赦しの対象「自我」とは何か?
はじめに
なぜ私たちは、何も起きていないのに苦しくなるのでしょうか?むしろわざわざその原因を見つけに行ってるのではないだろうか?
そのように思ってから「超精神性一元論」まではあっという間に辿り着きました。
私には世界がどのように見えているのか?を共有することで少しでも皆さまの学びになれば幸いです。
私達はいつも…
私たちは日々さまざまな感情を抱いて生きている。不安や焦り、怒り、罪悪感、虚しさなど…その多くは「現実が原因」だと思われがちだ。
しかし本当にそうだろうか?
このnoteでは私たちを苦しめている“正体”としての自我をできるだけ静かにわかりやすく解き明かしていく。
自我とは何か
自我とは「世界を理解し生き延びるために作られた“解釈の仕組み”」である。
そしてそれは人格ではないし本当の自分でもない。ましてや、消すべき敵でもない。
自我とは出来事が起きた瞬間に「これは良い・これは悪い・これは自分に不利だ」と意味づけを行う思考の”自動システム”のようなものだ。
私たちは普段その解釈を“事実”だと信じて生きている。そしてその信じ込みこそが苦しさの始まりになる。
自我はどこにあるのか
自我はどこかに「存在」しているわけではない。心臓の中にあるわけでもない。脳のどこかに実体があるわけでもない。
あるのは
・ 繰り返される思考の癖
・ 条件反射のような判断
・ 無意識の前提
それらが積み重なり「これが私だ」という感覚を作っている。つまり自我とは思考の流れに名前をつけただけのものだ。
自我が世界を見るときに必ず起きること
自我が前に出ると必ず「出来事」が起きる。それ自体は、ただの現象にすぎない。しかし自我は、そこに即座に意味を与える。「良いか悪いか・成功か失敗か・自分に有利か不利か」そして次に世界を分けはじめる。「私と他人・安全と危険・味方と敵」
この分離が起きた瞬間に世界は緊張を帯び始める。さらに自我は過去の記憶や未来の予測を持ち出し「今」を裁き始める。
こうして私たちは現実ではなく自我が編集した物語の中を生きることになる。
自我はなぜ必要だったのか
ここで大切なことを言っておくと自我はもともと私たちを守るために生まれたものである。
例えば「危険を察知し失敗を避け世界を予測しコントロールしようとする」ように、不確実な世界を生き抜くための非常に優秀な道具だった。
しかし本当の問題は自我があることではない。
問題は自我の解釈を「絶対的な真実」だと信じてしまうことだ。
自我が強く働くと起きること
自我が主導権を握るほど私たちの内側は忙しくなる。常に評価が気になり常に足りなさを感じ「今」ではなく「条件」を生きるようになる。
自我はこう語りかけてくる
「もっとちゃんとしなきゃ」
「このままじゃダメだ」
「安心するのは、何かを達成してからだ」
こうして私たちはまだ起きていない未来に怯えもう終わった過去に縛られる。
自我と戦わないという選択
多くの人はここで自我を何とかしようとする。
消そうとしたり、抑え込もうとしたり…良い自分に書き換えようとする。
でもそれは自我に「あなたは重要だ」と教えているようなものだ。
自我は否定されるほど正当化の声を強める。だから必要なのは戦いではなく…気づきだ。
「いま自我が解釈しているな」と気づくだけでいい。その瞬間自我は“唯一の真実の語り手”ではなくなる。
ここで起きている赦し
この気づきの中で静かに起きているのが赦しだ。赦しとは誰かを許すことではないし過去を正当化することでもない。
赦しとは誤った解釈を責めずに手放し訂正すること。
自我を否定しない
自分を責めない
世界を敵にしない
ただ「これは事実ではなく、解釈だった」と元の位置に戻るだけ。それが赦し。
おわりに
これから私たちが行っていくことは苦痛の上にある悟りでもなければ神秘的な体験でもない。
日常の中で人間関係の中で感情が揺れたその瞬間に「自我が何をしているか」に気づき少し緩めること。それだけでいいの。
自我は壊すものではなく
ほどかれていくものだからね。
