境界線197
「そう。左に三回、茶碗を回して。三口で飲みきって。流れるように、優雅に、たおやかに…」
私は緊張に胸を轟かせながら、多くの視線に注視される中でお抹茶を頂いた。雨の影響で、外でのゾンビ駆除も菜園作業も中止になった午後。サブの仕事の合間に、皆それぞれが束の間の休息を楽しんでいる。
私は、友人のマリンと共にお茶会に参加していた。このコミュニティには、裏千家の心得があるユリさんという女性がいて、時折こうして茶会を催してくれる。それは殺伐とした暮らしに彩りを与えてくれる大切な時間だった。
20人ほどの女性客の中に、場違いな少年が2人。イツキ君と、友人のリョウタ君だ。ロビーで見かけた2人を、私とマリンが「おばさんパワー」全開で誘い…というより、断る間も与えず半ば強引に連れてきたのだ。2人は戸惑いながらも、慣れない畳の上で神妙に正座している。
ユリさんがイツキ君をもてなす。茶碗に鮮やかな抹茶を二匙。湯を注ぎ、素早く茶筅(ちゃせん)を振る。小気味よい音が静かな部屋に響き渡り、やがて深緑の表面にきめ細かな泡がふんわりと立った。
ユリさんは、静かに彼の前へ茶碗を置いた。イツキ君は、先ほどから女性たちの所作をじっと観察していたのだろう。左腕を包帯で吊ったまま、右手だけで迷いなく茶碗へと手を伸ばした。
ピンと伸びた背筋、流れるような優美な身のこなし。3度に分けて茶を口に運ぶ際、その細い首筋がしなやかに上を向く。茶碗を置き、ユリさんに向かって「結構なお手前でした」と毅然とした声を放った。
周囲の女性たちから「ほう…」と感嘆の溜息が漏れた。花のような容姿の少年は、この伝統的な茶の席に驚くほど馴染んでいた。私は思わず身を乗り出した。
「ユリさん、イツキ君には才能があると思いませんか?」
「ええ。とても初めてとは思えません。堂々としていて、それでいて、これほど優美だなんて」
ユリさんはイツキ君に向き直り、慈しむように微笑んだ。
「本格的にお抹茶を始めてみませんか?」
「はい。やってみたいです。肩の怪我が治ったら、ぜひお願いします」
その言葉を聞いて、私は胸が熱くなった。今時の高校生が茶道に興味を持ち、大勢の大人に囲まれてこれほど堂々と振る舞えるなんて。まるで親戚の叔母にでもなったような誇らしい気持ちが込み上げる。すると、隣に座っていたリョウタ君が、イツキ君の肩を小突いて茶化すように笑った。
「ハルト、お前…本当はお菓子が目当てなんじゃねえの?」
「あはは、バレたか」
はにかんで笑うイツキ君は、年相応に可愛らしかった。最近のグリードたちに漂いがちな尊大な空気とは無縁な、素直な少年の横顔。
私は彼の白い包帯を改めて見つめ、祈らずにはいられなかった。もう2度と、この子が苦しむようなことがありませんように。この平穏な時間が、どうか壊されませんように、と。
・・・
※ユリさんは、私が入院していた時の同じ患者仲間です。よくお茶会を開催し、殺伐とした毎日に彩りを与えていました。私の執筆活動を応援してくれたので、感謝を込めて1話だけ特別出演して頂きました。メインのストーリーには特に影響はありません。
