#66 〝AI創薬が示した次の課題〟── 探求速度からSAS OSによる探求方向へ ──
🔳はじめに
人類は今、かつてない探求能力を手に入れつつある。スーパーコンピュータは膨大な計算能力をもたらし、AIは膨大な知識を扱う能力をもたらした。そして創薬AIは、人間では到底試すことのできない数億、数十億という候補の中から、有望な分子を探索できるようになった。
その成果の一つが、今回報じられた膵臓がん新薬である。長年〝創薬不可能〟とまで言われてきたKRAS系統に対し、有効性を示す新薬が登場した。研究者たちは歓喜し、会場はスタンディングオベーションに包まれた。これは間違いなく医学史に残る成果である。
しかし記事を読みながら、私が考えていたのは新薬そのものではなかった。
人類は探求速度を手に入れた。では、探求方向は誰が決めるのか。
創薬に限らない。科学も、経営も、教育も、政治も、そしてAI開発そのものも、いま同じ問いに直面している。どれほど高速な計算能力を手に入れても、どれほど大量の情報を扱えても、何を探すべきかが分からなければ、本質的な進歩には到達できない。
今回の創薬ニュースは、単なる医療技術の進歩ではない。私はそこに、人類の探求文明が新しい段階へ入りつつある兆候を見た。本稿では、田口メソッド、編集工学、そして意味構築学を手がかりに、〝探求速度の時代〟から〝探求方向の時代〟への移行について考察したい。
■1.膵臓がん新薬が示したもの
今回話題となった新薬は、膵臓がん患者の約90%に関与するとされるKRAS系統を標的としている。
KRASは細胞増殖を制御する重要な遺伝子である。しかし変異が起きると細胞に増殖命令を出し続け、がん化を引き起こす。このため研究者たちは長年にわたり、KRASを制御できれば膵臓がん治療は大きく前進すると考えてきた。
ところが、KRASは長い間〝創薬不可能〟と呼ばれていた。薬剤が結合する足掛かりが極めて少なく、世界中の研究者が挑戦しても有効な薬を作ることができなかったのである。
今回の成果が高く評価されている理由はここにある。
四十年以上にわたり突破できなかった壁に対し、新たな可能性が示されたのである。
しかし私が注目したのは医学的成果そのものではなかった。
むしろ興味を持ったのは、その背後にある探求構造である。
なぜ今になって突破口が見え始めたのか。
そこにはAIによる探索能力の向上、スーパーコンピュータによる計算能力の拡大、そして膨大なデータ活用による研究環境の変化が存在している。
つまり今回の出来事は、単なる新薬開発の成功ではない。
人類の探求能力そのものが新しい段階へ進みつつあることを示しているのである。
■2.田口メソッドが教えた探求の本質
私は若い頃、無機化学メーカーに勤務していた。当時担当していたテーマは、大型化学反応槽を用いて製造する製品の結晶サイズを最小化する条件の探索であった。化学反応の現場では、反応温度や反応時間、原料濃度、撹拌条件、添加剤量など、多数の要因が複雑に絡み合いながら最終製品の品質を決定する。しかし、それらすべての組み合わせを試験することは現実的ではない。時間も設備も予算も有限だからである。
そこで用いられたのが田口玄一博士の実験計画法だった。私は幸運にも田口博士から直接学ぶ機会を得た。そして実際の製造現場において実験計画法を適用し、結晶サイズ最小化条件の探索に取り組んだ。その成果は評価され、田口メソッド不二越賞を受賞することとなった。
振り返れば、この経験は私のその後の思考に決定的な影響を与えた。田口メソッドの本質は統計学ではない。本質因子の発見である。限られた実験回数の中で結果を支配する真の因子を見抜き、膨大な可能性の中から本質へ到達する。そこにあったのは単なる品質工学ではなく、探求そのものの哲学だった。
田口メソッドでもう一つ重要だったのは、〝ロバスト〟の思想である。理想的な条件下でだけ良い結果を出すのではなく、外乱やばらつきがあっても安定して品質を保つ条件を探す。これは単なる最適化ではない。現実世界の揺らぎを前提にした設計思想である。振り返れば、このロバストの考え方も、後の意味構築学につながっている。AI文明において必要なのは、単に正解らしい出力を得ることではない。文脈の揺らぎ、情報の偏り、解釈のずれ、社会的影響という外乱の中でも、意味が破綻しない構造を設計することである。
私は後に編集工学を学び、さらに意味構築学へと至ることになる。しかし振り返れば、その出発点には田口博士から学んだこの探求思想が存在していたように思う。
■3.編集工学との出会い
その後、私は編集工学に触れた。そこでもまた、同じ問いに出会った。編集とは単なる情報整理ではない。意味を構築する行為である。同じ事実でも配置が変われば意味が変わる。同じ情報でも文脈が変われば結論が変わる。重要なのは情報量ではなく構造であり、知識ではなく関係性だった。
田口メソッドが本質因子を見抜く技術だとすれば、編集工学は本質的な関係性を見抜く技術だったと言える。どちらも共通しているのは、膨大な可能性の中から本質を発見しようとする姿勢である。そして私は後に気づくことになる。本当に重要なのは情報でも知識でもなく、意味構造そのものではないかと。
■4.AIは探求速度を手に入れた
現在、人類はスーパーコンピュータとAIを手にしている。スーパーコンピュータは膨大な計算能力をもたらした。AIはさらにその上に、膨大な探索能力をもたらした。創薬AIは数億、数十億の候補分子を生成する。論文AIは数千万本の論文を解析する。かつて研究者が一生かけても到達できなかった探索領域を、AIは短時間で走査できるようになった。
今回の膵臓がん新薬も、その延長線上にある。もちろん成果そのものは素晴らしい。しかし私が注目したのは、その成功の背景にある探求能力の進化だった。人類はついに、〝探求速度〟を手に入れたのである。

― 探求速度から探求方向への進化 ―
図の説明
本図は、人類の探求能力の進化を示している。田口メソッドは本質因子の発見とロバスト設計によって実験空間を効率化し、スーパーコンピュータは計算能力を飛躍的に拡大した。さらにAIは膨大な候補空間を高速探索する能力を人類にもたらした。しかし、何を探すべきかという探求方向の問題は依然として残されている。SAS OS(意味構築学)は、この意味空間を設計し、探求方向を定める上位構造として位置付けられる。
■5.しかし探求方向は誰が決めるのか
しかし、ここで新しい問題が現れる。人類は探求速度を手に入れた。だが探求方向は本当に進化したのだろうか。
現在のAIは膨大な候補を探索できる。しかし何を探索すべきかは決められない。大量の論文を読める。しかし何が本質かは理解していない。AIは高速に探索できるが、探索そのものの意味を理解しているわけではない。
創薬AIが数十億の候補分子を評価できることと、その中に本当に価値のある候補が含まれていることは同義ではない。論文AIが数千万本の論文を読めることと、本当に重要な問いを発見できることも同義ではない。
だから現在のAI開発競争は、ある意味で巨大化した総当たり戦でもある。計算能力の向上によって成果は生まれる。しかしその裏側では、膨大な無駄な探索も同時に発生している。
■6.意味空間の設計という発想
ここで私は再び田口メソッドを思い出す。田口メソッドが行ったのは本質因子の発見とロバスト設計だった。スーパーコンピュータが行ったのは計算能力の拡大だった。AIが行ったのは探索速度の高速化だった。では次に必要なものは何か。
私はそれを、〝意味空間の設計〟だと考えている。
何が重要なのか。何を探すべきなのか。どこへ向かうべきなのか。どの問いが本質なのか。その構造を設計する知が必要になっているのである。
これはAIの否定ではない。むしろ逆である。AIの能力が高まれば高まるほど、どの方向へその能力を向けるべきかという問題は重要になる。探求速度が高まるほど、探求方向の重要性もまた高まるのである。
■7.SAS OSが挑む領域
意味構築学が扱うのは知識量ではない。意味構造である。SAS OSが扱うのも計算能力ではない。探索方向である。それはAIの代替ではない。創薬AIの代替でもない。スーパーコンピュータの代替でもない。それらが探求を行う際の意味コンパスであり、探索方向を設計するための上位構造である。
振り返れば、私が若い頃に探していたのは結晶サイズを最小化する条件だった。そして現在私が探しているのは、AI文明の中で意味を成立させる条件である。対象はまったく異なる。しかし本質は同じである。
それは、〝膨大な可能性の中から本質因子を発見し、外乱の中でも破綻しない構造を設計すること〟なのである。
■8.探求方向の時代へ
私はこれまで、AI文明の問題を様々な角度から論じてきた。しかし今回の創薬記事を読んで改めて確信した。人類はすでに探求速度を手に入れたのである。今後さらにAIは進化し、計算能力も向上するだろう。
しかし本当に重要になるのは、その先である。どこへ向かうのか。何を探すのか。なぜそれを探すのか。この問いに答えられなければ、どれほど高速なAIを持っていても、本質的な進歩には到達できない。
田口メソッドは本質因子を見抜き、外乱に強いロバストな条件を探した。スーパーコンピュータは計算能力を拡大した。AIは探索速度を高めた。そしてSAS OSは探求方向を設計しようとしている。
人類は探求速度を手に入れた。
次に必要なのは、〝探求方向を設計する知〟なのである。
