神様の女房~読書記録541~
神様の女房 もう一人の創業者・松下むめの物語 高橋誠之助

松下幸之助を、陰で支え続けた“もう一人の創業者”、妻・むめの。五里霧中の商品開発、営業の失敗、資金の不足、関東大震災と昭和恐慌、最愛の息子の死、そして戦争と財閥解体…。幾度も襲った逆境を、陰となり日向となり支え、「夫の夢は私の夢」と幸之助の描いた壮大なスケールの夢を二人三脚で追いかけた感動の物語。
淡路島の船乗りの家の次女として生まれたむめのは、豪放磊落な父、万能と勤勉を地でいくしっかり者の母の血を受け、男まさりの芯の強さと相手に尽くす優しい心を兼ね備えた大和撫子へと育っていった。
そんなむめのが、船場近くの京町堀の商家での女中奉公を経て、お見合いをすることになったのは、一九歳のとき。
お見合いといっても、お互いの顔を見ることなく結婚へと進むことがほとんどだった時代。
いくつもの縁談がありながら、むめのは、わざわざ最悪の条件ともいえた相手を選ぶ。財産と名の付くものは皆無。電燈会社に勤める二〇歳のやせた青年。名前を、松下幸之助、といった――。
丁稚から身を起こし、後に松下電器産業(現パナソニック)を一代で築き上げた稀代の経営者には、数々のエピソードが残され、それらは今なお語り継がれている。
だが、そんな幸之助の奇跡の成功ヒストリーを、陰で支え続けた“もう一人の創業者”がいたことは、意外に知られていない。その人物こそ、幸之助の妻、むめのだった。
五里霧中の商品開発、営業の失敗、資金の不足、苦しんだ人材の採用と教育、関東大震災と昭和恐慌、最愛の息子の死、そして戦争と財閥解体…。幾度も襲った逆境を、陰となり日向となり支え、「夫の夢は私の夢」と幸之助の描いた壮大なスケールの夢を二人三脚で追いかけていったのが、むめのだった。
むめのがいたからこそ、“経営の神様”は、その足跡を残すことができた。それは、幸之助自身が認めている。第二、第三の松下幸之助をこの国から生み出すためにも、こんな女性が日本にいたことを知ってほしい。
松下幸之助夫妻の“最後の執事”が綴る、松下むめのの物語。
高橋誠之助
1940年京都府生まれ。1963年神戸大学経営学部卒業後、松下電器産業株式会社(現パナソニック)入社。主に広島営業所などで販売の第一線で活躍。入社7年目、29歳のとき突然に本社勤務の内示があり、以来、松下家の執事の職務に就き、20年以上にわたり松下家に関する一切の仕事を担う。幸之助とむめのの臨終にも立ち会い、執事としての役目をまっとうする。その後、幸之助の志を広めるために1995年に設立された財団法人松下社会科学振興財団の支配人となる。
松下幸之助は偉大な人だ。「経営の神様」の異名は正しい。
けれども、この本を読み、痛感したのは、もしも松下幸之助の妻が違う人であったなら、或いは独身であったなら、ナショナル、Panasonicはなかったであろうということだ。
町工場で、むめのの弟と3人で始めた事業。中小企業、個人商店は昔から多い。町工場の発明家もいる。もしかしたら、むめのと義理の弟の助けがなけらば、世間一般の町工場で終わっていたのではないだろうか。
戦前、戦中、戦後の混乱の時代を懸命に生きた夫妻。自分の利益ではなく、日本を豊かにしたい、そんな想いを強く感じた。
現在、松下の子会社で三洋電機があるが、むめのの弟たちが創った会社だったのか。しかも、戦中、政府に言われ、軍需工場にさせられ、戦後はGHQからの誤解から、井植兄弟は退職に追い込まれたのだ。
井植歳男氏が松下電器から独立を決意した発端は、戦後の財閥解体による。GHQによって大企業の松下電器の事業活動が制限され、松下電器の重役であった井植歳男氏も追放が決定。そこで、井植歳男氏は独立を決断。1947年に大阪府守口において「三洋電機製作所」を創業した。
出張で関西に来た客を自宅に泊める、社員たちとの運動会や懇親会。
今の時代では通用しないだろうなと思う話もあった。
取引先の社長宅よりもホテルの方が有難いと思うのが最近の傾向だからだ。
時代を創った夫妻、並びに協力された人たち。日本を支えてこられたのだと思う。
