新しい扉が開くか:新総理が誕生するかもしれない
朝の光が、飲みかけのコーヒーカップの縁をなぞっている。静かな部屋にテレビのニュースが低く流れていた。日本で初めて女性総理が誕生するかもしれないという。その言葉が当たり前のように語られていることに、思考が止まった。
なぜ女性の総理大臣がいなかったのだろうか。もし、それが「女性だから」という理由であったなら、それは社会の大きな歪みだ。能力や資質ではなく、性別という属性が、人の可能性を縛り付けていたことになる。
歴史を振り返れば、女性が参政権を持たなかった時代がある。今では信じがたいことだが、ほんの数十年前までの現実だ。多くの先人たちが、声を上げ、闘い、その権利を勝ち取ってきた。婦人運動家の市川房枝はこう言った。
婦人運動は、特別なものでも何でもなく、人間として当たり前の権利を要求する運動なのです。
彼女たちの強い意志がなければ、今日の議論さえ存在しなかっただろう。
最近、企業の役員や議会の女性比率を高めようという動きが活発だ。その流れ自体は、歓迎すべきことだと思う。しかし、時々違和感を覚えることがある。「女性がいないから、女性を登用する」という考え方だ。それは、能力ではなく「女性」という記号を求めているに過ぎない。
私は、数合わせのための登用には賛成できない。だが、もしこれまでの社会が、能力ある女性を正当に評価してこなかったのだとしたら、話は全く別だ。見えない壁によって機会を奪われてきたのなら、その壁を壊すための積極的な是正は必要不可欠だろう。
そもそも、「男だから論理的だ」とか「女だから共感性が高い」といった議論は、あまりにも乱暴ではないか。個人の能力は、性別という大きな網で一括りにできるものではない。料理が得意な男性もいれば、機械の整備に長けた女性もいる。そんなことは、少し周りを見渡せばわかる当たり前のことだ。
初の女性総理が誕生するかもしれないというニュースは、単なる一つの人事ではない。それは私たちの社会が、性別という古いフィルターを捨て去り、個人そのものを見つめる時代へと向かっているのかを問う、試金石なのだと思う。
まだ微かにしか聞こえないが、新しい時代の扉が開く音がする。
その音に、耳を澄ませていたい。
窓の外では、いつもと変わらない朝が始まっていた。
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