忘れられた象徴の力と癒やしの系譜② 象徴に力を与える時、象徴は私たちを支配し始める──プロビデンスの目が監視社会の象徴って本当?──
皆さんは、アメリカの1ドル紙幣に印刷されたピラミッドの上部に、
「謎めいた目」が描かれているのをご存知ですか?

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このピラミッドの目は、正しくは「プロビデンスの目」といいます。
「プロビデンス」とは、「神の摂理」「神の導き」という意味です。
キリスト教絵画においては、古くから、神が私たちを見守ってくれていることを表すための象徴として描かれてきました。
目の周りの三角形は、神の三位一体性を表しています。
先に結論を言ってしまえば、「プロビデンスの目」は、
もともとは「神の見守り(摂理)」の象徴だったのです。
しかし、現代の私たちの感覚からすると、空に唐突に三角の図形が浮かんでいる上、その中心にリアルな目が描かれているというのは、かなり不気味に感じられます。
そのため、この「プロビデンスの目」は、本来のキリスト教絵画における意味を離れて、
秘密結社や悪魔崇拝の象徴
陰謀論が予言する「監視社会」の象徴
だと囁かれてきました。
陰謀論の文脈では、1ドル紙幣に描かれている「プロビデンスの目」も
「アメリカ建国をフリーメイソンが主導したことを誇示する象徴である」
と、まことしやかに語られることがよくあります。
このような噂を聞けば聞くほど、私たちはこの「プロビデンスの目」に、監視されているような不安や恐怖や無力感を感じてしまうかもしれません。
私たちの身体には、形や図像に「安心」「怖い」「ホッとする」「不安」などと意味を補ってしまう働きがあります。
しかし、前回①でもお伝えしたように、もし私たちがこのシンボルを見ただけで不安や無力感を覚えるとしたら、
それは象徴そのものに「力」があるからではありません。
私たちの身体が無意識に意味を補い、「象徴写像反応」が起動しているだけなのです。
そこで今回は、「プロビデンスの目」が歴史的にどのように生まれ、どのように受け継がれてきたのかをたどりながら、
その「本来の意味」について考えてみたいと思います。
■キリスト教芸術における「プロビデンスの目」
(1)「神の目」のモチーフ自体は古代からあった
神や神殿に「目」を重ねるモチーフそのものは、古代エジプトのホルスの目など、キリスト教成立以前にさかのぼることも可能で、必ずしもキリスト教オリジナルというわけではありませんが、
キリスト教史においては、聖書の言葉(※)と結びつき、中世から「万物を見通す神の目」として徐々にアイコン化していきます。
(※例えば「隠れたところで見ておられるあなたの父」マタイによる福音書6:4、「闇の中でも主はわたしを見ておられる」詩篇139:11など)
当初は三角形はくっついていませんでしたが、徐々に「神の目」と「三位一体を表す三角形」が合体していきました。
(2)後期ルネサンス以降、「三角形+目」が定番化
16世紀〜17世紀、キリスト教絵画において三角形+目+光線という形が「三位一体+摂理」の象徴として流行します。



この時期の意味合いはかなり素朴で、
「三位一体の神は、常に私たちを見守っている」
「神の光がこの世界を照らしている」
という保護+見守りの象徴です。
(3)教会建築・宗教画での一般的な記号へ
その後、
カトリック
正教会
一部プロテスタント
の教会建築やステンドグラス、典礼用品などで「三角形の眼」が広く使われるようになりました。


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こうした宗教的な象徴は、「図像学(イコノロジー)」という学問による研究の蓄積があり、それがどのような意味を持っているか、主要な解釈はすでに広く共有されています。
「プロビデンスの目」も例外ではなく、本来どのような意味で描かれてきたのかは、学問的にかなりはっきりしているのです。
宗教的象徴というのは、本来すべての人に意味が開かれており、選ばれた人にしか理解できないということはありません。
ですから、象徴本来の意味を知っていれば、少なくともキリスト教絵画を見た時に、無用に不安や無力感を感じることはなくなります。
このように「正しい知識を得る」ことこそが、
無意識に象徴に力を与えて、象徴に支配されてしまう「象徴写像反応」から私たちを守るのです。
■フリーメイソンによって再解釈された「プロビデンスの目」
(1)フリーメイソンとキリスト教
フリーメイソンは、中世〜近世ヨーロッパの石工ギルド(職人組合)を起源とすると言われ、
もともとは建築技術を継承するための組織でしたが、近世以降、しだいに貴族や知識人も加わる「友愛団体」へと変化していきました。
当時のフリーメイソンは、中世ヨーロッパを支配したキリスト教的世界観の行き詰まりを突破する素材として、古代文明や周縁の思想に活路を見出し、
インド思想、古代エジプト文明、ユダヤ神秘主義、ギリシャ哲学などを象徴的に取り入れていきました。
その目的は他文化やその象徴をありのままに学ぶというより、フリーメイソン独自の目線で再解釈する比重が大きかったのです。
結果として、フリーメイソンの儀式・建築・象徴には、他文化の象徴が引用・再解釈される流れがありました。
(2)フリーメイソンにおける「プロビデンスの目」
フリーメイソンの絵画や文献の中で「プロビデンスの目」を積極的に使われ始めたのは19世紀頃とされています。
フリーメイソンにとっての「プロビデンスの目」は、キリスト教における「すべてを見通す三位一体の神の目」という意味とは異なります。
「宇宙の大建築家の目」=至高存在の目(神の目と解釈しても構わないが必ずしもキリスト教の三位一体の神ではない)
ロッジでの誓約や行為は、「プロビデンスの目」の前で行われている
道徳的な自己監視・誠実さの象徴
つまり、フリーメイソンにとって「プロビデンスの目」とは、
「お前たちの行いや思考は、常に大建築家の目に晒されている。
だから正しくあれ」
という、倫理的シンボルなのです。
(3)フリーメイソンにおける派生形
基本はキリスト教的な「神の目」の二次利用的な意味合いが強いのですが、フリーメイソンならではの特徴もあります。
必ずしも三角形とはセットではない
下に放射状の光がつくことが多い
これは、フリーメイソンにとってキリスト教信仰は必ずしも必須ではなく、他宗教の神を信仰していても構わない場合もあるため(支部によって異なる)、
キリスト教の三位一体性を表す三角形からは、あえて距離をとったものと考えられます。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Washington_as_a_Mason_-_drawn_by_J.F._Queen_;_printed_in_oil_colors_by_P.S._Duval_Son_%26_Co._LCCN2003655788.jpg


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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alle_frimurer_symboler.JPG
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前節のキリスト教における「プロビデンスの目」のまとめでは、「正しい知識」を知っていれば、象徴を見ただけで無意識に不安を感じてしまうような「象徴写像反応」から自分を守れる、とご説明しました。
しかし、フリーメイソンの象徴の厄介なところは、この団体が「秘密結社」として始まっており、象徴の意味が開かれていないことです。
フリーメイソン絵画の特徴として
「プロビデンスの目」だけでなく、
二本の柱(ソロモン神殿のボアズとヤキンの柱)
市松模様の床
棺桶
コンパスと定規
太陽と月
など、詳細な小道具が精緻に描き込まれて意図的に配置されているように見えますが、その一つ一つの小道具への説明がありません。
そのため、
さわりだけ見せられて結末がないような、
価値判断できないまま宙ぶらりんにされるような
収まりの悪さが、見る者にどうしてもつきまといます。
しかしここで、
「選ばれた人や優れた人にしか意味が分からないのだろうか」
「自分に能力がないから意味が分からないのだろうか」
と感じてしまうこと自体が、象徴に力を与えてしまいます。
説明されていないことをパッと見で理解できないことは、何も不思議なことではありません。
■アメリカ国璽と1ドル札の「プロビデンスの目」
(1)国璽に採用された経緯
陰謀論的文脈でよく話題になるのは、アメリカの国璽と1ドル紙幣の「プロビデンスの目」だと思いますが、これは採用された歴史的経緯がはっきりしていますので、ここでしっかり確認しておきましょう。
まず、1776年の最初の国璽デザイン委員会で、芸術顧問のピエール・デュ・シミティエールが、「新しい共和国を見守る神の摂理」のシンボルとして、「プロビデンスの目」を提案します。
その後1782年、最終的な国璽デザインとして、「未完成のピラミッド+その上にプロビデンスの目」が採用されました。
このときの意味づけは、
ピラミッド :「 13段=13州」「未完成=これから発展していく国家」
三角形の中の目 : 「神がこの事業を認め、見守っている」
モットー:「Annuit coeptis」=「(神は)我らの企てを祝福された」
と説明されています。
つまり、国璽の意味は「神の見守り」以上でも以下でもなく、
キリスト教国家としては正統なキリスト教的解釈だと言えます。
(2)「ドル札=メイソンの印」という誤解
陰謀論でよく言われているのが、
「ピラミッド+目=メイソンのマーク」
「だからアメリカ政府はメイソンに支配されている」
という説です。
しかし、「1ドル札=メイソンの印」と断定できるだけの決定的資料は見当たらず、その図柄だけでメイソン支配の証拠とするには根拠が薄いと言わざるを得ません。
メイソン絵画が「プロビデンスの目」を彼らの象徴や儀礼に積極的に取り入れ始めるのは、国璽採用(1782年)より少し後の19世紀になってからです。
また、国璽のデザイン委員にいたメンバーのうち、メイソンだったのはフランクリンだけですが、彼の案は最終案に採用されませんでした。
スコティッシュ・ライトや各種メイソン団体自身も「国璽はメイソンのシンボルではない」と公式に否定しています。
ですので、1ドル札の「プロビデンスの目」は、
当時すでに一般化していたキリスト教的シンボルが、
新国家の「神の祝福」の印として使われた
と見るのが一番自然です。
上述したように、メイソン絵画における「プロビデンスの目」からは三角形が外されていますが、国璽や1ドル紙幣には三角形が残っています。
このことからも、これらのデザインとフリーメイソンの意向には直接の関係はないということが分かります。
(仮に建国にメイソンが関与していたとしても、少なくとも国璽や紙幣のデザインの中で、自分たちの影響力を誇示しようとしたとは言えません)
■現代の「ありがちな誤解」
誤解①:プロビデンスの目は「フリーメイソン専用のシンボル」である
→正しくは、
キリスト教美術で広まった「すべてを見通す目」が先
メイソンはそれを18〜19世紀に自分たちの象徴体系に組み込んで三角形を外した改変型として採用
です。
誤解②:1ドル札の目=メイソン=世界支配の証拠
→ 歴史をたどると、
国璽の採用時点では、単にキリスト教の三位一体の神の象徴だった
メイソンの使う「プロビデンスの目」には三角形が使われていない
メイソン組織自身が「国璽はメイソンシンボルではない」と言っている
陰謀論としてはかなり根拠が弱く、デザインの変遷とも時期が合いません。
誤解③:このマーク自体に「悪魔崇拝」や「西洋魔術」の力がある
→ キリスト教絵画の側から見れば、
もともと神の三位一体と摂理を思い出させるキリスト教の象徴であって、その意味は「監視」よりも「見守り」
他の宗教的な象徴と同じく「物そのものに霊力が宿る」のではなく、
思い出すきっかけ・祈りの補助具
として使われてきた象徴です。
もちろん、現代の私たちの美的感覚からすると、空にリアルな目が浮かんでいるというのはなんとなく不気味ですが、もともとの象徴に悪意や魔術的な意味はありません。
■意味深なのに説明がなければ、不安を感じるのは当たり前
後世のオカルトや陰謀論が「プロビデンスの目」にいろんな意味を被せてしまったこともあって、
「庶民には逆らえない秘密の組織が暗躍しているのではないか」
「私たちは監視されているのではないか」
と不安になってしまう人は多いと思います。
近年では、SNSで陰謀論やデクラス(真実暴露)系の発信が増えたこともあって、こうした伝統的な象徴を
「悪意のシンボル」
「選ばれた人だけに理解できるこの世の真実」
だと拡散されているケースをよく見かけます。
確かに三角形の中にリアルな目が描かれている不思議な絵柄に、不気味な印象を感じてしまうのは理解できます。
特に、フリーメイソン絵画は
意図の有無が見えないことで不安を呼ぶ
精緻さ(秩序・対称性・階層・秘匿)が畏怖と魅了を同時に喚起する
説明が欠如していることでかえって深淵に見える
理屈より先に不安が喚起されてしまい、どうしても身体が反応する
という特徴を持っています。
精緻に描きこまれた象徴は、誰かが設計したものに見えるのに、意図が説明されていません。
解説がないほど、受け手は不安になり、無意識に意味を補おうとしてしまいます。
つまり説明が欠けていること自体が、
「この団体はこの世の真実を知っているに違いない」
ように見えやすくしてしまうのです。
しかし、その象徴が本来内包していた意味以上の意味を与えることは、
象徴の力を独り歩きさせ、象徴に力を与えてしまうということです。
だからこそ、ここで私は声を大にして、
説明されていないことを理解できないのは当たり前であり、
象徴を理解できないことに不安や無力感を感じる必要はなく、
大切なのは象徴そのものではなく、本来の象徴が何を表しているかだ
ということを皆さんにお伝えしたいと思います。
■象徴が力を持つのではなく、私たちが象徴に力を与えている
繰り返しますが、
象徴そのものが力を持っているのではありません。
象徴とは「一言では説明できないイメージを表現するための媒体」にすぎないのです。
だから怖いのは「象徴そのもの」ではなく、「その象徴を見たときに、私たちの身体がいつも同じ反応しかできなくなってしまうこと」です。
それこそが、前回お話しした「象徴写像反応」が固定されてしまった状態だと言えるでしょう。
象徴はただのデザインにすぎませんが、私たちの身体がそれに反応してしまえば、象徴に力を与えてしまいます。
私たちが象徴に畏怖を感じて象徴写像反応をコントロールできなくなる時、
象徴が私たちを支配しているように見えるのです。
だからこそ、私たちが象徴に力を与えないためにできることは、とてもシンプルなことなのです。
由来を確認する=知識によって境界線を引き、象徴に飲まれない
不安が起きたら「今は身体が反応しているだけ=象徴に力があるわけではない」と気づく
象徴そのものではなく、その象徴によって自分のどんな心理が刺激されているのか、自分の反応のパターンを観察する(不安・劣等感・無力感など)
つまり、象徴が私たちを支配するのではなく、象徴に対する自分の反応の仕方が固定されることで、支配されているように感じるだけである以上、
自分の反応は自分で観察し直せるし、整え直せるということを、私はこの連載を通してお伝えしていきたいと考えています。
※「象徴写像反応」は私の造語です。本連載では、身体化された認知や象徴的同一視など、分野ごとに別の用語で語られてきた近似の現象を、ひとつの構造としてまとめ直して扱っています。
