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人口は減っているはずなのに、家が増えていく町で

田んぼだった場所に、また新しい家が建ちはじめた。

通勤の途中、いつも通る道の角。去年の秋までは稲が揺れていた場所に、この春から重機が入り、気づけば真新しい壁が立ち上がっていた。分譲地ののぼりがはためいて、「全6区画」の文字が風に揺れている。

あれ、と思う。ニュースでは「人口減少」「空き家問題」という言葉を毎日のように聞くのに、目の前の景色では、家がどんどん増えていく。少し歩けば、雨戸の閉まったままの古い家がぽつんとあるのに、その数百メートル先では、ぴかぴかの新築が並んでいく。

なんだか不思議な光景だなあ、と立ち止まってしまった。

たぶん、理由はいろいろあるのだと思う。中古の家より新築のほうが安心だとか、間取りを自分たちの暮らしに合わせられるとか、古い家は直すほうがかえってお金がかかるとか。誰かが悪いわけでもなく、一人ひとりが自分の暮らしを大事に選んだ結果が、この景色なのだろう。

それでも、子どもの頃に虫取りをした空き地や、夕方になるとカエルの声がうるさいくらいだった田んぼが、ひとつ、またひとつと四角い区画に変わっていくのを見ると、胸の奥がすうっとするような、小さな寂しさがある。

あの田んぼの持ち主だって、きっと悩んだはずだ。続けるには手が足りない、継ぐ人もいない。それなら誰かの新しい暮らしの場所になったほうがいい。そう考えれば、田んぼが家になるのは「終わり」ではなくて、「バトンタッチ」なのかもしれない。

新築の家に、若い夫婦が引っ越してくる。小さな子どもが庭で三輪車をこぐ。私が田んぼのカエルに感じていたような「ここが自分の原風景だ」という気持ちを、あの子はきっと、あの家の並ぶ景色に対して持つのだろう。

私が寂しいと感じている景色は、誰かにとっての「はじまりの景色」でもある。

鎌倉時代の随筆家・兼好法師は『徒然草』第七段に、こんな一節を残している。

「世は定めなきこそいみじけれ」

——世の中は、定まらないからこそすばらしい。

七百年も前の人が、こんなことを書いていたのかと思うと、なんだか笑ってしまう。景色が変わって寂しい、でも変わるからこそ新しい暮らしが生まれる。そのどちらの気持ちも、昔から人はずっと抱えてきたのだろう。

もちろん、全部を「時代の流れだから」で片づけたいわけではない。緑が減っていくことには、やっぱり立ち止まって考えたいことも多い。それでも、変わっていく景色をただ嘆くのではなく、「私はあの田んぼを覚えているよ」と心のどこかに置いておくこと。それも、景色との付き合い方のひとつなんじゃないかと思う。

だから最近は、通勤の道で少しだけ意識して景色を見るようにしている。今日の空き地、今日の畑、今日の古い家。来年には変わってしまうかもしれない景色を、目に焼きつけておく。写真に撮ることもある。何に使うわけでもないけれど、「見ていた人がいた」という事実だけは、私の中に残る。

もしあなたの町にも、いつのまにか消えてしまった景色があるなら、今夜、誰かにその話をしてみてほしい。「あそこ、昔は田んぼだったんだよ」——それだけで、その景色はもう一度、少しだけこの世界に戻ってくる気がするから。

変わっていく景色の中で、覚えていることは、私たちにできる小さな抵抗であり、小さな贈り物なのだと思う。

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