新科目「歴史総合」を読む 1-2-6. 東アジア国際関係の変化と日本の開国
1-2-6.東アジア国際関係の変化と日本の開国
今にのこるアヘン戦争のインパクト
現在の中華人民共和国憲法の前文をみてみよう。
中国は、世界でも最も古い歴史を持つ国家の一つである。中国の諸民族人民は、輝かしい文化を共同で作り上げており、また、栄えある革命の伝統を持っている。
一八四〇年以降、封建的な中国は、次第に半植民地・半封建的な国家に変化した。中国人民は、国家の独立、民族の解放並びに民主と自由のために、戦友の屍を乗り越えて突き進む勇敢な闘いを続けてきた。
二十世紀に入って、中国には天地を覆すような偉大な歴史的変革が起こった。
一九一一年、孫中山先生の指導する辛亥革命は、封建帝制を廃止し、中華民国を創立した。しかし、帝国主義と封建主義に反対するという中国人民の歴史的任務は、まだ達成されなかった。
一九四九年、毛沢東主席を領袖とする中国共産党に導かれた中国の諸民族人民は、長期にわたる困難で曲折に富む武装闘争その他の形態の闘争を経て、ついに帝国主義、封建主義及び官僚資本主義の支配を覆し、新民主主義革命の偉大な勝利を勝ち取り、中華人民共和国を樹立した。この時から、中国人民は、国家の権力を掌握して、国家の主人公になった。
「一八四〇年以降、封建的な中国は、次第に半植民地・半封建的な国家に変化した。」とあるように、現在の中華人民共和国(中国)にとっても、1840年は大きな意味を持つ。
今回はこの年に勃発したアヘン戦争に至る道のりを確認するとともに、戦争が東アジアに与えた影響を学んでいくことにしよう。
■東アジアの国際秩序の変化
中国の清は、諸外国との外交関係は対等ではなく、あくまで皇帝への朝貢という形をとるべきだととらえていた。
しかし、すべての国が正式な使節を派遣していたわけではない。
そのような国からの貿易船を受け入れることも、恩恵として認められており、ヨーロッパの船の場合は広州に限って認められていた。
しかし、イギリスで産業革命がおきると、自由な貿易を求める声が大きくなり、1793年には自由貿易を求めてイギリスの使節マカートニーが乾隆帝のもとに派遣された。
資料 使節団随行の画家ウィリアム・アレグザンダーによる、マカートニーと乾隆帝の謁見場面の想像図
資料 イギリスで流布したジェームズ・ギルレイによる風刺画
しかし、清の側はマカートニーを朝貢使節ととらえ、自由貿易は認められなかった。
乾隆帝はイギリスのジョージ3世に宛てて、次のような返答をしている。
■アヘン戦争とアロー戦争
一方、17世紀末以降、中国ではイギリスの都合により輸入の拡大していたアヘンのせいで、多額の銀が流出するようになっていた。
官僚の林則徐が「アヘンは土を銀に交換するのだから、財政を損ない人命を害するものだ」と皇帝に上奏すると、1839年に広州に派遣され、密輸アヘンの取締を行なった。これに対して、イギリス政府は汽走軍艦をふくむ艦隊を中国に派遣し、アヘン戦争(1840〜42)が始まった。
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戦争は清の敗北に終わり、南京条約によって上海を含む5港が貿易港として開港された。香港島がイギリスに割譲されたのも、この条約による。
史料 南京条約(1842年)
一、今後、大皇帝は次のことをお許しになった。イギリスの人民が…上海などの五港に寄居し、妨げられることなく貿易通商をおこなうこと。…
一、イギリスの商船は、遠路はるばる海を渡ってくるので、往々にして船に損壊が生じ、修理を要する。…ここに大皇帝は、香港一島をイギリス君主に与え、…任意に制度や法をつくり、治めていくことをお許しになった。
貿易港では外国人の居住が認められ、上海などに租界が形成された。
その後、アメリカ合衆国とフランスも、清と同様の条約を結んだ。このなかで関税率が一定に決められ、清が税率を変えるには相手国との合意が必要となった。また、各国が自国民保護のために置く領事に、自国民が被告となった場合の裁判権を与えることも商人された。
1850年代にヨーロッパで蚕の病気が流行すると、上海からは大量の生糸が輸出され、活況を呈した。
【資料】フランス養蚕業の被害と日本産蚕の輸出
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アヘン戦争後、イギリスから工場でつくられた機械製綿布が輸出されるようになったが、イギリス側の期待通りには中国であまり売れなかった。
また清も、外交や通商の秩序を、列強の思惑通りに変更しようとはしなかった。
そこで、1856年にフランスとともに第二次アヘン戦争(アロー戦争)が引き起こされた。1860年の北京条約では、天津を含む11港が新たに開港され、アヘン貿易も合法化された。
同じ頃清はロシアとも条約を結び、沿海州をロシアに割譲することになった。
1851年以後、中国南部では太平天国の乱が勃発。
これには、貿易が始まったために銀が流出し、銀の価格が上がったため、税を納めるために使う銀の入手が困難となり、生活が苦しくなる農民が増えたことが背景にある(租税は銀納であったため、普段使っている銅銭を銀に交換する必要があった)。
アロー戦争の敗北後には、太平天国の乱の鎮圧に活躍した漢人官僚が中心となり欧米諸国の技術を導入する近代化運動がはじめられたが、官僚個人の勢力が拡大するばかりで、国家の統一を目指す方向にはすすまなかった。
なお、同じ頃の朝鮮王朝(正式な国号は大朝鮮国)では、中国がアヘン戦争で敗れたニュースが伝わったものの、外国人に対する強硬姿勢がつらぬかれた。
とくに1863年に政権について大院君が、通商を要求したアメリカの汽船を焼き討ちにし、アメリカ戦艦からの攻撃を受けた。しかし大院君は「斥和碑」を建てさせ、欧米諸国との通商拒否を曲げることはなかった。
斥和碑(https://ja.wikipedia.org/wiki/大院君政権#/media/ファイル:Cheongju_Anti-appeasement_Stele.jpg)
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■華僑の活動
北京条約により中国人の外国渡航が認められると、苦力(クーリー)という低賃金で肉体労働に従事する契約労働者や、自ら外国に移住する中国人(華僑・華人)が増加した。
中国人労働者は、アメリカ合衆国では大陸横断鉄道建設にも従事したが、やがて排外運動がおこり、1882年に中国からアメリカ合衆国への新規移民は禁止された。
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■日本の開国と開国後の社会の変化
北からの開国
18世紀後半以降の産業革命において、工場を長時間運転させるために夜間の照明のための燃料として鯨油の需要が高まった。欧米列強は、マッコウクジラを追い、漁場を太平洋の東部へとうつし、1820年代になると日本の太平洋沿岸地域に捕鯨船が多数出現することとなった。
また、1776年〜79年に、イギリスのクック艦隊が太平洋の航海を行い、北太平洋(北海道からアラスカにかけての地域)で獲れるラッコの毛皮が、中国で多額で取引できることがわかったことも、ヨーロッパ諸国が北太平洋に殺到するきっかけとなった。
1780年代からイギリスやフランスの軍艦が、日本近海、特に蝦夷地周辺に現れるようになると、以前からラッコの毛皮取引を行なっていたロシア商人も、当時領有していたアラスカに拠点を設けた。このアラスカ経営の補給地として、また中国とのあいだにある市場として目をつけたのが日本であったのである。ロシアはラクスマンやレザノフが相次いで日本に来航したのには、そのような事情があった。
資料 ロシア商人シャバリンの描いたアッケシ(厚岸)における日露会談
ここで、「ロシアが日本に進出した」と単純化してはいけない。
当時の北海道、樺太、千島列島の広い範囲にわたるオホーツク海域周辺にはアイヌが暮らしており、ロシアの探検隊による支配を最初に受けたのは、彼らアイヌにほかならなかった。ロシアは各地のアイヌに毛皮税(ヤサーク)を徴収し、アイヌのラッコ漁を火器を用いて暴力的に排除した。これに対して1771年には、エトロフ島とラショア島のアイヌが、ウルップ島とその北のマカンル島で、20数名のロシア人を殺害している。南千島の支配に難儀したロシアのカムチャツカ長官やロシア商人は、日本人との交易をしているアイヌに目をつけ、日本人との直接交易の実現へと方針を転換していった。このうちイルクーツク商人シャバリンが、先ほど紹介した松前藩との最初の接触を果たしたのであるが、彼らのねらいは通称のみならず、ウルップ島・エトロフ島・クナシリ島のアイヌをロシア臣民として支配下に入れることにもあった(参考:平川新『開国への道』 小学館、2008年、32-35頁) 。
江戸幕府や各藩の対応
「北からの開国」圧力を受け、日本の北方の地理に関する正確な情報が求められるようになり、江戸幕府は蝦夷地に探検隊を派遣した。
沿岸防備のためには、日本列島の正確な地図も必要だ。
そこで幕府は伊能忠敬を支援し、1821年に『大日本沿海輿地全図』(伊能図)を完成させた。
この正確な地図は国外持ち出しが禁止されていたが、経度の補正技術をオランダ商館の医師シーボルトから学ため、幕府天文方の高橋景保はシーボルトに伊能図をもとにした地図を渡した。これが幕府に発覚されると高橋は処罰されたが、地図は欧米諸国に広まり、ペリーらにも使用されることとなった。
シーボルトの日本地図
(http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit-2001.bak/ex_search_detail?detail_sea_param=4,84,2)
一方、すでに1830年代にはオランダの情報を頼りに長崎で高島流砲術がはじまり、蘭学者が中心となって伊豆半島の韮山などに反射炉が建設された。
そんな中、アヘン戦争で清がイギリスに敗北した情報が、日本にもオランダ風説書や唐風説書を通して伝わった。幕府の老中であった水野忠邦(任1834〜43)は、船の接近に備え、海防の必要性を説いている。
ペリーの来航と通商の開始
1853(嘉永6)年、江戸湾の入り口にペリー艦隊が現れた。4隻のうち2隻は汽走軍艦で、その1隻は江戸湾に進入して威嚇した(つまり4隻すべてが蒸気船であったわけではない)。
幕府はこの緊急事態に際し、アメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を受け取った。
実はこのことは、すでにオランダ商館経由で幕府に予告されていた。いったん退去させた幕府では、老中首座・阿部正弘が中心となり、砲台を建設するなどして、今後の接近に備えさせた。また、ペリーが来航したことについて朝廷に報告するとともに、諸大名に対応について意見を求めた。このことが、幕府の対応に対する政治参加をにわかに活気づけることとなる。
ペリーは1854(安政元)年に再び来航し、幕府は交渉の末、日米和親条約を結んだ。補給のため下田,函館へのアメリカ船が来航することや、日本側の漂着者の保護、さらに下田におけるアメリカ官吏の駐在、最恵国待遇をみとめた。
幕府はイギリス、ロシア(使節プチャーチンが長崎に来航)との間にも、開港を定めた和親条約を結んだ。
また、オランダとの間には「通商」ではなく「通信」を認め、国交を結ぶ和親条約を結んでいる。
なお、ペリーは琉球(那覇)の開港も要求したが、幕府が不可能であると回答したため、日米和親条約を締結した直後に、琉球王国とのあいだに通商を認める琉米条約を締結した。琉球王国はフランスとオランダとも条約を結んでいる。
下田に赴任したアメリカ総領事ハリスは、1855年にイギリスがタイと締結したボーリング条約にならい、1858(安政5)年に日米修好通商条約という不平等条約を締結。1856年にはじまった第2次アロー戦争で清が苦境に立たされていた情報も伝えられていた。
この日米修好通商条約により、神奈川、長崎、新潟、兵庫、函館の開港、江戸、大坂の開市と、居留地に制限する形での貿易が定められた。翌年、横浜、函館、長崎が開港されたが、兵庫(神戸)、新潟の開港は1868年までおくれた。条約の内容は、清が諸外国と結んだ南京条約、天津条約、北京条約と比べると不平等ではなく、関税率も1866年に改税約書に調印するまでは当時の国際水準並みであった。
なお、アメリカ合衆国は1860年代以降、日本への積極的な進出を控えるようになった。
第一に、南北戦争(1861〜1865)が勃発し、海外進出どころではなくなったからである。第二に、1859年にペンシルヴェニア州で油井(油田)が発見され、石油が鯨油の代替となったためだ。
ペンシルヴェニアの油井(1862年)
(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/ペンシルベニア・オイルラッシュ#/media/ファイル:Earlyoilfield.jpg)
資料 鯨油のために殺されずに済むようになったと、マッコウクジラたちが舞踏会を開いている、とする絵(アメリカの雑誌『ヴァニティ・フェア』1861年4月)。
開港によって日本経済は大きな変化を経験した。まず、開港場からは主に生糸や茶が輸出され、欧米からは毛織物や綿織物が輸入されるようになった。
(出典:石井孝『幕末貿易史の研究』)
また、海外での金銀の価格と、国内の金貨・銀貨の金銀含有量の違いから、金と銀の交換比率が異なることを利用し、海外へ金貨を持ち出す手口が増えたことから、幕府は金貨を改鋳。貿易による影響も重なり、国内の物価は急上昇し、社会は混乱した。
清と日本が欧米諸国と結んだ諸条約によって、東アジア各地にもうけられた開港場には、欧米商人だけでなく、清・日本だけでなくアジア各地の商人が盛んに出入りするようになった。
たとえば日本の開港場では、欧米商人の名義を借りるなどして清の商人も活動をし、江戸時代以来の蝦夷地の海産物取引に従事した。
なかば強制的に開港された東アジアの内部では、新たな貿易ネットワークが構築され、欧米商人の活動を通して、東アジアの経済が世界の資本主義経済とリンクしていくことになったのだ。
開港場からは、世界各地への移民も増加した。たとえば1840年代〜60年代には、欧米諸国の商人が中国人の年季労働者(苦力)を積み出し、その厳しい労働条件や、移住先の社会との軋轢が問題となっていった。
「明治拾八年に於け布哇砂糖耕地の情景」Joseph Dwight Strong、1885年(パブリック・ドメイン)
日本からの海外渡航は1866年に禁止がとかれ、1868年には初のハワイ移民が実施された。
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