聖地で不思議はない|スリランカ滞在記
スリランカの古都、キャンディ。
イギリスの植民地となる前に国を統治していた、シンハラ王朝最後の都。
この国の人々の拠り所みたいな場所。
中でもブッダの歯が納められているという「仏歯寺」は、スリランカ仏教の聖地だ。
1日3回プーシャという礼拝の時間があり、人々が熱心に祈りを捧げる。
私たちも現地の人々に倣い、白服に裸足という装いで礼拝に参加した。
9時半、タンタンタンタンタンタラタッタと独特なリズムのとり方で太鼓が響く。
ラッパのような笛のような形をした伝統的な楽器が聖地っぽいメロディを鳴らす。
人々は花や果物をかかげ、行列を作っている。
仏歯の入った容器のすぐ近くまで行きお祈りをするための列と、献花台の前でお祈りをするための列。私たちは献花の列に並んだ。
響き渡る太鼓の音を聞きながら、私は冷や汗をかいていた。なんだか急にめっちゃ体調が悪くなってきたのだ。太鼓の音と連動するようにグググと内臓が下がっていくような、重力に負ける感じ。
頭もぐわんぐわんと回っている。
こんな人混みで倒れたら大迷惑だ。なんとか気力を保ち献花台まで辿り着く。献花用に購入していたハスの花を供えて手を合わせる。
目を瞑ると頭の中が真っ白になり、何かゾーンに入った気がした。そこからはスローモーションのように鮮明に覚えている。
その時の言葉にならない気持ちにあえて言葉を探すなら「安心」だろうか。
心がゆるみ、(ここまで遠かった…)とひと息ついた。
入り口から今いる祭壇までの距離のことを思ったつもりだったが、日本からスリランカに来るまでの道のりのことのような気もしたし、これまで生きた26年間の道程のことのような気もした。
遠かったよね。もう一度そう思ったら、粘度のないサラッとした涙が数滴ポトポトと落ちた。この場に立って安心してしまったのだ。小さな子供が転んだ時、1人だったら平気だったのに母親に優しくされた途端に堰を切って泣き出すみたいに。
涙が止まり目を開けると、身体の重みは消えていた。待って、むしろめっちゃ軽い。
不思議なくらいにスッキリしている。なにこの感覚。今までに体験したことのない気分だ。
ダメージのない状態に生まれ直したみたいな。
生まれ直した。そう思った瞬間にブワッと鳥肌が立った。
偶然にもその日は私の誕生日だった。27年前の今日に産まれたんだ。
なんとなく人生のうちの第一章が終わって、第二章が始まった気がした。
不思議な感覚だけど、これは何か意味のあることかもしれない。納得する気持ちと信じられない気持ちが入り混ざり、しばらくぼーっとしていた。
お祈りを済ませて戻ってきたリリーが「なんかもうちょっとここに居た方がいいって、あの人が言ってた」と、献花台の側に立っているおじさんを指差す。
「なにかあるの?」「わからんけど、待ってろって言ってた」
じゃあ待つかあ、と数分ほどその場にいることにした。
すると太鼓の音がダダダンと徐々に大きくなっていき、人の群衆が押し寄せてきた。
大勢の人の波に押され流される。ムゴゴ…。背の低い私が、海外で人混みにのまれるのはマジで危ない。息の出来る隙間を見つけてプハっと顔を出す。
後ろから夫の声が聞こえた。「シオ!前、正面見て!」
声の通りに前をみる。献花台の奥にある小さな扉がゆっくりと開き、中から黄金の仏像が現れた。それ自体が発光してるんかと思うほどに眩く輝いている。
仏像の足元にはブッダの歯が納められている黄金の容器があるそうなのだが、距離的にそこまでは見られなかった。だが、むしろそれで良かったのかもしれない。あの黄金の光はずっと見てられない。人体には強すぎる。
その仏像が安置されている部屋の扉は普段閉まっていて、礼拝時間の中の数分間だけだけ開く。けれど、その扉はとても小さくて扉の真正面にいる人しか仏像を拝めない。
2000人くらいの人が集結して自由に身動きをとれない中、その光景が見られるかどうかは人波に流されるままの運次第だ。扉が開いている間に仏像と対峙出来るのは20〜30人程度だろう。
人に流されながら扉の真正面に来たらその瞬間に扉が開いた、なんていう私の状況はほとんど奇跡だ。
「ここにいた方がいい」って言ったおじさん、あれだけ大勢の中からなぜリリーにそれを言ったのか。私たちが留まっていた場所やタイミングだって、数m数秒ズレていたらこの場にいない。
私たちは呼んでもらったのかもしれないな、と思った。
仏歯寺を出たあともずっと体調が良かった。身体が軽すぎる。
皆に先ほど起こったことの話をした。
夫「この子ったら、またスピってるよ〜」
リリー「シオちゃんの顔色めっちゃ良くてウケる」
オーガスタ「シャーマンの素質があるってこと??」(ないよ)
三者三様の反応。まったく、個性豊かだなあ。
けれど私は結構本気で、このメンバーだからここに来れたって思ってる。
子供の頃読んだブッダの伝記に書いてあったこの言葉の意味が今はよく分かるから。
すべての物事は、因と縁(いんねん)で成り立っている
因は「私たちそれぞれの存在」縁は「これまでに積み重ねた日々」だとしたら、どちらが欠けても今この場に居られなかったと思う。
小さな奇跡が積もり積もって、今日がある。




