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短編小説 赤の他人

 わたしは彼女を知っている。ただ、話しかけないだけで。彼女はわたしを中学のころいじめていたクラスメイトだ。わたしがこのカフェをみつけたのは、もう一年以上前だけれど、彼女はほんの先週ごろから通い始めたらしい。物憂げにみえる背中は、ほんとうに、彼女らしくないと思った。それはもっとも、複雑な意味で。
 カフェを変えるつもりはなかった。わたしはこのカフェが好きだし、彼女の存在があったところで、すっかり忘れてることだから、心を乱されることもないし、彼女も忘れてるだろうから、赤の他人である。そんなある日、赤の他人なわたしたちが、他人でなくなってしまうことは仕組まれていたように思う。雨の日だった。傘をもって帰ろうとすると、わたしの傘がない。タータンチェックの柄の入った、少しこだわった傘だった。今まさに、目の前で、彼女がさしているのである! かんかんに怒りそうだった。わたしの中に実はまだ、活動している火山があったなんて!
「あの!」
 彼女は立ち止まった。かなりぼーっとして、目が少し赤く直前まで泣いていたのかもしれない。
「傘、わたしのなんですけど……」
 泣き顔に遠慮してしまい、尻すぼみになる声。彼女は「すみません、ぼーっとしてて!」と傘を返してくれた。多分それは、事実の気がする。わたしもそれ以上怒らず、傘を受け取った。わざとだったら絶対に怒っていたけど、肩透かしをくらってしまい、そのまま帰ろうとしたところで彼女に呼び止められた。
「そういえばわたし……傘持ってきてないって気づきました」
 それからふたりで歩いた。なぜこんなことになっているのか分からない。でも、何かわたしの中でくすぶる煙のようなものがあるから、そいつに突き動かされて今ここにいるかもしれない。彼女が話をし始めた。雨のアスファルトを踏みしめるざりざりとした音がする。
「彼氏に振られちゃって。ばかですよね。わたし。わがままなんです。彼氏にひどいこと言っちゃって。人生こんなことばかりなんです。もともと、わたしの家庭が、親が暴力をしてくるので、人との関わり方がほんとに分からなくて」
 より近く聴こえる雨音。
「そうなんですね」
「だからかな、今もこうして、見ず知らずのあなたに個人的な話を暴露しています」
 影をもつ人特有の、距離の近さをわたしも感じた。こういう人は苦手だし、付き合っていられないので、コンビニまで軽く送って、そのあとはビニール傘を買わせて、その場を後にした。彼女がわたしに気づく気配は全くなかった。きっと自分のことだけで精一杯なのだろう。
 そしてわたしはあの頃の彼女に思いを馳せた。あの子は確かにいじわるで、ひどいこともされたけれど、テストの点はいつも高くて、部活も熱心にしていたから、根は真面目なのかもしれない。その後の人生の答え合わせをした気分で、何とも言えなかった。ざあざあ降り注ぐ雨はわたしの思考を水泳にした。しばらくわたしは雨を泳ぎ、ちょっと遠回りなんかして、雨の止むころに帰宅した。
 それからカフェに行くたび、彼女に話しかけられることが多くなったので、わたしはカフェに行くのをやめた。それは彼女がいじめっ子だったからではなく、純粋に今の彼女自身に興味がないからである。
 それからわたしたちはまた、赤の他人に戻った。

(了 / 1,336文字)

#一枚の写真から文芸賞


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