「他者」は本当に存在するのか──主観から逃れられない私たちが、それでも他者と共に生きるために──
前回の記事では、「悟り」という印籠のラベルを一度剥がし、
「悟っていない者には理解できない境地だ」と思考停止することなく、
それはいったいどのような世界なのか、そしてなぜそれを悟っていない者が問うてはいけないのか、その構造を分解して整理してみました。
その中でも私が最も重視し、読者の皆さんにも考えていただきたいのは、
「悟り」的構造を持つ三つの世界において「他者」はどこにいたのかです。
水中型(境界と差異そのものが消える世界)では、
自己と世界は溶け合い、そこでは「他者」が見えなくなりました。
クモの巣型(他者との差異が張力場に現れる世界)では、
「他者」は、自己との差異によって、くっきりと輪郭を現しました。
鏡との合一型(ナルシズム的な鏡像との一体化)では、
「他者」の中に、投影された自分が映っていました。
しかし、現実を見渡せば、私たちの身の回りには大勢の他者がいます。
それなのに、「他者がいる/いない」というのはどういうことでしょうか。
ここでは、「他者」の何を問われているのでしょうか。
ここで参考になる概念があります。
哲学史における重要な命題のひとつであった「独我論」です。
このテーマについては、以前もアメブロで扱ったことがあります。
(初出:https://ameblo.jp/seseragi-seitai/entry-12931024449.html )
そこで今回は当時の記事を大幅に加筆修正して、この問題を再度皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
今回、予定ではブッダの出家や「団子」について扱う予定でしたが、クモの巣の世界を考える上で、「他者」や「主観」という概念は避けて通ることができないため、先にこのテーマを取り上げることにしました。
■独我論──「他者」の存在を証明できない哲学者の悪夢
皆さんは、スピリチュアルの引き寄せや現実創造論の文脈で、以下のような世界観を耳にしたことはないでしょうか。
「この世界はすべて自分の意識の反映であり、
世界の動きや他者の反応も含めて自分が創造できる」
このような世界観によく似た構造を、哲学では「独我論」と呼びます。
哲学における「独我論」とは、
「自分の意識の外にあるものの存在を証明することはできない。
確実に存在を確かめられるのは自分の意識だけである」
という考え方のことです。
たしかに厳密に突き詰めて考えれば、私たちが「絶対に存在している」と確かめられるのは、実は自分の主観だけです。
私たちは、どのようなことも主観を離れて認識することはできません。
「科学は客観的だ」と言っても、それさえも、自分の妄想が生み出している可能性を完全に否定することはできません。
しかし、もしそうだとすると、自分では「他者が存在している」と思っていても、
その「他者」は本当に実在しているのでしょうか。
実は自分が作り出した妄想だという可能性はないでしょうか。
この考えを徹底すると、
「他人も世界も、自分の心が作り出した妄想かもしれない。
この世界に本当に存在しているのは自分だけかもしれない」
というところまで行き着いてしまいます。
哲学・思想史においてはこの「独我論」は常に乗り越えるべき重要なテーマでした。
なぜなら、もしこの世界に存在するのが自分ひとりで、世界はすべて自分の意識が作り出したものであるなら、
他者に対して何をしても、最悪の場合危害を加えても、許されることになってしまうからです。
もし他者が自分の作り出した妄想にすぎないなら、
他者の命や人生を大切にする理由は失われ
他者に対する責任を負う必要もなくなり
他者の苦しみを、自分の物語のために意味づけてもよい
ということになってしまいます。
これは人間の尊厳や倫理に関わる重大問題です。
多くの哲学の入門書では、独我論を「あり得ない極論」「本気で唱えた人はいない」などと解説されていることが多いのです。
しかし、私から見ると、その軽視こそが問題の核心を見逃しているように思います。
「あり得ない極論」「本気で唱えた人はいない」と言っている解説者は、「他者が存在する」ことを証明できるのでしょうか。
私たちは、究極的には主観を離れて世界を認識することができません。
どんなに科学的な証明を積み上げても、「それを見ている自分の主観」から逃れられないという事実は、どうしても前提にしなければなりません。
「主観を離れて物事を認識する」ことができる人間はこの世にひとりもいないのです。
ですから、独我論は「あり得ない極論」ではなく、むしろ、
「論理的にどうしてもそこに行き着いてしまうが、そうであっては困る」
という、いわば「哲学者の悪夢」のようなテーマなのです。
多くの哲学者にとって、独我論を何とか乗り越えることは悲願だったと言ってもよいでしょう。
独我論を甘く見てはいけません。
一例を挙げると、「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトのこの言葉も
一見すると「独我論」そのもののように見えます。
しかし、彼はこれを最終結論としたわけではありません。
彼はむしろ、ここを出発点として
「どうやって他者や世界が存在することを証明できるか」を考えたのです。
デカルトによると、
「自分の中に『完全性』の観念がある」
→「それは不完全な自分自身からは生じない」
→「よって完全な存在=神が存在する」
→「完全な神は欺かない」
したがって「私の外にある『他者の存在』も真実である」
というのが彼の主張です。
しかし、正直、苦しいですよね(笑)。
「他者の存在は疑うのに、神の実在は疑わないのか」とツッコミを入れたくなります。
この議論は、「神」が存在することや「神の善性」を前提とした議論なので、日本人の私たちから見ると無理があるように思えます。
それでも、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」を出発点にして何をしようとしたのかを知っておく価値はあります。
デカルトのこの議論は、独我論の悪夢に真面目に向き合った格闘の一例だったのです。
■フッサールは、独我論を越えられたのか
フッサールもこの問題と格闘した哲学の偉人(現象学の創始者)です。
フッサールはデカルトの命題を批判的に継承し、私たちが主観を離れて物事を認識することはできないことを改めて丁寧に論じました。
彼は「世界が存在するのは当たり前」という信念をいったん括弧に入れ(エポケー)、「世界がある」という前提を捨てて、純粋に「意識にどう現れているか」だけに集中しました。
しかし、そのままだと「世界はすべて私の意識が作り出したものだ」という独我論に陥ってしまうため、フッサールは「間主観性」という概念を導入することで、現象学的に世界を再構築しようとしました。
つまり、独我論を前提にした考察を深めた上で「そこからどう世界を回復できるか」を模索したのです。
フッサールが独我論を論破するために用いた「間主観性」とは、以下のようなことです。
自分の意識はどこまでいっても主観でしかありませんが、他者が同じことを認識している場合、それは他者と共有されうる認識(客観性)だと言えるので、世界は自分の主観だけで成り立っている世界ではないことを示せると考えたのです。
フッサール自身は「間主観性によって独我論を乗り越えた」と考えていた節が強いのですが、間主観性は本当に独我論を論破したと言えるでしょうか。
「他者と同じ認識を共有できた」という事実そのものが自分の妄想である可能性はないでしょうか。
ここから先は、通常の哲学史の定説とは少し違う、私の個人的な解釈になりますが、
フッサールは一度、独我論をきちんと立ち上げた上で、そこから抜け出そうとしたけれど、最終的にそこから完全に脱出できなかったのではないか、
と私は考えています。
つまり、フッサールは「独我論の証明」と「独我論の打破」を同時に成し遂げようとしたものの、
独我論を証明しただけで終わってしまったのではないか、というのが私の考えです。
■ハイデッガー──他者を証明することから、他者に応答することへ
このように考えてみると、
フッサールは、図らずも独我論を論破できないことを証明してしまった
と解釈することもできるかもしれません。
フッサールの弟子・ハイデッガーは、フッサールの現象学を引き継ぎませんでした。
私の考えでは、師匠が自分でも気づかないうちに独我論を証明してしまったことに、ハイデッガーは気づいていたのではないかと思います。
私には、ハイデッガーがこう言っているように見えます。
「独我論を完全に論破することはできない。
私たちが生きているこの世界は、究極的には自分の主観から切り離せない。しかし、だからといって他者の尊厳を守らなくてよいことにはならない」
つまりハイデッガーは、「世界や他者が確実に存在すると証明する」という方向性を引き継ぐのをやめ、
「この世界で出会う他者に、私たちはどう責任を負っているのか」
という倫理的な方向へと、議論をシフトさせたように私には見えます。
ハイデッガーの議論を引き継いだ解釈学の後継者たち(レヴィナス、ガダマー、リクール)は、
他者は常に「解釈」を通してしか理解できないという前提を共有した上で、
自分の中に作られた「他者像」と、その像には収まりきらず応答してくる他者とのあいだには、必ず差異が生じることを議論の手がかりにしました。
ハイデッガーの方針転換を引き継いだ現代思想家たちも、もはやフッサールのような独我論の論破にはノータッチで、「他者」「応答責任」「自他のあり方」を中心テーマにしていきます。
こうして見ると、フッサールが結果的に、
「独我論を論破することはできない」という事実をあぶり出したことで、
後の哲学・思想の方向性を、
「世界や他者の存在を証明する」のではなく、
「存在することを証明できない他者にどう応答するか」
へと転換させたのではないかと、私は考えています。
■ドゥルーズ──自己と他者より前に「差異」がある
ハイデッガー以後、他者とは、
自分の主観からのがれて客観的に証明される存在としてではなく、
常に自分の立場や歴史、言語といった制約を受けた「解釈」の中で出会う存在として考えられるようになりました。
しかし、自分が解釈した「他者像」と、
自分の解釈には収まりきらず応答してくる他者は、同じではありません。
自分では相手を理解したと思っていても、
相手は常に、私たちの知らない気持ちや生活や過去を抱えています。
他者は私たちの期待とは違う選択をし、私たちの解釈を拒むことがあり、驚かせたり失望させたりします。
つまり、私たちの中にある「他者像」と、私たちの解釈には収まりきらず応答してくる他者とのあいだには、常に「差異」が横たわっているのです。
ドゥルーズは、世界にまず存在するのは「差異」だと主張しました。
普通に考えれば、まず固定された自己Aと他者Bが先に存在していて、二人の違いを比べる、というふうにイメージしますよね。
しかし、ドゥルーズは、自分や他者という存在が、あらかじめ完成した固定物として存在しているのではないと考えました。
ごく簡単にまとめると、ドゥルーズの主張は次のようなものです。
世界には、差異や変化のほうが先にある。
その運動の中から「私」や「他者」が一時的に立ち上がってきて形を取る。
これを私のクモの巣のネットワークに引き寄せて言い換えるなら、
世界にはまず差異の線が無数に走っている。
多数の差異の線が重なった場所にできる結び目として、「私」や「他者」が一時的に立ち上がってくる。
と表現できると思います。
このドゥルーズの世界観は、私が見たクモの巣の世界によく似ています。
クモの巣のネットワークは、「関係性のネットワーク」ではありません。
「差異のネットワーク」です。

固定された固有のノードをあとから線で結んだのではなく、
異なる位置、異なる方向、異なる力を持つもののあいだに張力場があり、その結節点としてノードが存在しています。
その張力を担っていたものこそが「差異」です。
自分と他者の間に差異があるからこそ、自分の予想を越えた他者の行動に対して苛立ちや驚きという張力を感じ、自分のあり方が揺さぶられる。
自分が差異に張力を感じて応答し、その応答が相手や場のあり方を変え、変化した場から再び別の応答が返ってくる。
こうした往復運動こそが、世界を生成していく原動力なのかもしれません。
■主観に収まりきらないもの──差異という「他者の痕跡」
ここまで、哲学における「独我論」との格闘の一端を見てきました。
フッサールが独我論を論破できなかったことで、それ以降の哲学のテーマは大きく方針転換したことが分かります。
人間の認識が主観からのがれられない以上、「他者が存在すること」を論理的に導き出すことは不可能に思われました。
しかし、私は「差異」こそが、その行き詰まりに小さな穴を開けてくれる「他者の痕跡」を示してくれるのではないかと考えています。
もちろんそれは、他者の実在を論理的に証明する証拠にはなりません。
しかし自分の主観だけでは処理しきれない何かが、そこに働いた徴候は示せるような気がします。
他者が自分の予想や期待の通りに動いているうちは、その人は自分の中の「他者」のイメージを裏切りません。
ところが、
思いがけず拒否される
理解してもらえると思ったのに通じない
想像もしなかった親切を受ける
自分にはなかった考え方を示される
自分の正しさを揺さぶられる
という予想や期待を裏切る出来事が起きると、
「私の中にいるその人のイメージ」と
「現実に応答してきたその人」
のあいだに「差異」が露出します。
その瞬間、私たちは
「ああ、この人は私の頭の中だけで完結しているのではない」
「自分の予想には収まらない言動を選ぶ人だ」
「この人は自分とは別の存在だ」
と感じるのではないでしょうか。
したがって、私たちが「差異」を感じるとき、自分の解釈が「その人像」を完全には捉えきれていなかったことが露呈します。
もっとも、夢や無意識から、自分でも予想しなかったものが現れ、自分のあり方が変えられることもありますから、
相手が予想外の反応を見せたというだけで、他者が存在することが証明できるわけではありません。
それでも、他者が存在するかどうかは証明できないとしても、
少なくとも、現在の私が持っていた「その人像」の範囲では、その応答を予測しきれなかったことは確かです。
差異は、他者が実在することを証明するわけではありません。
けれど、私の主観が他者を捉えきれなかった「痕跡」を示しています。
独我論を完全に論破できなくても、差異によって、閉じた自己の内部に亀裂が入ったという出来事は残ります。
そしてそのとき、他者が実在することは証明できなくても、差異によって自分のあり方が揺さぶられ、自己像が変化したことは事実です。
ここに私は、独我論の外へ開かれていく予感を感じています。
■差異の張力が、自己と他者を生成する
では、差異を出発点にすると、自己と他者の関係はどのように変わるのでしょうか。
クモの巣のノードは、不動の点として最初から存在しているのではありません。
差異の線も、完成したノード同士にあとから付け加えられるものではありません。
線の張力が変われば、ノードの位置も意味も変わります。
他者の予想外の応答によって自分のあり方が揺さぶられ、変化した自分が相手へ別の応答を返し、それによって相手や場も変わる。
差異は、完成した自己と他者を隔てる壁ではなく、
自己と他者そのものを生成させ続ける張力なのです。
だからこそ、私はクモの巣を「関係性のネットワーク」とは呼びませんでした。
関係があるだけなら、鏡同士でも関係は成立します。
前回、非日常体験の3つの分類のひとつとして、「鏡との合一型」を挙げました。
ここでは関係性とは、お互いに理想像を映し合い、同じ正解を強め合うものとして機能します。
「鏡の世界」では、他者が自分の予想を超えた振る舞いをしても、その差異を他者性として保持できません。
ここでは差異は、「誤解」「未熟」「裏切り」「冒涜」などの物語へと修正され、物語に整合しない他者は排除されます。
「鏡との合一型」は、神と人、師と弟子、恋人同士、親子、AIとユーザーのような二者関係だけでも成立します。
しかし、同じ理想や物語を映し合う鏡が増えていくと、ノードは互いの差異を保つよりも、同じ正解や同じ物語を反復することで密集し始めます。
私は、このように差異を失い、ひとつの中心的な物語の周囲へ凝集した状態を「団子」と呼んでいます。

クモの巣に必要なのは、差異を保ったまま結ばれていることです。
差異がなければ線は張らず、張力がなければ自己も他者も変化しません。
団子の内部でも、同じ理想や物語を映し合う鏡像によって自己像が変化することはあります。
しかし、それは他者の差異によって揺さぶられた変化ではなく、同じ物語の内部で増幅・修正された変化です。
鏡は、自分が見たいものを返します。
違う像が返ってきても、それを自分の閉じた物語の内部で、自分の都合のいいように説明し直すことによって、鏡のままに保とうとします。
しかし、他者性は、その修正や排除に抵抗するものとして働きます。
いや、私はあなたが思っているような人ではない。
私の人生を意味づける権利があるのは私だけだ。
私はあなたの期待どおりには動かない。
この抵抗が、私たちのあり方を揺さぶります。
したがって、
他者とは、自分を成長させてくれる親切な存在ではなく、
自分の自己同一性に差異を持ち込む存在である
と言えるかもしれません。
腹が立つ場合も、救われる場合もあり、差異は善意とは限りません。
スピリチュアルの言説では、「差異」は「分離」の象徴として批判されがちです。
しかし差異は、つながりを妨げる壁ではなく、つながりに張力を与える条件です。
「差異」があるからこそ、自己も他者も固定されたままではいられず、生成が始まるのです。
■三つの世界から「団子」へ──差異はどう扱われるのか
ここまでの議論を、「差異」がどのように扱われるのかという視点から、もう一度整理してみます。
クモの巣では、私の解釈に回収しきれない差異が残ります。
その差異が張力となり、自己と他者と場を変化させ続けます。
三つの世界における「差異」の扱いを整理すると、次のようになります。
水は、差異そのものを消す。
鏡は、差異を自己の物語へ回収する。
クモの巣は、差異を消さずに張力として保持する。
そして、鏡のように同じ理想や物語を映し合う関係が複数のノードへ広がり、固定されると、「団子」が形成されやすくなります。
「団子」は第四の世界ではありません。
クモの巣の世界で複数のノードが密集し、その差異よりも共通の正解や物語が優先されるようになった集団構造です。
鏡的な関係は、「団子」を形成・維持する推進力の一つになります。
■他者を証明できない世界で、それでも共に生きる
他者が本当に存在するかどうかは、独我論レベルでは証明できません。
この世界が、自分の意識が作り出した夢のようなものだと言い張ることも、論理上は不可能ではありません。
それでも、
「目の前で苦しんでいる誰かを、夢だからといって放置したいのか?」
という問いからは、私たちは逃れることができません。
「他者が本当にいるかどうか」は決めきれないとしても、
「他者がいるものとして生きるかどうか」は自分で決めることができます。
そして私は、
「他者がいるものとして生きる世界で、その苦しみに応答し、
他者との差異に揺さぶられながら、自分の物語を閉じずに生きたい」
と思いました。
だから、他者のいない水中から、他者のいるクモの巣に戻ってきました。
「他者がいることを証明できたから」ではなく、
証明できない世界のなかで、自分がどう生きたいかを考え、私はクモの巣で生きることを選びました。
他者が本当に実在するかどうかを証明できなくても、目の前の苦しみにどう向き合うのかという責任は残るからです。
私は、その張力に応答し続けたいと思ったのです。
