ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第22回――ショートカット政治の限界~綸旨万能主義と建武新制の失敗
建武新制の失敗要因としてしばしば挙げられる「綸旨万能主義」。
本稿では、この綸旨を単なる「乱発された命令書」としてではなく、制度的な「ショートカット」として捉え直し、その構造的限界を検討します。
後醍醐天皇の綸旨至上主義は、突発的な思いつきではなく、大覚寺統に特徴的な属人的統治の伝統と、隠岐配流という非常時における「これしかない」選択の延長線上にありました。
しかし、倒幕成功という成功体験のもとで、この非常手段が平時の統治にも持ち込まれたことで、整合性の欠如、訴訟の爆発的増加、そして雑訴決断所の処理限界といった深刻な問題が顕在化していきます。
本来、ショートカットが有効に機能するためには、ショートカットされる通常の制度や機構が全体として機能していることが前提となります。
ところが建武政権では、その前提となる統治システム自体が充分に構築されないまま、綸旨によるトップダウン決裁が続けられました。
結果として、後醍醐天皇自身が政権のボトルネックとなり、建武政権はキャパシティーオーバーに陥っていきます。
本稿では、綸旨万能主義を個人の失策として断じるのではなく、「システムなき改革」が抱えた構造的問題として整理します。
後醍醐天皇の改革はなぜ行き詰まったのか――その核心を、制度史と統治構造の観点から読み解きます。※約13000字
はじめに
前回は、「職(しき)の体系」について振り返りつつ、後醍醐天皇が結果的にそれを大きく揺るがすことになってしまった点を概観しました。
まず、職の体系とは、極めて単純化して言えば、一つの荘園(土地・領域)に対して、複数のレイヤー(職)がミルフィーユ状に重層的に支配・関与する体制のことです。
これは中世社会において広く共有されていた、土地支配の基本的なあり方でした。
そこに補助線として「知行(ちぎょう)」の概念を導入しました。本シリーズでは、知行を便宜的に「その荘園、あるいは地域から収益を得る権利」と定義しています。ただし、知行は必ずしも土地の全面的・排他的な支配権を意味するものではなく、その内容や重みは時代や文脈によって大きく異なる点には注意が必要です。
この視点に立てば、「一つの土地(荘園)に対して、複数の主体が重層的に知行(収益権)を持つ構造」として職の体系を捉えることも可能になります。これは、「一つの荘園を複数のレイヤーが重層的に支配・関与する体制」という従来の説明と対立する概念ではなく、あくまで同じ職の体系を、やや異なる角度から見ているに過ぎません。
前者が制度・システムとしての側面を強調した表現であるとすれば、後者はその内部における収益分配の構造を強調した表現であると言えるでしょう。
政治と経済は一体不可分のものであり、これまで度々述べてきた「重層的土地支配体制」と、知行を軸にした「重層的収益関係」は、いずれも職の体系を説明するための有効な視角なのです。
また、この「職の体系」と「地頭」の関係についても前回は触れました。
地頭は、職の体系において実務的には下司職に相当する役割を担う存在であり、本所の支配を受ける立場にありました。しかし同時に、地頭は武士であり、鎌倉殿(幕府)との間に結ばれた、所謂「封建制」と呼ばれる武士的主従関係にも属する存在でした。すなわち、地頭とは「職の体系」と「武士の主従制」という、性格の異なる二つの体制にまたがる「両属」の存在であったと言えます。
地頭、ひいては御家人にとって、本来第一義的に属するのは鎌倉殿(幕府)であり、下司職に相当する「荘園管理の実務者」としての立場は、乱暴に言えば副次的なものでした。
この視点から見れば、地頭にとって土地(荘園)とは、「御恩と奉公」という契約関係における媒介であると同時に、奉公を果たすための原資、すなわち財源でもあったことが分かります。
そのため、従来的な荘官とは、土地に対する認識や捉え方が大きく異なっていたことが想像されます。これが、本所側と地頭側の間で葛藤や相論(訴訟)が頻発する一因となった可能性も考えられるでしょう。
さらに、地頭(御家人)には軍役以外にも経済的な負担が重く課されており、奉公から自家の家政に至るまでを「自弁(自己負担)」で賄わなければならないという、構造的な問題が存在していました。「とにかく金がかかる」という状況は、個々の地頭の強欲さというよりも、制度的に内包された問題だったと考えるべきでしょう。
ところで、地頭という存在が「職の体系に後付け・外付けの形で差し込まれた」制度でありながら、一定程度まで機能し得た背景として、前回は
・朝廷と幕府による分担統治という政治的担保
を挙げました。ここで一点だけ補足しておきたいのは、最初期に源頼朝(幕府)を支えた有力武士、すなわち後の御家人の多くが、伝統的な荘園領主の系統に属していたという点です。
彼らは、上総国を中心に土着した高望王(平高望)を祖とする桓武平氏(高望王流)の末裔であり、畠山氏や三浦氏なども「坂東八平氏」と呼ばれる有力分家の系統に属していました。彼らの多くが「庄司(しょうじ)」、すなわち荘司を名乗っていたとされるのは、そのためです。荘司とは、荘園における管理・運営の実務を担う荘官を指す呼称でした(正確には荘司や出納(すいとう)、公文(くもん)といったものの総称が「荘官」です)。
このように見てくると、頼朝を頭首とした勢力は「反乱軍」という立場から出発しながらも、その過程において後の「御恩と奉公」の原型とも言える「安堵」を報償として行っていたことが理解できます。元々、充分な土地や経済力を自前で持たなかった頼朝は、「お前が持っている土地に関する権利は、私が保証する」という形で支持を集めました。
この関係は、頼朝が自らの財布を傷めることなく勢力を拡大できる一方、御家人(武士)側も権利の正当性を強化できるという、いわば「Win-Win」の関係でした。この文脈においては、地頭とは「荘司」を呼び変えたに過ぎず、元から職の体系内に位置していた存在であったとも言えるのです。
このような前提のもと、多少のガタつきはあったものの、「職の体系」そのものは、鎌倉時代を通じて当然の社会秩序として認識され、維持されていました。
ところが、後醍醐天皇は建武新制において、この職の体系が前提として機能しなくなる状況を、結果的に惹き起こしてしまいます。これは後醍醐天皇が無能だったからでも、無策だったからでもありません。「天皇の下に支配(決裁権)を一元化する」という大目標を掲げた以上、重層的な土地支配は必ずしも好ましい体制とは言えなかったからです。
問題は、それを制度としての中央集権によって実現しようとしたのではなく、天皇の裁量による「知行(権利)の付け替え」という形で処理しようとした点にありました。この結果、土地制度は「収益権」と「支配権」がより一体化した「一円支配」へと移行していき、最終的には守護領国制と室町幕府による「分割統治」へと着地していきます。
このように、後醍醐天皇は結果的に「鎌倉時代」と「室町時代」を繋ぐ、「分断という名の結節点」となってしまいました。なお、この「分断という名の結節点」という表現は、本シリーズにおける著者独自のイメージであり、学術用語ではありません。
さて、本シリーズでは建武政権崩壊の大きな一因として「キャパシティーオーバー」を挙げていますが、その直接的な原因とも言えるのが、後醍醐天皇のいわゆる「綸旨万能主義」です。
これも厳密な学術用語というよりは、説明上の便宜から用いられている表現ですが、今回はこの「綸旨万能主義」について、少し掘り下げて眺めてみたいと思います。
”綸旨万能主義”の意味と意義
この「綸旨万能主義」については、教科書や概説書などでも、「雑訴決断所」と並んで、建武新制(建武政権)を論じる際には冒頭部、あるいはそれに近い位置で取り上げられる重要事項となっています。
それは、この「綸旨万能主義」こそが、建武政権崩壊(失敗)の大きな要因の一つと捉えられてきたからです。
それでは、本シリーズにおいてこの点を真っ先に論じなかったのは、「著者がうっかりしていた」からでは決してありません(全く無いとは言い切れませんが……)。
建武政権の失敗について概観してきた各記事において、折々に触れてきた「キャパシティーオーバー」という枠組みの中に、この「綸旨」の問題もまた内包されていると考えているからです。
言い換えれば、断片的な指摘や要旨については既に述べており、今回はそれらを整理し、補足する位置づけとして捉えて頂ければと思います。
まず結論から述べると、建武政権、すなわち後醍醐天皇の治世において、「綸旨」は大きく分けて二つの「負の側面」を発揮してしまいました。
それが「キャパシティーオーバー」と「ボトルネック」です。
この二つは別個の概念というよりも、むしろ相互に因果関係を持ちながら悪循環を形成したものと考えられますが、まずは「なぜ後醍醐天皇は綸旨万能主義を採らざるを得なかったのか」という点から考えてみたいと思います。
第一に想定されるのが、過去記事でも折々に述べてきた「親裁主義」という、大覚寺統に特徴的な統治スタイルです。
すなわち、後醍醐天皇は、父・後宇多天皇の政治姿勢を受け継ぎ、親政期から属人性に強く依拠する政治スタイルを継承していました。その結果として、「綸旨」という天皇の直接的裁断に依拠する形へと着地していったのは、ある意味では自然な流れだったとも言えるでしょう。
ただし、この親政期における綸旨について、歴史学者の森茂暁氏が、一般向けの著作である『南朝全史―大覚寺統から後南朝へ』(講談社学術文庫)において、興味深い事例を紹介しています。
以前の記事でも簡単に触れた「二条河原落書」において、「謀綸旨(にせりんじ)」が揶揄されていることはよく知られていますが、この謀綸旨(偽造綸旨)が、天皇親政期にあたる正中元年(1324年)にも発生していたというのです(『花園天皇宸記』)。
詳細は本旨から外れるため割愛しますが、簡単に言えば、年貢の納入(徴税)を先延ばしにする旨の綸旨が発給されたという噂が立ち、その「案文」(綸旨本文の下書き)が広く流布した、という事例です。
現代風に表現するならば、「社会的影響の大きい法案が可決されたという噂(デマ)が流れ、その条文とされる文書がSNS上で爆発的に拡散した」といった状況に近いでしょう。
最終的には、これは検非違使庁の役人による「謀作(ぼうさく/偽造)」であったことが判明します。
偽文書を取り締まる立場にある検非違使庁の役人が、自ら偽文書を作成していたという点でも極めて悪質な事件ですが、同時にこれは、「綸旨」という形式が持つ脆弱性を示す事例でもあります。
すなわち、綸旨は確かに「天皇による直接的な命令」ではありますが、その文書自体を天皇自らが書くわけでは原則としてありません。
この構造的特性こそが、二条河原落書で揶揄されるほど「謀綸旨」が蔓延し得た背景の一つであり、綸旨という制度が内在的に抱えていた弱点であったと言えるでしょう。
もう少しだけ詳しく見ていきましょう。
綸旨とは、「奉書」と呼ばれる文書形式で発給されるもので、天皇の側近などが、天皇の命令や意向を受けて、宛先となる人物や部署に対して「奉る」形で作成されます。
つまり、天皇自らが「このようにせよ」と直接文書を書くわけではなく、奉者と呼ばれる臣下に宛てて「天皇陛下はこのように仰っている(お考えである)ので、そのように取り計らってほしい」といった趣旨を文書化するのが基本形です。末尾には「仍(よ)って執達件(くだん)の如し」といった定型句が添えられることも一般的でした。
このように、実際に文書を受け取って執行する担当者を「奉者」と呼びますが、この語は後に武家政権における「奉行」という言葉の語源ともなります。
この仕組みからも分かるように、綸旨そのものは、構造的に見て「文書としての脆弱性」、すなわち偽造や流用が比較的容易であるという一面を内包していました。
後醍醐天皇は、親政期からこの綸旨を重視し、多用していました。したがって、先に述べたような「謀綸旨(偽造綸旨)」が発生しやすい土壌が、すでにこの時点で形成されていたと考えられます。
さらに重要なのは、元弘の変で敗れ、隠岐に遠流となって以降の状況です。
後醍醐天皇は、この流刑期間中においても、いや、流刑されたからこそ、膨大な数の綸旨を発給することになります。
なぜなら、この時点の後醍醐天皇には、事実上「綸旨」以外に政治的意思を伝達する手段がほとんど存在しなかったからです。
すでに治天の君としての立場を失っている以上、朝廷の機構(太政官制)を前提とする「官宣旨」は出せませんし、院でもないため「院宣」も発給できません。また、朝廷機構(人員)を背景とした「詔勅」も事実上不可能でした。
とはいえ、綸旨であっても原則として奉者を必要としますし、天皇の意を文書化し、流通させるためには、側近を中心とした「近侍グループ」の存在が不可欠です。
さらに、隠岐に流された後醍醐天皇は、形式上は譲位しており、建前の上では「天皇ですらない」立場に置かれていました。その意味では、この時期に発給された綸旨は、通常の政治過程から見れば、その法的・制度的効力がどこまで認められるものだったのかは、必ずしも自明ではありません。
悪く言えば「自称綸旨」と言われかねない状況でしたが、それでも後醍醐天皇にとっては、実質的にそれしか手段がなかったのです。
その結果、本来であれば綸旨の宛先となることの少なかった武士層に対しても、綸旨が大量に発給されることになります。そこでは、軍勢の催促はもちろんのこと、「将来的な知行(所領宛行)」を約束する内容、言い換えれば「勝利の暁には多大な恩賞を与える」という、いわば空手形が次々と切られていきました。
そして、鎌倉幕府最末期の混乱という状況の中で、これらの綸旨は「大義名分」として機能し、結果的に後醍醐天皇に勝利をもたらします。
しかし、勝利の後に何が起こるかは、ある意味で自明でした。
すなわち、空手形を受け取った人々が、その「中身」、すなわち実際の知行や恩賞を求めて、建武新制の下に殺到することになります。
さらに、綸旨という形式が内包していた脆弱性ゆえに、真偽不明の綸旨、すなわち謀綸旨もまた、混乱に紛れる形で大量に持ち込まれることになりました。
そうなると、訴人が持ち込んだ綸旨が「本物かどうか」を一件一件確認・審査する必要が生じます。これは訴訟処理における時間的・人的コストを著しく押し上げる要因となりました。
しかも、そのような「怪しい綸旨」が後から後から押し寄せる以上、処理能力が限界を超えるのは、もはや避けられない事態だったと言えるでしょう。
このように、「それしかない」手段として綸旨を積極的に用いざるを得ず、しかも倒幕という極めて軍事的な目的を達成するために、インセンティブとして景気の良い「空手形」を切らざるを得なかった状況の中で綸旨を多用したことが、結果として建武政権の「キャパシティーオーバー」を招く一因となったと考えることができます。
問題(空手形)は綸旨だけではなく……
また、後醍醐天皇の皇子たちが各地に分散し、討幕のための活動を積極的に行った結果、それらの皇子たちによって「令旨」が大量に発給されることになります。
これらの令旨もまた、「倒幕」という軍事的インセンティブを引き出すための手段であり、後醍醐天皇の綸旨と同様に、「勝利の暁には恩賞を与える」という趣旨の、いわば空手形を大量に含むものでした。
こうした令旨を積極的に発給した人物として、特によく知られているのが 護良(もりよし)親王 です。
この護良親王は、建武新制においても大きな問題を引き起こす存在となりますが、その点については稿を改めて述べる機会があるかもしれません。
結局のところ、隠岐を脱出し、京へと帰還した後醍醐天皇を待ち受けていたのは、このようにして発給された膨大な数の綸旨・令旨による「空手形」でした。
以前の記事で簡単に触れた「雑訴決断所」は、まさにこうした綸旨・令旨を審査し、必要に応じて「取り消し(召し返し)」を行う役割も担っていた機関です。
言い換えれば、乱発された綸旨や令旨の「整理」や「回収」を行う部署でもありました。
しかし、すでに述べてきたように、雑訴決断所の規模を拡張したとしても、処理は容易には追いつきませんでした。その結果、処理の遅延や未処理案件の滞留は、建武政権、ひいては後醍醐天皇に対する不満として蓄積されていく大きな要因となります。
ここで一つ、誤解してはならない点があります。
それは、「雑訴決断所」そのものが機能不全に陥っていたと、必ずしも考える必要はないという点です。問題であったのは、制度や担当者の能力というよりも、単純に「処理能力が現実の需要に追いついていなかった」ことにあります。
漫画的に表現するならば、山のように積み上がった書類を前に、一件一件印章(国印など、あるいは署名)を押して処理している最中にも、さらに新たな書類の山が追加され続けるような状況です。
物語であれば、このような場面で主人公や国王が逃げ出し、逃亡先で事件が起こるのが定石ですが、現実の政治においてそれを行えば、待ち受けている結末は「政権崩壊」以外にありません。
この点を踏まえると、後醍醐天皇が京を追われ、建武政権が事実上終了した時点においても、雑訴決断所自体の機能はなお維持されていたと考える方が自然でしょう。
少なくとも、「機関として完全に崩壊していた」と評価するのは行き過ぎであり、あくまで過剰な案件流入によって処理能力を超過していた状態、すなわちキャパシティーオーバーに陥っていたと捉えるべきだと思われます。
また、雑訴決断所の機能の一部は、後の室町幕府にも継承されていきます。
訴訟処理については、鎌倉幕府の機構を引き継いだ「問注所」や「評定衆」、さらに評定衆の下部組織である「引付」などが設けられました(全く同じものではない事に注意)。また、幕府の判決に実効性を持たせるための制度として「使節遵行」が整備され、それを守護に命じる「管領(当初は執事)施行状」などもよく知られています。
このように見ていくと、雑訴決断所そのものは決して無意味な制度ではなく、むしろ有効な施策であったと評価することができます。
問題は制度設計そのものではなく、処理速度が当時の現実、すなわち綸旨・令旨の氾濫という異常事態に追いついていなかった点にあった、と考えるのが妥当でしょう。
”綸旨”とは”ショートカット”のようなもの
そして、以前の記事でも同様の趣旨を簡単に述べてきましたが、最大の問題は、本来はある種の「非常時の手法」であった綸旨を、建武政権においてもそのまま継続して用いた点にありました。
すでに触れてきたように、「天皇の下に決裁権を集中させる」という構想を実現するため、後醍醐天皇はこの綸旨を政治手段の柱として据えてしまったのです。
原則的に言えば、「綸旨」とは一種のショートカットと捉えることができます。
太政官制のもとで発給される「官宣旨」や、「詔勅」といった公式な命令文書は、複数の公卿や担当者の手を経て作成・確認されるものであり、どうしても一定の手続きと時間を要します。
全く異なるものではありますが、あくまでイメージとして捉えるなら、現代の「稟議書」に近いものと考えると分かりやすいかもしれません。
最終的に経営者が決裁するにしても、その前段階として必要な書類が整えられ、関係部署や担当者の確認を経た上で、「あとは決裁者の承認を待つだけ」という状態にしておく必要がある、という点で似た構造を持っています。
このような「事前準備(手続き)」を必要とするのが、官宣旨や詔勅といった公式命令でした。
それに対して綸旨は、原則として奉者さえいれば成立し、場合によっては文章は蔵人(くらんど)などの側近を使わずに自身で作成しても法的には問題ありませんした。
つまり、物理的な文書を関係部署で回覧する必要がある宣旨や詔勅に比べ、綸旨は特定の担当者に直接命令を伝えられるため、圧倒的に速いという特徴を持っていたのです。
先ほどの比喩で言えば、稟議書を経ずに、経営者に直接案件を伝えるようなものだと言えるでしょう。
確かに、成立して間もない建武政権は、いわば「創業期」の政権でした。
その段階では、悠長に手続きを踏むよりも、後醍醐天皇が直接判断するトップダウン型の統治の方が、合理的に見えた側面も否定できません。
しかし、このようなショートカットが有効に機能するためには、ある前提条件が必要になります。
それは一見逆説的ですが、「ショートカットが有効に機能するためには、ショートカットされる通常の機構が、全体として有効に機能している必要がある」という点です。
例えば、後に「得宗専制」と呼ばれる体制への道を切り開いた北条時宗の場合、彼がショートカットしたのは「評定」や「引付」といった、合議制に由来する構造的な遅延要因でした。
その一方で、政所・問注所・侍所といった鎌倉幕府の基幹的な統治機構は、概ね正常に機能していました(問注所については、業務量の増大により相当な負荷がかかっていた可能性はありますが、それでも機能停止には至っていません)。
つまり、「得宗」というショートカットが有効に作用したのは、鎌倉幕府全体のシステムがなお機能していたからに他なりません。
言い換えれば、それは「システムに支えられた独裁」、あるいは「制度を前提としたショートカット」であったと言えるでしょう。
ところが、後醍醐天皇の場合、太政官制そのものの本格的な復興や再編はほとんど行われませんでした。
政治の実務は後付け的な機構である「記録荘園券契所(記録所)」や「院議定」といった制度を用いて行われ、あるいは行おうとしました。
建武政権に特有の機関である雑訴決断所についても、その原型は伏見期の「記録所庭中」に求められ、いずれも本来の律令制には存在しない機構である点は共通しています。
また、京の治安を担う検非違使も重視されましたが、これも「令外官」、すなわち律令制の正規官職ではありませんでした。
さらに、実態が十分に解明されていない「窪所」や「武者所」といった新たな官職、あるいは部署も設置されています。
これらは一定の機能を果たしていたと考えられますが、朝廷全体を一つの統治システムとして見た場合、綸旨というショートカットの受け皿となる機構が充分に整備されていたとは言い難いでしょう。
あの「制度に支えられた独裁」であった得宗制でさえ、最終的には制御不能に陥り、幕府滅亡へと至りました。
ましてや、ショートカットが有効に機能するための制度的前提を欠いたまま綸旨を政治の中核に据えた後醍醐天皇の政権が、短期間で行き詰まったとしても、それは必然に近い帰結だったと言えます。
これは、後醍醐天皇や側近たちの有能・無能といった問題とは切り離して考えるべきでしょう。
そもそも必要な前提条件を満たしていなかった以上、「なるべくしてなった」結果だったと評価することができるのです。
”ボトルネック”と”キャパオーバー”
また、当然ながら、個々の案件の実情や詳細を充分に把握しないまま「綸旨」という形で「速い」決裁を重ねた結果、建武政権下では整合性を欠いた綸旨が頻発することになります。
簡単に言えば、同一の荘園について、Aという荘園をBという武士とCという武士に同時に知行として与える、といった事態が多数生じたのです。
武士同士であれば、そのまま武力衝突に発展し、敗れた側は再び建武政権に訴えを起こします。
武士と貴族の場合には、貴族は多くの場合これに対抗する手段を持たず、荘園を実力で奪われた上で、やはり建武政権に訴えを起こすことになります。
このように、整合性を欠いた決裁は現場に混乱をもたらし、結果として訴訟をさらに増加させるという悪循環しか生みません。
そこに「謀綸旨」が加われば、もはや「朝廷の機構をすべて雑訴決断所にしても追いつくかどうか怪しい」状況となります。
しかも、人的リソースが極めて限られている以上、決断所の拡張そのものにも物理的な制約がありました。
これこそが、二条河原落書で
器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク、モルル人ナキ決断所
と揶揄された、雑訴決断所の実像だったと考えられます。
もっとも、繰り返し述べているように、本シリーズでは雑訴決断所そのものが機能不全に陥ったとは考えていません。
問題であったのは、あくまで「処理能力を担保できる人的規模」が圧倒的に不足していた点でした。
やがて雑訴決断所は、単なる訴訟処理機関にとどまらず、綸旨に対して正統性を付与する機能を担うようになります。
これが「牒(ちょう)」と呼ばれる、一種の認定文書です。
後醍醐天皇の綸旨が存在していても、この牒がなければ実際の執行(施行)が行われない、という運用が採られるようになりました。
先に触れたように、室町幕府が建武政権から継承した制度として「使節遵行」が知られていますが、その原型とされるのが、建武政権期の「下地遵行(したじじゅんぎょう)」です。
簡単に言えば、ある荘園をBという武士や貴族に安堵、あるいは恩賞として与えた場合、朝廷の命を受けた使節が現地に赴き、居座りを続ける勢力があれば、必要に応じて武力を用いて排除し、正当な権利者に引き渡すという制度です。
その性質上、この実務(使節)は多くの場合「守護」が担いました。
この下地遵行をほぼそのまま踏襲したのが、室町幕府の使節遵行であり、後に管領(当初は執事)が発給する施行状に相当する命令文書(管領/執事施行状)の系譜(或いは源流)に、「牒」を位置づけることができます。
このように雑訴決断所は、単なる訴訟処理機関にとどまらず、綸旨の審査・整理・回収、さらには一定の掣肘機能まで担うことになり、これも当然ながら「キャパシティーオーバー」を加速させる要因となりました。
仕事量のイメージとしては、現代で言えば、業務が無限に積み上がり続けるブラック企業のような状況を想像していただくと分かりやすいかもしれません。
さらに言えば、これら膨大な案件を最終的に裁可する立場にあったのは後醍醐天皇自身でした。
後醍醐天皇がいかに優れた知性と強靱な意思を持っていたとしても、人間である以上、物理的に処理しきれる量ではありません。
当然、優先度の高い案件から裁可していくことになりますが、後回しにされた案件は書類の山に埋もれ、いつまでも決裁されない状態に陥ります。
こうして建武政権においては、後醍醐天皇その人がボトルネックとなり、訴訟、すなわち権利関係の調整が滞り、武士も貴族もそれぞれに不満を募らせていきました。
その結果、後醍醐天皇はますます綸旨という「ショートカット」に依存せざるを得なくなります。
しかし、「システムなきショートカット」は混乱を拡大し、さらに新たな訴訟を生み出します。
そして、その処理が再び後醍醐天皇というボトルネックに集中する――。
まさに絵に描いたような負のスパイラルが形成され、それは貴族層・武士層を問わず、何らかの権利や利害を有する人々の不満として蓄積され、政権の求心力を際限なく低下させていきました。
このように、後醍醐天皇の「綸旨至上主義」は政権のボトルネックそのものとなり、それが建武政権のキャパシティーオーバーを招くという、泥沼のような状況を生み出したのです。
後醍醐天皇がなぜこのような「綸旨至上主義」に拘泥したのか、その真意は明確には分かりません。
思想的信念や思い込み、あるいは意地といった属人的要素が影響した可能性も否定はできないでしょう。
しかしそれ以前に、これは「システムなきショートカット」であり、結果として、建武政権――すなわち後醍醐天皇の改革の失敗とは、従来の太政官制とも幕府制とも異なる新たな統治システム(制度)の構築に失敗したことにこそ、最大の要因があったと、筆者は考えています。
おわりに
以上、建武政権――すなわち後醍醐天皇の治世下における「綸旨至上主義」について概観してきました。
重要なのは、これが後醍醐天皇の「突然変異」のような逸脱的行動ではなかったという点です。
それは、大覚寺統に特徴的な「属人性に強く依存する統治スタイル」という伝統の延長線上にあり、さらに言えば、隠岐への遠流によって政治的正当手続きをほぼ完全に失った後醍醐天皇にとって、「これしかない」という極めて選択肢の限られた状況下での、ある種やむを得ない選択であったと考えることができます。
しかし、たまたま時流に乗り、これらの綸旨や皇子たちの令旨によって倒幕が成功し、後醍醐天皇は再び政権の首班へと返り咲きます。
ところが、その後もこの「綸旨」による統治を、建武政権において中心的な政治手段として継続してしまいました。
そこには、綸旨によって幕府を打倒できたという、一種の「成功体験」が影響していた可能性も否定できないでしょう。
しかし、本来「綸旨」とは制度的な「ショートカット」に過ぎません。
そして、このショートカットが有効に機能するためには、「ショートカットされる通常の機構が、全体として有効に機能していること」という、逆説的な前提条件が必要でした。
この前提が成立していたからこそ、「官宣旨」や「詔勅」といった公式な命令書に対して、綸旨は「私的な」命令書として位置づけられ、例外的に機能していたのです。
ところが、後醍醐天皇は、この「ショートカットされる通常の機構」を充分に構築できないまま、ショートカットである綸旨に依存し続けることになります。
この「システムなきショートカット」は、現場の混乱とさらなる訴訟の頻発を招き、その様子を本稿では見てきました。
こうして後醍醐天皇自身が建武政権の「ボトルネック」となり、政権全体がキャパシティーオーバーに陥っていきます。
その結果、政権への求心力は著しく、しかも際限なく低下し、建武政権は「失敗」と評価される帰結を迎えることになりました。
この構造は、「得宗専制」というショートカットの制御に失敗した鎌倉幕府末期の状況とも、構造的には概ね相似しています。
ただし、得宗専制の場合は、「鎌倉幕府という統治機構」がなお機能していた、いわば「システムに支えられたショートカット」であったにもかかわらず失敗した、という点が異なるだけです。
つまり、後醍醐天皇による「改革」の失敗とは、太政官制とも幕府制とも異なる「新たな統治システム(制度)」の構築に失敗した点にあり、この意味では「未成」にも至らない、「未着手」に近い状態だったと捉えることも可能でしょう。
厳しい言い方をすれば、その大きな要因は後醍醐天皇自身の選択ミスにあり、そして最大の壁は「職の体系」を前提とした当時の社会秩序そのものにあった、と整理することができます。
もちろん、後醍醐天皇個人の属人的要因も無関係ではありません。
しかし、それは中心的な要因ではなく、あくまで「システム、そして結果として社会秩序の再構築に失敗したこと」こそが、建武新制失敗の核心である――これが本シリーズにおける理解と整理です。
さて、ここまで後醍醐天皇の事情について総論的に眺めてきました。
次回は、南北朝時代の扉を開いたもう一人の当事者である「足利尊氏の事情」について見ていきたいと思います。
もしかすると、全く別の話題から入るかもしれませんが、よろしければ引き続きお付き合いください。
それでは、次回もお楽しみに。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
