ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第23回――職の体系が導いた選択~足利尊氏はなぜ後醍醐についたのか
南北朝時代の扉を直接的に開いたもう一方の人物・足利尊氏。
その行動はしばしば「幕府を裏切った武将」として語られますが、果たしてそれは突発的な裏切りだったのでしょうか。
本稿では、足利尊氏を感情論や英雄/逆臣像から切り離し、
「家格」「姻戚関係」「職の体系」「経済的基盤」という制度史・構造史の視点から、その選択を再検討します。
清和源氏・河内源氏という名門に生まれ、有力御家人として幕府の中枢に位置した足利氏。
一方で、祖父の死や家督継承の経緯により、北条得宗家との関係には微妙な隙間が生じていました。
さらに、足利氏の根拠地である足利荘は王家領・八条院領に属し、「職の体系」において後醍醐天皇と結びつく構造を持っていました。
尊氏個人の尊王的姿勢や後醍醐天皇への敬意は確かに存在します。
しかし、それは決定的な動機というよりも、「武士の論理」――
すなわち、自らの所領と家の存続を守り、次代へ継承するための合理的判断を後押しする要因だったのではないでしょうか。
本稿では、尊氏が後醍醐天皇に味方した理由を
「裏切り」ではなく、「職の体系が導いた選択」として位置づけ直します。
その視点から見ると、尊氏の行動は決して例外的なものではなく、むしろ当時の武士社会において自然な帰結であったことが浮かび上がってきます。
次回は、倒幕の最大功労者となった尊氏が、なぜ後醍醐天皇と袂を分かつことになったのか――
建武政権の内在的矛盾とともに、その転換点を考えていきます。
※約11300字
はじめに
前回は、後醍醐天皇の治世下における「綸旨万能主義」について概観しました。
「綸旨万能主義」とは、天皇(本来の意味での治天の君)である後醍醐天皇が、多くの案件を自ら一元的に裁可するために、「綸旨」という文書を権力行使の中核に据えた統治スタイルを指す、便宜的な説明用語です。
「綸旨」とは、天皇の意を受けて、蔵人(くらんど)などの側近が、「奉者(ほうじゃ)」と呼ばれる宛先に対して「奉る」形式で作成される文書です。このように、「上位者の意を受けた者が文書を作成し、それを下位者に伝達する」形式の文書を、総称して「奉書(ほうしょ)」と呼びます。
前回の本文では、この文書の流れについてやや混乱を招く説明をしてしまった可能性があるため、ここで改めて整理しておきたいと思います。
奉書という呼称には、「上位者の意を文書化した主体」に着目した分類もあります。その代表例が「女房奉書」です。これは、天皇の意を受けた女房(天皇や院に仕える女官)が、仮名書きの文書として宛先に奉る形式を指します。
一見すると複雑ですが、基本的には、
「上位者の意思 → それを受けた作成者 → 宛先」
という手続きを踏んだ文書を「奉書」と考えて頂いて差し支えありません。
ただし、文書の分類には、作成主体だけでなく、定型的な文言や形式も重要な要素となります。前回少し触れた「仍(よ)って執達件の如し」といった表現は、その代表例です。
前回、「奉書は自分で書いても問題ない」と表現しましたが、これはやや誤解を招きやすい言い回しでした。より厳密には、命令者自身が、下位者を介さず直接文書を作成し、宛先に送るものを「直状(じきじょう)」と呼び、これは基本的に奉書と対になる概念です。
後醍醐天皇の綸旨には、天皇自筆と考えられるものが多数残っており、この点から見ると、機能的には直状に近い性格を持っていたとも言えます。しかし、その文言や形式には奉書的要素も含まれているため、完全に直状と断定することもできません。
このため、後醍醐天皇によるこれらの文書は、「天皇の直接的な命令書」という性格に着目して、慣例的に「綸旨」と呼ばれていると考えられます。したがって、「綸旨は必ずしも奉書の手続きを踏むとは限らない」という意味で、前回の表現も完全な誤りとは言い切れない、という程度の理解が妥当でしょう。
混乱を招いた点については、お詫び申し上げます。
余談ですが、武家(武士)の世界では、この文書を代筆する人を「祐筆(ゆうひつ)」と言います。この祐筆を主人公にして、文書主義の本質や脆弱性を面白く描いたのが星新一氏の短編小説『紙の城』です。ご興味の向いた方は是非ご一読下さい。
それはさておき、後醍醐天皇はこのような「綸旨」を、しばしば「多発」あるいは「乱発」と評されるほどに権力行使の柱として用いたため、歴史の教科書などでは便宜的にこれを「綸旨万能主義」と説明しています。
重要なのは、これを後醍醐天皇の“突然変異”的な個性だけで片づけるのではなく、属人的要素に強く依存しがちな大覚寺統の統治スタイルの延長線上に位置づけて捉えるべきだと考えられる点です。
つまり後醍醐にとって「綸旨万能主義」とは、ある意味で大覚寺統的統治の“自然な帰結”として理解しうる、ということになります。
そしてもう一つ重要なのは、「元弘の変」で幕府に敗れ、隠岐に配流となった後醍醐にとって、綸旨は制約上「これしかない」と言ってよい、やむを得ない手段でもあった点です。
手続き上、後醍醐はすでに光厳天皇に譲位しており、しかも「謀反人」として配流されたため、いわゆる院(上皇)としての公的地位も確立しないまま、立場としてはきわめて不安定でした。
この状況では、朝廷の公式ルートを通じて発せられる「官符・宣旨・詔勅」といった公的文書を、正規の形で発給することは困難です。
したがって、最低限の側近さえいれば発給でき、極端に言えば自筆でも成立しうる綸旨が、後醍醐にとって(実質的に)唯一の“命令書”として機能し得た、という側面があります。
とはいえ、先述のように公的地位が不安定な後醍醐が発する綸旨は、平時であればその効力は決して強固なものではなく、受け手によって解釈や扱いも揺れ得たはずです。
しかし、たまたま時流が後醍醐に味方し、この綸旨が「大義名分」として利用される局面が生まれました。結果として後醍醐は帰京し、治天の君として大復活を遂げます。
ある意味で勝利をもたらした「綸旨」でしたが、その成功体験こそが、やがて彼の首を絞めることになります。
倒幕に至る過程で発給された綸旨の中には、とりわけ武士に宛てて「勝利の暁には恩賞を与える」「所領を保証する」といった期待を含む内容が少なからず含まれていました(所謂「空手形」)。さらに、後醍醐が隠岐配流中にも活動した皇子たちが発した「令旨」にも、同様に景気の良い“約束”が積み上がっていきます。
後醍醐が帰京して建武政権が成立すると、これらの文書を受け取った武士たちが、いわば「約束の履行」を求めて京に殺到します。
ところが、こうした案件の最終判断を後醍醐天皇が自らに一元化したため、一人の人間が捌ける量を遥かに超える事態が発生し、「滞留」や「不整合」が多発しました。
建武政権も訴訟処理・文書処理のための諸機構(記録所・雑訴決断所など)を整備して対応し、一定の成果は挙げたものの、圧倒的な訴訟数の前にキャパシティーオーバーが起きていきます。
押し寄せる訴訟を前に、天皇自身がボトルネックとなり、混乱が混乱を呼んで訴訟が増え、さらに政権が飽和していく――この「負のスパイラル」こそが、建武政権が短期間で行き詰まった大きな要因である、と前回指摘しました。
そしてこの構造は、得宗専制が鎌倉幕府の統治機構にキャパシティーオーバーを招き、最終的に滅亡へ向かった過程とも相似形を成す部分があります。
「綸旨」とは、本質的に“ショートカット”の手法です。ゆえに、それが有効に機能するためには、ショートカットされるはずの通常機構が、全体として正常に機能していることが前提になります。
つまり綸旨は本来、「一時的」「例外的」な手段であり、仮に事情があってそれを“システム”として用いるとしても、そこには「通常システムへの回帰」――言い換えれば可逆性が前提として必要です。
簡単に言えば、綸旨はショートカットであり、あくまで「非常時のやり方」に他なりません。
よって後醍醐天皇の「綸旨万能主義」とは「非常時の常態化」でもあり、「システムなきショートカット」がボトルネックとキャパシティーオーバーを招いたのは、ある種の必然だったとも言えます。
故・野村克也氏の言う「負けに不思議の負け無し」は、この建武政権の行き詰まりを表現するのに、最も分かりやすい言葉かもしれません。
たしかにトップダウンの綸旨は「速い」。しかしそれは、前提となる通常(=遅い)が機能しているからこそ意味を持つショートカットであり、速さはシステムを代替しないのです。
さて、今回は後醍醐天皇に「負け」をもたらし、南北朝時代の扉を直接的に開いたもう一方の当事者である――「足利尊氏」の事情について、ざっくりと眺めてみたいと思います。
背景としての”足利氏”
では、この「足利尊氏」とはいかなる人物なのでしょうか。
なお、尊氏は本来「足利高氏(たかうじ)」と名乗っていましたが、後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治(たかはる)」の一字を賜り、「尊氏」と改名しています。本稿では煩雑を避けるため、以下「尊氏」で統一します。
まず、尊氏が属する足利氏は、「清和源氏」の一流である「河内源氏」の流れを汲む武家であり、源頼朝とは同じ河内源氏に属する「同系同族」の関係にあります。
もっとも、「同族」とはいっても、尊氏の立場から見れば足利氏は頼朝の家系とは七世ほど遡った段階で枝分かれした庶流にあたり、感覚的には「血縁上の由緒はあるが、日常的な近縁意識は薄い存在」であった可能性もあります。
とはいえ、武家源氏の中でも最有力の河内源氏の流れを汲む足利氏は、武士社会における家格が非常に高く、鎌倉幕府においては将軍家に連なる名門御家人層、いわゆる「御門葉」と位置づけられ、有力御家人として高い権威を誇っていました。
ただし、これは「右大将家(頼朝家)に代わって将軍になり得る家」という意味ではありません。仮にそのような可能性が現実的であったなら、頼朝や北条時政の時点で警戒・排除の対象となっていたと考える方が自然でしょう。
つまり鎌倉幕府における足利氏とは、「伝統的権威が極めて高いが、将軍位を直接脅かす存在ではない名門御家人」として、幕府上層部に位置していた一族だったと言えます。
そして足利氏は、幕府内で権力を拡大していく北条氏とも、早い段階から強固な姻戚関係を結んでいました。足利宗家二代目の義兼(よしかね)が、北条時政の娘である時子を正室に迎えたのを皮切りに、以後、足利氏は北条宗家あるいは宗家に近い有力分家から正室を迎えることが慣例となっていきます。
余談ですが、足利氏の初代である源義康(よしやす)は、熱田神宮の大宮司を務めた藤原氏の子女を正室としており、同じ藤原氏の子女を正室に迎えた源義朝とは「相婿(あいむこ/同じ舅を持つ婿同士)」の関係にありました。
ところが、尊氏の祖父にあたる家時(いえとき)の代に、この北条氏との安定した関係に、わずかながら陰りを感じさせる出来事が起こります。足利氏当主であった家時が、理由不明の自害を遂げたのです。
この自害の背景については確定的な史料は存在せず、鎌倉幕府末期最大級の内乱である「霜月騒動」の余波を受けた結果ではないか、といった推測がなされるに留まっています(諸説あり)。
こうした事情も影響したのか、家時の子である貞氏(さだうじ)は、北条氏分家の中でも比較的政治的立場が穏健とされる、北条(金沢)顕時(あきとき)の娘を正室に迎えています(名は伝わっていません)。
ここで言う「金沢」は北陸ではなく関東の金沢であり、「金沢文庫」を開設したことで知られる金沢流北条氏の本拠地です。この家系は北条氏内部において「知の家」とも言える存在で、宗家を支える知的ブレーン、現代的に言えば補佐官的役割を担っていた一族と捉えると分かりやすいでしょう。
そして、この足利貞氏こそが尊氏の実父にあたります。
すなわち足利尊氏とは、清和源氏・河内源氏という武家最高峰の系譜に連なり、右大将家とも縁戚関係を持つ「名門中の名門」に生まれた人物であると同時に、北条氏とも強い姻戚関係を維持しつつ、父の代にわずかな“隙間”が生じ始めていた世代に属する人物であった――と整理することができます。
尊氏と家督
さらに重要なのは、足利尊氏が嫡男ではなく次男であった点です。
尊氏は、父・足利貞氏の正室所生ではなく、側室である上杉清子の子として生まれています。もっとも、これは「庶流」という意味ではなく、あくまで足利宗家に属するが、非正室腹の子という位置づけになります。
本来、足利氏の嫡男は正室所生の兄・高義(たかよし)でしたが、この高義が若くして早世したため、結果として尊氏が家督を継承することになりました。
この結果生じたのが、「足利宗家当主が北条氏を母に持たない」という、鎌倉幕府の婚姻秩序から見るとやや異例の状況です。
これは北条氏側から見ても必ずしも好ましい状態ではなかったと考えられます。そのためか、尊氏は北条氏分家の中でも得宗家に極めて近い家格を誇る赤橋流北条氏の当主・北条久時の娘、登子(とうし/なりこ)を正室に迎えることになります。
この登子は、鎌倉幕府最後の執権である北条守時の妹にあたり、この婚姻が、北条氏(とりわけ得宗家)が尊氏、ひいては足利氏を再び強く取り込もうとした措置であったことは、ほぼ疑いないでしょう。
もっとも、尊氏と登子の夫婦仲が特に悪かったとする史料はなく、家庭的には一定の安定があったと考えられます。しかしそれと、尊氏自身が北条氏に対して強い恩義や政治的シンパシーを抱いていたかどうかは、別の問題です。
そもそも制度上、尊氏が仕える対象は「北条氏」ではなく、「鎌倉殿(将軍)」でした。北条氏はあくまで同じ御家人層の中で突出した実権を握る一族に過ぎず、そこに私的・人格的な忠誠を要求される関係があったわけではありません。
しかも、その将軍である鎌倉殿自身が、政治的には事実上の飾りとなっていた状況下で、どれほどの「忠義」が成立し得たのかは、慎重に考える必要があります。
尊氏が一見おとなしく見えるのは、北条氏への服従心ゆえではなく、「自ら利権(権利)と面子を守り、それを次代に継承する」という、当時の武士に共通する合理的行動原理――いわば「武士の論理」に忠実であった結果に過ぎない、と捉える方が自然でしょう。
そう考えれば、北条氏側が足利宗家を制度的に再接続するために、得宗家に極めて近い有力分家の娘を正室として送り込んだ、という構図も理解しやすくなります。
このような経緯を踏まえると、尊氏の幕府に対する帰属意識は、最大限に評価しても「御家人として人並み」の範囲に留まっていたのではないか――私はそのように考えています。
”氏”と”苗字”の整理と経済的な背景
ここまでは、足利尊氏と鎌倉幕府との、いわば「人的(制度的)関係」について概観してきました。
次に、尊氏と幕府、そして後醍醐天皇との「経済的(あるいは社会秩序的)関係」に目を向けてみたいと思います。
既に触れている通り、足利氏の本姓は源氏であり、その源氏の一流が下野国足利荘に定着したことから、「足利」を名乗るようになりました。
本シリーズ第11回では、私はこの「氏」や「家」の関係を、便宜的に次のように整理しました。
すなわち、最上位に「源平藤橘」に代表される血統集団としての「本姓」があり、そこから派生した血脈集団を「氏」、さらに氏から分かれた比較的小規模な血族単位を「家」と捉える、という整理です。この理解であれば、100点満点中70点程度はもらえるのではないか、と述べました。
もっとも、この整理はあくまでシリーズ中の便宜的理解であり、厳密な定義ではない点には注意が必要です。そこで今回は、これをもう少し整理しておきたいと思います。
まず、「源平藤橘」に代表される最上位の血統集団は、実質的には「氏
(うじ)」に相当します。これが、後世において「本姓(ほんせい)」として意識された氏族です。名前を読む際に「の」が付く場合が多いのが、この層にあたります(藤原の道長、平の清盛、など)。
もちろん例外は多く、ここではあくまで便宜的な理解として捉えて下さい。
その「氏」から枝分かれした血族集団が「家」であり、通常は「苗字(名字)」を名乗ります。藤原氏から分かれた近衛・九条、源氏から分かれた足利・新田などがその例です。この場合、名前を読む際に「の」を付けないのが一般的です(足利尊氏、北条義時、など)。
さらに、この「家」から分かれ、同一血脈を共有する集団が形成される場合、それを「党」と呼ぶことがあります。渡辺党や〇〇党といった呼称がそれにあたり、これをより大きく括ると「武蔵七党」のような表現になります。もっとも、すべての家が必ず党を形成するわけではありません。
以上を整理すると、「源平藤橘」に代表される最上位の血統集団が「氏(本姓)」であり、そこから派生した血族集団が「家(苗字)」、さらに条件が整えば「党」が形成される、という構造になります。この理解であれば、100点満点中80点程度はもらえるのではないかと思いますが、あくまで本シリーズにおける便宜的整理である点はご承知下さい。
やや回りくどい説明になりましたが、要するに「下野国足利荘」に定着した源氏の一族であるからこそ、「足利」という苗字を名乗っている、という当たり前の事実を確認するために、この説明を行いました。
特に武士の世界では、「家の発祥の地」や「何らかの伝統的な権利を有する土地」の地名を苗字として名乗る例が多く、これを「苗字の地」として、家の象徴的基盤と見なす意識が強く存在していました。
足利氏は、足利荘の開発・経営に深く関与した在地領主(開発領主)層であり、長期にわたって荘園の下司職を掌握し、世襲的にこれを保持していました。そして足利荘は最終的に、王家領である八条院領の一部として編成されていきます。
以前の記事でも触れた通り、この八条院領は両統迭立期を通じて大覚寺統に相続されていました。
つまり、後醍醐天皇は八条院領の一部として足利荘を知行する立場にあり、足利尊氏は「職の体系」の中で、もともと後醍醐天皇と経済的(社会秩序的)な接点を持っていた――そのように整理することができるのです。
尊氏と幕府と後醍醐天皇
なお、以上の整理を踏まえ、本稿では煩雑を避けるため、「氏」と「家」はほぼ同義として扱います。したがって、特に事情のない限り、「足利家」は便宜上「足利氏」と表記します。
前シリーズを含め、正確には「家」に該当する場合であっても「〇〇氏」と表記してきましたが、そこには先述のような理解が前提としてあることを、何となく心に留めておいて頂ければ、歴史の見え方はより立体的になるはずです。
さて、尊氏は鎌倉幕府の御家人であり、当然ながら「御恩と奉公」に基づく武士的封建秩序に属する立場でした。
しかし一方で、「いつから、どのような経緯で形成されたのか」は必ずしも明確ではないものの、尊氏には比較的強い尊王的姿勢が見られ、とりわけ後醍醐天皇に対しては一貫して敬意を抱いていたとする見方があります。この点については、少なくとも生涯を通じて大きく揺らぐことはなかったと考えられています。
あえてミーム的な表現を用いるならば、尊氏は「後醍醐天皇推し」であった、と言えなくもないでしょう。
そして先述のように、将軍に対する忠誠心は一般の御家人並み、北条氏(得宗家)に対しては「積極的に敵対する理由がないため従っている」という程度であったと想像するなら、尊氏の内面における力学は、
「後醍醐天皇 > 幕府(北条氏)」
という関係になっていた、と考えることも可能です。
さらに、父の代において、祖父・家時の行動をきっかけとして、北条氏(得宗家)との関係にはわずかながら緊張が生じていました。
兄の早逝という偶然によって、北条氏を直接の外戚に持たない足利氏当主となった尊氏に対し、得宗家は最有力分家の娘を正室に迎えさせることで再統合を図りますが、それによって尊氏の心がどこまで北条氏に引き寄せられたのかは、必ずしも明らかではありません。
つまりこの時点で、北条氏に対する「信用」は制度的・心理的に不安定なものとなっており、足利氏が伝領してきた足利荘が今後も安定的に継承される保証はありませんでした。
これは、「自らの利権(権利)と面子を守り、それを次代へ引き継ぐ」という「武士の論理」から見ても、決して安心できる状況ではなく、むしろ「雲行きが怪しい」段階に入っていたと言えるでしょう。
そのような状況にあっても、尊氏は有力御家人として、幕府軍の主力であり続けることを求められます。
尊氏の根拠地である足利荘は、絹などの特産品を有する豊かな土地であり、私的な家政機関としての政所を必要とするほど、足利氏は経済的に強大な勢力でした。
中世社会においては、とりわけ「リッチ=大兵力」がほぼ等式として成立しており、尊氏は北条氏にけっして見劣りしない兵力動員能力を有していたのです。
北条氏側としても、足利氏への信用が揺らいでいることは承知していたはずですが、同時に大規模動員のためには尊氏の協力が不可欠でした。
その結果として、正室である登子と嫡男の義詮(当時は幼名・千寿王)を鎌倉に留め置くという措置が取られます。これらは、形式上は通常の在鎌(倉)措置であったとしても、実質的には人質的性格を帯びていたと見ることも可能でしょう。
これが足利氏と北条氏の運命を分ける分岐点であったかどうかは断定できませんが、少なくとも両者の相互不信を象徴する出来事であったとは言えそうです。
やがて尊氏は、代々守護を務め、一族や被官が多数まとまって存在していた三河国において、反幕府(北条氏)行動への内々の支持を取り付け、後醍醐天皇側と密かに接触を図ります。そして倒幕の「密勅」を受け取ったと伝えられています。
もっとも、先述の通り、当時の後醍醐には正式な詔勅を発する権限も体制もなく、この「密勅」という表現自体が後世的な粉飾である可能性は高いでしょう。実際には、綸旨に相当する文書、あるいは口宣(くぜん)のような口頭による略式の意思表示であったのではないか、と本稿では考えます。
そして丹波国の篠村八幡宮において反幕府の旗幟を鮮明にし、反転して京へ進軍、六波羅探題を攻め滅ぼしたことは、皆様ご存じの通りです。
以上を踏まえると、尊氏(足利氏)と北条氏(得宗家)との間の相互信用はすでに少なからず揺らいでおり、尊氏は足利氏の利権である足利荘を守るためにも、「職の体系」において本所の関係にあった後醍醐天皇へと、武士の論理に従って乗り替えた――と整理することができるでしょう。
尊氏の「後醍醐推し」は事実として存在したようですが、それが主因であったとは考えにくく、あくまで彼の判断の背中を押した要素の一つに過ぎなかった――その程度に捉えるのが、最も自然ではないかと思われます。
おわりに
以上、今回は南北朝時代への扉を直接的に開いたもう一方の人物である、「足利尊氏の事情」について概観しました。
まず「足利氏」の背景として、清和源氏の一流にして、武士源氏の最有力系統である「河内源氏」に属する氏族であることを確認しました。
幕府の創業家である右大将(源頼朝)家とも、遠いながら縁戚関係を持ち、「御門葉」的な位置づけに近い権威を備えた家格の高い一族であり、幕府内の実力者である北条氏とも積極的に姻戚関係を結ぶことで、上層御家人としての地位に留まり続けていました。
しかし、尊氏の祖父である足利家時の不可解な自死をきっかけとして、父・貞氏の代には、北条氏(得宗家)との関係に、わずかな隙間風が吹き始めます。
そのような状況下で、嫡男であり尊氏の異母兄にあたる高義が早世した結果、本来は継承予定者ではなかった尊氏が、急遽足利氏の家督を継ぐことになりました。
尊氏の母は側室である上杉清子であり、ここに「北条氏を直接的な外戚に持たない」という、当時としてはやや異例の足利氏当主が誕生することになります。
そこで北条氏側は、宗家である得宗家に極めて近い家格を持つ赤橋流北条氏の子女・登子を正室として迎えさせ、関係の再構築を図ります。
もっとも、尊氏と正室(登子)の夫婦仲自体はそれなりに安定していたと考えられるものの、この婚姻が北条氏との政治的関係の再強化にどの程度寄与したのかは、必ずしも明らかではありません。
また補足として、「氏」と「家(苗字)」の関係についても整理しました。
すなわち、「源平藤橘」に代表される最上位の血統集団が「氏(本姓)」であり、そこから派生した血族集団が「家(苗字)」、さらに条件が整えば、そうした血脈集団を基盤とする「党」が形成される場合がある、という整理です。
概念上、大きな誤りはないと考えますが、これはあくまで本シリーズにおける便宜的整理である点は、改めて御承知おきください。
そこから、経済的、あるいは社会秩序的な背景についても概観しました。
足利氏の根拠地(苗字の地)である足利荘は、開発や運営に足利氏が深く関与し続けた土地であり、代々足利氏が下司職を相伝してきた、一族にとって象徴的な荘園でした。
そして足利荘は、王家領である八条院領に編成され、両統迭立期には大覚寺統に相続されることで、重要な経済的基盤となっていました。
つまり尊氏は、「職の体系」の中において、もともと後醍醐天皇と制度的(或いは社会秩序的)な繋がりを持っていた、と言えるのです。
これらの背景に加え、尊氏には「後醍醐推し」とも表現できる比較的強い尊王的姿勢があり、とりわけ後醍醐天皇に対しては、一貫して敬意を抱いていたと考えられています。
すなわち、北条氏からの再接近を受けつつも、尊氏の内面では
「後醍醐天皇 > 幕府(北条氏)」
という力学が形成されており、そこに「自らの利権(権利)と面子を守り、それを次代に継承する」という「武士の論理」が加わった結果、尊氏は後醍醐天皇へと「乗り換えた」可能性があるのではないか――本稿ではそのように整理しました。
通俗的には「幕府を裏切った」と表現されがちな尊氏の行動ですが、仮にそれを「裏切り」と呼ぶとしても、それは突発的なものではなかった、というのが本稿の捉え方です。
反幕府の決断に至るまでには、背景や関係性の変化といった積み重ねがあり、尊氏の「後醍醐推し」は主要因ではなく、あくまで決意の背中を押した副次的な要因に過ぎなかったのではないか、と私は考えています。
つまり尊氏は、「武士の論理」に従い、自らと足利氏を守るために、最終的に「反幕府」へと舵を切った――そのように理解する方が、より自然ではないでしょうか。
さて次回は、結果として「倒幕の最大功労者」となった尊氏が、なぜ後醍醐天皇と袂を分かつことになったのか、という点について考えてみたいと思います。
ところで、鎌倉殿の本拠地である鎌倉を攻略したのは、尊氏と同じ河内源氏流の新田義貞でしたが、なぜ鎌倉を落とした義貞よりも、六波羅探題を滅ぼした尊氏の方が高く評価されるのか、不思議に思ったことはありませんか。少なくとも私は不思議に感じました。
乱暴に言ってしまえば、それは「朝廷(後醍醐天皇)の政治的中心地である京の方が、鎌倉よりも価値が高かったから」です。無理やり現代に例えるなら、「経済の中心地」である大阪を制圧するよりも、「首都」である東京を制圧した方が、政治的な意味は大きい――そのようなイメージに近いでしょう。
余力があれば、こうした点にも触れつつ、引き続き「足利尊氏の事情」を掘り下げていく予定です。
それでは、次回もお楽しみに。
※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。
