『陽気なお葬式』

リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』。
猛暑のニューヨーク。死期の迫った画家アーリクの病室を舞台に、彼の最期の日々が描かれる。妻やかつての恋人たち、友人たちが行き交うなか、アーリクは死を迎えようとしている。
重々しい総合小説が読みたくなって、ロシア文学の棚へ向かった。そこで手に取ったのが、こちら。
『陽気なお葬式』は、タイトルどおり、死はここでは悲劇ではなく、生の祝祭として描かれている。それなのに、私はどうもこの祝祭のなかに入り込めない。(なにしろ、愛した女が多すぎる)。
以前読んだ『通訳ダニエル・シュタイン』の余韻が残っていたからかもしれない。あちらでは、ひとりの人間の生涯が、ホロコーストや宗教、民族、国家、亡命といった二十世紀の大きな歴史にまでつながっていった。手紙や日記、記録を読み重ねながら、ひとりの人生の向こう側に広がる世界の大きさに圧倒された。
だからかな。『陽気なお葬式』には多くの人が集まり、それぞれが多くのものを抱えている。それなのに、こぢんまりと見えてしまった。
もちろん、ここにもウリツカヤらしい眼差しはあった。ロシアを離れた人々は、母国の食べ物や音楽を手放さず、それぞれ違う宗教や国籍や過去を抱えたまま、アーリクのもとに集まってくる。死を前にしても、人は食べ、飲み、恋をし、喧嘩をする。悲しみだけで人生を終わらせない、その逞しさはとても眩しい。分かり合うことよりも、分かり合えないまま一緒にいられること。そこにウリツカヤの描く「共存」があるのかもしれない。
でも、分かることと、心が動くことは別なのだと思う。私が求めていたものが違ったのだろう。もっと大きな世界を抱えた小説を読みたくて手に取ったのだから。(タイトルで察せよ!)
それでも読み終えてみると、ひとつだけ妙に印象に残った。これほど死を賑やかに描きながら、ウリツカヤは悲しみそのものを消してはいない。笑いや食事や音楽の隙間に、死んでいく人間を前にした寂しさが澱のようにちゃんと残っている。
歴史の巨大なうねりを描く筆致と、死の間際の小さな部屋の喧騒を描く筆致。その両極端な場所を描き分けることができることこそ、ウリツカヤという作家の底知れなさなのだと改めて感じた。
