小説 「夜の青空の下で、だけど僕らはポケットの中で静かに中指を立てよう」
第一章:ミッションからの帰投
2025年12月26日。街は昨日までの祝祭を脱ぎ捨て、剥き出しの焦燥感に塗りつぶされていた。不快なものや無礼なものを徹底的に排除した先にある「社会の清浄化」は、同時に、人間が本来持っていたはずの怒りの捌け口を奪っている。人々は適切な感情表現を忘れ、処理できないストレスを「正義」という名のヘイトに変えて垂れ流す。密度が上がれば摩擦が増えるのは、物理的な必然だった。
路上でタバコの煙を吐き出していると、視線という名のノイズが刺さる。彼らは、自分たちが共有するルールというプログラムを、他者が少しでも書き換えることに耐えられない。そこに漂うのは、他者へ従順であることを強要する排他的な独善だ。タバコを吸うなと、自転車に乗った壮齢の男がジェスチャーをしてくる。私はイヤホンをつけて、そのジェスチャーの意味を考え、ああ、と言葉を発したが、意味を理解した時には男はもういなかった。
ミッションから帰投する最中のことだ、信号が切り替わる一瞬、私の意識は別の座標にあった。その横断歩道を渡る時、信号は赤だった。思考の海に沈んでいるとき、現実の光信号など単なる特定の波長の電磁波に過ぎない。安全は確保され、論理的に見て他者が介入する余地はないはずだった。しかし、見知らぬ誰かがわざわざ毒を吐き捨てていった。
「信号無視するなよ」
その声に、安全を願う善意など一片も混じっていない。行き場を失った怒りを、偶然視界に入った「私」という異物を叩くことで排出したに過ぎない。街が清潔になればなるほど、私たちのような不純物は呼吸がしづらくなる。
社会の定義によれば、私こそが「おかしい」人間なのだろう。精神疾患や発達障害というラベルを貼られ、システムの中心からはとうの昔に排除されている。だが、その異常者の視点から見ても、今のこの街は私以上に狂っている。本来は手段であったはずの正義が、他者を攻撃して自らの優位性を確認するための目的に変質し、その「正しさ」が世界を窒息させている。
私はベンゾジアゼピンを飲み込み、アトモキセチンで神経を繋ぎ、タバコを吸ってかろうじて自分を維持している。健康な人間は、化学物質を体に入れることをリスクと呼ぶかもしれない。だが、私たちは違う。これらを体内に流し込むのは、生き延びるための「前進」だ。脳の回路を物理的に書き換えてまで今日を繋ぐ。この「化学物質による武装」を厭わないという一点において、私は、自分たちのことを彼らよりずっと覚悟が決まった存在だと思っている。それは、狂人としての病者の矜持だ。
彼らに言い返す言葉はない。論理のレイヤーが違いすぎる。だから、私はただ黙って歩き出す。
だけど、僕らはポケットの中で静かに中指を立てよう。
その指は、誰かを傷つけるための武器ではない。「自分たちこそが正常だ」と信じて疑わない彼らの狂気に、決して同化しないという誓いだ。社会から弾き出され、外側から決められた「正しさ」というラベルに対する、静かなる拒絶。内なる静かな宇宙を守り抜くための、絶対的な拒絶の儀式。私たちがどれほど排除されても、このポケットの中の小さな抵抗だけは、誰にも暴くことはできない。
空を見上げる。地上の喧騒は、所詮はノイズに過ぎない。私は、この現実の一番近く、一番遠い場所、自らの心の中の想像の世界へと意識を沈める。
不透明な霧が立ち込める2025年の終わりに、私は私のやり方で、この狂った世界を生き抜いていく。
薬と煙と、少しの皮肉を道連れに。
第二章:鏡の向こう側の正論
2025年12月26日。冬の夜気は、吐き気がするほど鋭利だった。
忘年会という名の、実体のない儀式を終えた帰り道。胃の腑に残る安物のアルコールが、不快な熱を持って食道を逆流してくる。40代も半ばを過ぎれば、世界は「正しく機能していないもの」のリストで埋め尽くされ、それを確認する作業だけで一日が終わる。
駅へと続く交差点。信号機の前に、ぼんやりと突っ立っている人影があった。
タバコを咥え、若くはないが、どこか現実感のない佇まい。赤信号に変わっても、その個体は境界線を見失ったかのように、意識を別の座標に飛ばしている。近づきたくはない輩だ。
その男を見た瞬間、泥酔した意識の底から、逃げ場のない怒りがせり上がってきた。
(どうして、普通にできないんだ?)
それは怒りというより、ある種の義務感に近かった。私はルールを守っている。酒で思考を濁らせてまで、面白くもない上司の話に頷き、社会の歯車として摩耗しながら、この12月の殺伐とした空気に耐えている。なのに、目の前のこの男は、まるでその重力から逃れているかのように、勝手に「思考」の中に引きこもっている。
「信号無視するなよ」
吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど汚濁に満ちていた。
だが、その瞬間の全能感。自分こそが社会の規律を代弁し、逸脱したバグを修正したという、安っぽい充足。路上喫煙。
私は、彼の表情を見る必要もなかった。ただ、彼を叩くことで、自分の中に溜まった「正しく、ひたむきに生きていることの呪い」が、ほんの一瞬だけ軽くなった気がした。
私は千鳥足で歩き出す。心臓の鼓動が速い。
ふと、自分のポケットの中に手を入れる。指先が、何かに触れた。
それは「覚悟の薬」ではない。
飲み会が始まる前に、胃の荒れを誤魔化すために流し込んだ薬の空殻と、アルコールで感覚を麻痺させることでしか今日を終えられなかった、自分自身の無様な残骸だ。
(……おかしいのは、アイツか、世界か?)
一瞬、視界が歪んだ。
自分が先ほど毒を吐いたあの男と、今の自分を分かつ境界線が、冬の霧のように曖昧になる。
私もまた、酒で神経を麻痺させ、煙で喉を焼き、かろうじて「正常な40代」という着ぐるみを着て、この清浄化された地獄を徘徊しているに過ぎない。
私が彼を叩いたのは、彼の中に「私が酒を飲んででも殺したかった、純粋な自分」を見てしまったからではないのか。
ポケットの中で、寒さで指先がピリピリと痺れる。
「クソが」
私は無意識に、誰にも見えないその暗闇の中で、呟いた。
飲み会の席で愛想笑いを浮かべていた、あの情けない自分へ。そして、その鬱憤を他人にぶつけずにはいられない、この醜い自分へ。
帰ったら、「ゲーム」をしよう。
私はあの世界で、ヘッドショットをキメまくってやるのだ。
第三章:無痛の深海で息をする
2025年12月26日。タワーマンションの一室。部屋の加湿器が、音もなく霧を吹き出していた。
私は今日も風呂に入らず、脂ぎった髪を適当に束ね、数万ドルの価値があるIEMを耳の奥に押し込んだの。
私の完璧な両親は階下で、私の「療養」を静かに見守っている。彼らは決して私の部屋の扉を荒々しく叩かない。食事はドアの前に置かれ、私の趣味も、私のひきこもりも、すべては裕福な家庭の「ゆとり」という名の膜に包まれ、私の全ては肯定されている。
ネットの海で拾い上げた、あの一篇の小説。
一章の男の「薬による武装」や、二章の男の「正しさに塗りつぶされた殺意」。
そこにある言葉の鋭さに、私は眩暈を覚えた。
(……わからない。私には、この痛みがわからないし、かかわりたくもない)
私には、自分を繋ぎ止めるための切実な薬も、誰かを怒鳴りつけるほどの渇いた怒りもない。時折、SNSのDMに「君を救いたい」と独善的な告白(とみすぼらしい男性器の写真なんかもつけたりして)メッセージを送り付けてくる男たちがいる。彼らは私の不潔さも、心の空洞も知らず、勝手に作った偶像に恋をしている。その薄っぺらな愛さえも、私の世界を揺らすことはできない。まあ心の空洞、なんてのも格好をつけているだけで、私は今の日々に満足してるの。
私はハンドメイドのレジンアクセサリーを作る。
高価なパーツを透明な樹脂の中に閉じ込める作業は、まるで今の自分を標本にしているようだ。経済的に自立する必要もなく、何不自由なく「生かされている」自分。やりたいことをやるだけだし、不安もない。男だって選び放題だ。その事実が、私の皮膚を少しずつ麻痺させていく。引け目を感じながら、その安寧を手放す勇気も必要も無い。
私はキーボードを叩く。
いいねをひとつ押す。
彼らの物語に対して、私は「レビュアー」としてしか関わることができない。一章の彼が吸うタバコの煙も、二章の彼が吐いた毒も、この防音完備の部屋には届かないのだ。
彼らは、現実と摩擦を起こして火花を散らしている。
私は、摩擦のない真空の中に浮いている。
(恵まれている、ということの残酷さを、誰が理解してくれるだろう)
私は、あの一章と二章の男たちに、どうしようもない「嫉妬」を感じている自分に気づく。排除され、ラベルを貼られ、中指を立てて戦っている彼らは、少なくとも「生きている」手応えをその指先に感じている。私の中指は、立てるべき対象すら見つからず、ただ冷えた空気の中で所在なく震えている。
私が中指を立てたところで、なんの表明にもならないし。
私はまるで凪いでいる海のよう。
そんな人間は居ない?
いるのよ、ここに。
私はお気に入りのIEMのプラグを差し替える。
ケーブルで音は変わるが、私のある種の空虚さは変わらない。私はレビュアーとして、彼らの不協和音を一つの「旋律」に整えてネットに流す。それが、戦うことも、傷つくことも自らに許さない私が、唯一世界に触れるための「疑似的な祈り」なのだ。
(あなたたちの痛みは、私にはあまりに眩しい)
私はレビューを公開し、再びノイズキャンセリングの静寂へ逃げ込む。階下から聞こえる、食器の触れ合う穏やかな音。
それは、私をこの無痛の深海に繋ぎ止める、重くて優しい錨の音だ。
ふと、階下で猫が鳴いていた。
猫の鳴き声が何故可愛いと感じるのか、私にはわからないし、わかる必要はないわ。
私たちの日常は続いていく。
中指と股間を立ててくる男たちには、わかって欲しくないの。
もし死ぬのなら、完璧なままで死にたいし、そんなことは、現実的に不可能だったとしても、私は完璧なままでいていいの。
その立てた中指を私に突きつけてみなさい。
それすらも、私の快楽。愉悦にしかならないわ。
また猫が鳴いた。
もはや家から出ようともしなくなった老猫は、それでも家の窓から外を見つめているのだった。
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