『ハンチバック』市川沙央---何を読まされたのかわからないまま、本を閉じた
本を閉じたまま、立ち尽くしていた。
感動したとも、怒ったとも言えない。
言葉にならない違和感だけが、体の内側に残っていた。
何かを理解した手応えもない。
ただ「これは何だったのだろう」という感覚だけがあった。
『ハンチバック』、私は何も知らなかった。
作者のことはもちろん、芥川賞受賞作ということさえも知らなかった。
”海外の文学賞の候補になった”というネットニュースの
短いタイトルだけを見て深く考えずに読み始めただけだった。
読み進めるうちに、違和感はどんどん強くなった。
表現は過激で、語りは挑発的で、こちらに理解を求めてこない。
読者である私に対して、説明も配慮もない。
むしろ、「あなたがどう思おうと関係ない」
と突き放されているような感覚があった。
私は何度も自分が試されているような気持ちになった。
共感できるか、受け止められるか、許容できるか。
けれど、そのどれもが的外れなのだ、と作品から言われている気がした。
正直、読んでいて不快だった。
倫理的にどうなのか、思想としてどうなのか。
そういう整理をしようとするたびに、言葉が手から滑り落ちていく。
主人公の語りは、まるできれいに意味づけされることを拒むかのように、
「理解されるためには書かれていない」
という感触が終始つきまとっていた。
それでも、途中で読むのをやめることはできなかった。
面白い、とは違う。
引き込まれる、とも違う。
ただ、目を逸らしてはいけないものを見せられているような感覚があった。
私はこれまで、おそらく小説に対して無意識に期待していたのだと思う。
読み終えたときに「なるほど」と言えること。
自分なりに解釈し、評価し、感想としてまとめられること。
『ハンチバック』は、その前提を根こそぎ壊してきた。
読後も感想がまとまらなかった。
「よかった」とも言えないし、
「嫌いだ」と言い切るのも違う。
残ったのは「わからない」という感情だけだった。
あとから、この作品が芥川賞を受賞していることを知った。
賛否が激しく分かれていることも知った。
それを知って少しだけ腑に落ちた。
この小説は、誰かにわかってもらうための作品ではないのだろう。
『ハンチバック』は、読者を安心させない。
理解した気にさせない。
善意の立場にも、安全な観客席にも、簡単には立たせてくれない。
私は今もこの作品をどう評価すればいいのかわからない。
ただ、何も知らずに読み、戸惑いのまま読み終えたという体験そのものが、この小説に対する正直な応答だった気がしている。
ここで、ひとつ自分に問いが残った。
私たちは、読書においてどこまで「わかる」ことを求めているのだろうか。
理解できないもの、不快なもの、整理できないものを前にしたとき、
それを「失敗した読書」と呼んでしまっていないだろうか。
もしこの小説が投げかけているものがあるとすれば、
それは答えではなく
「わからないまま考え続けられるか」
という問いなのかもしれない。
わからなかった。
それでも本を閉じて、なお考えてしまう。
その状態こそが、この作品に読者として差し出せる
唯一の誠実さだったのではないか——
わからないまま、私はまだこの本の前に立っている
