古記録にそう伝えられています)。
いずれにせよ、後堀河上皇・四条天皇の相次ぐ早逝は、朝廷にとっても幕府にとっても大きな誤算でした。
困り果てたのは、当然ながら朝廷と幕府です。
後継者を誰にするか
当然ながら、12歳の四条天皇に子が「まだ」いるはずもありません。
この一大事に際し、朝廷の貴族たちは、順徳上皇の第五皇子である忠成(ただなり)王を次の天皇に迎えることを望みました(前摂政の親戚という理由もあります)。しかし幕府はこれをきっぱり拒否します。
すでに述べた通り、承久の乱の結果として、武士(幕府)は本来「治天の君の専権事項」であったはずの皇位継承にも強い影響力を及ぼせるようになっていました。
かつて木曽義仲が、保護下にあった「北陸宮」を次期天皇として推そうとした際、後の摂政となる九条兼実が日記『玉葉』に
「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」
(=王位の決定は、人臣が口を出す筋合いではない)
と強烈な非難を書き残したことを思い出すと、この“変化”がどれほど異例で重大であったか、よく分かるでしょう。
このとき幕府を事実上差配していたのは、名君の誉れ高い北条泰時でした。時宗から見ると曾祖父にあたり、その後の武士法の根本法典となる『御成敗式目(貞永式目)』を編纂した人物です。
余談ながら、“執権”が幕府の正式な職名として確立したのも、泰時の代とされています。
さて、泰時と幕府にとって“承久の乱で最もノリノリだった”とされる「順徳上皇」の皇統を建てるという選択肢は、最初からあり得ませんでした。
当時、順徳上皇はまだ存命であり、忠成王が即位すれば、当然ながら順徳上皇が「院」として復帰し、院政を行うことになります。
端的にいえば、
「順徳上皇が京に戻ってくる可能性」
を幕府は絶対に避けたかった、ということです。
結果だけ見れば順徳は同年(1242年)に崩御するのですが、そんなことを泰時が知り得るはずもありません。
こうして順徳の皇統を拒否した幕府が推挙(事実上の指名)したのが、「土御門上皇」の皇子である邦仁(くにひと)王で、まもなく即位することになる人物――
「後嵯峨天皇」
その人なのです。
おわりに
以上、南北朝時代へ至る“前史”の入り口として、後嵯峨天皇の登場に至るまでの経緯を概観しました。
「人物が舞台に上るまででこの前置きか!」という呆れ声が聞こえてきそうですが、これもまた、承久の乱後に幕府が行った無理筋のツジツマ合わせが後に招いた“しっぺ返し”と言えなくもありません。当時の幕府――もう少し言えば、北条義時をはじめとする武士たちにとっては「そうするしかなかった」事情もあったため、単純に「自業自得」と批判することもできません。
とはいえ、彼らが徹底排除したはずの後鳥羽の皇統に、結局は戻らざるを得なくなったというのは、歴史の皮肉以外の何ものでもありません(しかも義時の子・泰時の代という早さで、です)。
こうして、“最初から幕府の強い影響下で”即位した後嵯峨天皇は、当然ながら幕府との協調関係の維持に腐心します。幕府の側もまた、後嵯峨朝廷を支えることで、いわば“蜜月時代”とも呼べる安定した関係を築いていきます。
幕府から見れば「これは大当たりだった」と言ってよい選択で、実際、しばらくの間はその安定が続きました。
――しかし、その“大当たり”は後世にとんでもない置き土産を残すことになります。
果たして、「後嵯峨上皇」はいったい何を残したのか。
次回は、日本史に久々に登場する「超大型爆弾」について、じっくり述べてみたいと思います。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
