みんなが評価するステージに、あなたが本当に救いたかった現場はあるか。
SNSを開けば、同世代の眩しい活躍がタイムラインを埋め尽くしている。
華やかなアワードのステージ、洗練されたピッチ、鳴り止まない拍手と、「世界を変える」という大きな言葉。
その熱量に触れるたび、私はいつも刺激をもらうと同時に、違和感が生まれる。
ステージの上でスポットライトを浴びているとき、私たちは本当に、自分の言葉の真ん中に立てているだろうか。どこか足元がふわふわと浮いているような、奇妙な息苦しさを、本当はみんな心のどこかで感じてはいないだろうか。
誰もが良いと評価し、みんなが拍手を送るもの。それは一見、絶対的な正解のように見える。だけど、全員にとって都合が良いものは、往々にして、誰にとっても「無難で、平均化された、薄いもの」になってしまうのかもしれない。
誰かが用意してくれた「わかりやすい価値」のうえで、期待される主役を演じること。
つながりの数を広げ、SNSの見栄えを整えること。
気づけば、そんな「どう見られるか」のために、自分の本当に大切な初期衝動を、すり減らしてはいないだろうか。
社会を動かす、あるいは誰かの力になるということは、きっとそんなにスマートなものじゃない。
みんなが評価する華やかなステージの上に、私たちが本当に向き合いたかった、あの泥臭い「現場」は本当にあるだろうか。
本当に心が震える瞬間は、SNSには1ミリも映えないような、静かで地味な景色のなかにこそある。
誰も見ていない場所での地道な作業、何度も壁にぶつかる泥臭い調整、夜中の一人きりの不安。
だけど、その生々しい現実と泥まみれになって向き合い、悩み抜いた時間にこそ、嘘偽りのない本物の手触りがあるはずだ。
だからこそ、同じ時代を全力で迷い、全力で走る仲間として、あえて一緒に問いかけてみたい。
私たちのビジョンは、今、目の前の一人の痛みに届いているだろうか。
ステージの電気が消え、大人が用意したお祭りが終わった翌朝も、私たちはその現場に立ち続けることができるだろうか。
社会を本当に変えていく小さな変化は、いつもスポットライトの当たらない、静かな場所から始まっている。
一過性のブームが去り、鳴り止まない拍手が過去のものになったあとも、その地面に深く根を張り、残り続けるものだけが、やがて本物の大樹になっていく。
わかりやすい光の引力に、自分の大切なパッションを消費されてしまうのは、あまりにももったいない。
誰かに認められるための、全員が正解だと言うゲームに追われるのは、もう終わりにしよう。
不格好でもいい。誰も注目していなくてもいい。冷たくて、でも確かな手触りのある自分の足元をもう一度踏み締めて、着実に、目の前の現実と向き合っていきたい。
拍手の手を止めて、自分の現場へ戻ろう。
誰も見ていないその場所から、世界の解像度を、私たちの手で少しずつ変えていくために。
