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新科目「歴史総合」をよむ 3-1-6. 日本と欧米先進国の経済成長

メイン・クエスチョン
日本と欧米先進国における急速な経済成長は、何をもたらしたのだろうか?



■欧米先進国と日本の経済成長

サブ・クエスチョン
日本と欧米先進国では、なぜ急速な経済成長が実現したのだろうか?


 第二次世界大戦以後、西欧諸国や日本では、復興とともに1950年代〜1960年代にかけて高い経済成長を記録した。

 このような経済成長を果たした1960年代は、「黄金の1960年代」ともいわれる。


サブ・サブ・クエスチョン
日本が短期間のうちに高度経済成長を実現できたのは、国内的要因だけによるものなのだろうか? 


 1950年代初頭の日本は、ドッジラインによる不況に苦しんでいた。しかし朝鮮戦争の補給拠点となったことで日本には「特需」とよばれる軍需関連物資の発注がもたらされ、そのおかげで日本の工業生産は急速に復興した。

 朝鮮戦争の休戦により特需景気はいったん休止するが、日本の高度経済成長は1955年にはじまり、企業が積極的に設備投資をおこない「投資が投資をよぶ」といわれた。

 1960年に首相に就任した池田勇人は、12月に国民所得倍増計画を発表。GNP(国民総生産)を10年間で2倍にするという目標が掲げられ、農業部門と工業部門、都市部や農村との格差問題の是正にも重点が置かれた。

資料 日本の高度経済成長と冷戦
 日本の高度経済成長は、冷戦とは「同じコインの表と裏」の関係にあった。すなわち日本経済の発展・高度化は、ヘゲモニー国家のアメリカ経済と、戦前から緊密な関係にあったアジア経済との国際分業関係・「み分け」を前提として可能になった。
 まず、高度経済成長の柱となった重化学工業を中心とする資本財や耐久消費財の部門では、アメリカ向けの家電製品や自動車などの工業製品を中心に輸出を伸ばした。この過程で、日本は、造船・自動車・家電などの民生品分野の機械工業である「資源節約的・労働集約的産業」に特化する一方で、アメリカは、軍事部門や航空機・石油化学など「資源・エネルギー集約的産業」に特化する「産業の棲み分け」関係が見られた。安価な石油の大量消費を前提とした資本財の分野で、冷戦下の軍備拡大による軍産複合体の形成を背景として、アメリカは宇宙開発を含めた軍需に力を注ぎ、日本は民需に、それぞれの分野で輸出を伸ばしたのである。
 同時に日本は、おもに消費財の生産において、東アジア諸国との間で相互依存的な分業関係を発展させた。すなわち、1960年代から始まる台湾・香港・韓国など、後にアジアの新興工業経済地域(NIEs)とよばれる東アジア諸国は、輸出施行型工業化の経済戦略を採用した。その過程で日本は、繊維製品や安価な家電製品(白黒テレビ)の生産をNIEs諸国に移管する(技術移転)とともに、日本国内の生産はグレードを上げた高付加価値で上級の工業製品(カラーテレビや後の液晶テレビ)に特化し、アジア市場での国際競争力を維持する経済的分業関係を導入した。日本と東アジア諸国の間では、同時並行的な「雁行的がんこうてき発展」が見られたのである。

(出典:大阪大学歴史教育研究会編『市民のための世界史』大阪大学出版会、2014年、243-244頁)

 所得を増やした工業者部門の労働者は、欧米風のライフスタイルをとりいれようとしていったため、それが消費需要の拡大へと連鎖した。
 大量生産・大量消費の方式がひろく浸透し、人々のあいだの関係や価値観も大きく変化していった。
 経済成長期には、企業活動を中心とする社会が形成され、男性(雇用者=企業戦士)を、女性(主婦=母)が支える構造が定着した。この構図は、兵士としての男性を主婦=母としての女性の支える総力戦に対応した戦前社会の延長戦上に位置づけることもできる。


 


 1960年の安保闘争の記憶も冷めやらぬ時期に開催された1964年の東京オリンピックと、1970年の大阪万博の開催は、日本の経済発展の象徴でもあった。



 経済成長を果たした自信から、1945〜1952年の占領期を批判的に見直したり、戦前期の日本を再解釈する言説や作品(たとえば司馬遼太郎『坂の上の雲』(1969〜1972年))も生み出されるようになった。
 また、経済成長そのものに対して懐疑を向ける声も、あがるようになっていった。



その他の関連資料


資料 学歴別就職者数の推移


資料 日本の産業構造の変化

出典:厚生労働省『平成23年度版 労働経済の分析』、https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/11/dl/02-1-2.pdf

資料 産業構造転換の動向

(出典:https://www.mlit.go.jp/crd/city/torikumi/arikata/kai4/4-2.htm
(出典:https://www.mlit.go.jp/crd/city/torikumi/arikata/kai4/4-2.htm
(出典:https://www.mlit.go.jp/crd/city/torikumi/arikata/kai4/4-2.htm



資料 日本の消費構造の推移

出典:厚生労働省『平成23年度版 労働経済の分析』、https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/11/dl/02-1-2.pdf

資料 日本の主要耐久消費財の普及率 推移

出典:厚生労働省『平成23年度版 労働経済の分析』、https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/11/dl/02-1-2.pdf




■経済成長と社会の変容

サブ・クエスチョン
急速な経済成長は、日本や欧米先進国にどのような影響をもたらしたのだろうか?
また、高度経済成長の記憶は、どのように移り変わってきたのだろうか?


 経済成長は、人々の生活を変えた。地方から集団就職によって都会に向かった若者たちの生活は、必ずしも順風満帆なものとは限らなかった。




 各家庭に電化製品が普及すると、家事労働時間が短縮され、女性の社会進出と高学歴化が進んだ。


資料 専業主婦世帯と共働き世帯 1980年~2020年

(出典:https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0212.html



 家電ブームがおこり、「三種の神器じんぎ」さらに「3C」が人々の消費意欲を刺激した。


 テレビが一般家庭にまで普及すると、企業による広告宣伝が、多くの人の消費行動を促した。1962年に『流通革命』が指摘されたように、流通システムを能率かさせた大型総合スーパーが、日本各地に進出していった。


 その一方で、『くらしの手帖てちょう』は1960年以降、商品テストを通して、工業生活の品質向上、家庭生活の向上を目指し、人気を博した。

 資本主義国においては、工業化の進展とともに、「豊かさ」を求めて大量の労働者が移動した。フランスや西ドイツのように、旧植民地や周辺国からの移民を奨励した国もあれば、日本のように地方から大都市圏への人口移動が増加した国もあった。
 急激な人口移動は、送り出す側の農村に過疎化、受け入れる側の都市部に過密化問題をもたらした。農村部の農家の子弟は大都市に流れ、農村では「三ちゃん農業」が問題化し、米の生産量も1960年代末をピークに減少に向かった。

 こうした問題に対して田中角栄が提言したのが『日本列島改造論』(1972
年)であった。




 高度経済成長期には、高校や大学への進学率も上昇した。少年・少女を対象とするマンガ週刊誌は、高度経済成長期に部数を伸ばし、マンガ文化を発展させていった。

 1973年には「国民生活に関する世論調査」(総理府)において、90%の人びとが「中流」意識をもつにいたっている。

資料 「国民生活に関する世論調査」(昭和48年1月24日〜昭和48年2月8日)
Q6〔回答票2〕
お宅の生活程度は,世間一般からみてこの中のどれに入ると思いますか。 
(0.6)(ア)上
(6.8)(イ)中の上
(61.3)(ウ)中の中
(22.1)(エ)中の下
(5.5)(オ)下
(3.7) 不明

(出典:https://survey.gov-online.go.jp/s47/S48-02-47-13.html

 

 このように、高度経済成長期には「中流」意識が広まり、都市人口が増え、人びとの高学歴化・核家族化が進行し、それに合わせて伝統的な家族観・家庭観も変容していった。


 物質的・経済的な「豊かさ」が追求されていった影では、工業化は環境破壊や公害と呼ばれる諸問題がもたらされた。大都市では、工場の煤煙や自動車の排気ガスを原因とするスモッグが頻繁に引き起こされた。
 1962年には全国総合開発計画(全総、一全総)が始まり、工業化を全国各地に分散させるために拠点開発方式が試みられた。開発の波は全国に及び、山は削られ、景観が一変した。東京オリンピック以降になると、自動車、飛行機、新幹線による騒音や振動も、周辺住民を悩ませるようになった(1959年に首都高速道路公団が発足、1964年に新幹線が開業)。
 こうした郊外に対する訴訟や住民運動が活発化するなか、1967年にひらかれた「公害国会」において公害対策基本法が制定された。さらに1971年には環境庁が設置された。

(出典:国土交通省、https://www.mlit.go.jp/common/001116820.pdf
https://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2012pdf/whitepaper2012pdf_2_1.pdf


 1972年にはストックホルムで国連人間環境会議が開かれ、世界で初めて自然環境と開発の是非について議論された。しかし、1973年に石油危機が発生すると、環境問題への世界的な取り組みは、いったん停滞することとなった。

資料 人間環境宣言
1.宣言
(1)人は環境の創造物であると同時に、環境の形成者である。環境は人間の生存を支える とともに、知的、道徳的、社会的、精神的な成長の機会を与えている。地球上での人類 の苦難に満ちた長い進化の過程で、人は、科学技術の加速度的な進歩により、自らの環 境を無数の方法と前例のない規模で変革する力を得る段階に達した。自然のままの環境 と人によって作られた環境は、共に人間の福祉、基本的人権ひいては、生存権そのもの の享受のため基本的に重要である。
(2)人間環境を保護し、改善させることは、世界中の人々の福祉と経済発展に影響を及ぼ す主要な課題である。これは、全世界の人々が緊急に望むところであり、すべての政府 の義務である。
(中略)
(4)開発途上国では、環境問題の大部分が低開発から生じている。何百万の人々が十分な 食物、衣服、住居、教育、健康、衛生を欠く状態で、人間としての生活を維持する最低 水準をはるかに下回る生活を続けている。このため開発途上国は、開発の優先順位と環 境の保全、改善の必要性を念頭において、その努力を開発に向けなければならない。同じ目的のため先進工業国は、自らと開発途上国との間の格差を縮めるよう努めなければ ならない。先進工業国では、環境問題は一般に工業化及び技術開発に関連している。
(5)人口の自然増加は、絶えず環境の保全に対し問題を提起しており、この問題を解決す るため、適切な政策と措置が十分に講じられなければならない。万物の中で、人間は最 も貴重なものである。社会の進歩を推し進め、社会の富を作り出し、科学技術を発達さ せ、労働の努力を通じて人間環境を常に変えてゆくのは人間そのものである。社会の発 展、生産及び科学技術の進歩とともに、環境を改善する人間の能力は日に日に向上する。
(6)我々は歴史の転回点に到達した。いまや我々は世界中で、環境への影響に一層の思慮 深い注意を払いながら、行動をしなければならない。無知、無関心であるならば、我々 は、我々の生命と福祉が依存する地球上の環境に対し、重大かつ取り返しのつかない害 を与えることになる。逆に十分な知識と賢明な行動をもってするならば、我々は、我々 自身と子孫のため、人類の必要と希望にそった環境で、より良い生活を達成することが できる。環境の質の向上と良い生活の創造のための展望は広く開けている。いま必要な ものは、熱烈ではあるが冷静な精神と、強烈ではあるが秩序だった作業である。自然の 世界で自由を確保するためには、自然と協調して、より良い環境を作るため知識を活用 しなければならない。現在及び将来の世代のために人間環境を擁護し向上させることは、 人類にとって至上の目標、すなわち平和と、世界的な経済社会発展の基本的かつ確立し た目標と相並び、かつ調和を保って追求されるべき目標となった。(後略)

https://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_03.pdf


 

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