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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第3回――兄か弟か、それとも両方か――後嵯峨死後の“静かな大混乱”

後嵯峨上皇の死は、静かに、しかし確実に時代の歯車を狂わせていきました。
前回の「静かな譲位劇」の裏に潜んでいた火種は、後深草と亀山という二人の皇統が“どちらも正統”として成立してしまったことに始まります。

本稿では、後嵯峨が「強い治天の君」たり得た三つの担保――
経済力(八条院領・長講堂領)/政治力(院評定制)/幕府との協調(関東申次の常設化)
を確認しつつ、その死後に朝廷が直面した問題を丁寧に追います。

兄か、弟か。
選べば争い、選ばずとも争い。

しかも両統の皇子たちが 誰ひとり欠けることなく順調に成人する という、本来喜ぶべき幸運が、かえって対立構造を固定化してしまうという皮肉つき。
混乱の兆しは静かに、しかし確かに積み重なってゆきます。

そして朝廷が最後に頼ったのは――鎌倉幕府。

両統迭立という、南北朝時代へ続く長いトンネルの入口はどこにあったのか。
その“決定的な瞬間”の一つを、「ザックリ」かつ丁寧に読み解いていきます。※約7200字


はじめに

前回は、後嵯峨天皇の即位に至る、ややこしい背後関係について簡単にたどりつつ、その治世そのものは概ね平穏であったことを確認しました。
また、成立の経緯上、後嵯峨が幕府との協調を強く意識していたことの象徴として、第一皇子であった宗尊(むねたか)親王の鎌倉下向と、親王への将軍宣下について触れました。

併せて、後嵯峨の人間性の一面として、わが子に対する愛情が深かったらしい点にも触れています。生母の身分上、皇位継承レースには乗りにくかった宗尊親王に対しても、「それでも何とか身の立つ道を」という親心から、鎌倉将軍というポジションを用意した可能性もあったことを指摘しました。

そして、そうした後嵯峨の「愛」を、溢れんばかりに注がれた相手が、第七皇子とされる恒仁(つねひと)親王でした。恒仁は中宮・大宮院姞子を母とする後深草天皇の同母弟であり、のちに「後嵯峨の強い要請(院宣)」によって兄・後深草天皇から譲位を受け、「亀山天皇」として即位することになります。

表面上はどこにも波風が立っていない、この「静かな譲位劇」こそが、後世「南北朝時代」という泥沼へと至る、小さくてしかし決定的な一歩であった――前回は、そこまでを概観しました。
今回は、その後の流れを追いながら、「どうしてこうなったのか」を、できるだけ丁寧に解きほぐしてみたいと思います。

お詫びと訂正

いきなりですが、ここで前回の記事の訂正とお詫びを申し上げます。
前回、私は上皇となった後深草が、以後「本院」と呼ばれたと書きましたが、正確には、後深草が「本院」と呼ばれるようになるのは、亀山も上皇となってからのことです。前回の記事の時点では、後嵯峨が「本院」、後深草が「新院」と呼ばれていました。その後、亀山が上皇となることで、亀山が「新院」、後深草が「本院」と呼ばれるようになる、という順番になります。
結果として最終的に後深草は「本院」となるので、全くの誤りとまでは言えないのですが、時系列が混乱した書き方になっていましたので、ここに訂正させていただきます。
もう一点、本文中で「土御門定通」の名を、数か所「通定」と誤記しておりました。これは単純なケアレスミスですので、すでに本文は修正済みです。
真にお恥ずかしい限りではありますが、改めてお詫び申し上げます。今後は一層注意してまいります。

”目出たい”事のはずが……

さて、前回も述べたように、亀山の即位は後嵯峨上皇の「かなり純度の高い末っ子贔屓」の結果であり、後深草としても内心では、
「ちょっと、それ聞いてないんですけどォ!?」
という気持ちが多少はあったかもしれません。

とはいえ、出だしこそ多少覚束なかったとはいえ、後嵯峨朝廷はすでに完全に軌道に乗り、後嵯峨自身の権力・権威は充分以上のものになっていました。
ここで後深草が「嫌です」とばかりに譲位を拒むようなことになれば、ただでは済まない事態になりかねません。しかも後嵯峨の背後には、“鎌倉殿”という強大な後ろ盾まで控えているのです。

そうなると、後深草には従うほか道はなかったと考えられます。時にまだ十七歳という若さを思えば、海千山千の父親の決定をひっくり返すことなど、まず不可能だったでしょう。たぶん。

しかし、後深草にしてみれば、「天皇であること」にそこまでこだわる必要も実はありませんでした。なぜなら、本来は制度外の政治手法であったはずの院政が、すでにすっかり制度として定着し、機能してしまっていたからです。この点は前シリーズや今シリーズでも折々に触れてきました。

つまり、後深草に皇子が生まれ、その子が即位すれば、自分は「院」として大手を振って政治の主導権を握れるわけです。
なにも「鳥羽上皇」の例までさかのぼるまでもなく、目の前には後嵯峨という“生きた成功例”がいたのです。

そして実際に生まれます。文永2年(1265年)、後深草上皇の第一皇子として 熙仁(ひろひと)親王が誕生しました。しかも中宮所生で、血統・後ろ盾ともに申し分なし。
とはいえ当時は医療技術も未発達、乳幼児が「生き延びる」だけでも大変な時代です。後深草としても、掌中の玉ともいえる熙仁を早々に失うリスクは当然ありました。

しかし結論からいえば、熙仁親王は見事に成長し、後深草はここで「将来の治天の君」への切符を手にした、と言って差し支えありません。

ところが文永5年(1268年)、再び後嵯峨上皇による“指示”が下されます。
亀山天皇の第二皇子、世仁(よひと)親王が、立太子されたのです。
ここからも、後嵯峨が亀山を寵愛し、その皇統を望んでいたことがうかがえます。

後深草サイドとしては、一気に特(徳)俵に追い込まれたような状況ですが、とはいえ、まだ勝負が決したとは言えません。何しろ世仁親王は前年師走の生まれで、数え年でも二歳の幼児です。医療技術の未発達な時代では、幼児が無事成長できる保証など本来どこにもありません。

……が、これまた冗長になるので先に結論を述べますと、
世仁親王もまた立派に成人します。

つまり――

両統とも、必要な時にきちんと皇子が生まれ、そして順調に育つ。
普通なら喜ぶべき「皇統の安定」が、この両統に限っては奇妙なほど裏目に出ていくのです。

後嵯峨朝を支えるもの

かくして、多少のモヤモヤや不確定要素を孕みつつも、後嵯峨の治世は大きな波乱もなく過ぎていきました。

しかし、改めて振り返ると、皇位継承という極めてセンシティブな問題を、後嵯峨があれほど“あっさり”と動かすことができたという事実は相当に特筆すべきものです。「あの後深草を押しのけて亀山へ譲位させる」という政治判断は、通常なら朝廷内部が激震してもおかしくありません。

では、後嵯峨は一体“何を根拠”に、あれだけの強い政治力を発揮できたのでしょうか。

歴代の治天の君を見ても、

  • 白河院が鳥羽へ譲位を促したとき

  • 鳥羽院が崇徳から近衛へ継承させたとき

  • 後鳥羽院が土御門から順徳へ皇位を動かしたとき

いずれも、背後には揺るぎない権力基盤が存在しました。
皇位継承は「権力の強さ」が露骨に反映する領域であり、権力が弱ければ譲位も摂政も何も動きません。

では、後嵯峨の権力を支えたものは何だったのか。
素人考えではありますが、私は 三つの“担保” があったのではないかと考えます。

経済力

後嵯峨の政治力を支えた最大の資源は、何と言っても 八条院領 と 長講堂領 を中心とする、王家伝来の広大な荘園群でした。

これらの荘園群の扱いについては、前シリーズ第35回等でも触れましたが、ごく簡単にまとめると──

承久の乱後、

王家領は没収されるどころか、

むしろ“ほぼ手付かず”の形で後嵯峨に伝領された

という、少々信じがたい展開が起きていました。これらは勿論「後高倉院」皇統経由で伝領したものですが、後嵯峨院の財政基盤として莫大な力を持っていました。

もちろん、細部は正しい説明ではないのですが、乱暴にまとめてしまえば──

  • 後嵯峨院は、当時の日本で最も裕福な個人の一人だった。

とは言っても過言ではありません。

現代でも 経済力は権力の源泉 ですが、この時代はなおさらでした。
後嵯峨は「伝来の巨大なサイフ」を保持したことで、院政の実効性を強固に担保していたと考えられます。

政治力

次に、第2の担保として 後嵯峨自身の政治力 が挙げられます。

私が現役の頃の高校教科書では、承久の乱の結果「鎌倉幕府が全国政権となり、朝廷はスカスカになった」と誤解しかねないような記述が多く見られました。しかし、これは分量の制約ゆえの表層的な記述であり、決して著者の怠慢ではありません。

歴史を深掘りするようになると、むしろ教科書はあれだけの範囲を「よくまとめていた」と感心するほどです。

話を戻すと、鎌倉時代を通して 朝廷・院は“政権”として実体を持ち続けていました。後嵯峨の場合は、もちろん「院」がそれに相当します。

保元・平治から治承寿永の乱に至る騒乱で確かに朝廷の政治ノウハウは疲弊しましたが、後鳥羽上皇がそれを立て直し、承久の乱で再び崩れたものの、その制度的遺産は九条家(九条道家)を中継ぎとして後嵯峨に引き継がれました。

後嵯峨院政では 院評定制 という合議システムが導入され、これは両統を通じて維持され、後醍醐の時代まで続きます。

ごく大雑把に説明すると、

  • 奏聞を受けて院(後嵯峨)の発議で会議を招集

  • 合議を経て結論をまとめ

  • それを院に奏上

  • 院が決裁し、奏者が院宣を作成・発給する

という流れです。

つまり、
「権力者が真面目に統治を行っていた」
という事実こそ、後嵯峨の権力を支える第2の担保だったと考えられます。

鎌倉殿

そして第三の担保が、「鎌倉殿」――すなわち鎌倉幕府によるバックアップです。

これはこれまで再三述べてきたように、そもそも後嵯峨天皇の即位自体が鎌倉殿、端的には北条泰時の“指示”によるものであり、その結果として朝幕関係は協調へと向かいました。その象徴が、宗尊親王の将軍就任であることは、以前の記事でも触れました。

さて、後嵯峨と幕府に「繋がり」があるとはいえ、まさか後嵯峨や時の執権が直接会って「どーもどーも」とやり取りするわけにはいきません。天皇や上皇が気軽に手紙を書くなどという発想もなく、彼らの文書はそれ自体が“公文書”になりかねない高い重みを持ちます。さらに、当時の北条氏は極位が従四位~従五位程度であり、身分上、貴人への直接書簡すら困難でした。

そこで重要になるのが、以前少し触れた「関東申次(かんとうもうしつぎ)」という存在です。

”関東申次”とは

前回触れたように、「関東申次」または「関東執奏(かんとうしっそう)」とは朝幕関係における「朝廷側の窓口」であり、対応する「幕府側の窓口」が「六波羅探題」です。
朝廷の役職ではありますが、「幕府の指名」によって任じられます。これも少し不思議な話ですが、実は「常設される」経緯がこれまで何度も触れている「宗尊親王の鎌倉下向」に帰結する朝廷と幕府内の権力抗争の結果の一つである為です。
これも今は極々掻い摘んで説明すると、摂家将軍の父親である九条道家(くじょう・みちいえ)が息子の藤原頼経(ふじわらの・よりつね)と結んでさらなる権勢を得ようとし(或いは自己の権勢を守ろうとして)、そこに鎌倉方の反北条勢力などが絡んだ結果、道家は破れて権勢を失い(失脚)、頼経も鎌倉を追われたという騒動です。今後、この辺の話をもう少し掘る機会があるかも知れませんが、今はこの程度の理解で充分かと思います。
この説明でも何となく分かる様に、関東申次の常設化以前から、朝幕を結ぶ半ば公的なパイプは存在していました。原則として、将軍の縁戚が務め、先述の道家もそのようなパイプの一つです。
このような制度化以前のパイプを「関東申次」に含めるかは議論がありますが、含めるのであれば「初代」と目されるのが「吉田経房(よしだ・つねふさ)」で、頼朝が「女院に出仕していた頃の同僚」あるいは「友人」とも言われますが、実は不明点が多くはっきりしない人物です。
人物が明らかなのが次代の「坊門信清(ぼうもん・のぶきよ)」と「西園寺公経(さいおんじ・きんつね)」で、それぞれ「源実朝の義父」と「源頼朝の姪婿」です。公経には「摂家将軍・頼経の外祖父」と言う関係もあるのですが、ややこしくなるので今は忘れて頂いても問題無いと思います。
ところで、読者諸賢の中には「西園寺公経」と聞いて「はて?」と思った鋭い方がいらっしゃるかと思います。そうです、前回の記事で「いち早く邦仁王擁立に舵を切って践祚を主導したとされる」人物その人の事です。
頼朝の名前が出た事で「もしかして長生きした人?」と思う方もいらっしゃるでしょうが、実際長生きした人で、先述の邦仁王(要するに御嵯峨天皇)擁立は公経71歳時の出来事です。最終的には73歳で没するので最晩年も最晩年の話ではありますが、同時期に「申次」を務めていた坊門信清が無くなって以降はそれを独占していたとされます。
この西園寺公経後に申次を務めたのは「近衛」や「九条」などの摂関家と考えられており、九条道家が申次とされるのもの、その流れ(慣習)の為と言われています。
ともあれ、「関東申次」として後嵯峨期に常設化されると公経の子である「西園寺実氏(さねうじ)」が就任し、以降「西園寺家」が家職として独占します。
付け加えると、後嵯峨期の「後嵯峨中宮」、「後深草中宮」、「亀山中宮」のいずれもが西園寺家の子女です。先述の公経のエピソードも加えると、幕府的にも後嵯峨的にも「西園寺家以外の選択が無い」ような有様と言えそうです。
その後、「皇位継承という超センシティブな事項を含む」朝幕の連絡役を務めるという立場故に、朝廷内で大きな権威を誇る様になります。さらに「両統迭立」期には「両統間の調整」も役職に含まれる為に、皇位継承が「西園寺家の匙加減一つ」のような状態にもなります。この辺りは大きな権勢ゆえに「陰口」を叩かれた部分もある可能性がありますので多少慎重に考える必要はありますが、差し当たりは、関東申次の成り立ちと西園寺家の由縁を抑えておいて頂きたいと思います。

後嵯峨院の”三つの担保”まとめ

少々長くなってしまいましたが、以上述べてきた 「三つの担保」 によって、後嵯峨は院としての権力・権勢を確立することに成功したと考えられます。
もちろん、これ以外にも朝廷内部の権力抗争を巧みに裁き、適切な距離感で貴族社会を運営していたことなど、細かい要因はいくつもあったでしょう。

しかし大枠としては、

  • 経済力(八条院領・長講堂領という巨大な王家領)

  • 政治力(院評定制を軸とした実務的な統治)

  • 幕府との協調(関東申次を介した安定的パイプ)

この三要素こそが後嵯峨権力の中核を成していた、と捉えると理解が捗るのではないかと思います。

こうして見ると、この状況は 「朝廷と幕府の力関係」以外は、後鳥羽上皇が構想した体制にどこか似ている ようにも思われます。
その視点に立つと、後鳥羽が企図した「北条氏を排斥して幕府を朝廷権力の内部へ取り込む」というプランは、ある意味では後嵯峨期の安定を先取りした“最適解”だったのかもしれません。

ところが、この 公武関係の“逆転現象” こそが、後に幕府側へ大きな負担となって降りかかっていきます。
その最初の大波が、まさに 後嵯峨上皇の崩御 でした。
(※厳密には後嵯峨は出家後の身分としては「法皇」ですが、ここでは便宜上「上皇」で統一します。)

さて、この出来事の何が問題だったのか。
それは、後嵯峨が 「次の治天の君(政治的主宰者)」を指名しないまま崩御した 点に尽きます。

朝廷はこれに大いに困惑します。
理由は単純で、

兄弟の序列 でいえば、兄である後深草が正統後継者

しかし、後嵯峨がその“愛情と信任”を注ぎ、皇太子を立てて後継ルートを整えたのは弟の亀山である

という「二つの正統性」が並び立ってしまったからです。

後深草側には 長幼の序 に裏打ちされた自負がある。
亀山側には 後嵯峨の明確な意思 と言える要素がある。

どちらも“筋が通っている”。
だからこそ、誰も軽々しく結論を出せない。

そこで朝廷は、ついに 「幕府にお伺いを立てる」 という措置を取ります。
皇位継承という超センシティブな領域に、ついに幕府を正式に巻き込むことになったのです。

おわりに

以上、少し長い上にややこしくなってしまいましたが、後深草譲位後の流れについて簡単に眺めてみました。
「全然話が進んでいないじゃないか!」といういつものツッコミが聞こえてくるようですが、やはり、
・後深草が父に逆らわなかった(逆らう必要が無かった)理由
・そもそも後嵯峨はどうして「強い治天の君」になれたのか
・関東申次とは何者ぞ
辺りの話は、本稿程度にザックリとでも押さえておくと、その後の「両統迭立」、そして「南北朝時代」に至る道筋が朧げにでも見えてくるのではないかと考えています。
いや、これでも本当に「ザックリ」なんです。信じて下さい。

さてさて、朝廷から「次の治天の君を決めて下さい」という無茶振りをされた鎌倉幕府はどう答えたのか。そして、それがどのようにして「両統迭立」への扉を開くことになったのか。次回は、この辺について、また「ザックリ」と見ていきたいと思います。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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